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December 31, 2011

【2011年最後の記事】「問題を解決する気がない人」の問題解決にいつまでもつき合うな

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【996本目】1,000エントリーまであと4。

 えー、目標としていました年内1,000エントリーは達成できませんでした、スミマセン・・・今月は記事を19本書いて、DHBRのレビューだけで10本を消化するという強引な(?)技も使ったものの、目標達成ならず。あと4本は2012年に持ち越し。

 今年最後の記事ということで、簡単に1年を振り返ってみると、今年は”何にもない1年”だった。悲しいかな、30年生きてきてこれほどまでに収穫のない年は初めてだ。それでもたった1つ教訓になったことがあるとすれば、「問題を解決する気がない人の問題を、いつまでも解決しようとするな」ということか?「何をエラそうなことを!?」と思われる方がいらっしゃるかもしれないが、どんな問題でも自分が解決できると思って首を突っ込むのは、利他主義の名を借りた一種の利己主義ではなかろうか?

 私は決してお節介な性格ではないけれども、自分も多少関係している問題については、解決の力になればと思って協力したくなる。しかし、どんなに手を変え品を変えてあれこれ議論したり説得したりしても、頑なに考えを変えない人、あるいは何を考えているのか腹の底がつかめない人にいつまでも関わるのは、時間と精神を擦り減らすだけだ。そういう場合はさっさと見切りをつけて、もっと前向きに問題解決したいと望んでいる人たちのために自分のパワーを使った方が、よっぽど有益だと悟ったわけである。

 私がSEとして最初の会社に就職した時に、「SEの必読書」として紹介された『ライト、ついてますか』という本には、こんな一文がある。今になって、この言葉の意味がよく解る気がする。
 あとから調べてみれば、本当に問題を解いてほしかった人はそんなにいないものだ。
(※太字は原文ママ)
ライト、ついてますか―問題発見の人間学ライト、ついてますか―問題発見の人間学
ドナルド・C・ゴース G.M.ワインバーグ 木村 泉

共立出版 1987-10

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 ここから突然孔子の話になるが、『論語』には孔子が人々とどのように接していたのかがうかがえる一説があり、非常に興味深い。
 子曰く、吾知ること有らんか、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う。空空如(くうくうじょ)たり。我その両端を叩き而して竭(つく)せり。(子罕)
 まず、孔子は基本的なスタンスとして、「私は何か知っていることがあるだろか?いや、何も知らない」と宣言し、ソクラテスの「無知の知」とも共通する謙虚な姿勢を見せる。そんな自分に、「鄙夫」=身分が低く、知識に乏しい男が「空空如」と質問をしてきたら、すなわち真面目に質問をしてきたならば、孔子は「自分の頭を隅々まで叩いて、知恵を絞り真剣に答えてやる」と言う。

 しかし、他の箇所では次のようにも述べている。
 子曰く、狂にして直ならず、どう(※人偏に「同」)にして愿(げん)ならず、くうくう(※「くう」は立心偏に「空」)として信ならずんば、吾これを知らず。(泰伯)
 「狂」とは志は大きいが実行が伴わないことを指す。「どう」は無知であることを、「くうくう」は無芸無能であることを意味する。「狂」なのに正直でなく、「どう」である上に愿=真面目でなく、「くうくう」である上に誠実でないならば、孔子にもどうしようもない。孔子は身分の貴賎や知識の深浅を問わず、あらゆる人と議論を交わす準備をしていた。とはいえ、相手の性格に難がある場合は、「吾これを知らず」とあっさり手を引いてしまうのである。

 聖人・孔子ですらこうなのだ。いわんや凡人であるこの私が、全ての問題解決にこだわる理由などあるだろうか?来年はもっと人を観る眼を養おう。それでは皆さん、よいお年を。


