※2012年12月1日より新ブログに移行しました。
>>>現行ブログ free to write WHATEVER I like
⇒2019年にさらにWordpressに移行しました。
>>>現行HP シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)
⇒2021年からInstagramを開始。ほぼ同じ内容を新ブログに掲載しています。
>>>Instagram @tomohikoyato
新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
September 08, 2010
「キャリア発達」と「動機づけ要因」の関係を整理してみた−『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』
拍手してくれたら嬉しいな⇒
![]() | 村山 昇 クロスメディア・パブリッシング(インプレス) 2009-05-14 おすすめ平均: ![]() ![]() ![]() ![]() |
posted by Amazon360
今年3月の記事「「動機」の構造を自分なりにまとめてみた−『"働く"をじっくりみつめなおすための18の講義』」で紹介した村山昇氏の別の著書。『"働く"−』は文中に挿入されている図の意味が捉えにくく、それゆえに全体の理解を難しくしている印象があったが、こちらの本は余計な挿入図もなくすんなりと読むことができる。この本を読んで、外発的/内発的動機づけ要因について、改めていろいろと考え直してみた(3月の記事では手書きだったのだが、今回はちゃんとPPTで作成したよ)。

私が思うに、動機づけ要因は(1)意味づけ要因、(2)環境要因、(3)報酬要因の3つに分けられる。そして、それぞれのカテゴリは外発的/内発的動機の両方から構成される。
(1)意味づけ要因による動機づけとは、仕事の正当性や意義による動機づけ、平たく言い換えれば「やらなければならない仕事だからやる」という動機づけを指す。外発的な意味づけ要因としては、上司の命令や顧客からの要求が挙げられる。上司や顧客の指示は、よほどのことがない限り逆らえない正当性を持っている。外発的な意味づけ要因によって動機づけられている状態とはつまり、「周りがやれと言うからやる」という状態である。
一方、内発的な意味づけ要因としては、自分自身の心に秘めている使命感がある。内なる声が仕事の意義を主張する時、他人による強制を必要とせずとも、人は自発的に喜んで仕事を行う。これが内発的な意味づけ要因による動機づけである。
(2)環境要因による動機づけとは、仕事を取り巻く環境や条件によって動機づけられることである。外発的な環境要因とは、一言で言えば良好な職場環境を指す。必要なサポートをしてくれる上司や同僚の存在、快適に仕事ができるオフィス環境、さらには手厚い福利厚生などといった要因が充実した仕事を後押ししてくれる(まれに、意図せずに劣悪な環境に置かれた時に、「こんな不遇には負けない」といった反骨精神で動機づけられることもあるが)。
これに対して、内発的な環境要因とは自分自身のことであり、仕事に対する興味や好奇心があること、あるいは自分の能力が活かせることなどが挙げられる。要するに、仕事に対して自分の頭と心の準備ができているかどうか、ということだ。
(3)報酬要因による動機づけは文字通りの意味である。外発的な報酬要因には、昇給、報奨金などといった金銭的な報酬や、昇進、挑戦的な仕事への抜擢、上司や同僚、顧客からの肯定的な評価のような非金銭的な報酬が含まれる。
他方、内発的な報酬要因とは、仕事を通じて得られる達成感や充実感、やりがいといった正の感情を意味する。外発的にしろ内発的にしろ、期待した報酬が得られれば、また次も仕事をやってみようという気持ちになる(逆に、期待した報酬が得られない場合にも、前述したような反骨精神で動機づけられることがある)。
図中にある環状の矢印は、年月の経過とともにビジネスパーソンの動機が移り変わることを表している。もちろん、以前の記事「大事なのはリーダーシップのスタイルじゃないということ−『静かなリーダーシップ』」で述べたように個人の動機は様々な要因の複合体であるし、また別の記事「「内発的動機と外発的動機のどっちが重要か?」という問いは意味があるか?」で書いたように双方の動機は密接に関係している。よって、単純に上図の矢印で示したように動機が変遷するというわけではないのだが、キャリアを積み重ねるにつれて「中心となる動機」が変化することは説明できるような気がする。
