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September 11, 2010

論語が実学であることを身をもって証明した一冊−『渋沢栄一「論語」の読み方』

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渋沢 栄一
三笠書房
2004-10
おすすめ平均:
渋沢さんの心、論語の心、それらが相俟って浮き彫りにされていく本
論語を理解するには、不適
論語の入門書に最適でしょう。
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 渋沢栄一は明治6年、将来が約束された役人の道を捨てて実業界に身を投じた。周囲の反対を押し切っての一大決心だった。それ以降、渋沢は終始『論語』を手放さず、「論語で事業を経営してみせる」とまで言い張ったという。同書は、『論語』の各文について渋沢自身が解説を加えたものである。『論語』の入門書として読むことももちろんできるが、それ以外にも色々な楽しみ方ができる。

(1)『論語』を事業経営に活用する方法を学ぶ本として
 『論語』の意義は、春秋・戦国という乱世において、保守的かつ実践的な処世術を説いた点にある。よって、本来は万人にも理解できる実用書としての性格を持つものであった。ところが、宋の時代に朱子学が確立されて以降、一般人にはおよそ理解し難い複雑な解釈が次々と生まれ、実学としての立場は徐々に失われていった。

 日本でも、江戸時代以前までは古代の解釈=<古注>が中心であったが、江戸時代に儒学者・林羅山が京都の町衆に対して『論語』の講義を行い、それに感銘を受けた徳川家康が儒教を政治の中心に据えた際に基盤としていたのは、宋代に生まれた解釈=<新注>であった。それ以降、江戸の儒学では<新注>が主流となる。

 これに異を唱えたのが、江戸中期に登場した伊藤仁斎と荻生徂徠である。二人は古注の復興を目指し、実学としての『論語』の復活に尽力した。彼らの活動は、中国・清の儒学者にも影響を与えている。(※1)

 渋沢は同書の中で<古注>と<新注>の違いを意識しているわけではないが、『論語』は実学であり、実用できなければ意味がないと言い切っている。「論語で事業を経営してみせる」と豪語した渋沢が、実際にどのように論語を経営に応用したのかが同書を通じて見えてくる(渋沢が常々口にしていた「経済道徳一致説」については、以前にもブログで取り上げた)。

 「渋沢流儒学」とも言うべき1冊(1)−『論語と算盤』
 「渋沢流儒学」とも言うべき1冊(2)−『論語と算盤』

 例えば、事業投資の考え方としては、
 子曰く、約を以てこれを失する者は鮮(すくな)し。(里仁第四−二十三)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「倹約に努めれば、財産を失うことは少ない」
という孔子の言葉を紹介しながら、次のように述べている。
 経費を節約することはもちろん必要であるが、同時に国家として重要な意味をもつ事業に対しては、大いに積極的でなければならない。

 わが国は農業を基幹としているから、開墾その他農業の助成保護に出費を惜しんではならない。工業にしても欧米にくらべれば、進歩が遅れてすべて模倣であり追随であって、一つとして超えたものがない。(中略)こんな状態であるのに、これに対して倹約主義で臨んではならない。
 武士の慎ましい生活をよしとしていた江戸時代の空気が残り、商業が社会的に善なるものとして認識されていなかった明治初期においては、これは先進的な考え方であったと思う。

 また、人の上に立つリーダーは、言行が一致していなければならない。同書には言行一致を説いた孔子の言葉がいくつも引用されている。
 子曰く、君子は言に訥にして、行に敏ならんことを欲す。(里仁第四−二十四)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「君子は言葉を軽々しく発しないが、やると決めたら素早く行動に移そうとする」
はその1つだ。同書には書かれていないが、渋沢の言行一致の徹底ぶりを示すエピソードがある。渋沢は営利事業に加えて慈善事業にも尽力していたため、数多くの慈善団体の設立に関わっている。ある慈善団体の設立記念パーティーに出席した時のこと。パーティーには財界の著名人が多数参加していたのだが、渋沢はパーティーが終わりに近づくと突然姿を消してしまった。

