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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
July 17, 2010
岩崎・渋沢の相克、そして龍馬・陸奥が張った意外な伏線(2)−『岩崎弥太郎「三菱」の企業論』
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(昨日の続き)
岩崎は徹底した「専制主義」で経営を行い、会社の利益を独占しようとした。これに対して渋沢は、フランス留学で持ち帰った株式会社の知識に忠実に従い、多数の出資者による会社設立を基軸とする「合本主義」を貫いた。2人の思想はしばしば激しい対立を引き起こした。最も深刻だったのが、「郵便汽船三菱会社」と「共同運輸会社」の対立である。
共同運輸会社は、海運を独占する岩崎に対抗して、三井系の人間と渋沢、そして政府も加わってその名の通り共同で設立した半官半民の株式会社である。2社の激しい競争は著しい価格下落を招き(横浜〜神戸間の三等運賃が5円50銭から55銭に下がるという、とんでもない値下げであった)、双方の経営状態が危ぶまれるほどの深刻なダメージを与えた。そこで両社は協議を行い、合併によって会社を存続する道を選択したのである。こうして生まれたのが現在の日本郵船だ。
合併当初の日本郵船の株主比率を見ると、三菱より共同運輸の方が上であった。ここだけを取り上げれば、岩崎が渋沢に敗れたかのようであるのだが、岩崎は非常にしたたかな人間であった。実のところ、日本郵船が成立した時、岩崎は病に倒れ、既に故人になっていた。だが、残った岩崎家の人々が共同運輸の株を買いあさり、日本郵船の過半数の株式を握ってしまう。やがて、経営陣から共同運輸側の人間を締め出し、三菱側の人間に挿げ替えてしまったのである。
渋沢はこれ以外にも何度か岩崎に煮え湯を飲まされている。渋沢が設立に関わった「第一国立銀行」でも岩崎による株式の買い占めを食らったし、共同運輸より以前に三井物産が三菱に対抗するために設立し、渋沢も役員となっていた「東京風帆船会社」に対しては、岩崎が渋沢を中傷する文章をメディアに書かせて妨害工作を働いている。岩崎は「合本主義」の弱点を突くような攻撃を何度も仕掛けてきた。それにもかかわらず、渋沢は岩崎を終身憎むことはなかったという。
著者である中野明氏は、岩崎と渋沢の思想について、ゲーム理論を使いながら次のように説明している。
選択肢が競争か協調かという資本主義の戦いにおいて、道徳経済合一という「資本の倫理」に軸足を置く渋沢の思想は、圧倒的に不利な立場にある。渋沢の思想は基本的に競争を好まないからである。「囚人のジレンマ」では、2人が協調(=自白)した方がお互いにとってメリットがあるにもかかわらず、各人は自分の利益を優先して裏切り(=黙秘)を行う。この場合、全体としては最適な選択にはならない。さらに、一方が自白をし、もう一方が黙秘をすると、黙秘をした方が逃げ得となり、自白した方は重罰を受ける。著者はこの構図を岩崎VS渋沢にも当てはめている。
(中略)渋沢の思想が、好戦的な弥太郎の思想と真っ向勝負になると、戦いは渋沢の思想が常に不利になる。さらに押し広げると、競争が基本である資本主義にあって、資本の倫理は資本の論理に対して、常に弱い立場に甘んじるしかない。
しかし、この説明はやや物足りない。というのも、『論語と算盤』を読めば解るように、渋沢は決して競争を避けていたわけではないからだ。むしろ、競争原理の強力な支持者である。岩崎と渋沢の対立の焦点は、「独占を許すか否か?」という1点に尽きる。
独占理論は、ドラッカーが『企業とは何か−その社会的な使命』の中で指摘したように、「供給が限られ、需要が無限に存在する場合」にのみ成立する理論である。あるいは、初期投資が莫大で、かつ収穫逓増の法則が当てはまるような公共事業においても、独占の有効性が認められている。
しかし、岩崎が行っていた海運ビジネスはこのどちらにも当てはまらない。既に外国船が日本の海運市場に多数参入していたため、むしろ供給過多の状態であった。また、電力や水道・ガス事業に比べれば、海運事業の初期投資などたかが知れている。よって、独占を許すと三菱が儲かる一方で、社会的便益が著しく損なわれる可能性があるのだ。
渋沢がどの程度まで当時の経済理論を学習していたのか現時点で情報を収集しきれていないのだが、渋沢は一企業の利益よりも国家全体の利益を常に考えていた。そのためには独占を排除し、競争を促進すべきだという信念の持ち主であった。
そう考えると、岩崎が「資本の論理」(つまり、資本主義の王道を走っている)の擁護者であり、渋沢が「資本の倫理」(資本主義の暴走を倫理で牽制する)の支持者であるという著者の説明はむしろ逆で、渋沢こそが資本主義の王道を走っていたのであり、岩崎は資本主義の黎明期に見られる特殊なパターン(※)であったと解釈した方がよさそうな気がするのである。
(※)後発の資本主義国では、資本主義を浸透させるために社会主義的な動き=資本の専有が見られることが多い。かつての韓国や現在のインドでは財閥が強い力を持っているし、中国でも資本主義を推進したのは民間に払い下げられた国営企業が中心である。