まず、入社したての新入社員は、「外発的な意味づけ要因」が中心となる。新入社員は採用面接でこれがしたい、あれがしたいと希望を述べるものの、入社してすぐに思い通りの仕事に就くことは稀である。
新入社員は自我を押し通すよりも先に、会社というコミュニティの一員として認められなければならない。そのためには、最初は上司や先輩、あるいは顧客からの要求にきちんと応え、自分がこの組織にとって有益な人間であることを証明する必要がある。これは、コミュニティへの参加資格を得るための「通過儀礼」のようなものだ。
「通過儀礼」を無事に終えると(通常は入社してから数年を要する)、上司や先輩、同僚から同じコミュニティの仲間として認められ、彼らと良好な関係を築くことができる。社員はコミュニティの中に自分の居場所を見つけ、安心して仕事に取り組むことができる。このフェーズでは、主に「外発的な環境要因」に動機づけられていると言える。
Googleには野心にあふれた優秀な人材が世界中から集まってくるが、彼らにGoogleに入社した一番の理由を聞くと、大部分は「Googleの自由な職場環境」を挙げるという。Googleは伝統的な指揮命令系統を持たない極めて民主的な組織であるから、上司からの命令といった外発的な意味づけ要因がそもそも存在しない。だが、野心に燃えているからといって、内発的な動機だけで動いているわけでもない。
Googleの社員は、自分のやりたいことは自分一人の力では実現できないことをよく心得ているのだろう。だからこそ、優秀な社員と切磋琢磨し、アイデアを自由に試し、多数の良質なフィードバックが得られる環境を求めるのであり、外発的な環境要因に強く反応するのだと思われる。
さらに時が過ぎて入社から5年ぐらい経つと、仕事にもかなり慣れてきて、必要な能力もある程度身につく。すると、仕事そのものを楽しむ心の余裕が出てくる。つまり、「内発的な環境要因」に動機づけられる状態だ。
そして、順調に仕事が進んで自分の思い通りの成果が出せるようになると、充実感ややりがいを感じるようになり、もっと上を目指そうという意欲が湧き上がる。あるいは逆に、目標が達成できなくて悔しい思いをすると、次こそはと奮起して今以上に真剣に取り組むようになる。これは「内発的な報酬要因」に動機づけられている状態と言える。
内発的な報酬要因が主要因となる頃には、おそらく30代半ばにさしかかっている。ここからビジネスパーソンは、激しい出世競争に足を突っ込むことになる。この出世競争は、単に30代半ばから管理職になれる人とそうでない人が分かれてくるという人事慣行以上の意味を持っている。
ビジネスパーソンが今までよりも挑戦的で、会社全体や市場に大きな影響を与えるような大胆な仕事をしようと思ったら、往々にしてその仕事ができる権限を持った地位につかなければならない。要するに、ビジネスパーソンはより大きな仕事をするために、出世競争に自ら足を踏み入れ、高い地位を求めるのである。この頃の中心的な動機づけ要因は「外発的な報酬要因」に移っている。
ところが、外発的な報酬要因は無限の効果を持つわけではない。会社のポジションの数には限りがあるし、永遠に給与が上がり続けるわけでもない。外発的な報酬要因の効果が切れると、ビジネスパーソンは新たな道を模索する必要に迫られる(逆に、それができないと燃え尽き症候群に陥って、モチベーションがプツッと途絶えてしまう)。
そもそも今のこの仕事は何のためにやっているのか?誰のためなのか?彼らにどんな価値を提供しているのか?それは自分らしい仕事と言えるのか?ビジネスパーソンはこうした問いを自らに投げかける。そして、困難な内省の旅の果てに、誰にも妨げられることのない自分だけの使命を発見する。
使命とは、決して100%達成されることはない高尚な目標ではあるが、達成のために最大限の努力を費やさなければならないと思わせるようなものである。私だけの使命は、内なる声となって私自身を突き動かす。おそらく40代後半から50代のキャリアは、この「内発的な意味づけ要因」が中心に据えられたものとなるだろう。
以上、つらつらと書いてきたが、ほとんど本書の内容に触れていないことに今気づいた(汗)。「もはや書評ではないだろ?」という突っ込みはナシの方向で。
August 16, 2010
最初の動機は不純だって構わないんじゃないか?
