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November 27, 2005

アメリカが日本の中央集権的な教育制度を学ぼうとしている

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「日本型教育」めぐり論争 米紙コラムに批判の投書も
 【ニューヨーク25日共同】米紙ニューヨーク・タイムズが「よりよい学校づくりのため日本に学ぼう」と呼び掛けるコラムを掲載したのに対し、日本在住の外国人教師から批判の投書が寄せられるなど読者の大きな反響を呼び、「日本型教育」をめぐる論争となっている。
 同紙は21日付紙面で、数学や科学、読み書きで高い能力を身につけなければ米国は「二流の経済大国」になるとの内容のコラムを掲載。

 教師の教育研究が盛んで、全国統一のカリキュラムが定められている日本では、政府による「教育の品質管理」が行き渡っているとし、研修制度が未整備で地域によりカリキュラムが千差万別の米国の教育の在り方を批判した。
 目が留まったのでスクラップしました。日本の教育制度は、とかく日本国内においては批判されることが多い(もっとも、普通は自国の教育制度を自ら賞賛することもありませんが)のですが、海外では別の見方も存在することを改めて認識しました。以下、この記事に関することをいくつか書いてみます。(メモ書き程度なので、記事全体にはほとんど統一感がありません。すみません…)

イギリスでも似たような動きがあった
 このコラムを読んで一番最初に思い出したのが、かつてのイギリスの教育改革のことでした。イギリスもアメリカと同様に、教育に関する権限は国ではなく地方が握っています。イギリスでは長く階級ごとに別々の教育制度が用意されてきたのですが、1960年代からコンプレヘンシブという大規模な総合学校(日本の小・中学校に当たる)に一本化されてきました。このコンプレヘンシブはあらゆる階層に同等の教育の機会を与えると同時に、自由な教育、個性を育てる教育を目指すものでした。

 ところが1980年代に入ると、コンプレヘンシブのやり方では、算数の計算や英語のスペリング、文法などの知識面で欠点が生じやすいことが解ってきたのです。そこで時のマーガレット・サッチャー首相は、日本に倣って教育の中央集権化を目指し、学力の底上げを図るために定期的に全国統一テストを行い、その結果を学校ごとに発表することを決めました。その後イギリスの教育制度は、細部にわたっては修正が加えられてきましたが、大筋の流れとしてはサッチャー時代のものを受け継いでいます。(イギリスの教育制度の歴史的変遷についてはこちらのサイトを参照してみてください>>イギリスの教育制度〜その歴史と改革の動向〜

とはいえ中央集権化はばら色の解決策ではない
 日本の教育制度を批判するとしたら、大方の人は真っ先に文部科学省主導で制度改革が進むことを挙げるのではないでしょうか。最近だけでも文科省の指導の下、ゆとり教育(僅か数年で方向転換されましたが)、道徳教育、総合学習の導入、学級サイズの縮小、地域と親を学校運営に加える、各学校へのカウンセラーの配置などが行われました。しかし、聞かれるのは現場を知らない文科省官僚が打ち出した方策が、返って現場を混乱させているとの声ばかりです。中央集権化も、政府ができること以上のことをしようとするのならば、単なる呪縛にしかなりません。

統一カリキュラムだけでは捉えられないアメリカ社会の問題
 アメリカ学生の数学・科学の学力がどの程度なのかはよく解りません。しかし、読み書きができない国民が多いというのは以前からよく聞く話です。アメリカには国際的に比較可能な識字率のデータが存在しない(ちなみに日本の識字率は99.7%)のですが、1992年の米国成人識字率調査では、4400万の成人が正確に文章を綴ることができず、読んだものを十分理解することもできなかったとか、近年でも2500万人のアメリカ人成人が殺虫剤の注意書や新聞が読めないなどと言われています。

 ところが、読み書きができない人々の大半はスペイン系・メキシコ系の移民や黒人などの貧困層です(注)。経済的な問題、あるいは人種差別的な問題により、そもそも学校に行けない人々の読み書きは、統一カリキュラムだけでは到底解決できそうにありません。

(※注)歴史に残るブッシュ対ゴアの大統領選で最も話題となったフロリダ州では、ゴアに投票するために穴を開ける位置が誤解を招きやすい場所にあったことが一つの問題だった。もしこの穴の位置が、読み書きの満足に出来ない人たちにも解りやすい位置にあったなら、フロリダ州の票をゴアが獲得して大統領になっていただろうとも報道された。