(※)『論語』の原文と日本語訳は、竹内均編『渋沢栄一 「論語」の読み方』(三笠書房)を参考にした。

渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

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September 15, 2010

「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力−『渋沢栄一「論語」の読み方』

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渋沢 栄一
三笠書房
2004-10
おすすめ平均:
渋沢さんの心、論語の心、それらが相俟って浮き彫りにされていく本
論語を理解するには、不適
論語の入門書に最適でしょう。
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 またまたこの本で1つ記事を書いてみた。「どれだけ引っ張るんだ?」という突っ込みはやめてね。 

 渋沢は何千もの企業や非営利組織の設立、運営に関わっていたから、当然のことながら様々な交渉の場に顔を出す必要があった。しかし、渋沢は今でいうアップルのジョブズみたいなタフ・ネゴシエーターというよりも、その丸顔からイメージされる通りの温厚な性格をいつも崩さなかった。どんなに厳しく難しい交渉であっても、交渉が終わって部屋から出てくる渋沢の表情はニコニコしていたと言われる。とかく交渉のテーブルでは、怒りや憎しみといった個人的な感情が交錯するものだが、渋沢はそうした感情を超えて意思決定をすることができる人物であった。

 『論語』の一番最初の文章は、
 子曰く、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋遠方より来たるあり。また楽しからずや。人知らずして慍(いきどおら)ず、また君子ならずや。(学而第一−一)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「物事を学習して日常生活の中で復習する。これは非常に嬉しいことだ。自分と同じく学問を志す友人が遠くから訪ねてくる。これは非常に楽しいことだ。他人が自分のことを評価しないからと言って怒ったりしない。これは君子として立派な態度だ」
である。渋沢は、とりわけ最後の「人知らずして慍ず、また君子ならずや」という部分を重要な教訓として、終生大事にしていたようだ。
 私は今日まで『論語』のこの教訓を肝に銘じてきた。自分の尽くすべきことを尽くしさえすれば、たとえそのことが人に知られず、世間に受け入れられようが入れられまいが、いっこうに気にせず、けっして、慍るとか立腹するとかいうことはせずにきたつもりである。
 怒りは冷静な判断を阻害し、意思決定の質を歪める方向に作用する。そのことを『論語』を通じて知っていた渋沢は、どんな局面でも努めて冷静に振舞うよう、日頃から精神を鍛えていた。いやー、本当に尊敬するなぁ。私なんかは、自分で「果たして意思決定に感情は不要なのか?」という記事を書いておきながら、どちらかというと短気な性格が未だに直らないから、まだまだ人間として未熟だ…。

 前述の通り、渋沢は怒りの感情を封印していたとはいうものの、渋沢が争いごとを好まなかったわけではない。むしろ、他人と争うことには肯定的であり、やるからには徹底的にやるという覚悟も持っている。
 私も若いときから争わねばならぬことにはずいぶん争ってきた。威望天下を圧していた大久保利通大蔵卿とも侃侃諤諤の議論を闘わしたこともある。八十の坂を越した今日でも、私の信じるところをくつがえそうとする者が現れれば、私は断乎としてその人と争うことを辞さない。私が自ら信じて正しいとするところは、いかなる場合にも、けっして他人に譲るようなことをしない。
 渋沢の考えと真っ向から対立する人物の代表格が、三菱の創始者・岩崎弥太郎である。渋沢は多数の株主から出資を募る「合本主義」を唱え、合議による経営を是としていたのに対し、岩崎は自らが資本も経営も独占するという典型的な「専制主義」の立場をとっていた。

 両者の対立が最もヒートアップしたのは、三菱の独占的な海運事業に対抗して、渋沢と井上馨らが共同運輸会社を設立した時であろう。2社は熾烈な値引き合戦を繰り広げたため、ついには双方の経営が危うくなるほどであった。共倒れを回避したい渋沢は、最終的には2社を合併することで決着させる。こうして生まれたのが、現在の日本郵船である。

