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June 14, 2012

石川啄木―『一握の砂』に表れない社会主義者としての顔

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随分昔にちょろっと書いた「石川啄木の名言」に加筆していったら、またしても思いのほか長くなってしまったので、独立した記事として切り出した(普段とは全く毛色の違う記事になってしまったけれども・・・)。

 石川啄木と言えば、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」という一説で始まる『一握の砂』に代表されるように、困窮する自らの生活を題材にした作品を残しているわけだが、そうした作品には”全く”表れないもう1つの顔があることを(恥ずかしながら)最近知った。それは、1900年代前後の文学界で主流になりつつあった「自然主義」への反発と、大逆事件(1910年)を契機とした「社会主義」への傾倒である。
 自然主義者は何の理想も解決も要求せず。在るがままを在るがままに見るが故に、秋毫も国家の存在と牴触する事がないならば、その所謂旧道徳の虚偽に対して戦つた勇敢な戦も、遂に同じ理由から名の無い戦になりはしないか。従来及び現在の世界を観察するに当つて、道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離して考へる事は、極めて明白な誤謬である―むしろ、日本人に最も特有な卑怯である。
 啄木は、国家権力との戦いを避けてきた明治の思想を、このように激しい論調で糾弾している。

 もう少し正確に言えば、中学校の歴史でも学んだように、国家権力との戦いが全くなかったわけではない。明治維新以降、藩閥政府によって進められた”上からの欧化政策”に対し、かたや国民に主権を与えることを目的とした「自由民権運動」が生まれ、かたや国内における愛国心の向上と諸外国に対する特立独行を図る「国粋主義」が唱えられるようになった。

 その後、1890年の帝国議会開設により、限定的ながら民主主義が一応実現され(もっとも、1900年には、自由民権運動を牽引してきた自由党の後身・憲政党が、最大の政敵であった伊藤博文の率いる立憲政友会に吸収され、自由民権運動がなし崩し的にしぼんでいった、という一面もあるが)、また日清・日露戦争の勝利を通じて、国粋主義の対外的な目的もある程度達成された。

 1900年前後の日本はこうした状況にあった。さらに、日清・日露両戦争の間に産業革命が起こり、軽・重工業がともに発達したことで、国全体が何となくレベルアップした感覚があったのだろう(もちろん、三国干渉など、緊迫した出来事もあったが)。そこに思想的停滞を見た啄木は、強い危機感から引用文のような問題提起を行ったに違いない。民主主義はまだまだ不完全である。一方、国粋主義は軍国主義へと膨張する危険性をはらんでいる。つまり、コインの表側では、藩閥政府という従来の国家権力との決着がついておらず、コインの裏側では、軍国主義という新たな国家権力との戦いが始まろうとしていることを、啄木は敏感に感じ取ったのであろう。

 社会主義については、大逆事件の判決が下り、幸徳秋水の死刑が決まったことを受けて、
 僕は必ず現在の社会組織経済組織を破壊しなければならぬと信じてゐる、これ僕の空論ではなくて、過去数年間の実生活から得た結論である。僕は他日僕の所信の上に立つて多少の活動をしたいと思ふ。僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇してゐたが、今はもう躊躇しない。
(引用文はいずれも、朝日ジャーナル編『日本の思想家(中)』による)
と述べている(啄木は、幸徳の裁判に足しげく通い、裁判の様子を熱心に記録していた)。啄木の理想は「無政府主義」であり、その過程として「社会主義」あるいは「国家社会主義」を想定していたようである。国家権力への強い反発、さらには、無政府主義者であった幸徳が、一説には桂太郎山県有朋の権力闘争に端を発する政治的陰謀によって処刑されたという事実も、啄木をアナーキズムへと導いていったようだ。

日本の思想家〈中〉 (1975年) (朝日選書〈45〉)日本の思想家〈中〉 (1975年) (朝日選書〈45〉)
朝日ジャーナル編集部

朝日新聞社 1975

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 (この本は、何年か前にブックオフで、上巻・下巻と合わせて計300円で購入したのだけれども、近代思想をダイジェストで学ぶには非常に役に立つ。いい買い物したなぁ)
September 13, 2011

やっぱり「世界への長期分散投資」が一番無難なのね―『投資信託はこの8本から選びなさい』

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中野 晴啓
ダイヤモンド社
2011-06-10
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 定期購読しているDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューの広告に入っていたので、つい買ってしまった。いや実際問題ねぇ、独立して個人事業主をしていると、将来の生活資金のことはどうしても心配になるわけよ。自分の中では、ピーター・ドラッカーが90歳を超えてもカリフォルニア州のクレアモント大学で教鞭をとっていたのに倣って、90歳まで働くぐらいのつもりでいる(あぁ、笑いたい奴は笑えばいいさ)。だけど、80歳、90歳になったおじいちゃんのコンサルティングや研修サービスを必要としてくれる企業や組織があるかどうかなんて解らないし、そもそも病気になってしまったら元も子もない。

