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January 28, 2012

上手に怒れない3タイプの人たちへの処方箋(2/2)―『キレないための上手な「怒り方」』

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キレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたにキレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたに
クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro

花風社 2000-12

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 (前回からの続き)

タイプ3:すぐに何でも怒る人(神経症などの精神疾患を抱えた人を除く)
シーオの例(1)
 シーオがバイト先の食料品店に行くと、店長に、今週の土曜日は丸一日出勤してもらうよと言われました。その日はみんなと湖に行くことになっていたのに・・・。(中略)当の土曜日、湖へ行くはずだったのにあきらめて出勤するとまた腹が立ち、帰ってきた友人たちから楽しかった話を聞かされると、なおさら腹が立つのでした。

 そこでシーオは勇気をふるい起こして店長の部屋へ行き、言いました。「店長、先週の土曜日、むりやり出勤させられて、あれはあんまりだと思います」ところが店長は、「ううむ。きみがそう思うのは気の毒だが、これは商売なんだ。わたしは、そのときにこうだと思ったことをやるしかないんだよ」と言うと、どこかへ電話をかけはじめるではありませんか。いまや、かえってこれまで以上に怒りがひどくなってしまいました。

(※本書では、シーオが「すぐに何でも怒る人」に分類されているが、店長からシフト変更を指示された時点で怒らなかった点では、さほどすぐに怒る人ではないようにも感じる。また、時間が経ってから店長に文句を言うのではなく、もっと早く言えば結果が違ったのでは?とも思うものの、その点については一応不問とする)
シーオの例(2)
 「母さん、(生まれたばかりの妹の)キーシャの世話だけど、週に3回はあんまりだよ。なにか他の方法はないの?放課後を好きに過ごせる日が1日もないんじゃ、いやになってしまうよ。バイトか、家の子守りか、どっちかなんだもん」
 「シーオ、つらい思いをさせてほんとうにすまないね。でもいまは、これしかないのよ。母さんだって考えてみたんだけど、これ以上ベビーシッターに払うお金はないし、父さんも母さんも、勤務時間を減らしたらやっていけないの」
 「ほんとになんとかする気があるなら、やっていけるはずだよ!ぼくがピアノをやめるってのはどう?レッスン料が浮くじゃない」
 「年度の途中でやめるなんていけないわ。自分で習いたいって言ったんでしょう?それに、先生に対しても責任ってものがあるのよ。もうしばらくがまんしてちょうだい」(※この後、2人のやり取りがまだ続くけれども、そこは省略)

 シーオはこうして話をしたあとは、ひどく腹が立ち、がっかりしてしまうのでした。問題が解決しなかったばかりでなく、まともにとり合ってもらえなかったという気がするし、自分の無力さをひしひしと感じてしまうのです。「どうしてだれもぼくのことなんか気にかけてくれないんだろう。ぼくの気持ちや都合なんて、だれも考えてくれないじゃないか」
 シーオは「すぐに何でも怒る人」の中ではまだ”おとなしい”方で、本書にはもっと怒りっぽいティナという人物が登場する。だが、ティナのケースは読むに堪えない悪口が並んでいたため省略することにした(汗)。タイプ3の人は、「自分の気持ちは、正直でありさえすれば、どんな表現をしようと構わない」、「怒りを表現すれば、他の人たちは自分の要求を聞き入れてくれる」と信じている。

 しかし言うまでもなく、現実には他人が怒っていても気にしない人やもっと別のことを優先している人、あるいは人の気持ちを大切にしているにもかかわらず言われた通りにしない人が存在するものだ。シーオの例で言えば、店長は前者に、母親は後者に該当する。こういう人たちには、怒りをストレートにぶつけても、状況が改善する見込みは低い。そこで、タイプ3の人に対して著者は、怒りの目的は自分の要求を貫き通すことだけではないことを知るべきだとアドバイスする。