 だが、渋沢がいくら争いごとで立腹しないといっても、これほどの過激な争いをいつも続けていたら、さすがに身がもたないだろう。渋沢は、基本的には臨戦態勢を見せているものの、ほどほどでやめることも心得ていたようだ。
 私の多年の経験によれば、自分と処世の流儀が全然違う人に対しては、どれほど自分の意見を述べて同意させようとしてみても、それは聞き入れられるものではなく、無駄な努力に終わる。釈迦も「縁なき衆生は度し難し」と言っている。
 では、渋沢が師と仰ぐ孔子はどうなのか?『論語』の文章を丁寧に読んでいくと、面白いことに気づかされる。
 子曰く、吾知ること有らんか、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う、空空如(くうくうじょ)たり。我れその両端を叩き而して竭(つく)せり。(子罕第九−八)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「私はあらゆることを知っているだろうか。いや、そんなことはない。卑しい男が私のもとにやって来て、真面目な態度で質問するならば、私は自分の頭を隅々まで叩いて、納得するまで答えてやるつもりだ」
 孔子も、相手が誰かを問わず、知恵を絞って真摯に教えることを基本姿勢としている。ただし、これには「相手が真面目な態度であること」という条件がついている。

 別の箇所では、孔子は次のように述べている。
 子曰わく、狂にして直ならず、侗(どう)にして愿(げん)ならず、悾悾(くうくう)として信ならずんば、吾れこれを知らず。(泰伯第八−十六)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「志は大きいのに正直でなく、無知なのに真面目でなく、無芸無能なのに誠実でないような人は、私でもどうしようもない」
 孔子はどんな人であっても教えを授ける、というわけではないことがこの一文からも伺える。性格に問題を抱えている人間は自分の手に負えない。孔子ですら、あっさりと切り捨てているのである。

 孔子は自らが理想とする政治の実現に尽力したが、孔子が生きた時代は春秋・戦国という動乱の世である。低俗な動機で動いている人間も少なくなかったはずだ。彼らに孔子のような高潔な考えはなじまない。よって、孔子は自分の主張が受け入れられず、しばしば諸国を転々とせざるを得なかった。

 渋沢が生きた幕末から明治も、社会構造が大きく変わったという点で春秋・戦国時代と共通している。孔子の教えに従った渋沢もまた、何度か苦い経験を味わっている。その1つが「王子製紙乗っ取り事件」だ。

 渋沢は、自らが社長を務める王子製紙の増資の件で、大株主である三井に相談をもちかけた。三井のトップである中上川彦次郎は、増資に同意する代わりに、藤山雷太を役員として派遣する約束を交わした。ところが、役員になった藤山は、社内政治を巧みに利用して渋沢をはじめとする旧経営陣を一掃してしまったのだ。

 ただ、渋沢がすごいと思うのは、「君とは馬が合わないからハイさよなら」と簡単に関係を断ち切るようなことがない点である。
 しかし、あまり早々と見切りをつけるのもよくない。縁が切れてしまえば、いかに主人に欠点を改めさせよう、友人の欠点を矯正してやろうと思っていても、不可能である。絶交してしまったりするよりも、その関係を絶たぬようにしていれば、長い歳月のうちには、よい機会があって多少なりとも、アドバイスできることもあるものである。
 実際、先ほどの藤山雷太に関して言えば、大日本製糖(現大日本明治製糖)が汚職事件を起こして経営に行き詰った際に、渋沢が会社再建のキーマンとして藤山を指名しているくらいだ。かつて自分を社長の椅子から蹴り落とした人間を推薦するとは普通では到底考えられないことだが、渋沢はあくまでも個人的な感情を差し置いて藤山の能力を買ったのである。(※)

(※)中野明著『岩崎弥太郎「三菱」の企業論−ニッポン株式会社の原点』(朝日新聞出版、2010年)
September 13, 2010

論語のお気に入り文章をまとめてみた(年齢によって変わるらしいよ)

