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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
August 11, 2005
「教育権」から「学習権」へ〜学習は知識労働者の権利でもあり義務でもある
拍手してくれたら嬉しいな⇒
「教育を受ける権利」「教育権」は、第二次世界大戦以降世界中に広まり、現代では人間の普遍的な権利としての地位を獲得しています。
日本では、よく知られているように日本国憲法第26条において教育権を保障しています。また、国際的には、1959年に採択された「子どもの権利宣言」、1989年に採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」の中で子どもの教育権に関する規定をおいています。
教育権には大きく2つの特徴があります。一つは、教育権がもっぱら子どもを対象としていること、そしてもう一つは、「国家が」子どもに対して無償で初等教育を行うことを義務づけられ、子どもは国家が行う教育を受けることができる(もちろん「義務的に」ではあるが)という意味において、制度的、政策的な要素が強い権利であるということです。
一方で、最近になって「学習権」という言葉も生まれました。1985年の「ユネスコ学習権宣言」には次のようにあります。
「学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。
学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。
成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。
学習権は未来のためにとっておかれる文化的ぜいたく品ではない。
それは、生き残るという問題が解決されてから生じる権利ではない。
それは、基礎的な欲求が満たされたあとに行使されるようなものではない。
学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。
(以下略、全文はこちらから。)」
全文を読むと解りますが、教育権とは異なり、学習権は「成人教育」に関わる問題であるとされています。そして、学習権は「基本的人権の1つ」であると明記されています。
人間の寿命が延び、人間は歴史上最も長い期間仕事をするようになりました。しかもその仕事は、かつての工場労働者のように、命令に受動的に従い、手足を動かし続ける道具としてではなく、労働者自身の思考を必要とし、彼らが有する知識を適用する知識労働です。そしてその知識を習得するには、一定のまとまった時間と費用を費やした学習が不可欠になります。
知識は社会的に正統性を付与されることが存続の条件となります。しかし、残念なことに大半の知識が正統であると認められる期間は、人間が一生のうちで仕事を行う期間よりも短いのです。50年間全く変わらない知識はまずありません。その知識は、必ず誰かの手が加わり、改善されるか、あるいは全く別の知識にその地位を取って代わられます。知識労働者は既存の知識を捨て、新たな知識を獲得する学習の営みを行い続ける必要があるのです。
学習権はそうした知識労働者の営みを保障する社会的必要性から生じてきた権利であり、これからの知識社会、知識資本社会においては非常に重要な意味を持つ権利です。
しかし、私は学習権は権利であるというよりも義務に近い、すなわち学習権は「権利的義務」であると考えています。教育権が国家に教育制度を整える義務を課しているのとは異なり、学習権は国家にそのような重大な義務を課すことはできません。制度化するには成人教育が多様すぎるのです。
国家は学習権を侵害しないという消極的態度をとるか、せいぜい学習権を助成するぐらいしかできません。それは学習の性質からして止むを得ません。
国家の代わりに責任を負うのは、他ならぬ学習権を有する成人なのです。知識労働者は自らの学習に対して重大な責任を有しています。これが学習権が権利的義務たる所以です。
日本では、とりわけ子どもの教育に関して「学習権」が語られる場面が多いように見受けられます。しかし、真に学習権を行使すべきなのは成人なのです。
過激な言い方をすれば、多少の学習の努力さえせずに仕事の生産性を下げ周囲の足を引っ張ったり、電車の中で、まるで現代の活字離れ現象を是とするかのように、具にもつかない漫画や雑誌ばかり読みふけったり(すべての漫画や雑誌が悪いといっているわけではない)、浪費にしかならない娯楽ばかりに興じて身を滅ぼしたりしている者は、社会にとって忌まわしき負であるということです。
★☆参考までに☆★
《日本国憲法》
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
《子どもの権利宣言》
第7条 子どもは、教育を受ける権利を有する。その教育は、少なくとも初等の段階においては、無償、かつ、義務的でなければならない。子どもは、その一般的な教養を高め、機会均等の原則に基づいて、その能力、判断力並びに道徳的及び社会的責任感を発達させ、社会の有用な一員となりうるような教育を与えられなければならない。
《児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)》
第28条� …�約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、
(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。
日本では、よく知られているように日本国憲法第26条において教育権を保障しています。また、国際的には、1959年に採択された「子どもの権利宣言」、1989年に採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」の中で子どもの教育権に関する規定をおいています。