 まず店長に対しては、自分の本当のニーズを再整理してみる。休みを手にすることが大事なのか?それとも、もっと敬意をもって接してもらうことの方が優先なのか?また、この件についてはどのくらい許せないと思っているのか?もっとしつこく食い下がったら、クビになるだろうか?その場合、他のバイトを探す気はあるのか?自分はそのリスクを負う気があるのか?といった具合だ。

 こうしてよく考えた結果、「もっとましな扱いを受けるためなら、クビになる危険を冒してもよい」と思うかもしれないし、「バイトを辞める気はないから、時々無茶な予定変更があるくらいは我慢しよう(その代わり、自分の方からもシフトに関する条件交渉を持ちかけてみよう)」と思うかもしれない。一旦冷静になって自分のニーズを整理することで、土曜日の出勤を命じられたことに対し反射的に怒りをぶつけるのではなく、手持ちのカードを増やすことができるというわけだ。

 また、母親に関しては、母親側のニーズや優先順位を聞き出すことが重要だ、というのが著者の見解である。母親は、幼いキーシャの世話、もっと遊びたいというシーオの気持ち、(おそらくそれほど稼ぎがない)父親との関係、ピアノの先生との関係、シーオにとってのピアノレッスンの重要性などについて、どのような優先順位をつけているのか?あるいは、他に重視していることがあるのか?この点を探っていけば、お互いの優先順位を擦り合わせ、条件交渉の余地が生じると著者は言う。

 引用文の会話では、シーオは母親の懸念事項を聞き出すことには一応成功しているものの、その全てが同列に扱われ、結局母親にとって全部が重要であるかのような流れになっている。そのため、シーオは母親の考えを変えることはムリだとあきらめてしまうのである。

 3つのタイプをまとめると、まず何よりも重要なのは、怒りという感情は決して悪ではなく、現状を好転させるよいきっかけになることを理解し、怒りを素直に自覚することである(特にタイプ2の人)(※1)。怒りを認識できるようになったら、状況から一歩身を引いて、自分が何に対して怒っているのか、怒りの原因を明らかにする。

 怒りの原因が解っても、「怒ったら相手を傷つけるのではないか?」という恐れから、怒りをあらわにすることが憚られることもある(特にタイプ2の人)。しかし、相手を傷つけるのは怒りの感情そのものではなく、怒りの表現の仕方である。奇を衒ったりせず、「何が起きたのか?(事実)」、「それに対して自分はどう感じたのか?(感情)」、「今後、自分はどうしてほしいのか?(要求)」という3点を、素直にかつできるだけ早めに伝えることが肝要である(※2)。

 こうして適切な怒りの表現方法が身につき、以前よりも自分の要求を随分と正直に表現できるようになったとしても、その要求がいつも相手に通用するとは限らない。相手も同じように、相手なりのニーズや要求を持っているからだ。ここで、自分の言い分が通らないことにいちいち腹を立てるのではなく(いちいち腹を立てていると、タイプ3になってしまう)、相手の要求を理解する心の余裕を持たなければならない(同時に、自分のニーズももう一度よく整理してみる)。そうすれば、一方が他方を犠牲にして自分のニーズを充足させるようなゼロサムゲームを回避し、双方のニーズを可能な限り満たす方法をお互いに検討することができるようになるのだろう。(※3)


(※1)以前の記事「感情は問題提起のサインである」を参照(至る所でこの記事を使い回しているが、汗)。
(※2)皮肉が行き過ぎて上司に殺されてしまった一例がこちら。「部下にだって「上司に物申す時の流儀」ってものがある
(※3)ここまで来ると、合意形成のフェーズに入る。合意形成のプロセスに関しては、以前の記事「合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』」を参照。
January 26, 2012

上手に怒れない3タイプの人たちへの処方箋(1/2)―『キレないための上手な「怒り方」』

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キレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたにキレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたに
クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro

花風社 2000-12

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 先日の記事「怒りを上手に表現できないと人生で割を食う―『どうしても「許せない」人』」の流れで、「怒りとのつき合い方」に関する本をついついまとめ買いしてしまったので、順番にレビューしてみようと思う。本書の著者はまず、怒りを上手にコントロールできない人をタイプ分けし、それぞれのタイプの人たちが陥っている「誤った認識」を指摘する。その上で、誤った認識を改め、怒りを上手に表現する方法を提示している。

 本書では、「怒りを上手にコントロールできない人」として3つのタイプが挙げられているが、タイプの分類は『どうしても「許せない」人』に登場する3タイプとほぼ一致する。以下、本書の内容を、個人的な見解も交えながら私なりに整理してみた。

タイプ1:怒りを表に出さず蓄積させてしまう人
スコットの例
 スコットとジュリーシャは、近ごろ、けんかをすることが増えたようです。けんかのパターンはいつも同じ。たとえば、サンドウィッチを分けっこするのをいやがるスコットをジュリーシャがからかってけんかになった晩は、こうでした。まず、スコットがむっつりと押し黙り、殻に閉じこもってしまいました。ジュリーシャは何度となくたずねます。「なにが気に入らないの?口もきかないで。どうしたっていうのよ!」スコットの答えはいつも同じ。「どうもしないさ。平気だよ」

(※ちなみに2人のけんかは、スコットが「ぼくは人の食べかけをもらうのはきらいなんだ。それくらい、もう知ってるだろ」と言ったのに対し、ジュリーシャが「なにが怖いっていうんだろ。あたしがバイキン持ってるなら、もうとっくに全部うつっちゃってるのに」と大人げなくからかったのが原因。この後も2人の押し問答が長々と続くのだが、そこは省略)

 ジュリーシャががっかりすればするほど、スコットは黙りこくるばかり。最後には、ジュリーシャは怒りとくやしさで声をかぎりにどなりちらすのですが、スコットはやはりなにも言わないのでした。
 沈黙という手段で怒りを抑制してしまう人には、2つの心理が働いていると著者は言う。1つは、「自分が本心を表してしまったら、あまりの激しさに、相手が傷ついてしまうだろう」というものである。もう1つはこれとは全く逆で、「うっかり人と言い争いなどをしたら、自分は必ず負けるに違いない」という、自分に対する自信のなさから生じる心理である。

 だが、この2つの心理はどちらも正しくない。「オレを怒らすと怖いんだぞ」と思っている(そして、それを公言している人)は、いざ本当に怒っても実はさほど怖くない(なぜなら、その人は”怒り慣れていない”から)というのはよくある話である。また、もう一方の心理についても、怒りを表現する目的は相手と言い争いをすることではないという点が理解できていない。

 スコットのようなタイプの人への処方箋は2つ。1つは、前述の思い込みを捨てて、自分が何に対して怒っているのか思い切って言葉で表現することである。その際に、皮肉を使おうとか、エレガントに表現しようと考えてはならない。「何が起きたのか?(事実)」、「それに対して自分はどう感じたのか?(感情)」、「今後、自分はどうしてほしいのか?(要求)」この3点を、飾らず素直に表現することが大切である。

 言葉にするのが難しい場合は、もう1つの処方箋を使うとよい。すなわち、自分の気持ちを整理するための時間や場所を確保することである。ただし、黙ってこれを実行すると、結局は沈黙の手段と一緒になってしまうから、相手に一言断りを入れるべきである。スコットは、「今はまだ、この件について話をするのは無理だ。近いうちに、改めて話すから。約束するよ」とジュリーシャに言えばよい、と著者は提案している。

タイプ2:怒りに気づいていない人
メリエレンの例
 メリエレンは近ごろ、リサといっしょにいても、あまり楽しくありません。最近、リサとの約束は4回のうち3回もキャンセルされてしまったし、残りの1回だって、リサは1時間以上も遅れてきたのです。理由はいちいちもっともでした。最初は病気。次は、お母さんが急に買い物に連れて行くと言いだしたから。そして3度目は、リサが何年も前から夢中だったグレッグから突然誘われたからでした。メリエレンだって、親友の恋路のじゃまはしたくありませんでした。遅刻してきたのは、家族と教会に行ったら、帰りにお父さんが、昼はみんなで外食しようと言いだしたからでした。