 パーティーが終わって参加者が会場から出ようとすると、出口で渋沢が待ち構えていた。そして一人一人に対して、慈善団体の設立趣旨に賛同していただけるならば、是非寄付をしてほしいとお願いし、寄付の約束を取りつけるまで参加者を帰さなかったという。渋沢が慈善事業に本気であることを示すと同時に、慈善団体に関わろうとする人たちにも、口先だけの賛同ではなく身銭を削ることを要求したのである。

(2)渋沢と同時代に生きた幕末・明治の人物像を知る本として
 同書には、渋沢と同時代を生きた幕末・明治の人物が多数登場する。彼らに対する渋沢の人物評を楽しむのもこの本の読み方の1つだろう。渋沢が実際に会ったり、ともに仕事をしたりした関係だからこそ解る人物像は、普通の歴史書ではなかなか読むことができない。

 例えば、西郷隆盛については、
 たいへん親切な同情心の深い、一見して懐かしく思われる人
と評する一方で、政府に十分な軍事資金がない(新政府は廃藩置県に伴い旧藩の債務を引き受けていたため、深刻な資金不足に陥っていた)にもかかわらず、頑なに征韓論を主張して下野したことについては、
 いかなる名論卓説も実行が伴ってはじめて価値を生ずるのである。実行が伴わなければ、それは空説空論にすぎない。
と批判している。

 また、幕末に一橋家への仕官を勧め、一橋(徳川)慶喜に仕える道を開いてくれた平岡円四郎については、
 この人は実に一を聞いて十を知り、眼から入って鼻に抜けるぐらいの明察力があった。来客があるとその顔色を見て、何の用向きで来たということを、即座に察知するほとであった。
とその明晰ぶりを称えているものの、
 あまりに先が見えすぎて、とかく他人の先回りをするから、自然他人に嫌われ、ひどい目にあったりするものである。平岡が水戸浪士のために暗殺されたのも、明察にすぎて、あまりに先が見えすぎた結果ではなかろうかと思う。
と分析している。

 さらに、渋沢が民部省で役人を勤めていた頃の上司であった井上馨については、
人を用いるには、まずその人の善悪正邪を厳しく識別して、それから登用していた。
と人物を見極める鑑識眼を称賛しつつも、性格に関しては、
学問もあり識見もあり、頭脳もまた明敏であったが、怒りをうつしやすい性質だった。何か一つ気に入らないことがあると、四方八方に当たり散らす悪癖には閉口した。
と回顧している。

 他にも三条実美、岩倉具視、陸奥宗光、勝海舟、伊藤博文、木戸孝允、大隈重信、大久保利通、山県有朋、江藤新平などの素顔が垣間見えて、非常に面白い。

(3)いつの時代にも変わらない自己啓発の原則を学ぶ本として
 『論語』は君主が従うべき道を説いた書であると同時に、自己修練の方法を述べた書でもある。よって、政治の教科書であると同時に、ビジネスパーソンにとっての自己啓発書として楽しむこともできる。

 私が買った本の帯には、「孔子に学ぶ”月給を確実に上げる”秘訣!」という宣伝文句がついている(これはこれでちょっと露骨な釣りだなぁと思ったが…)。その秘訣は、次の文章の中にある。
 子張、禄を干(もと)めんことを学ぶ。子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎んでその余を言う。則ち尤(とが)め寡(すくな)し。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎んでその余を行う。則ち悔い寡なし。言うて尤め寡く、行い悔寡ければ、禄はその中に在り。(為政第二−十八)
【現代語訳】 子張が先生に高い俸禄をもらう方法を聞いた。先生はおっしゃった。「たくさんの情報を聞いて疑わしい情報を省き、間違いないと確信できるものだけを言えば、他人から咎められることは少ない。たくさんの事象を見て不確実なものを省き、間違いないと確信できることだけを行えば、後悔することは少ない。言動に対して他人から咎められることも自分が後悔することも少なければ、自ずと俸禄は上がる」
 子張は頭脳明晰な弟子であり、政治的手腕に長けていた。その子路が仕官するにあたってアドバイスを求めたものが、上記の文章である。

