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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
March 18, 2010
前提をあえてひっくり返してみよう(1)−『逆転の思考 ステレオタイプを排す(DHBR2010年3月号)』
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DHBR2010年2月号の特集「ハーバード流リーダーシップ講座」は、過去の論文のまとめ特集なので書評を割愛。ということで、2010年3月号の個人的書評。
反抗分子を集めてチームをつくる(ドリス・カーンズ・グッドウィン)
リンカーン大統領があえて反抗分子を登用し、彼らとともにどのように政権を運営したのかについて、歴史学者である著者が概説している。チームメンバーの考えが同質化してしまい、ブレイクスルーが妨げられたり、重要な問題の発見が遅れたりしないよう、わざと自分とは見解の異なるメンバーを投入することが有益であることは多くの論者が指摘している。だが、異分子が混じったチームは空中分解しやすい。リンカーンの事例からは、この難しいチームを正しい方向に導くための2つのポイントを見出すことができる。
1つ目は、意見の違いや価値観の対立があっても、「チームの共通の目的」に従うことだけは絶対に譲ってはならないということだ。リンカーンにとって、チームの共通の目的とは「アメリカの国益」である。リンカーンの周囲のメンバーは、「アメリカの国益に貢献するために自分は何をすべきか?」を常に問い続ける必要がある。サーモン・チェースは大統領の座を狙い、しばしばリンカーンの足を引っ張る存在であったが、財務長官という職務自体は問題なく全うしたために、そのポストを保つことができた。
もし共通の目的に向かおうとしないメンバーがいた場合はどうすればよいのか?答えは「メンバーから外す」である。これが2つ目のポイントだ。南北戦争が始まった当初、北軍の最高司令官を務めたジョージ・マクレランは非常に自己中心的で反抗的であり、いくつかの軍事作戦にいきなり失敗した。しかし、リンカーンは部下の失敗に対して寛容すぎるという欠点があった。リンカーンはマクレランを信用して使い続けたものの、結果的には多大な損害と犠牲者を生み出すだけであった。
あえて闘うべき時−協調や譲歩は本当のチームワークではない(サジュ=ニコル・A・ジョニ、デイモン・ベイヤー)
リーマン・ブラザーズが破綻した原因は、皮肉にもリチャード・S・ファルド・ジュニア元CEOが導入した「協調的な組織文化」であると著者は分析している。ここがまず興味深いと思った。一般に投資銀行は社内競争が激しく、同僚の足の引っ張り合いは日常茶飯事で、ギスギスした職場になりやすいと言われる。このことに心を痛めたファルドは、もっと社員同士が協調して仕事を進められるように風土改革に着手した。
ところが、それが裏目に出て社員はただの「仲良しクラブ」と化してしまったのである。社員は、重要な問題が起こっても見ないフリをするようになった。そのため、サブプライムローンの重大な危険性を認識していた社員がいたにもかかわらず、問題のサインは上層部まで伝わらかった。
チームワークとは、決してメンバーが仲良くすることではないと著者は強く警告する。そして、チームのためにはあえて闘いを挑まなければならない時がある、と主張している。この論文には、詳細な「『あえて闘うべき時』チェックリスト」がついており、意を決して「デビルズ・アドボケート(悪魔の使者:あえて反論を述べる人)」を買って出なければならないケースを教えてくれる。
この論文を読んでいて、GMのアルフレッド・スローンの言葉をふと思い出した。スローンは取締役会で役員から異論が出ないと、必ずこう言ったという。「誰も反対者がいないようですね。それでは、この議題については、また次回改めて議論することにしましょう」
スローンは、人間が他人と異なる意見を持っていても、チームの流れや政治力学に押されて、うまくそれを表明できないことを知っていた。だからこそ、全員が素直に賛成するような意思決定には慎重になり、多角的な視点から検討を深めることを奨励した。もし、スローンのこの意識がその後のGMに受け継がれていたら(「たられば」を今さら語っても仕方ないことかもしれないが…)、今のGMもちょっとは違う道をたどっていたかもしれない。
オーウェル的な危機は起こらない(コリイ・ドクトロウ)