 リサはすてきな友だちです。去年、メリエレンが初めて男の子とデートすることになったとき、リサは3時間も前から家に来て、身じたくを手伝ってくれたのです。リサのお気に入りのセーターにメリエレンがチリソースをこぼしたときも、怒らずに「まあ、そういうこともあるわよ。それよりさ、楽しかった?」と言ってくれたほどです。

 リサはいつもそうやって親切にしてくれます。でも一方で、しょっちゅう約束を破ったり、遅れてきたりするのもほんとうでした。メリエレンは、そんなリサのことを悪く思うと、後ろめたい気分になってしまいます。それに、約束を取り消したときも、おくれてきたときも、いつもちゃんと理由があったじゃないのと思うのです。
 先日の記事でも述べた通り、私自身はタイプ1に近いので、タイプ2の人の気持ちがあまり理解できないのだけれども、私が日ごろ人間観察をしていて「そんなことをされてよく怒らないよなぁ・・・」と感じる人たちは、マクレランドの言う「親和欲求」が強い人、あるいは性格タイプ論の1つであるエニアグラムで言うところの「タイプ9(調停者)」にあたる人は、メリエレンと同じような傾向が強いように思う。

 著者によると、メリエレンのようなタイプの人は、「正当な理由が見つからない限り、腹を立てたりしてはいけない」、「時間が経てば、怒りの感情(厳密に言うと、このタイプの人はその感情を怒りだと認識していないので、「何らかの違和感」と言った方がよいだろう)は消えてしまうに違いない」という認識を持っている。こうした認識は、確かに怒りを心の中から消し去り、無意識の領域に追いやるのには役立つかもしれない。ところが、身体の方は正直なもので、頭痛や腹痛を引き起こしたり、凡ミスや遅刻が増えたり、漠然とした不安にさいなまれたりするようになるらしい(この点は『どうしても「許せない」人』でも述べられている)。

 タイプ2向けの処方箋としては、まずは「何かがおかしい、うまくいっていない」という違和感をキャッチして、「自分が本当は怒っている」ことをちゃんと認識することである。とはいえ、タイプ2の人は、ここですぐに怒りを表現してはならない。タイプ2の人はタイプ1の人以上に怒り慣れていないため、焦ると”一般的なルール”を持ち出して相手を怒ろうとしがちだ(メリエレンの場合、「時間を守るのは当然のルールでしょ?」とリサに言う、など)。ここはぐっとこらえて、自分の怒りの原因、つまり「自分は本当のところ何に対して怒っているのか?」を明らかにする必要がある。これが2つ目の処方箋である。

 メリエレンは、リサに約束を破られるとなぜ怒るのかを考えてみた。その結果、「わたしなんて大事じゃないんだっていう気がするからかな。ほかの人たちは、ちゃんと値打ちも重みもあるのに、わたしだけが虫けらみたいに小さくて、つまらないって気がしてくるのよ。それがつらいんだわ」という結論に達したそうである。ここまで来れば、タイプ1の人と同じように、相手に対して怒りを表現できるようになる。

 普段から”怒り慣れている”人(これが行き過ぎると、後日タイプ3として紹介する「すぐに何でも起こる人」になってしまうが・・・)や、タイプ1のように怒りの表現は下手でも怒りは感じる人にとっては、自分がなぜ怒っているのかを考えるなどというのは、何とまどろっこしい作業なんだと思うかもしれない(タイプ1に近い私もそう思う)。ただ、タイプ2はそもそも怒りという感情自体に不慣れであり、放っておくといつも自分の気持ちを犠牲にして相手の気持ちを優先してしまう。そこで著者は、敢えて自分の感情とじっくり向き合うステップを設けているのだと思われる。