 要するに「よく調べてから、リスクの少ない確実な方法を取れ」ということだが、一見するとかなり消極的な助言に聞こえる。だが、個人的にこの助言で重要なのは、前半の「よく調べる」という部分だと思う(「よく調べてから、大きなリスクを取る」ことは、時に必要である)。

 「調べる」とは、全ての事柄を明らかにすることではない。調べることの目的は、「調べた結果、おそらくこうなりそうだ」という仮説を持つことと、調べた結果解ったことと、調べても解らないこと・やってみないと解らないことの境界線を認識することである。仮説がなければ、実行によって何を検証するのかが解らないし、境界線が解っていなければ、実行から何を学ぶべきなのが解らない。

 「リスクの少ない方法を取れ」と書くと消極的な印象を与えるが、裏を返せば「確実だと解ったら絶対にやり通せ」という意味になる。特に、君主に対する諫言は、それが正しいと思えば勇気を出して行わなければならない、と孔子は何度も教えている。

 同書では紹介されていないが、『論語』の季子第十六には、魯国の家臣・季孫子に仕える弟子の冉求(ぜんきゅう、先ほどの子張や「孔子十哲」に名を連ねる子路と同じく、政治的能力に優れていた)が、むやみに隣国に攻め入ろうとする季孫子を、君子の道に反するとして止めなかったことに対し苦言を呈する場面も見られる。(※2)

(※1)澤井啓一「江戸の儒学と『論語』」(『歴史に学ぶ』2010年8月号、ダイヤモンド社)
(※2)三田明弘「「芸」の人 冉求のジレンマ」(『歴史に学ぶ』2010年7月号、ダイヤモンド社)
June 21, 2010

今も昔も教育問題は全然変わっていないことにショック−『論語と算盤』

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澁沢 栄一
国書刊行会
1985-10-01
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 渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでいて1つ気づいたことがある。それは、渋沢が指摘する教育問題と現代の教育問題に驚くほど共通点が多いということである。以下に挙げる引用文を現代語訳にして、著者名を隠したまま他人に読ませたとしても、よもやそれが明治・大正の文章だとは気づかないだろう。それぐらい、教育問題は全く変わっていないのである。これは結構ショックなことであった。

(1)知識詰め込みで道徳が欠如している
 昔の青年は自然と身を修むると共に、常に天下国家の事を憂い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶという気風が盛んであった、これに反して、現今の教育は智育を重んずるの結果、既に小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学大学に進んでますます多くの智識を積むけれど、精神の修養を等閑に附して心の学問に力を尽くさないから、青年の品性は大いに憂うべきところがある
 70年代に最高潮に達した知識詰め込み教育は、過当な受験競争を引き起こしているとの批判を受けて80年代から徐々に緩和され、2002年度からはご存知の通り新学習指導要領に基づく「ゆとり教育」が実施された。ところが、今度は知識量を減らしすぎと各方面からの不満の声が噴出し、わずか7年ほどで文科省はゆとり教育の方針転換を決めた。先日も、「小学校の教科書に縄文時代が復活」したことがちょっとした話題になった。

 こうした戦後教育の流れを追っていくと、主として「知識をどこまで教えるか?」という点にスポットが当たっており、渋沢のいう「信義を貴ぶ」ということ、現代風に言えば倫理観、道徳観を養うことについては、わずかに「道徳」という科目が残るに留まり、あまり重視されてこなかったと言わざるを得ない。

 しかも道徳の授業は、他の主要教科の「バッファ」みたいな役割を持っていて、テスト直前にある科目の授業数が足りなくなると、道徳の時間をその科目の授業に充当することがしばしばあった(私の学校生活を思い返す限り、の話ではあるが)。