SF作家のコリイ・ドクトロウがインターネットの未来について語ったインタビュー記事。インターネットの世界で何かと話題になる「コピーによる著作権侵害」の問題について、彼は「すべての人知をだれもが共有することは、人類にとって最も大切な夢の1つの実現であり、これを批判するのは道徳に反します」と述べている。そして、企業はコピーを阻止しようとするのではなく、それを前提としたところからスタートすべきだと主張する。
著作権をめぐる複雑な議論(インターネットの世界では、その議論はより複雑になる)に足を突っ込むつもりはないのだが、私が仕事をしている研修業界では、どの会社も自社のコンテンツ=知的財産が流出しないよう異常なほどに神経を尖らせている。競合他社の大まかなカリキュラムはホームページで知ることができても、テキストの内容や講師のスキルに関する情報を入手する手段は、はっきり言ってほとんどない。
だが、他社に真似されるのが恐いから製品やサービスの中身を一切見せないというのは、BtoCの世界では考えられないことだ。例えば家電メーカーがそんなことをしたら、彼らの製品が量販店の棚に陳列することはなくなる。また、和民がサービス内容を隠すため、顧客が入店するたびに「あなたは白木屋の社員ではないでしょうね?」などと聞くのはどう考えたってありえない。
産業とは、良くも悪くもお互いに真似をしながら基礎的な部分の品質を高め合い、その上に各社オリジナルの差別化要因をくっつけることで発展していくものだと私は思っている。そういう点からすると、研修業界はかなり未熟だ(こんなことを言うと、関係者からぶん殴られるかもしれないが…)。
人材育成という重要な経営課題に取り組んでいるにもかかわらず、現在の業界構造ではちっとも人材育成にまつわる知が発展していかない。知を隠すのではなく、知をある程度オープンにしながら高度化させていく仕組みを作りたいと個人的に考えているんだけどなぁ。
(長くなったので、一旦ここで記事を分割します)
March 11, 2010
ナットアイランド症候群〜チームメンバーの固定化は不正の温床にもなる
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先日の記事「何でもコラボすりゃいいってもんじゃないんだよ(後半)−『信頼学(DHBR2009年9月号)』」の中で、「メンバーを頻繁に交代せず、同じメンバーで臨んだ方が真のチームワークが築かれる」という内容のインタビュー記事を紹介した(J・リチャード・ハックマン「チームワークの嘘」)。
確かに、チームメンバーの固定化は信頼関係の構築に貢献するかもしれないが、一方でメンバーの考え方が同質化して新しいアイデアが生まれにくくなり、変化に適応できない硬直的なチームになる可能性もありうる。こういうデメリットは頭の中に入れておく必要があると思う。
また、今回の記事のタイトルにもあるように、チームメンバーの固定化は「不正の温床」になる危険性をもはらんでいる。DHBR2009年11月号のダン・アリエリー「合理的経済学の終焉」という論文の中で、興味深い実験が紹介されている。ちょっと長くなるが引用してみる。
上記のように最初から堕落の一途をたどるチームもあるが、理想的なチームがいつのまにか不正だらけのチームになるという事例も存在する。DHBR2006年12月号のポール・レビー「模範的チームはなぜ失敗したか」という論文は、著者が「ナットアイランド症候群」と命名した組織病を解説した非常に面白い論文である。
マサチューセッツ州クインシーにあるナットアイランド下水処理場は典型的な「3K職場」でありながら、そこで働く人たちは精力的に仕事を行い、残業をいとわず、部品を買うために自腹さえ切るほどであったという。経営者ならば誰もがうらやむようなこの理想的なチームは、1960年代後半から30年あまりの間、ボストン港の水質を守ることを目標にしていた。しかし、崇高なミッションの裏で、彼らはとんでもないことをしでかすようになった。1982年、彼らは37億ガロンもの未処理下水を、通常業務中に、しかも半年間に渡って港に垂れ流しにしていたのである。
論文の著者であるポール・レビー氏は、彼らのような模範的なチームが倫理観を失い崩壊していく様子を「ナットアイランド症候群」と名づけ、症状の進行の説明を試みた。詳細はここでは書き切れないが、チーム崩壊のカギを握っているのは、チームのマネジャーの存在である。
マネジャーはよかれと思って現場に権限委譲をし、実際に現場社員もプライドを持って仕事をしていた。すっかり安心したマネジャーは、現場に仕事を任せ切りにしてしまい、現場社員が日常業務上の問題を報告しても解決を先延ばしにするようになった。これが現場社員には「裏切り行為」と映り、現場社員を不正へと走らせるきっかけとなる。しかも、なまじ現場社員の結束が固いものだから、マネジャーの陰に隠れてやりたい放題に不正を犯す。その結果が、82年の汚水事件につながっていくのである。