 (続く)
September 08, 2011

「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ

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 最近の企業内人材育成のトレンドを見ていると、新しいコミュニケーションの方法として、「対話(ダイアローグ)」がよく目につく。確かに、組織内にはコミュニケーション上の問題が山積している。社員に会社の戦略や方針が伝わらない、上司が意図した通りに部下が仕事をやらないなど、「上から下」のコミュニケーションの問題もあれば、逆に経営層が現場の声に耳を傾けない、部下のキャリア開発のニーズを無視して上司が仕事を割り振ってくるといった、「下から上」のコミュニケーションの問題もある。

 あるいは、顧客に対して手厚いサポートを提供するために、営業・技術部門など複数部門が緊密に連携することが必要なのに、組織が「たこつぼ化」しており協業が生まれないなど、「横同士」のコミュニケーションの問題というのも存在する。こうした組織内のコミュニケーション不全を解決するのが、「対話」というソリューションであるというのが、大方の識者・人材育成の専門家たちの一致した見解だ。

 ところが、私個人だけなのかもしれないが、この「対話」という言葉には、どうも”ソフト”なイメージがつきまとっており、そのことに疑問を感じている。なぜ「対話」をソフトな方法と感じてしまうのだろうか?と自問自答したところ、2つの理由が浮かび上がってきた。

 1つは、「対話」について書かれた書籍や記事に出てくる事例そのものが、ソフトな論調で書かれているということである。例えば、ジョセフ・ジャウォースキーの『シンクロニシティ』や、ピーター・センゲの『出現する未来』などには、「対話」を通じて集団内のメンバーが相互理解を深め、将来の望ましい姿を自らデザインし、その実現こに向けた行動を起こしていく様子が描かれている。ただ、少しひねくれた見方をすると、あまりにもあっさりと「対話」が成功したように見えてしまい、”できすぎた美談”という印象さえ抱いてしまう。紙面の都合や守秘義務の関係もあって、「対話」の内容を全て記述するのが難しいのも、そう感じさせる一因なのだろう。

ジョセフ・ジャウォースキー
英治出版
2007-10-02
おすすめ平均:
「やり方」より「あり方」が大事な理由
哲学書か、量子力学書か、宗教書か、心理学書か。でも大事なリーダーシップ論
迷える世代のバイブル
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P. センゲ
講談社
2006-05-30
おすすめ平均:
ありのままを見つめて、その場と一体になる事で思い描いた未来が現れる
壮大な考え方に触れる本です。
リーダーとしての新しいあり方。忙しい人ほど内省が求められる。
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 (※)一応、この2冊について以前に書いた書評へのリンクを掲載しておく。
 民主型リーダーシップの本としての『シンクロニシティ−未来をつくるリーダーシップ』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた−『出現する未来』

 もう1つは、国際ニュースを見ていると、紛争が起こっている地域で、首脳陣らが「双方の『対話』を通じて、建設的に解決策を模索していきたい」といった発言をよく耳にするためだと思う。つまりこの発言は、「紛争」という武力的なやり方に対する”非武力的な解決策”として、「対話」を位置づけていると解釈できるわけだ。しかし、いったん「対話」が破綻すると、再び「紛争」へと戻ってしまう例は、枚挙にいとまがない。こうした揺り戻しの動きが、「対話」という言葉のソフトなイメージを、より一層鮮明なものにしているのかもしれない。