翻って日本の学力低下問題について
 識字率に関しては先進国の中で勝っているかもしれませんが、日本人の数学や理科の学力が年々低下しているのは調査でも明らかになっているところです。もっとも、教えている知識の内容が妥当なものではないとか、現代の日本の学生は伝統的な科目以外の知識を学校以外の場所で学んでいるとか、そういう議論はあると思います。しかしそれでもなお、数学や理科に限らず、学習そのものから日本の若者が離れつつあるような気がしてなりません。知識を軽視する風潮が蔓延することが、これからの知識社会にとっては最も恐るべき事態です。学校教育の期間よりもはるかに長い期間にわたり、人生を通じて私達は学習をし、知識を習得し続けなければなりません。学校教育で教えている知識の大半は、確かに実社会で使用しないものばかりです(私は、有機化学物質の化学反応式を高校卒業以来一度も書いていません)。しかしながら、学習により知識を習得する方法を最も効果的に身に付けられるのは、学校教育を受けている期間です。学校においては、何よりもまず学習の重要性を教育してほしいと願っています。
August 27, 2005

「知識」はなぜか敬遠されがちだが、「知識」がなければ仕事はできない

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 どうも日本人は「知識」という言葉を敬遠する傾向があるようです。このことは以前にも触れたことがあります(全然関係ないですが、時々昔の文章を読み返してみると、昔はかなり高圧的な態度で文章を書いていたのが解って、ちょっと恥ずかしくなります…)。

 知識を適用するということ(2/2)〜現実に合わせて知識を創造する

 「重要なのは知識ではなく知恵だ」と言う著名人も多いので、知識疎遠現象にますます拍車がかかってしまいます。

 こういう主張の裏には大抵、「知識の大半は何とも難解で、自分には理解できないものばかりだ」「知識の大半は役に立たないものばかりだ」という陰口が見て取れます。

 しかし、こうした知識に対する無責任な批判はあまりにも的外れです。私たちの大半は、必ず毎日何らかの知識を用いて仕事をしています。そして、毎年何らかの新しい知識を習得しているはずです。

 P.F.ドラッカーの次の言葉が、知識労働者の層の厚さを表しています。

 「(事務員や、コンピュータのオペレータは、)少なくとも読み書きという、経験では身につけられない知識を必要とする。彼らの仕事は、肉体労働が中心であって、知識の部分は小さい。しかし、たとえ小さくとも、それらの知識は不可欠である。」

 ドラッカーによれば、アルファベットの読み書きができることも知識であるといいます。ということは、私たちのすべてとはいかなくとも、大部分は知識労働者です。

 かつての肉体労働者は、手足を命令どおりに動かすことだけが求められていました。作業も見よう見真似で覚えました。これに対して、知識労働者は、頭脳に蓄えた知識を用いて仕事をします。そして、知識はいまや組織活動に不可欠な資本となっています。知識労働者は、労働者であると同時に資本家であるのです。

 これは生産関係をめぐる大きな変化です。マルクスはかつて次のように述べました。

 「人間はその生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、生産関係に入る。この生産関係は、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に対応する。これらの生産関係の総体は社会の経済的構造を形づくる。」
(カール・マルクス『経済学批判』 確かにマルクスの主張には誤りも多かったが、この記述は正しいものと考えてよい。)

 生産関係の変化は、社会の経済的構造の変化を意味します。資本家たる知識労働者の登場は、根本的な構造変化を意味するのです。「知識より知恵を」と理想郷にいるかのような考えにとらわれるのではなく、現実をもっと捉えなければなりません。
August 12, 2005

「生涯学習」は中高年の余暇ではなく、知識労働者の責務であるべき

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 7月の終わりに内閣府が「生涯学習に関する世論調査」の結果を発表しました。

 生涯学習、未経験が過半数…自治体講座の充実を希望
 <生涯学習>実践している人は5割に達せず 内閣府世論調査
 44%がボランティア経験 内閣府の生涯学習調査

 これを見て思うのは、真の意味での「生涯学習」は残念ながら全くといっていいほど浸透していないということです。

 私にとって驚きなのは、生涯学習を趣味的なもの、自らの健康を促進するためのものと捉えている人が非常に多いということです。そのため、どのような「生涯学習」をしたことがあるか、という問いに対しては、「健康・スポーツ(健康法、医学、栄養、ジョギング、水泳など)」「趣味的なもの(音楽、美術、華道、舞踊、書道など)」という回答が多くなっています。

 いつから学習が「趣味」になったのでしょうか。少なくとも子どもの頃には、学習は「生きるため、将来のため」のもの、もっと言えば、社会的活動を行うために必要不可欠なものであると教えられました。それが、大人になったとたん、趣味という地位しか与えられなくなるのです。

 もちろん、趣味としての学習が悪いとは言いませんが、それが生涯学習の中心であるのは不自然です。学習は「社会的、組織的、共同体的、文化的、文明的な人類の発展に個人(あるいは組織)が直接的に寄与するための能力と知識を習得するための知的、身体的活動」であると私は考えています。趣味にはこうした意味合いはありません。趣味は個人の人生の豊かさに関わるものですが、学習は社会からの要請です。もちろん、本来の意味での生涯学習も例外ではありません。

 大人になると大半が(本来の)「学習」をやめてしまうこの国の実態が垣間見えた調査でもあったようにも思います。