 国民年金は満額でも年間80万ぐらいしかないため、それだけではとてもじゃないが20年、30年という長い老後を支えることはできない。最近になってようやく資産運用の元手も多少できたし(といっても、数十万単位の世界ですよ・・・)、そろそろ真剣に資産運用を考えようかと思い、この本を購入した。

 本書の結論は至ってシンプル。現在、日本国内には約2,800本の投資信託があるけれども、一番無難なのは、言い換えれば、長期間にわたって着実に資産を増やすことができる可能性が高いのは、「世界中へ分散投資できるもの」に限るということ。本書では、「新興国株」、「新興国債券」、「外国株」、「外国債券」、「日本株」、「日本債券」、「世界REIT」、「コモディティ」、「分散ポートフォリオ(新興国株からコモディティまでの8つ全てに均等に投資する)」という9つの資産クラスについて、1996年から2010年までの15年間の運用実績をランキング化したデータが紹介されている。

 「新興国株」から「コモディティ」までの8つは、年によって運用実績にかなりのばらつきがあり、順位がめまぐるしく入れ替わる。これに対し、「分散ポートフォリオ」は変動が少なく(毎年4位〜7位にランクイン)、ほどほどの成績を残している。15年間の平均リターンを算出すると、「分散ポートフォリオ」は年6%になる。

 ちなみに、「新興国債券」(12%)、「世界REIT」(8%)、「新興国株」(7%)の平均リターンは「分散ポートフォリオ」を上回っているものの、新興国の債務がデフォルトしたり、経済成長が鈍化したりした瞬間に「新興国債券」と「新興国株」はやられてしまう。不動産についても、歴史を振り返れば何度もバブルとバブル崩壊を繰り返しているため、「世界REIT」も乱高下を繰り返す性質のものだ。

 本書のテーマは、30年とか40年といった”超長期的スパン”を見据えた投資である。よって、15年単位で見たら「新興国債券」、「世界REIT」、「新興国株」は確かに魅力的かもしれないけれども、その先も同じリターンをもたらしてくれるかどうかは、「分散ポートフォリオ」に比べるとはるかに不透明だ、というのが著者の見解である。

 本書のタイトルに「投資信託は、この8本から選びなさい」とあるが、その8本の名前をこの記事で書いてしまうとあまりにも露骨なネタばれになっちゃうんで、やめておくよ。ただ、著者の中野晴啓氏がセゾン投信代表取締役社長であることから容易に推察できるように、8本の中にはセゾン投信の商品が含まれているということだけ言っておこう(だって、自社商品のPRにならないんだったら、社長がわざわざ時間をかけて本を出版したりしないもん)。

 代わりにと言っては何だが、現在国内で取り扱われている約2,800本の投信から8本に絞り込んだ基準を引用しておく。下記の基準がどういう意味を持つのか?なぜ大事なのか?に関しては、「本書を読んでのお楽しみ」ということで、今回のレビューは終了〜(資産運用については、私より詳しい人が世の中にいっぱいいるから、私が長々とレビューを書いたところで意味がないし、汗)
長期投資に向いている投資信託の条件
 (1)信託期限が無期限であること。
 (2)分配金を全額再投資に回してくれること。
 (3)購入時手数料がかからないノーロード型で、信託報酬率が低いこと。
 (4)純資産残高が増え続けているもので、その残高があまりにも小さい場合は除外。
 (5)少額から自動積立ができて、自分の銀行口座から毎月引き落としが可能。
 (6)投資対象は「国際分散型」
August 13, 2011

民主党・自民党への個人的な期待と、我々自身がするべきこと(2/2)―『日本の壊れる音がする』

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 (これで最後)

 <自民党に対して>
 自民党に関しては、いっそのこと、いい意味で官僚と癒着し(つまり、官僚をフルに活用し)、筋の通った政策の立案・実行を期待している。それと同時に、自民党には重要なタスクを課したい。それは、今回の東日本大震災をめぐる一連の意思決定プロセスについて、

 ・どの意思決定はOKで、どの意思決定はNGだったのか?
 ・意思決定に至るプロセスで、どのような問題が生じたのか?その問題を引き起こした原因は何だったのか?
 ・意思決定の結果はOKだったが、プロセスに問題があったケースは何か?その場合、どのようなプロセスを踏むべきだったのか?
 ・自民党ならばどのようなプロセスを踏み、どのような意思決定を下していたか?