 一般的に、「対話」の対極に位置づけられるのは、「議論(ディスカッション)」である。この2つが二律背反の関係にあるとすれば、「議論」の定義や特徴をひっくり返すことで、「対話」の全容を浮き彫りにすることができるはずだ。「議論」の特徴を思いつくままに列挙してみると、こんな感じだろうか?
議論(ディスカッション)
 (1)議論の目的(何についての意思決定を下すか?)を明確にする。
 (2)客観的な事実やデータに基づいて、考えうる選択肢を洗い出す。
 (3)明快な言葉、解釈の余地が少ない図、異論が出にくい数値など、誰にとっても理解しやすい情報を用いて、論理的に検討を進める。
 (4)利害関係者をあらかじめ明確にし、それぞれの利害を代表する人に参加してもらう。
 (5)組織内のフォーマルな関係、あるいは権力の大小が検討プロセスに影響を与える。
 (6)感情が意思決定に与える影響を最小限にとどめる。
 (7)複数の選択肢の中から、論理的な基準に基づいて、最適な選択肢を選択する。
 (1)〜(3)および(7)については、意思決定に関する本を読めば、だいたい同じようなことが書かれている(下記の書籍を参照)。(4)については、以前の記事「合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』」を参照していただきたい。(5)は、同じ内容の発言でも、部長が発言するのと若手社員が発言するのとでは、重みが全く違うことを想像していただければ解りやすいだろう。(6)に関しては、心理学の先行研究が数多く存在し、興奮や怒りといった感情が、合理的な意思決定を妨げることが明らかになっている(これも過去記事「果たして意思決定に感情は不要なのか?」を参照)。

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 では、これらの特徴を裏返すことで導かれる「対話」とは、一体どのようなものだろうか?
対話(ダイアローグ)
 (1')対話を開始するにあたり、特定の目的は設定しない。
 (2')参加者は、個人的・主観的な認識、印象、感覚、思想、嗜好なども俎上に載せる。
 (3')メタファ(暗喩)やストーリーのような解釈の余地が大きい情報、参加者の表情・態度・ボディランゲージといった非言語的な情報、さらには一見つじつまの合わない非論理的な話さえも許容される。
 (4')参加者は流動的であり、自由に出入りできる(対話のテーマによって、利害関係者が動的に変化する)。
 (5')参加者の社会的な地位やパワーは、対話の場では無関係になり、全員が対等になる。
 (6')参加者は時に感情的になり、感情に支配される。
 (7')参加者は、対話のゴールを協創する(世代間ギャップがある社員同士の相互理解を促進する、職場や組織における望ましい人間関係のあり方を明らかにする、自社の経営陣が打ち出している変革プログラムの必要性や意味を共有する、など)
 (3')(6')以外の5つについては、冒頭で紹介した『シンクロニシティ―未来をつくるリーダーシップ』と『出現する未来』の中でも十分に論じられている。ここで私が強調したいのは、(3')と(6')の重要性である。我々は、(一昔前の「ロジカル・シンキング」ブームもあって、)論理的に考え、論理的にかつ端的に表現するように教育されている。だが、このような表現方法をとると、往々にして微妙なニュアンスが抜け落ちるものである。そういう抜け漏れが積み重なった結果、組織のあちこちで誤解や認識のズレが生じ、コミュニケーション不全に陥るのである。

 「対話」は、「議論」が重視しない点を重視する。すなわち、「言っていることは正しいかもしれないが、どこか引っかかる部分がある」とか、「私とあなたでは仕事のやり方に対する考えが違うので、一緒に仕事をしていてもうっとうしい」といった、感情的なコミュニケーションを受け入れるのである。今月号のDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューに、ホンダの有名な「ワイガヤ」に関する記述があったので、引用しておく。
 ホンダの「ワイガヤ」も場である。プロジェクト・チームを構成する30人ものメンバーがホテルや温泉旅館に集まって三日三晩を共にする。夜は酒を飲み、大浴場に入る。議題は決まっていないが、たいていはまず上司の悪口を言い、欲求不満を共有する。酒を飲みながら、互いに言いたいことを言い始めると、けんかになることも珍しくない。口げんかばかりか、手が出ることさえある。しかし、2日目になると、メンバー間の壁がなくなり、お互いの意欲や気持ちがわかるようになってくる。相手に耳を傾け、共感しようとする。3日目には、彼らはしばしば「帰納的飛躍」を遂げる。個人的な問題を克服すると同時に、チームとして問題解決をする方法を獲得するようになるのである。

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 本当の意味での「対話」とは、その語感がもたらすソフトなイメージとは違い、お互いに取っ組み合いの喧嘩になるほど激しいものなのである。