教育権には大きく2つの特徴があります。一つは、教育権がもっぱら子どもを対象としていること、そしてもう一つは、「国家が」子どもに対して無償で初等教育を行うことを義務づけられ、子どもは国家が行う教育を受けることができる(もちろん「義務的に」ではあるが)という意味において、制度的、政策的な要素が強い権利であるということです。
一方で、最近になって「学習権」という言葉も生まれました。1985年の「ユネスコ学習権宣言」には次のようにあります。
「学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。
学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。
成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。
学習権は未来のためにとっておかれる文化的ぜいたく品ではない。
それは、生き残るという問題が解決されてから生じる権利ではない。
それは、基礎的な欲求が満たされたあとに行使されるようなものではない。
学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。
(以下略、全文はこちらから。)」
全文を読むと解りますが、教育権とは異なり、学習権は「成人教育」に関わる問題であるとされています。そして、学習権は「基本的人権の1つ」であると明記されています。
人間の寿命が延び、人間は歴史上最も長い期間仕事をするようになりました。しかもその仕事は、かつての工場労働者のように、命令に受動的に従い、手足を動かし続ける道具としてではなく、労働者自身の思考を必要とし、彼らが有する知識を適用する知識労働です。そしてその知識を習得するには、一定のまとまった時間と費用を費やした学習が不可欠になります。
知識は社会的に正統性を付与されることが存続の条件となります。しかし、残念なことに大半の知識が正統であると認められる期間は、人間が一生のうちで仕事を行う期間よりも短いのです。50年間全く変わらない知識はまずありません。その知識は、必ず誰かの手が加わり、改善されるか、あるいは全く別の知識にその地位を取って代わられます。知識労働者は既存の知識を捨て、新たな知識を獲得する学習の営みを行い続ける必要があるのです。
学習権はそうした知識労働者の営みを保障する社会的必要性から生じてきた権利であり、これからの知識社会、知識資本社会においては非常に重要な意味を持つ権利です。
しかし、私は学習権は権利であるというよりも義務に近い、すなわち学習権は「権利的義務」であると考えています。教育権が国家に教育制度を整える義務を課しているのとは異なり、学習権は国家にそのような重大な義務を課すことはできません。制度化するには成人教育が多様すぎるのです。
国家は学習権を侵害しないという消極的態度をとるか、せいぜい学習権を助成するぐらいしかできません。それは学習の性質からして止むを得ません。
国家の代わりに責任を負うのは、他ならぬ学習権を有する成人なのです。知識労働者は自らの学習に対して重大な責任を有しています。これが学習権が権利的義務たる所以です。
日本では、とりわけ子どもの教育に関して「学習権」が語られる場面が多いように見受けられます。しかし、真に学習権を行使すべきなのは成人なのです。
過激な言い方をすれば、多少の学習の努力さえせずに仕事の生産性を下げ周囲の足を引っ張ったり、電車の中で、まるで現代の活字離れ現象を是とするかのように、具にもつかない漫画や雑誌ばかり読みふけったり(すべての漫画や雑誌が悪いといっているわけではない)、浪費にしかならない娯楽ばかりに興じて身を滅ぼしたりしている者は、社会にとって忌まわしき負であるということです。
★☆参考までに☆★
《日本国憲法》
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
《子どもの権利宣言》
第7条 子どもは、教育を受ける権利を有する。その教育は、少なくとも初等の段階においては、無償、かつ、義務的でなければならない。子どもは、その一般的な教養を高め、機会均等の原則に基づいて、その能力、判断力並びに道徳的及び社会的責任感を発達させ、社会の有用な一員となりうるような教育を与えられなければならない。
《児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)》
第28条� …�約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、
(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。
July 07, 2005
「知識を持っている人は、持っていない人と比べると、はるかに自由度が高い」(by齋藤孝)
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齋藤孝さんがオリコンでインタビューに答えていています。その中でいい言葉があったので紹介します。
http://www.oricon.co.jp/music/business/050704/int_01.html
----------------------------------------------------------
「今の若い人は、教養がないことに恥を感じなくなりました。これは日本初の現象です。昭和、大正、明治、江戸時代だって、知らないことは恥ずかしいことで、だからみんな一生懸命勉強したのに、現代では「だから何?」とか言われて、逆に物事を知っていると肩身が狭かったりする(笑)。バカの大波がやってきて、飲み尽くされそうになっているわけですよ。」