拍手してくれたら嬉しいな⇒
本ブログでは動機の構造について何度か記事を書いてきた。
「動機」の構造を自分なりにまとめてみた−『"働く"をじっくりみつめなおすための18の講義』
入社後3年目までのキャリア開発−仕事の仕組みを知り、自分の得手・不得手を見極める
入社後4年目からのキャリア開発−内発的動機を育て、仕事に自分色を加える
「社員の7割が障害者」日本理化学工業・大山泰弘会長のインタビューに感動
「内発的動機と外発的動機のどっちが重要か?」という問いは意味があるか?
動機には大きく分けると、他者からの評価や報酬によって触発されるという「外発的動機」と、自分の興味や価値観を源泉とする「内発的動機」の2種類がある。「お金が欲しい」、「出世したい」という利己的な外発的動機はどちらかというと不純なものとされ、「何か社会に影響を与えることを実現したい」、「世のため人のためになりたい」という使命感にも似た内発的動機の方が崇高なものとみなされる傾向がある。
私自身は猜疑心が強い人間なので、最初から「世の中を変えてみたい」とか「社会に貢献したい」と熱っぽく語る人を見ると、「どこか裏があるのではないか?」と勘ぐってしまう(そのせいで人脈を広げられず、損をすることもあるのだが…)。表面上は立派な理念や大義名分を掲げていても、いざふたを開けてみたら自分の利益や特定の集団の利害を増長することが目的だったという話は枚挙に暇がない。つまり、内発的動機を装って、実際には外発的動機に突き動かされていたというわけだ。特に政治の世界では、こういうことがよく起こっているように感じる。
誤解を恐れずに言えば、私自身は別に外発的動機が全くの悪だと主張したいのではない。動機の順番が問題なのだ。リーダーが最初に「この改革は皆のためだ」と言っておきながら、実は裏で私服を肥やしていたと解ったら、少なくとも私はどこか騙された気分になる。
だが、内発的動機と外発的動機の順番が入れ替わって、「この改革をすると私自身は儲かるが、やがては皆さんのためにもなる」と言われると、不思議とその潔いほどの正直さに人間味を覚えて、その人を信頼してみようという気分になるのである。それはちょうど、手塚治虫が描いたブラック・ジャックが、拝金主義にまみれて違法に荒稼ぎしながらも、実は正規の医師以上に純粋な正義を追求し、生命の尊さを訴える姿に共感してしまうのに似ている。
これを「漫画だから」という一言で片付けるのは簡単だが、実際の世界でも同じような例を発見することができる。社会的使命感を持った起業家の代表格とも言える松下幸之助ですら、最初に事業を始めた時はお金のために働いていたことを認めている。
本ブログで最近たびたび紹介している渋沢栄一も、最初から日本に資本主義を確立しようと思っていたわけではない。渋沢は幕末に一橋家に仕官し、幕府の費用でフランスを訪れる機会を得た。しかし、フランス滞在中に大政奉還が行われ、幕府は消滅してしまった。
一橋家に忠義を尽くすならば、日本に帰って慶喜の元に身を寄せるのが筋である。ところが、渋沢はそうはしなかった。幕府が倒れた今となっては、帰国しても身の保証はない。それよりも、いくばくかのお金があることだし、せっかくフランスで勉強するチャンスを与えてもらったのだから、それを最大限に活かすことにした。渋沢はフランスの社会を隅々まで観察して知識を吸収し、同時にフランス人から学んだ資産運用で手持ち資金を運用してかなりのリターンを得たという。
渋沢の動機は、武士としては決して褒められたものではない。だが、この時渋沢が大義名分を貫いていたならば、「日本の近代資本主義の父」は誕生しなかったであろう。