July 16, 2010
岩崎・渋沢の相克、そして龍馬・陸奥が張った意外な伏線(1)−『岩崎弥太郎「三菱」の企業論』
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三菱を作り上げた明治の実業家・岩崎弥太郎の実像を、同時代に活躍した渋沢栄一、小栗忠順、坂本龍馬、三野村利左衛門、中上川彦次郎らとの比較を通じて描き出した1冊。幕末に「会社」という概念が生まれ、欧米から輸入された「株式会社」の仕組みが明治維新後に徐々に高度化していく様子が解って、個人的にはとても面白かった。
三菱の誕生には、実は坂本龍馬の海援隊が深く関連していることをこの本で初めて知った。海援隊の前身は「亀山社中」という結社であり、龍馬を始めとする土佐の武士たちで組織されていた。亀山社中を結成する以前、龍馬は勝海舟に弟子入りしており、神戸海軍操練所で航海術の訓練を受けていた。ところが、勝が幕府に対して謀反を企てているのではないかとの疑惑が浮上し、神戸海軍操練所は解散させられてしまう。勝の蟄居に伴い行き場を失った龍馬は、西郷隆盛がいる薩摩藩で世話になることになった。
後に龍馬は薩摩から長崎の亀山に移り、そこで亀山社中を立ち上げる。亀山社中は商社のような組織であり、薩長間の武器や食料の売買を仲介していた。これは龍馬が画策していた薩長同盟の一環でもある。その後、亀山社中は、後藤象二郎の手により出身母体である土佐藩の傘下に入る。これを機に、亀山社中は「海援隊」に改名する。海援隊のミッションは、「世界規模で商社ビジネスを展開すると」いう非常に野心に満ちたものであった。
興味深いことに、ここで陸奥宗光が登場する。陸奥と言えば、「カミソリ大臣」の異名を持つ外務大臣として、不平等条約の改正に辣腕を振るったことが有名であるが、海援隊時代には後の商社ビジネスの基礎となる重要な提言をいくつか行っているのだ。
陸奥は龍馬に対し、「商法の愚案」という文章の中で「海上保険」と「船為替(今で言うところの荷為替手形)」という新しいサービスを提案している。これらはおそらく、陸奥が外国商人と取引する中で学んだものだろう。商社は単に物資を運ぶだけでなく、付帯的なサービスをパッケージすることでトータルソリューションを提供するという思想は、後の三菱にちゃんと受け継がれている。そういう意味では、陸奥の「商法の愚案」は後世に大きな影響を与えた。同書を通じて、陸奥の意外な功績を垣間見ることができた。
さて、前置きが長くなったが、海援隊と岩崎弥太郎はどこで交わったのか?土佐藩の後藤象二郎は、藩内に「開成館」という組織を設け、土佐藩の産物を諸藩や外国に販売しようとした。後藤は同時に、開成館の出先機関として長崎に「土佐商会」を設置し、岩崎をその担当に任命した。諸々の事情があって、土佐商会は海援隊の給与支払窓口としての機能も持つようになり(普通に考えると変な構図だが…)、ここで岩崎と龍馬の接点が生まれたのである。
海援隊や開成館、土佐商会は明治維新前の組織であり、本来の株式会社の形態とは程遠いものであった。一方、明治時代に入って、欧米の「株式会社」の概念が輸入されると、殖産興業の名の下に次々と株式会社が誕生する。岩崎は龍馬の死によって消滅した海援隊の流れを受け継いで、三菱商会を設立する。そして実業界には、華々しい官僚のキャリアを捨て、「論語で経営をしてみせる」と豪語した渋沢栄一が参入してくる。明治時代における株式会社の発展の歴史は、紛れもなく「岩崎VS渋沢」の相克の歴史であったと言える。
(その2へ続く)
June 17, 2010
「渋沢流儒学」とも言うべき1冊(1)−『論語と算盤』
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以前の記事「論語を経営学の次元に高めた渋沢栄一−『論語の経営学(DHBR2009年10月号)』」で紹介した1冊。「私は論語で経営をしてやる」とまで言い切り、生涯論語を手放さなかった渋沢の思想がぎっしりと詰まっている。古典的な解釈にとらわれない渋沢流の解釈が随所に散りばめられており、「日本資本主義の父」がいかにして中国最高の古典である『論語』を当時の最先端のイデオロギーである「資本主義」に活かしていったのかが解る。以下に、論語に対する渋沢の特徴的な考え方を5点ほど整理してみたいと思う。
(1)仁義道徳と利益は両立可能
渋沢の主張で最も重要なポイントはこれだろう。明治維新後、欧米から様々な新しい技術が入ってくるようになると、菅原道真が唱えたとされる「和魂漢才」を文字って「和魂洋才」という言葉が生まれた。日本人が歴史の中で脈々と受け継いできた精神の上に諸外国の技術を構築することで、新しい日本文明の発展を狙った言葉である。
渋沢は「和魂洋才」をさらに文字って、「士魂商才」という言葉を作り出した。これは、武士の精神に則って商売を展開しようという意味である。武士の精神とは「武士道」のことであり、その起源は仏教や神教、そして儒教に遡ることができる。渋沢はその中でもとりわけ儒教の重要性に着目したというわけだ。