----------------------------------------------------------
いやはや、ホント面目ないです…
----------------------------------------------------------
「教養を持つことで備わる落ち着きが、大事だと思います。」
----------------------------------------------------------
私は決して勉強をしてこなかったわけではありません。高校生の時は絶対に同年代よりも沢山勉強していました。これは自信があります。でもその勉強は、大学に合格するための勉強だったのです。テスト用の「知識」なので、テストが終わればその「知識」に用はありませんでした。いや、そういう「知識」は知識と呼ぶにはおこがましく、ほとんど情報に近い類のものだったと思います。
これに対して教養は一生ものです。生きるための知識です。でもその教養を身に付けることに関しては本当に無関心な子供でした。だから大学に入った時、自分のあまりの教養のなさに気付いて非常に困惑したのを覚えています。
だから大学3年生の頃から、一生役に立つ知識を身に付けるための勉強を始めました。その入り口になったのが、当時興味を持ち始めていたビジネスのことでした。そこから、マネジメントや知識社会といった分野に手を広げていったのです。P.F.ドラッカーもこうして出会った一人です。
おかげで大学に入った頃に比べれば、随分と落ち着きを取り戻しました。知識がもたらす力のおかげだと思っています。もちろん、今はもっといろんなことを勉強したいという、違う焦燥感が私を襲っているのですが(汗)
とりあえず著名な哲学者の思想は頭に入れておきたいし、知識社会の理解ももっと深めなければならないし、知識社会と切っても切り離せない関係にある教育のことも知りたいし、経済学のこともいろいろ知りたいし…(アダム・スミス、ワルラス、マーシャルといった古典派経済学、マルクス経済学、ケインズ経済学、ネオ・ケインジアン、新しい経済学である合理的期待形成学派、マネタリスト、物理学における複雑系との融合である複雑系経済学、ビジネス界でちょっとした流行になったゲーム理論など、あげればきりがない。)
----------------------------------------------------------
「知識を持っている人は、持っていない人と比べると、はるかに自由度が高いんです。」
----------------------------------------------------------
私はこのインタビューの中でこの言葉が一番気に入りました。学習することの重要性を的確に表した言葉だと思います。さすが齋藤さん!!という感じです。
実は齋藤さんは、大学を卒業しても就職ができなかったそうです。それで人よりも沢山勉強して、いつか就職していった周りの連中を見返してやろうと心に決めたというのです。それこそ、同年代で自分ほど勉強している奴はいないというほどに勉強したということらしいです。そうした若いときの経験もあって、こういうことが言えるのだろうと思います。
私は一生学習を続けます。この決意だけは絶対に変えません。
《参考文献》
齋藤孝さんの話も載っています。企業のトップの方の話も多いですが、それだけにとどまらず、石橋貴明、笑福亭鶴瓶、秋元康、おちまさと、井筒和幸といったタレント、著名人の話もあって非常に面白いです。
http://www.oricon.co.jp/music/business/050704/int_01.html
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「今の若い人は、教養がないことに恥を感じなくなりました。これは日本初の現象です。昭和、大正、明治、江戸時代だって、知らないことは恥ずかしいことで、だからみんな一生懸命勉強したのに、現代では「だから何?」とか言われて、逆に物事を知っていると肩身が狭かったりする(笑)。バカの大波がやってきて、飲み尽くされそうになっているわけですよ。」
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いやはや、ホント面目ないです…
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「教養を持つことで備わる落ち着きが、大事だと思います。」
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私は決して勉強をしてこなかったわけではありません。高校生の時は絶対に同年代よりも沢山勉強していました。これは自信があります。でもその勉強は、大学に合格するための勉強だったのです。テスト用の「知識」なので、テストが終わればその「知識」に用はありませんでした。いや、そういう「知識」は知識と呼ぶにはおこがましく、ほとんど情報に近い類のものだったと思います。
これに対して教養は一生ものです。生きるための知識です。でもその教養を身に付けることに関しては本当に無関心な子供でした。だから大学に入った時、自分のあまりの教養のなさに気付いて非常に困惑したのを覚えています。
だから大学3年生の頃から、一生役に立つ知識を身に付けるための勉強を始めました。その入り口になったのが、当時興味を持ち始めていたビジネスのことでした。そこから、マネジメントや知識社会といった分野に手を広げていったのです。P.F.ドラッカーもこうして出会った一人です。
おかげで大学に入った頃に比べれば、随分と落ち着きを取り戻しました。知識がもたらす力のおかげだと思っています。もちろん、今はもっといろんなことを勉強したいという、違う焦燥感が私を襲っているのですが(汗)