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渋沢 栄一
三笠書房
2004-10
おすすめ平均:
渋沢さんの心、論語の心、それらが相俟って浮き彫りにされていく本
論語を理解するには、不適
論語の入門書に最適でしょう。
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 『渋沢栄一「論語」の読み方』をせっかく読んだので、『論語』の中からお気に入りの文章をまとめてみた(書き下し文は同書から引用)。現代語訳は私が我流でつけたものなので、間違いがあったらご指摘願います。
 子曰く、君子重からざれば則ち威あらず、学も則ち固からず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ること勿れ(学而第一−八)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「君子の態度が重厚でなければ威厳を保つことはできない。学んだことも確固たるものとはならない。忠実・信頼を第一に考え、自分に及ばない人間を友人としてはならない。また、自分が間違いを犯した時は、これを改めることを躊躇してはいけない」
 「己に如かざる者を友とすることなかれ」は、自分よりも能力が劣る人間を無視してよいという意味ではない。その次に続く文が「自分が失敗した時は、それを改めなければならない」という意味であることと対比させるならば、「己に如かざる者を友とすることなかれ」は「人が失敗した時は、それを反面教師として学ばなければならない」と解釈するのが適切だろう。
 子曰く、人の己れを知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。(学而第一−十六)
【現代語訳】  先生がおっしゃった。「他人が自分を評価してくれないことを嘆いてはいけない。他人の評価基準を自分が理解していないことを心配するべきだ」
 自分では努力しているつもりでも、他人がなかなか認めてくれないことはよくある。そんな時に、評価してくれない他人を責めるのではなく、自分に何が欠けているのかをもっと真剣に考えることが重要だと孔子は諭している。
 子曰く、その以(な)す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ捜(かく)さんや、人焉んぞ捜さんや。 (為政第二−十)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「まず人の外面に現れる行動を視て、次にその行動の背後にある価値観を観て、さらにその背後にある基本的な欲求を察すれば、人の本性はおのずと明らかになるものだ」
 孔子が説く3段階の人物観察法である。立派な行動に見えても、その人が持っている価値観が歪んでいたら信用してはならない。さらに、行動も立派で大義名分が備わっているのだが、よくよく話を聞くと実は「お金を儲けたい」とか「ポストを手に入れたい」といった低俗な欲求が根底にあるのならば、やはり信用してはならない、ということを孔子は言っているのだと思う。
 子曰く、学んで而して思わざれば則ち罔(くら)し。思うて而して学ばざれば則ち殆(あや)うし。(為政第二−十五)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「他人からよく物事を学ぶが自分なりに考えをめぐらせない人の思考は視野が狭く暗い。また、自分なりの考えは持っているが合わせて他人から学ばないような人の思考は偏っていて危険である」
 学習の基本姿勢。世間一般の知識や常識に依存してもダメだし、自分勝手な考えで凝り固まっていてもダメということ。両者のバランスをとらなければならない。
 子曰く、由、女(なんじ)にこれを知るを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らざるとなす。これ知れるなり。(為政第二−十七)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「子路(名前は由)よ、お前に『知る』とはどういうことかを教えよう。あることを知っていれば『知っている』と言い、知らなければ『知らない』と言う。これが『知る』ということである」
 ソクラテスの「無知の知」とも共通する内容。要するに知とは、「自分が知っていることと知らないことの境目を認識していること」と言えるだろう。知らないことを「知らない」と認めるのは勇気がいるが、「知らない」と認識しない限り、「知ろう」とは思わない。
 子曰く、ただ仁者のみ、能く人を好み、能く人を悪む。(里仁第四−三)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「仁の心がある人のみが、本当の意味で人を愛し、人を憎むことができる」
 「仁」は、孔子が『論語』の中で最高の徳と位置づけるものである。狭義の意味では他人に対する慈しみや思いやりの心を表し、広義の意味では万民の安全と安心を願い、国家の安泰を保つことを表す。「仁」だからといって誰でも分け隔てなく愛するというわけではなく、人を憎むこともあるというのは深い(その真意を心の底から理解するのには長い年月がかかりそうだが…)。