例が古いという声も聞こえてきそうなので、もう1つ最近の話を紹介したい。前ベイン&カンパニー東京事務所代表パートナーで、現在は維真塾を主宰する山本真司氏の話である。これは友人から教えてもらったのだが、山本氏はある講演で、「最初から世のため人のためみたいな動機で仕事をする人は成功しにくい。生活のためとか、コンプレックスとか、もっとネガティブな動機で始めて馬力をつけた人が途中で崇高な動機に目覚めると化ける」とおっしゃっていたそうだ。
周囲からの批判を恐れて、不純な外発的動機を隠す必要は全くない。不純な動機を取り繕うために、聞こえのいい理想や大義名分を掲げることの方がよっぽど恥ずかしいことだ。不純な外発的動機は、とりわけ物事を始めたばかりの時期にはこの上ない推進力となる。その力をうまく活用して、一気に物事を進めることが肝要だ。使命感やビジョンといった崇高な想いは、もっと後になってから考えても遅くないと思うのである。
「動機」の構造を自分なりにまとめてみた−『"働く"をじっくりみつめなおすための18の講義』
入社後3年目までのキャリア開発−仕事の仕組みを知り、自分の得手・不得手を見極める
入社後4年目からのキャリア開発−内発的動機を育て、仕事に自分色を加える
「社員の7割が障害者」日本理化学工業・大山泰弘会長のインタビューに感動
「内発的動機と外発的動機のどっちが重要か?」という問いは意味があるか?
動機には大きく分けると、他者からの評価や報酬によって触発されるという「外発的動機」と、自分の興味や価値観を源泉とする「内発的動機」の2種類がある。「お金が欲しい」、「出世したい」という利己的な外発的動機はどちらかというと不純なものとされ、「何か社会に影響を与えることを実現したい」、「世のため人のためになりたい」という使命感にも似た内発的動機の方が崇高なものとみなされる傾向がある。
私自身は猜疑心が強い人間なので、最初から「世の中を変えてみたい」とか「社会に貢献したい」と熱っぽく語る人を見ると、「どこか裏があるのではないか?」と勘ぐってしまう(そのせいで人脈を広げられず、損をすることもあるのだが…)。表面上は立派な理念や大義名分を掲げていても、いざふたを開けてみたら自分の利益や特定の集団の利害を増長することが目的だったという話は枚挙に暇がない。つまり、内発的動機を装って、実際には外発的動機に突き動かされていたというわけだ。特に政治の世界では、こういうことがよく起こっているように感じる。
誤解を恐れずに言えば、私自身は別に外発的動機が全くの悪だと主張したいのではない。動機の順番が問題なのだ。リーダーが最初に「この改革は皆のためだ」と言っておきながら、実は裏で私服を肥やしていたと解ったら、少なくとも私はどこか騙された気分になる。
だが、内発的動機と外発的動機の順番が入れ替わって、「この改革をすると私自身は儲かるが、やがては皆さんのためにもなる」と言われると、不思議とその潔いほどの正直さに人間味を覚えて、その人を信頼してみようという気分になるのである。それはちょうど、手塚治虫が描いたブラック・ジャックが、拝金主義にまみれて違法に荒稼ぎしながらも、実は正規の医師以上に純粋な正義を追求し、生命の尊さを訴える姿に共感してしまうのに似ている。
これを「漫画だから」という一言で片付けるのは簡単だが、実際の世界でも同じような例を発見することができる。社会的使命感を持った起業家の代表格とも言える松下幸之助ですら、最初に事業を始めた時はお金のために働いていたことを認めている。
ぼくでも、最初は飯を食うために働いたにすぎなかった。しかし、1年、2年たつに従って、また、人が10人、20人集まってくるに従って、だんだん考えざるをえなくなってきた。年じゅう、なんとなしに働いていたのではすまん気がして、これではいかん、一つの理想というか使命というか、そういうものが、ぼく自身ほしくなった。
![]() | 松下 幸之助 PHP研究所 2009-08-29 おすすめ平均: ![]() ![]() ![]() ![]() |