 一方、戦前教育において渋沢が憂うように道徳教育が全く行われなかったかというと、そうではない。道徳教育は「徳目教育」という名の下で実施されていた。徳目教育とは、道徳を正義・勇気・親切といった徳目として列挙し、それらの徳目の一つ一つを教えることによって道徳性の形成を図る教育である。

 1890年の教育勅語によって「修身科」が正式な科目となり、第2次世界大戦が終結するまで「修身教科書」という教科書が用いられていた。この教科書は、最初に徳目を掲げ、次にその徳目を具体的に理解させるための例話や寓話を紹介するという構成であったようだ。

 だが、徳目教育はその性質上どうしても形式的、抽象的なものになりがちで、子供たちの実生活から遊離してしまうという欠点があった。それが理由かどうか解からないが(おそらくは徳目教育が行き過ぎた国粋主義へと子供たちを導き、戦争に加担させることになったという左派からの批判を受けてだと思うが)、戦後になって修身教科書は姿を消したのである。

 「それでは倫理観や道徳観をどう養うのか?」という問いに答えるのはなかなか難しいが、道徳はやはり実生活の体験を通じて心身に浸透するものであると思う。総合教育はそういう役割を持っていたはずだとこのブログでも何度か書いたが、その効果は検証されておらず、さらに今回のゆとり教育方針転換によって、先行きがさらに不透明になっているのが心配される。

 「個性を伸ばす前にやるべきことがある−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』
 「「覚える力」と「考える力」を伸ばすためには?−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』
 「「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた−『それでも、ゆとり教育は間違っていない』

(2)教師が生徒から全く尊敬されていない
 現代青年の師弟関係は、まったく乱れてしまって、美(うる)わしい師弟の情宜に乏しいのは寒心の至りである、今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ、学校の生徒のごときは、その教師を観ること、あたかも落語師か講談師かのごとく、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒して有るまじきことを口にしている、これは一面より観れば、学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接する為であろうが、総て今の師弟の関係は乱れている、同時に教師もまたその師弟を愛しておらぬという嫌いもあるのである
 渋沢は江戸時代の麗しき師弟関係と比較しながら、学校における教師と生徒の関係の乱れを嘆いている。これは現代でも言えることだ。杉並区立和田中学校の元校長である藤原和博氏は『公教育の未来』という著書の中で、親の学歴が先生の学歴を上回ってしまい、まず親が先生を尊敬しなくなっている、そしてそれを見た子どもも先生を尊敬しない、といった記述を行っている。教育現場の実態を校長という立場から肌身で感じているはずだから、この指摘には一理あるだろう。

 しかしながら、先生の学歴が真の問題であるならば、問題解決のためには全ての先生を東大出身者(あるいはハーバード大出身者?)に限定しなければならない。これはあまりに非現実的である。渋沢はこの問題に対して具体的な解を述べていないが、真の解決策は先生自身が「徳ある人物」になることではないか?と私は考える。

 現在の教師の多くは教育学部の出身である。ところが、教育学部で彼ら彼女らが学ぶことは、効果的な指導方法や学習に関する心理学など、知識面に偏っている。さらに、彼ら彼女ら自身が、小中高を通じて知識偏重の教育を受けて育っている。総じて、教師自身が道徳観や倫理観を身につける(それも人一倍!)機会が欠けているのが現状である。

(3)産業界の多様なニーズに合った人材を育成していない
 社会は千篇一律のものでは無い、従ってこれに要する人物には色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、卑(ひ)くければ使丁(してい)たり車夫たる人物も必要である、人を使役する側の人は少数なるに対し、人に使役される人は無限の需要がある、されば学生がこの需要多き、人に使役さるる側の人物たらんと志しさえすれば、今日の社会といえどもまだ人物に過剰を生ずるような事はあるまいと考える、しかるに今日の学生の一般は、その少数としか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志しておる、つまり学問して高尚な理窟を知って来たから、馬鹿らしくて人の下などに使われることは出来ないようになってしまっておる、同時に教育の方針もまた若干その意義を取り違え、無暗に詰込主義の智識教育で能事足れるとするから、同一類型の人物ばかり出来上がり、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するということを知らぬので、いたずらに気位ばかり高くなって行くのだ
 渋沢の「人を使役する側−人に使役さるる側」という区分は「世の中には2種類の人間がいる。支配する側と支配される側だ。」という言葉を想起させるのでちょっと心理的抵抗があるのだが、要するに教育界は平均的な人間ばかりを作り上げており、産業界が必要とする人材を育成していないことを渋沢は非難しているわけである。