「権限委譲(エンパワーメント)」はチームメンバーの自律と成長を促し、社員のモチベーションを高める方法として近年注目されている。しかし、それでも限界があることをこの事例は教えてくれる。「マネジメントに唯一最善解はない」とはよく言うが、まさに典型的な例である。むしろ、いろいろな研究内容や方法論、ハウツーをつぶさに調べていくと、全く相反する主張に出くわすことすらある。これはある意味、流動的な社会を観察対象とする社会科学の宿命なのかもしれない。チームメンバーがミッションに従い、高いモチベーションを維持し、固い信頼関係の下で最高のパフォーマンスを発揮し続けるための万能薬がいずれ出てくるなんてことは、期待しない方がよさそうだ。
「そういういろんな研究データがあるんだよ」というレベルで留まっているのはただの知識バカ、「矛盾する事象を包括的に説明できる新たな理論とは何か?」と問うのは学者の仕事、どんな考え方にも一長一短があることを承知の上で、「今、自分が直面している現状をどのように打破するのか?」を検討し行動に移すのが実務家の役割である。私は学者ではないから、やっぱり実務家らしくありたいなぁ。
確かに、チームメンバーの固定化は信頼関係の構築に貢献するかもしれないが、一方でメンバーの考え方が同質化して新しいアイデアが生まれにくくなり、変化に適応できない硬直的なチームになる可能性もありうる。こういうデメリットは頭の中に入れておく必要があると思う。
また、今回の記事のタイトルにもあるように、チームメンバーの固定化は「不正の温床」になる危険性をもはらんでいる。DHBR2009年11月号のダン・アリエリー「合理的経済学の終焉」という論文の中で、興味深い実験が紹介されている。ちょっと長くなるが引用してみる。
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我々は、数学の問題を5分間で20問解き、正解には1問につき50セント支払うという実験を3回実施した。チームメンバーの固定化によって得られた信頼関係が悪い方向に働くと、倫理や規範をそっちのけにして不正に走ることをこの実験は示している。これは、私たちの日常的な感覚にも合致するところがあるように思える。いわゆる「なあなあの関係」になると、メンバーのミスや不正を見過ごしたり、甘く見たりしがちになる。
1回目の実験では、各参加者たちは正答数を記入した紙だけを試験官に提出し、試験官は申告された回答数と答案用紙を照らし合わせた。2回目の実験では、参加者たちは答案用紙をシュレッダーにかけ、回収する用紙のみ試験官に提出した。ある意味、予想どおりの結果だが、この参加者たちは、1回目の参加者たちより、正答数を平均2問多く申告した。
3回目の実験では、参加者たちにペアを組ませて、獲得した金額は分け合うことにしたところ、より興味深い結果が得られた。数をごまかせば相手の取り分も増えることから、不正の割合が25%上昇したのである。
さらに別の実験では、監視したり監督したりすれば、チームの不正を防止できるのかを調査した。結果として、効果はなかった。不正行為は多少減ったとはいえ、完全になくなることはなかった。さらに驚かされたことに、実験の参加者同士が親しくなるにつれて、チームのためにいっそう不正行為に走る傾向が見られた。
上記のように最初から堕落の一途をたどるチームもあるが、理想的なチームがいつのまにか不正だらけのチームになるという事例も存在する。DHBR2006年12月号のポール・レビー「模範的チームはなぜ失敗したか」という論文は、著者が「ナットアイランド症候群」と命名した組織病を解説した非常に面白い論文である。
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マサチューセッツ州クインシーにあるナットアイランド下水処理場は典型的な「3K職場」でありながら、そこで働く人たちは精力的に仕事を行い、残業をいとわず、部品を買うために自腹さえ切るほどであったという。経営者ならば誰もがうらやむようなこの理想的なチームは、1960年代後半から30年あまりの間、ボストン港の水質を守ることを目標にしていた。しかし、崇高なミッションの裏で、彼らはとんでもないことをしでかすようになった。1982年、彼らは37億ガロンもの未処理下水を、通常業務中に、しかも半年間に渡って港に垂れ流しにしていたのである。