とりあえず著名な哲学者の思想は頭に入れておきたいし、知識社会の理解ももっと深めなければならないし、知識社会と切っても切り離せない関係にある教育のことも知りたいし、経済学のこともいろいろ知りたいし…(アダム・スミス、ワルラス、マーシャルといった古典派経済学、マルクス経済学、ケインズ経済学、ネオ・ケインジアン、新しい経済学である合理的期待形成学派、マネタリスト、物理学における複雑系との融合である複雑系経済学、ビジネス界でちょっとした流行になったゲーム理論など、あげればきりがない。)
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「知識を持っている人は、持っていない人と比べると、はるかに自由度が高いんです。」
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私はこのインタビューの中でこの言葉が一番気に入りました。学習することの重要性を的確に表した言葉だと思います。さすが齋藤さん!!という感じです。
実は齋藤さんは、大学を卒業しても就職ができなかったそうです。それで人よりも沢山勉強して、いつか就職していった周りの連中を見返してやろうと心に決めたというのです。それこそ、同年代で自分ほど勉強している奴はいないというほどに勉強したということらしいです。そうした若いときの経験もあって、こういうことが言えるのだろうと思います。
私は一生学習を続けます。この決意だけは絶対に変えません。
《参考文献》
![]() | プロ論。 B-ing編集部 徳間書店 2004-12-19 Amazonで詳しく見るby G-Tools |
齋藤孝さんの話も載っています。企業のトップの方の話も多いですが、それだけにとどまらず、石橋貴明、笑福亭鶴瓶、秋元康、おちまさと、井筒和幸といったタレント、著名人の話もあって非常に面白いです。
July 05, 2005
知識労働の生産管理は製造現場の生産管理に比べて不十分
拍手してくれたら嬉しいな⇒
知識労働者は毎日何らかの「成果物」を生産している。その成果物は、他の知識労働者が自らの活動のために必要とするものである。そして他の生産者も同様に、新たな成果物を生産して、別の知識労働者に引き渡している。
ソフトウェア開発では、顧客の業務分析、顧客とのヒアリングを踏まえて設計者が基本設計書や詳細設計書を作成する。開発者はその設計書を元にプログラムを書く。プログラムは相互に依存関係があるのが普通なので、ある開発者が、別の開発者の開発したプログラムを自分のプログラムに組み込んでプログラムを完成させる。
知識労働者の組織も、一種の生産プロセスである。しかし、知識労働者の生産プロセスが一般の生産プロセスと大きく異なるのは、知識労働者の組織では、仕掛品が一方的に流れていく工場の生産ラインとは異なり、やり取りされる成果物の流れが全方向的でかなり複雑である点である。
理想のソフトウェアは、各プログラム間の依存度が低く(=1つのプログラムから呼び出す他のプログラムの数が少なく)、プログラムの独立性が高いこととされる。しかし現実には、プログラムの処理自体の依存関係はなくても、プログラム同士が互いに影響をもつことがある。例えば類似の処理をしているプログラムでは処理順序を揃えたほうが望ましい。1つの成果物を必要とする人は意外と多い。
知識労働者の成果物は変更を容易に求められる。成果物の元になった情報に関して、何か新たな情報が入れば、即座に成果物に影響が出る。成果物そのものが使えなくなってしまうこともある。しかも、成果物の流れは全方向的なので、その成果物の変更によって影響を受ける範囲は非常に広い。
ソフトウェア開発の現場では、「戻り」が頻繁に発生する。仕様変更は必ず存在する。仕様変更があるたびに、どのくらいの影響範囲があるのか、プログラムの修正に漏れがないか誰もが神経を尖らせる。
工場の生産管理に関しては数多くの理論が提唱されてきた。しかし、知識労働の生産管理に当たる理論はまだ不十分である。知識労働には、工場労働と類似する点もあれば、異なる点も多い。知識労働には独自の生産管理の手法が必要であると思う。
ソフトウェア開発では、顧客の業務分析、顧客とのヒアリングを踏まえて設計者が基本設計書や詳細設計書を作成する。開発者はその設計書を元にプログラムを書く。プログラムは相互に依存関係があるのが普通なので、ある開発者が、別の開発者の開発したプログラムを自分のプログラムに組み込んでプログラムを完成させる。
知識労働者の組織も、一種の生産プロセスである。しかし、知識労働者の生産プロセスが一般の生産プロセスと大きく異なるのは、知識労働者の組織では、仕掛品が一方的に流れていく工場の生産ラインとは異なり、やり取りされる成果物の流れが全方向的でかなり複雑である点である。
理想のソフトウェアは、各プログラム間の依存度が低く(=1つのプログラムから呼び出す他のプログラムの数が少なく)、プログラムの独立性が高いこととされる。しかし現実には、プログラムの処理自体の依存関係はなくても、プログラム同士が互いに影響をもつことがある。例えば類似の処理をしているプログラムでは処理順序を揃えたほうが望ましい。1つの成果物を必要とする人は意外と多い。
知識労働者の成果物は変更を容易に求められる。成果物の元になった情報に関して、何か新たな情報が入れば、即座に成果物に影響が出る。成果物そのものが使えなくなってしまうこともある。しかも、成果物の流れは全方向的なので、その成果物の変更によって影響を受ける範囲は非常に広い。
ソフトウェア開発の現場では、「戻り」が頻繁に発生する。仕様変更は必ず存在する。仕様変更があるたびに、どのくらいの影響範囲があるのか、プログラムの修正に漏れがないか誰もが神経を尖らせる。
工場の生産管理に関しては数多くの理論が提唱されてきた。しかし、知識労働の生産管理に当たる理論はまだ不十分である。知識労働には、工場労働と類似する点もあれば、異なる点も多い。知識労働には独自の生産管理の手法が必要であると思う。