 だが、皮肉にも大量生産・大量消費の時代には「平均的な人間」ほど必要とされ、彼ら彼女らの労働力・消費力が戦後日本の急成長を支えてきた。そのため、渋沢の問題意識はさほど顧みられなかったように思う。むしろ、市場が成熟化・多様化した現代の方が渋沢の言葉は重みを持つ。今の産業界が必要としているのは、単に「人を使役する側−人に使役さるる側」という二分論を超えて、世の中に数多存在する職業の人材ニーズを埋められるだけの多種多様な人間である。

 渋沢は、小学校を卒業したら専門教育に進んで実務的な技術を学ぶべきだと進言している。確かに、生まれてから就職するまでの20数年の間に職業意識を醸成し、多少の技術的なスキルを習得することは重要であろう。ただ、渋沢の時代と現代が大きく違うのは、生涯を一つの職業で全うすることが難しくなっている点だ。

 企業を取り巻く環境変化によって事業構造が変わると、意図せぬ形で今までとは違う仕事に就くビジネスパーソンが増えてくる。彼ら彼女らは新しい知識やスキル、さらに道徳観や価値観を習得する必要性に迫られる。この課題を解決するのが本来の「生涯学習」であり(「「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた−『それでも、ゆとり教育は間違っていない』」を参照)、産学間の連携による生涯学習のためのインフラ投資がこれからますます重要になるはずである。
June 19, 2010

「渋沢流儒学」とも言うべき1冊(2)−『論語と算盤』

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 (その1からの続き)

(3)独占を排除し、競争を促進する
 渋沢は、孟子の「敵国外患無き者は国恒に亡ぶ」(競争する国や敵国がなくて外国に攻められる心配もない国は、国全体に緊張を欠き油断を生じてついには国が滅亡する:デジタル大辞泉の用語解説)という言葉を事業にも当てはめて次のように述べている。
 国家が健全なる発達を遂げて参ろうとするには、商工業においても、学術技芸においても、外交においても、常に外国と争って必ずこれに勝って見せるという意気込みがなければならぬものである、ただに国家のみならず、一個人におきましても、常に四囲に敵があってこれに苦しめられ、その敵と争って必ず勝って見せましょうとの気がなくては、決して発達進歩するものでない
 渋沢は日本の産業が発達する上で競争は欠かせないという信念を強く持っていた。これと全く異なる思想を持っていたのが、同じく日本資本主義の礎を築き、三菱という巨大財閥を作り上げた岩崎弥太郎であった。岩崎は独占を是とする考えの持ち主であり、しばしば渋沢とは意見が衝突した。

 岩崎が独占しようとしたのは利益だけではなかった。経営権の独占も目論んだのである。岩崎は徹底した専制主義により、一人で何でも意思決定する経営スタイルを好んだ。一方、渋沢は多人数の共同出資による「合本組織」を理想としており、この点でも両者の意見は食い違った。

 最大の対立は、三菱の海運独占に対抗して、岩崎が共同運輸会社を設立したことだろう。渋沢自身は『経営論語』の中で、「私は個人として別に弥太郎氏を憎く思っていたのではない」と振り返っているが、岩崎は渋沢の一連の行動に憤慨したため、二人は完全に疎遠になってしまった。

 岩崎の死後、三菱と共同運輸会社の競争があまりに激化してしまい、このままでは共倒れになってしまうということで、政府と渋沢が間に入って両社の合併を行った。こうして誕生したのが現在の日本郵船である。