論文の著者であるポール・レビー氏は、彼らのような模範的なチームが倫理観を失い崩壊していく様子を「ナットアイランド症候群」と名づけ、症状の進行の説明を試みた。詳細はここでは書き切れないが、チーム崩壊のカギを握っているのは、チームのマネジャーの存在である。
マネジャーはよかれと思って現場に権限委譲をし、実際に現場社員もプライドを持って仕事をしていた。すっかり安心したマネジャーは、現場に仕事を任せ切りにしてしまい、現場社員が日常業務上の問題を報告しても解決を先延ばしにするようになった。これが現場社員には「裏切り行為」と映り、現場社員を不正へと走らせるきっかけとなる。しかも、なまじ現場社員の結束が固いものだから、マネジャーの陰に隠れてやりたい放題に不正を犯す。その結果が、82年の汚水事件につながっていくのである。
「権限委譲(エンパワーメント)」はチームメンバーの自律と成長を促し、社員のモチベーションを高める方法として近年注目されている。しかし、それでも限界があることをこの事例は教えてくれる。「マネジメントに唯一最善解はない」とはよく言うが、まさに典型的な例である。むしろ、いろいろな研究内容や方法論、ハウツーをつぶさに調べていくと、全く相反する主張に出くわすことすらある。これはある意味、流動的な社会を観察対象とする社会科学の宿命なのかもしれない。チームメンバーがミッションに従い、高いモチベーションを維持し、固い信頼関係の下で最高のパフォーマンスを発揮し続けるための万能薬がいずれ出てくるなんてことは、期待しない方がよさそうだ。
「そういういろんな研究データがあるんだよ」というレベルで留まっているのはただの知識バカ、「矛盾する事象を包括的に説明できる新たな理論とは何か?」と問うのは学者の仕事、どんな考え方にも一長一短があることを承知の上で、「今、自分が直面している現状をどのように打破するのか?」を検討し行動に移すのが実務家の役割である。私は学者ではないから、やっぱり実務家らしくありたいなぁ。
February 18, 2010
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前回の続き。
チームワークの嘘(J・リチャード・ハックマン)
これもまた心理学の知見に基づいて、巷にはびこる「チームワーク優位説」、「コラボレーション万能説」に異を唱える興味深い論文だった。一般的には、チームのメンバーが固定化すると馴れ合いが生じて生産性が低下するため、新しいメンバーを入れて新陳代謝を促した方がよいと考えられているが、これに対して次の調査を持ち出し、「同じメンバーで臨んだ方が真のチームワークが築かれる」と反論している。
アメリカ国家運輸安全委員会(NTSB:National Transportation Safety Board)の調査によれば、NTSBのデータベースに登録されている飛行機事故の73%が、乗務員たちが初顔合わせした日に発生しているそうです。すなわち、彼ら彼女らは、経験を通じて最高のチームワークを学ぼうにも、まだその機会がなかったのです。航空会社は人員の稼働率を重視するため、パイロットや乗務員の空き状況と今後のフライト予定をアルゴリズムにかけて、稼働率が高くなるようなチーム編成を決定する。それがかえって事故につながる原因となっていると著者は指摘している。あまりに頻繁にチームメンバーを入れ替えると、チームの安定性が低下し、むしろ信頼関係を損ねることにつながるというのだ。
ただし、著者は完全にチームメンバーを固定することを勧めているわけではない。あるR&Dチームに関する研究では、創造性と新しい視点を失わないために、新しい人材を投入することが有効であることが示されている。だが、その投入ペースは3〜4年ごとに1人という緩やかなペースであると述べている。
とはいえ、チームメンバーを固定化するとメンバーの考え方が同質化し、創造的なアイデアが生まれにくくなることも確かであると思う。チームメンバーをできるだけ変えずに、かつ新しい視点をチーム内に持ち込む方法を考える必要がありそうだ。
コラボレーションの損得勘定(モルテン・T・ハンセン)
新規事業や事業変革など大きなプロジェクトを立ち上げる時、各部門から人員を集めてチームを結成することが多い。これは関係各部門によるコラボレーションを期待してのことだが、本当にそうしたコラボレーションがペイするのかどうか、事前にきちんと検証しなければならないと著者は警告している。そして、コラボレーションの価値を測定する方法として「コラボレーション・プレミアム」という方法を紹介している。
コラボレーション・プレミアム=組織横断的で大掛かりなプロジェクトは華々しく映るため、どうしても「予想リターン」を過大評価し、2つのコストを軽視してしまう。たいていの場合、プロジェクトメンバーには各部門のエース級社員が投入される。そうすると、その間各部門の成果は一時的に低下する。これが「機会コスト」である。