渋沢も若い頃は、世の中に吹き荒れる尊皇攘夷の風に影響されて、教条的に攘夷を掲げていた時期があった。しかし、一橋家への仕官やフランス留学を経て、今の日本の国力では諸外国に立ち向かうことは到底できないこと、そして日本が欧米列強と肩を並べるには産業による富国が必要であることを悟る。
ただし、江戸時代までは「金儲けは卑しいこと」と看做されており、士農工商という言葉からも解かるように、商人の地位は著しく低いものであった。武士は階級社会の一番上に君臨して、ただ武士道を追求すればよい。そういう時代であった。江戸幕府が260年もの長きに渡って安定した政権を維持できたのには、権力ある者(=武士)に富が集中しないようにするこの身分制度に負うところが大きいという指摘もあるようだが、渋沢は権力と富の分離によって産業が発達しなかったことが、諸外国に100年分の遅れを取ることになった要因であると主張している。
さて、四民平等により、誰もが産業を興せる自由な時代が到来した。とはいえ、それまで長年に渡って卑下されてきた金儲けのことである。もし仮に人間が私利私欲のままに金儲けに走ってしまうと、社会が混乱してしまい、産声を上げたばかりの明治政府では対応しきれないだろう。渋沢は『論語』に、資本主義の暴走に対する抑止力の働きを期待したのである。
論語の中に「富と貴きとはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、その道を以てせずして之を得れば去らざるなり」という句がある、この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじたところがあるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない、その主旨は富貴に淫するものを戒められたまでで、これをもってただちに孔子は富貴を厭悪したとすれば、誤謬もまた甚しと言はなければならぬ、孔子の言わんと欲する所は、道理を持った富貴でなければむしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である「正しい道理」とは言うまでもなく儒教の教えのことであり、その中核には「仁義道徳」の精神がある。渋沢は同書の中で、しつこいぐらいに「仁義道徳」と「利益」の両立を説いている。
(2)適材適所による富国の実現
儒教は元々消極的な現世主義の色合いが強い。「罪を天に獲(う)れば、祷るところなし」(無理な真似をして不自然の行動に出ると必ず悪い結果を招くことになり、その結果はどんなに祈っても消し去ることができない、つまりどんな人間でも天命に逆らうことはできないという意味)、「心の欲する所にしたがって矩を踰えず」(心の赴くままに分に安じて進めば、道理を外すことはない)などという文章からは、自らの本分を外さずに慎ましく生きる現実的な処世術がうかがえる。神戸大学大学院の加護野忠男教授は、和辻哲郎の『孔子』の内容を踏まえて次のように述べていることは以前も紹介した。
現世における人の道(人倫)にこそ意義があるというのが、孔子の説教の特徴であり、それが儒教の精神として後世に受け継がれていった。現世を肯定する孔子にとって、革新は不要であった。他の三聖人(※和辻哲郎は釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの4人を「世界の四聖」と呼んでいる)のような、時代の革新者としての側面が弱いのは、そのためであると、和辻は指摘する。だが、渋沢は「分をわきまえる」という言葉を積極的な意味で解釈した。つまり、「適材適所」である。それぞれの人間の分に合ったポジションを与えることで彼らの能力を最大限に引き出し、富国を実現しようとしたのだ。渋沢は、徳川家康こそが最も適材適所の術に優れた人物であると最大限の賛辞を送っており、自らも適材適所の実現に並々ならぬエネルギーを注いでいたことが記されている。
私の素志は適所に適材を得ることに存するのである、適材の適所に処して、しかしてなんらかの成績を挙げることは、これその人の国家社会に貢献する本来の道であって、やがてまたそれが渋沢の国家社会に貢献する道となるのである、私はこの信念の下に人物を待つのである「人物を待つ」という言葉は、さらっと書かれているが実に深い意味を持っている。中国には「周公三たび哺(ほ)を吐き、沛公三たび髪を梳(くしけず)る」という言葉がある(渋沢も同書で紹介している)。周公は孔子が聖人と崇めるほどの人物であり、どんな人が訪問してきても食事を中断して必ず面会したと言われる。また、沛公とは漢の高祖のことであり、髪を整えている最中にどんな客が訪ねてきても、必ずその人に会ったと伝えられている。つまり、周公も沛公も、適材を探すために時間を惜しまなかったのである。
渋沢もこの言葉を実践し、数多くの事業に携わる忙しい身でありながら、誰かが尋ねてくれば必ず話を聞くようにしていたそうだ。中には金を貸してくれだの職をあてがってくれだのといったろくでもない頼みごともあったようだが、それでも必ず話は聞いた。渋沢は適材をずっと「待って」いたのである。
(記事が長くなったので分割します。その2へ続く)