posted by Amazon360
本ブログで最近たびたび紹介している渋沢栄一も、最初から日本に資本主義を確立しようと思っていたわけではない。渋沢は幕末に一橋家に仕官し、幕府の費用でフランスを訪れる機会を得た。しかし、フランス滞在中に大政奉還が行われ、幕府は消滅してしまった。
一橋家に忠義を尽くすならば、日本に帰って慶喜の元に身を寄せるのが筋である。ところが、渋沢はそうはしなかった。幕府が倒れた今となっては、帰国しても身の保証はない。それよりも、いくばくかのお金があることだし、せっかくフランスで勉強するチャンスを与えてもらったのだから、それを最大限に活かすことにした。渋沢はフランスの社会を隅々まで観察して知識を吸収し、同時にフランス人から学んだ資産運用で手持ち資金を運用してかなりのリターンを得たという。
渋沢の動機は、武士としては決して褒められたものではない。だが、この時渋沢が大義名分を貫いていたならば、「日本の近代資本主義の父」は誕生しなかったであろう。
例が古いという声も聞こえてきそうなので、もう1つ最近の話を紹介したい。前ベイン&カンパニー東京事務所代表パートナーで、現在は維真塾を主宰する山本真司氏の話である。これは友人から教えてもらったのだが、山本氏はある講演で、「最初から世のため人のためみたいな動機で仕事をする人は成功しにくい。生活のためとか、コンプレックスとか、もっとネガティブな動機で始めて馬力をつけた人が途中で崇高な動機に目覚めると化ける」とおっしゃっていたそうだ。
周囲からの批判を恐れて、不純な外発的動機を隠す必要は全くない。不純な動機を取り繕うために、聞こえのいい理想や大義名分を掲げることの方がよっぽど恥ずかしいことだ。不純な外発的動機は、とりわけ物事を始めたばかりの時期にはこの上ない推進力となる。その力をうまく活用して、一気に物事を進めることが肝要だ。使命感やビジョンといった崇高な想いは、もっと後になってから考えても遅くないと思うのである。
August 10, 2010
優秀なマネジャーも内発的動機と外発的動機を組み合わせる
拍手してくれたら嬉しいな⇒
昨日の記事「『内発的動機と外発的動機のどっちが重要か?』という問いは意味があるか?」の補足。DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー2010年5月号に収録されている「優秀なマネジャーに成長する条件」という論文は、マネジャーとして成功するためには、外発的動機と内発的動機の両方が必要であることを教えてくれる。
まず外発的動機についてだが、この論文の著者であるJ・スターリング・リビングストンは、「達成動機」の研究で知られるデイビッド・C・マクレランドによる興味深い文章を紹介している。
とはいえ、外発的動機だけでは成功できないこともまた自明である。リビングストンは、MBAを出ても企業で出世できないマネジャーの観察を通じて、優秀なマネジャーになるためには「マネジメント欲求」なるものが必要であることを突き止めた。
他者に影響を及ぼすためには、出世して高い地位に就き、それなりの権限と権力を手に入れなければならない。だから、出世欲に燃え、目の前にぶら下げられたニンジンに食らいつくような外発的動機は、有害であるどころかむしろ必要不可欠ですらある。
一方で、他者に影響を及ぼすこと自体を楽しむような内発的動機がなければ、マネジャーとしてはやっていけない。他者に影響を及ぼすとは、単に地位を利用して権力を振りかざすことではなく、他者の能力や仕事の質の向上を積極的にサポートすることである。
もっとも、部下を育成することで彼らが高い成果を上げれば、マネジャー自身の評価も上がり、さらに出世する可能性が開けるという点では、他者に影響を及ぼしたいという欲求は外発的動機の要素も帯びていることは否めない。