「予想リターン」(そのプロジェクトからもたらされるであろうキャッシュフロー)
−「機会コスト」(とりわけコラボレーションする必要のなかった場合に
利用できたはずの時間、労力、また資源をコラボレーションに
費やした結果、失われたキャッシュフロー)
−「コラボレーション・コスト」(事業部、職能部門、営業所、海外子会社、
製造拠点など垣根を超えた組織横断的なコラボレーション固有の
障害ゆえに生じる損失)
また、異なる部門が協業してプロジェクトを進める時には、各部門に対して通常業務外の調査やインタビューで協力を仰いだり、現場の意見を吸い上げるための説明会や対話の場を設けたりして現場社員の参加を求めることがある。さらには、イレギュラーな申請処理や稟議処理が発生することもある。それらに費やされるプロジェクト外部の部門のコストが「コラボレーション・コスト」にあたる。
もちろん、このコストを正確に見積もることは実際には不可能に近いと思うのだが、そういうコストがあるということを認識することが大切である。コンサルティングのプロジェクトをやっていると、そのプロジェクト自体から生まれるキャッシュからコンサルティングフィーを引いたものがコンサルティングのROIと捉えられているように感じることがある。だが、実際にはクライアント企業の各部門からもメンバーが参加している。彼らに関わるコストも考慮したうえで、コンサルティングの成果を図る必要があると感じる今日この頃である。
風通しのよい組織をつくる(ジェームズ・オトゥール、ウォーレン・G・ベニス)
これまでの行き過ぎた株主重視経営に対して、これからの企業経営においては、長期、持続性、信頼、倫理などがキーワードになる。きれいごとのように聞こえるが、今求められているのは「透明性」の高い組織である、と著者は主張している。特に、反対意見を奨励し、問題やミスが隠蔽されることなく上層部に行き渡る組織を設計することが重要であると述べている。
情報が組織内を自由に流通する組織を作るためには、まずは「マネジャークラスが部下の意見にきちんと耳を傾ける」ことが必要だと思う。三隈二不二のPM理論で言えば間違いなく「pM型(調整に長けたリーダー)」に当てはまる故竹下登元首相は、とにかく人の話を最後まで聞くことを心がけていたらしい。たとえ自分がすでに知っているようなことでも、実りの少ない長話でも最後までちゃんと聞く。
もし相手に対して、「その話はもう知っているよ」とか、「今忙しいから後にしてくれないか」と言ってしまうと、相手は気後れして自分に話を持ちかけてこなくなる。そうすると、重要な情報が自分の耳に入らなくなる。これは国家レベルの意思決定を下す首相にとっては致命的だ。だから、どんな話でも最後まで聞くようにしていたのだという。人心掌握に長けた竹下登の一面を表すエピソードである。
ビジネススクールの責任(ジョエル・M・ポドルニー)
ビジネススクール批判の論文だが、なぜこれが「信頼学」という特集の中に入っているのかというと、エール・スクール・オブ・マネジメントの学長を務めた著者が、
私が怒っているのは、ビジネススクールが、倫理と価値観に基づくリーダーシップを軽視していることについてである。それは、現在の金融危機が教えてくれたわけではなく、7年以上も前に、エンロンやワールドドットコムのスキャンダルが明らかにしたことである。という問題を提起しているからである。
著者は、MBAのプログラムが本当の意味での倫理や価値観を全く教えていないことに怒っており、現在のリーダーシップ教育で教えられている倫理観にも欠陥があると述べている。さらに批判は、ビジネススクールのランキングに対してまで及び、現在のランキングの仕組みは純粋な実力を反映していないと、実に辛らつな言葉を並べ立てている。
今までのビジネススクール批判は「左脳型思考重視、右脳型思考軽視」を取り上げるものが多かったが、この論文はもっと根深い問題に切り込もうとしている。そして、MBAホルダーの行動規範をきちんと定義し、それに反する者の学位剥奪も辞さない姿勢が大事だという大胆な提案まで行っている。
元ビジネススクールの学長がビジネススクールを批判しているというだけで大変興味深く読めるのだが、「そもそも『経営』とは何か?」、「経営のプロフェッショナルを育成するためのビジネススクールの役割とは何か?」という非常に根源的な問いを投げかけている奥深い論文であると思った。
(ちなみに、以前の「プロフェッショナルとは「辞めさせる仕組みがある仕事」」という記事は、この論文の内容を少し参考にして書いている。)