(4)朱子学に対する批判
 『論語』を人生の教科書とした渋沢ではあるが、朱子学に対しては手厳しい批判を行っている。朱子学は、宋の時代に朱熹が『論語集注』を著して完成させたものであり、「四書」「五経」の内容を高度に体系化して、宇宙と人間とに通底する真理の存在を明らかにした。

 朱子学のもう1つの特徴は、「智」を排除したことにある。もともと儒教には、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」という8つの徳目が存在する。朱熹は、「智」が人間を詐術に走らせる弊害多きものと批判し、そんなものは商売によって功利を追求する平民だけが持っていればよいと、八徳から追い出してしまったのである。他方で、為政者たるものは、智に惑わされることなく、ただひたすら修身に努めるべきと説いた。この点について、渋沢は次のように痛烈な批判を浴びせかけている。
 これは大なる誤思謬見で、仮に一身だけ悪事がないからいいと手を束ねている人のみとなったらどんなものであろうか、そういう人は世に処し社会に立ってなんらの貢献するところもない、それでは人生の目的が那辺(なへん)に存するかを知るに苦しまねばならぬ

 (中略)もし智の働きに強い検束を加えたら、その結果はどうであろう、悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事のためにも活動する者が少なくなってしまわねばよいがと、甚だ新あぴに堪えぬわけである
 朱子学は、為政者は仁義道徳のみを、国民は智に基づく商売の成功のみを追求すればよいというふうに、両者の役割をばっさりと分断してしまった。その結果、為政者は空理空論に走り、国民は私利私欲に溺れるというありさまで、モンゴル民族に滅ぼされてしまう。『論語』の解釈が最も高度に発達した時代に国力が最も衰退し、あろうことか外部の民族に国を乗っ取られるというのは、何という歴史のいたずらだろうか?

 前回の記事で「士魂商才」という言葉を紹介したが、これは決して士魂だけを重視すればよいことを意味するのではない。士魂と商才の両立こそが肝要なのであって、商才を発揮するには「智」の力が欠かせないことを渋沢は見抜いていたのである。

(5)論語にも西洋思想のような権利意識は存在する
 渋沢はどんな人とでも心を開いて話をし、どんな交渉でもその丸顔に笑みを浮かべながら話を進めるような、「調和」を尊ぶ人物であったそうだ(だから、岩崎が渋沢を憎むことはあっても、その逆はなかった)。そうした性格は、思想面にも現れている。よくありがちな西洋VS東洋といった対立論に持ち込むことをせずに、両者の共通点を見出そうと努力していた。

 一般に、西洋(特にキリスト教)は権利意識から、東洋は義務意識からスタートしていると言われる。渋沢も、西洋では「汝の欲するところをなせ」と積極的な表現を用いるのに対し、東洋では「己の欲せざる所人に施すことなかれ」と消極的に表現することを引き合いにして、この点を認めている。

 しかし、だからといって『論語』に権利意識が全くないのかというと、そうではないと渋沢は言う。
 論語にも明らかに権利思想の含まれておることは、孔子が「仁に当っては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う、道理正しきところに向こうては飽くまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくともよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか
 渋沢はもっとマクロの視点から、東洋・西洋の思想を包括する考え方を模索していた。「帰一教会」がそれである。結局のところ、いずれの思想も「本当の富を創出するためには、仁義道徳と生産利殖を両立させる必要がある」という一点に帰結するのではないか?というのが渋沢の仮説であった。帰一教会には日本人に加え、欧米人も参加して研究を進めていたという。

 私は最近、個人的に「宗教とリーダーシップの関係」に関心を寄せており、東洋と西洋のリーダーシップのあり方の背景には、宗教が強く影響していると見ている。もちろん、それぞれの宗教がたどった歴史の違いが、両者のリーダーシップの違いとなって多々表出しているとは思うが、根底ではどこかでつながっている部分があるような気もしているのだ。これは長い時間をかけて追いかけてみたいテーマである。