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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
December 26, 2005
ある知識が一般的なものとなるには20〜30年かかる
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「早くて10年、通常は少なくとも20〜30年」
ある特定の分野で広く認知されている知識や理論を学ぶためには、大学などの高等教育の入門コースや市販の教科書、国家資格、その分野で著名な講座、セミナーなどに頼ることになります。こうした場で知識や理論が一般的なものとして教えられるようになるためには、その知識や理論が発表されてから「早くて10年、通常は少なくとも20〜30年」かかる、というのが私の考えです。言い換えれば、これらの場で学ぶ知識や理論は、数十年前のものであるということです。もちろん、数字に科学的・論理的根拠はありません。感覚的なものです。
ある知識が一般的になるためには、その知識を適用する者の多くが知識の妥当性について肯定的な評価をする必要があります。一定の人々が知識を実際に活用し、知識の有用性について深い議論を行うことを通じて、その知識に対する評価が定まるのには数十年単位の期間がかかると思われます。
この事実から、次の3点に注意すべきだと考えます。
第一に、当然のことながら、最新の知識や理論は冒頭に列挙したような手段では学べないということです。もちろん、新しいことがいいことであるわけではありません。しかし、明日の世界を変える可能性のある理論や知識は、最前線でしか生まれません。
第二に、冒頭に挙げた手段で学んだ知識を理解し、実践することはあまり自慢にならないということです。なぜならその知識が一般的であり、数十年にわたって世間を渡り歩いた実績を持っているからです。すでに知っている人が大勢いるのに、知っていることをひけらかすことは愚行です。(←これは自分に対する戒めの意味も込めて書いています。)
第三に、これが最も重要なことですが、知識が一般的となるのに要した数十年の間に、その知識を有用たらしめていた諸条件が変化している可能性があるということです。特に社会系の理論の場合、現実社会の様々な条件・状況に立脚していることが大半です。成立根拠そのものが数十年の間に変化をし、理論の正当性にも影響を及ぼしていることは珍しいことではありません。理論の一般化に数十年かかるのと同様に、理論の有用性が消えることが立証されるのにも長い期間がかかるものです。
理論や知識を学習をする際には、タイムラグの存在も知っておく必要があります。
ある特定の分野で広く認知されている知識や理論を学ぶためには、大学などの高等教育の入門コースや市販の教科書、国家資格、その分野で著名な講座、セミナーなどに頼ることになります。こうした場で知識や理論が一般的なものとして教えられるようになるためには、その知識や理論が発表されてから「早くて10年、通常は少なくとも20〜30年」かかる、というのが私の考えです。言い換えれば、これらの場で学ぶ知識や理論は、数十年前のものであるということです。もちろん、数字に科学的・論理的根拠はありません。感覚的なものです。
ある知識が一般的になるためには、その知識を適用する者の多くが知識の妥当性について肯定的な評価をする必要があります。一定の人々が知識を実際に活用し、知識の有用性について深い議論を行うことを通じて、その知識に対する評価が定まるのには数十年単位の期間がかかると思われます。
この事実から、次の3点に注意すべきだと考えます。
第一に、当然のことながら、最新の知識や理論は冒頭に列挙したような手段では学べないということです。もちろん、新しいことがいいことであるわけではありません。しかし、明日の世界を変える可能性のある理論や知識は、最前線でしか生まれません。
第二に、冒頭に挙げた手段で学んだ知識を理解し、実践することはあまり自慢にならないということです。なぜならその知識が一般的であり、数十年にわたって世間を渡り歩いた実績を持っているからです。すでに知っている人が大勢いるのに、知っていることをひけらかすことは愚行です。(←これは自分に対する戒めの意味も込めて書いています。)
第三に、これが最も重要なことですが、知識が一般的となるのに要した数十年の間に、その知識を有用たらしめていた諸条件が変化している可能性があるということです。特に社会系の理論の場合、現実社会の様々な条件・状況に立脚していることが大半です。成立根拠そのものが数十年の間に変化をし、理論の正当性にも影響を及ぼしていることは珍しいことではありません。理論の一般化に数十年かかるのと同様に、理論の有用性が消えることが立証されるのにも長い期間がかかるものです。
理論や知識を学習をする際には、タイムラグの存在も知っておく必要があります。
November 30, 2005
「大学における教育と研究は分離しない方がよい」と考えを改めた
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私が学生時代に大学の問題について関心を抱いていた頃、大学においては教育者と研究者の役割を明確に分離した方がよいと考えたことがありました。通常、大学教授は自ら設定したテーマに従って研究を進めると同時に、学生を対象に講義も行います。私が考えていたのはこうした慣例に反して、研究を担当する研究者と、講義を担当する教育者を別々に配置すべきだということです。