 子貢問うて曰わく、孔文子何を以てこれを文と謂うやと。子曰く、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、これを以てこれを文と謂うなり。(公冶長第五−十五)
【現代語訳】 弟子の子貢が先生に尋ねた。「孔文子は(生前の素行が悪かったにもかかわらず)なぜ『文』という贈り名(=死後に与えられる名)」がついているのでしょうか?」先生がおっしゃった。「孔文子はひたすら学問を好み、自分の知らないことを他人に質問することを恥ずかしいと思わず、どんどん聞いて回った。だから『文』という贈り名が与えられたのだ」
 「下問を恥じず」−この言葉は心に留めておきたい。ただ、何でもかんでも人に聞けばいいというわけではなく、自分で調べられる範囲のことは調べた上で質問するのが筋だとも思う。
 子曰く、三人行けば、必ず我が師あり。その善者を択んでこれに従い、その不善者にしてこれを改む。(述而第七−二十一)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「私が3人に会えば、必ずその中には先生がいる。よいところは自分にも取り入れ、悪いところは反面教師として学ぶ」
 孔子は周時代の「礼楽(礼節と音楽。社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽)」の復興を望み、自分の理想を実現すべく諸国を回っていた。しかし、孔子は誰かの元で礼楽を学んだことがなく、体系だった礼楽の知識を持っているわけではなかった。そこで、諸国を回りながら礼楽のことを様々な人に聞き、独自に知識を蓄積していったという。そうした孔子の人生を知ると、この言葉の意味がより重く感じられる。
 子曰く、後生(こうせい)畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして而して聞ゆることなきはこれまた畏るるに足らざるのみ。(子罕第九−二十三)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「青年は末恐ろしい。どうして青年が今の自分に及ばないと言えるのだろうか。ただ、彼らが40歳、50歳になってもいい評判が聞こえてこなければ、恐れることは何もない」
 前半は孔子が若者に対してエールを送っているが、後半は40歳、50歳になっても名を馳せることがなければ大したことはないと手厳しい。私にとっては、これから10年あまりが勝負になりそうだ。
 子曰く、歳寒くし然るのち松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。(子罕第九−二十九)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「気候が寒くなってからも、松や柏は葉を落とさずに耐え忍ぶものだ」
 冬になっても葉を落とさない松や柏を例にとって、逆境に耐える精神力の重要性を説いた一文である。もちろん、クランボルツの「計画的偶発性理論」で説かれているように、人生においては時には変化に身を任せるのも重要ではある。しかしながら、「この変化に身を委ねると危険だ」とか、「これだけは絶対に譲れない」と感じる時は、敢えて変化に抗う覚悟を持ちたいものだ。
 子曰く、与(とも)に言うべくしてこれと言わざれば、人を失う。与に言うべからずしてこれと言えば、言を失う。知者は人を失わず、また言を失わず。(衛霊公第十五−八)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「一緒に議論すべき人なのに議論をしなければ、相手の人を失う。一緒に議論すべきではない人なのに議論をすれば、言葉が無駄になる。賢い人は、相手を失うこともなければ、言葉を無駄にすることもない」
 孔子は自分に教えを請う人に対しては、どんな愚者であっても懇切丁寧に説明するつもりでいると別の箇所で述べている。しかし同時に、敬意や誠意のない人間に対しては、何を言ってもムダであるとも断言している。要するに、「人を選んで議論をせよ」と孔子は主張している。

 一見すると自己中心的な考え方であり、「仁」の心に従うならば万人に分け隔てなく接するべきではないか?という疑問を投げかけたくなる。だが、誰に対しても公平に接するということは、あらゆる人間よりも自分が超越した存在であることが前提となる。これは「仁」の面を被った偽善であり、自己欺瞞にあたると孔子は考えていたのかもしれない。

 以上、お気に入りの文章をまとめてみた。ところで、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー2009年10月号に所収されている松岡正剛氏のインタビューには、「論語のお気に入り文章は、年齢によって変わる」といった趣旨の発言が掲載されていた。

 改めて自分のお気に入りの文章を眺めてみると、全体的に「学習の姿勢」に関するものが多い。他方、『論語』の本質である「仁」については、まだまだ理解できるレベルには遠く及ばない。年齢を重ねると、「剛毅朴訥、仁に近し」といった文章がよく理解できるようになり、これをお気に入りとして挙げることができるようになるだろうか??