しかし、リビングストンの主張からは(特に、太字にした部分の言葉遣いから察するに)、自分が高く評価されたいから、もっと高い給料が欲しいからという外発的動機だけではなく、純粋に他者の仕事を支援すること自体に喜びを感じること、つまり内発的動機に基づいて他者に影響を及ぼすことが、マネジャーのキャリアを好転させるポイントであると言えそうだ。
![]() |
posted by Amazon360
まず外発的動機についてだが、この論文の著者であるJ・スターリング・リビングストンは、「達成動機」の研究で知られるデイビッド・C・マクレランドによる興味深い文章を紹介している。
いかに達成動機が高くても、人間関係にうまく対処できるとは限らないことは明白である。マネジャーの場合、他者に影響を及ぼすことが最大の関心事であり、これはまさしく権力動機によるものである。動機の源を調べることで、優秀なリーダーはどのように行動するのかを知ることができる。成功するマネジャーは、高い達成動機(=内発的動機、マズロー風に言えば自己実現欲求)に突き動かされていると考えられがちだが、マクレランドによればそれだけでは不十分だという。マクレランドは「権力動機」、つまり出世して地位パワーを手に入れたいという欲求が不可欠だと指摘する。出世するためには他者から評価される必要があるから、権力動機は外発的動機であると言える。達成動機の研究に長年携わったマクレランドが、実は権力動機が重要だと主張しているのは面白い話である。
とはいえ、外発的動機だけでは成功できないこともまた自明である。リビングストンは、MBAを出ても企業で出世できないマネジャーの観察を通じて、優秀なマネジャーになるためには「マネジメント欲求」なるものが必要であることを突き止めた。
他者の成果に影響を及ぼすことを強く欲し、そうすることで満足感が得られる人だけが、マネジャーとして成果を出す方法を身につけられる。また、部下の生産性に責任を負うことを本心から望み、彼ら彼女らの能力を開発し、これまで以上の成果を出せるように動機づけることを楽しめる人でなければ、その方法を学ぶことができない。(※太字は私がつけた)マネジメント欲求は、部下やメンバーの仕事に深く関与すること、彼ら彼女らを育成することそのものに楽しみや満足感を覚えるという点で、内発的動機だと言えよう。リビングストンは、多くのMBA卒業者は、大企業の役員になって社会的地位や高い報酬を得たいという野心(=外発的動機)ばかりが強く、この「マネジメント欲求」が欠けているために、マネジャーとして大成しないと述べている。
他者に影響を及ぼすためには、出世して高い地位に就き、それなりの権限と権力を手に入れなければならない。だから、出世欲に燃え、目の前にぶら下げられたニンジンに食らいつくような外発的動機は、有害であるどころかむしろ必要不可欠ですらある。
一方で、他者に影響を及ぼすこと自体を楽しむような内発的動機がなければ、マネジャーとしてはやっていけない。他者に影響を及ぼすとは、単に地位を利用して権力を振りかざすことではなく、他者の能力や仕事の質の向上を積極的にサポートすることである。
もっとも、部下を育成することで彼らが高い成果を上げれば、マネジャー自身の評価も上がり、さらに出世する可能性が開けるという点では、他者に影響を及ぼしたいという欲求は外発的動機の要素も帯びていることは否めない。
しかし、リビングストンの主張からは(特に、太字にした部分の言葉遣いから察するに)、自分が高く評価されたいから、もっと高い給料が欲しいからという外発的動機だけではなく、純粋に他者の仕事を支援すること自体に喜びを感じること、つまり内発的動機に基づいて他者に影響を及ぼすことが、マネジャーのキャリアを好転させるポイントであると言えそうだ。