 例えば、あるミーティングで、終始むっすりとした態度で会議の流れを見守っている人がいたとしよう。「議論」の場であれば、「あの人はちょっと機嫌が悪そうだったけど、特に何も言わなかったから、異論なしということでOKだろう」ということで済んでしまうかもしれない。多少気の利く人であれば、「私があの人の意見を聞いて、後で君に伝えるよ」と、2人の間を仲介してくれるかもしれない。

 だが、これが「対話」の場となると、そういう態度を取る人に対して、思わずイラっときたプレゼンターが「てめぇ、何黙ってんだ?」と挑発的な言葉を発する。すると、それまでだんまりを決め込んでいた相手も、「お前の仕事のやり方が気に食わねぇんだよ!」と、顔を真っ赤にして反論する。そこからは、お互いの感情がもつれ合った、聞くに堪えない喧嘩が始まる。会議に同席しているメンバーも、どちらかの味方について、コミュニケーションをヒートアップさせる。もうほとんどプロ野球の乱闘のようなものである(そういえば、最近のプロ野球は、西武対オリックスぐらいでしか乱闘が見られなくなったが・・・)。

 あらかたお互いに言いたいことを言い合った後、実はプレゼンター(以下Aさん)とずっと黙っていた人(以下Bさん)の2人は同期で、BさんはAさんと同じぐらい高い業績を上げているのに、Aさんの方が先に出世して、大事な会議でもプレゼンを任せられるようになっていたのが不満だったと明らかになった。そこから、なぜそういう評価の差が生じたのかについて、会議に同席していたメンバーも、自分や周りの人の体験談を(時にBさんのように怒りを込めながら)語り始める。

 最初は、AさんとBさんの上司に、評価能力の差があるのかと思われた。しかし、さらに話を詰めていくと、どうやらBさんの所属部門は、経営層の中でAさんの所属部門よりも優先順位が低く見られており、その点が評価の差につながっているようだという結論に至った。また、Bさんも決してAさんの仕事ぶりや人格を否定的に見ているのではなく、むしろ優れた能力を持つライバルだと思っていること、そしてAさんも、若い頃Bさんと同じ部門にいた時期に、難しい局面で随分と助けてもらったことに感謝していることをお互いに確認し合った。

 この「対話」では、評価制度の不備や経営陣の意識の問題を変える具体策は出てきていない。しかし、会議に出ている人たちは、自分も日頃何となく感じていた問題を共有し合うことで、言葉にはしがたい一体感・連帯感を感じ、AさんとBさんは会議前よりも前向きなコミュニケーションが取れるようになった。「対話」としてはこれで十分なのである(ちなみに、以上の話は私が即興で作ったフィクションなのでご注意を)。

 多くの「対話」は(6')まで至らないか、(6')でストップしてしまう。「対話」で一番難しいのは、(6')から次に進むプロセスなのである。(6')で止まってしまうと、その場にいる全員が感情的なしこりを残したままとなり、「対話」を始める前よりもひどい状態になる。(6')のフェーズで我慢に我慢を重ね、様々な感情が渦巻くドロドロとした空間を抜け切った時に、初めて「対話」は意味を持つと思うのである。

《補足》
 余談になるが、外交の場における「対話」は、相当な困難を伴うものであろう。なぜならば、「対話」の肝である「感情的な対立」や「取っ組み合いのような喧嘩」という状況を、会議の中で作り出すことがほとんど不可能だからである。もしも、会議の途中で外交官同士が殴り合いなんかをしようものなら、即座に戦争へと発展するだろう。これは見方を変えれば、彼らの中では「対話」と「紛争」が密接しているとも言える。

 本論の中では、紛争地域で「対話」の重要性が説かれることが多く、「紛争」と「対話」が正反対に位置づけられているようだと書いた。けれども、実際には(残念なことではあるが、)「対話」と「紛争」の間に境界線はなく、むしろ「対話」の一部に「紛争」が存在すると捉えた方が適切なのかもしれない。