などといった観点から独自に検証し、震災対応に関する知見を蓄積してもらいたい、ということである。福島原発事故に対する政府の対応を自民党は批判するけれども、原発を推進してきたのは他ならぬ自民党なのだから、今回の大震災から重要な教訓を引き出さなければならない。

 実は、阪神淡路大震災の時も自民党は野党であり(社民党の村山政権だった)、自民党は大型の震災に直面した経験がない。村山政権や菅政権を”反面教師”として、近いうちに必ず起きると言われている東海大震災、首都圏直下型地震に備えてもらいたいのである。

 自民党も、どのぐらいの危機管理能力があるのかは未知数だ。過去には「えひめ丸号事件」をめぐって、チョンボをやらかしている。2001年、ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡する事件が起きた。事件発生時、森喜朗総理(当時)はゴルフ場におり、連絡はSPの携帯電話を通じて入った。

 衝突により日本人が多数海に投げ込まれたことや、相手がアメリカ軍であることも判明していたが、森元総理は第二報、さらに第三報が入るまで1時間半の間プレーを続け、これが危機管理意識上の問題となった(※5)。だからこそ、今回の大震災をめぐる様々な意思決定については、専門のワークグループを立ち上げて、数年を費やしてでもじっくりと検証するだけの意義と価値があると思うのである。

 <我々国民はどうすべきか?>
 我々がなすべきことは、端的に言えば「テレビを見るな」、「幅広い分野に興味を持て」、「情報源を多角化せよ」の3つである。テレビで流れる政治関連のニュースは、どこの局もほとんど同じだし、内容が偏っている。これは、閉鎖的な記者クラブ制度がもたらしている弊害である。

 だから、もっと視野を広げる必要がある。我々はどうしても自分の生活に直結する問題ばかりに関心を寄せがちだが、政治の役割は実に幅広い。いつの時代でも最優先とされるべき課題は、

 ・国家を外敵から守るための軍事・安全保障と、
 ・国内では取得できない資源を海外から得るための資源外交

の2つである。なぜなら、この2つがないがしろにされると、国家が潰れてしまうからだ。これに加えて、

 ・経済成長を実現するマクロ政策や金融政策
 ・政府や自治体の財政健全化
 ・国民の生命や健康を守る医療サービス
 ・高齢社会を支える介護・福祉、ならびに年金制度
 ・今後も経済成長を持続させるために必要な人口構成の実現(具体的には、出産・子育て支援)
 ・子どもたちを、教養と実務能力を備えた日本人へと育て上げる教育制度
 ・上記の政治的課題と関連する各種税制の整備

などが並ぶ。どれ1つをとっても大きなテーマだし、お互いに複雑に関連し合っているため、理解するのは容易ではない。しかし、自分の生活と直結したテーマだけに焦点を絞るのは、近視眼的な捉え方である(経営学でいうところの「マーケティング・マイオピア」ならぬ、「ポリティクス・マイオピア」である)。

 日常生活との関係性が薄く、あまり実感が持てない分野であっても、中長期的に見れば自分たちの生活に跳ね返ってくるものばかりである。したがって、それぞれの分野を理解する努力を惜しまず、自分なりの”座標軸”をはっきりさせることが我々にも必要なのである。

 そのためには、情報源の多角化が必須となる。テレビが論外なのは先ほども述べたが、新聞、書籍、ブログ、ネットニュース、地元の議員の講演会など、幅広いチャネルに目を向けて、様々な情報に敏感にならなければならない。その際に留意すべきなのは、一方のイデオロギーに偏らないことである。新聞であれば、例えば「産経と朝日」といった具合に、思想的傾向が異なるものを2部取るのが望ましい。

 我々は、自分にとって有利な情報や、自分の主張を裏づける情報ばかりを集めたがる傾向がある。心理学では、この傾向を「確証バイアス」と呼ぶ。この「確証バイアス」に陥らないようにするには、敢えて自分の考えとは反対の見解が述べられている情報リソースに目を向けることが有益である。

 自分が好きではない情報に、自ら首を突っ込んでいくことは、非常に苦痛である。だが、同じ論点でも多様な見方があることを知り、バランスのとれた基軸を自分の中に確立するのであれば、この苦痛は避けては通れないものなのである。

(※5)「森喜朗|Wikipedia」の「えひめ丸号事件」の項を参照。