これには2つの理由がありました。一つは、大学教授は自分の研究を優先しがちで、講義がなおざりになりやすいということです(ただし、これは一般論としてではなく、私が学生時代に感じていたことです)。要するに、大学教授の負担が重過ぎるのではないかと思っていました。もう一つは、教授あるいはそれに準するポストの不足という問題です(これも一般論というより、私がいた大学で顕著に見られた現象でした)。研究職を目指し、やがては大学で教鞭をとりたいと願う学生の数に比して、大学側のポストがあまりに足りていませんでした。研究者と教育者を分離すれば自ずとポストが増えるため、この問題が解消されると思ったのです。
しかし最近になって、事はそう簡単には運ばないと自分の考えを改めることにしました。やはり、大学教授はたとえ負担が重くなろうとも、研究と教育の役割を同時に担うべきであると私は思います。
大学が扱う知識は、初等教育のそれとはかなり異なります。初等教育で教える知識は、広く一般的であると言えるほどに、社会的に正当性を認められた知識です。初等教育の知識は、一定の時間をかけて市民権を獲得した、いわば古典的な知識と言えます。それは、あらゆる者が容易にアクセスし、習得することが可能です。これに対して、大学が扱う知識は高度に専門的であり、古典的でありながら同時に最先端のものでもなければなりません。常に更新される知識であり、習得するためには時間も費用も必要です。
この点を考慮すると、大学において教育者と研究者を分離することには2つの致命的な問題が潜んでいることになります。第一に、教育者が最新の知識を教授するためには、一度研究者からその知識を学ぶ必要が生じます。これには並々ならぬ時間と費用がかかるため、かなり非効率です。そして第二に、教育に対する熱意の問題です。人に何かを教えようとする時、その知識を通常の方法で学んだ者よりも、知識の発見と洗練に実際に関与した者の方が、より献身的に知識を教えることができるだろうというのが、私達の経験則であると言えます。
大学教授が教育と研究の両方を担当するのは荷が重過ぎるとしても、双方に責任を有することこそが大学そして大学教授の使命であると言うより他はありません。さらに、今後大学の社会的な地位が高まり、大学が20歳前後の若者だけではなく、社会人教育に本格的に乗り出せば、教授陣のポスト不足という問題はそれほど深刻なものではなくなるような気がします。
これには2つの理由がありました。一つは、大学教授は自分の研究を優先しがちで、講義がなおざりになりやすいということです(ただし、これは一般論としてではなく、私が学生時代に感じていたことです)。要するに、大学教授の負担が重過ぎるのではないかと思っていました。もう一つは、教授あるいはそれに準するポストの不足という問題です(これも一般論というより、私がいた大学で顕著に見られた現象でした)。研究職を目指し、やがては大学で教鞭をとりたいと願う学生の数に比して、大学側のポストがあまりに足りていませんでした。研究者と教育者を分離すれば自ずとポストが増えるため、この問題が解消されると思ったのです。
しかし最近になって、事はそう簡単には運ばないと自分の考えを改めることにしました。やはり、大学教授はたとえ負担が重くなろうとも、研究と教育の役割を同時に担うべきであると私は思います。
大学が扱う知識は、初等教育のそれとはかなり異なります。初等教育で教える知識は、広く一般的であると言えるほどに、社会的に正当性を認められた知識です。初等教育の知識は、一定の時間をかけて市民権を獲得した、いわば古典的な知識と言えます。それは、あらゆる者が容易にアクセスし、習得することが可能です。これに対して、大学が扱う知識は高度に専門的であり、古典的でありながら同時に最先端のものでもなければなりません。常に更新される知識であり、習得するためには時間も費用も必要です。
この点を考慮すると、大学において教育者と研究者を分離することには2つの致命的な問題が潜んでいることになります。第一に、教育者が最新の知識を教授するためには、一度研究者からその知識を学ぶ必要が生じます。これには並々ならぬ時間と費用がかかるため、かなり非効率です。そして第二に、教育に対する熱意の問題です。人に何かを教えようとする時、その知識を通常の方法で学んだ者よりも、知識の発見と洗練に実際に関与した者の方が、より献身的に知識を教えることができるだろうというのが、私達の経験則であると言えます。
大学教授が教育と研究の両方を担当するのは荷が重過ぎるとしても、双方に責任を有することこそが大学そして大学教授の使命であると言うより他はありません。さらに、今後大学の社会的な地位が高まり、大学が20歳前後の若者だけではなく、社会人教育に本格的に乗り出せば、教授陣のポスト不足という問題はそれほど深刻なものではなくなるような気がします。
November 29, 2005
専門家は一つの分野に集中した方が多様な知識を習得できる
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明石家さんまさんが、ある番組で所ジョージさんの言葉を紹介していました(言葉の細部は違っているかもしれません)。
「あれもこれもと知識を追い求めるよりも、一つのことに集中した方が、むしろ周辺の知識も得られてより知識が豊富になる。」
逆説的な表現ですが、さすが所さん、いいこと言うなと思いました。
仕事であれ学問であれ、専門分化した方が成果を上げやすいことはほとんど異論のないことだと思います。人間の知識欲は強大で、欲望の赴くままに次から次へと様々な分野に手を出してみたい誘惑に駆られることもあります。しかし、そのようなことをしても、結局は注ぐべきエネルギーが散漫になり、どの分野も中途半端にしか習得できないのがおちです。「二兎を追うもの一兎も得ず」とはよく言ったもので、僅か二兎を追っただけでも人間は失敗してしまうのです。
専門分野は、確かに名目上は他の分野と明確に区別されますが、実際には他の分野から完全に独立しているような専門分野は皆無です。ある専門分野は別の専門分野と知識を共通にするか、別の専門分野の思想的影響を受けるか、別の専門分野の方法論を借用するなどして、必ず他の専門分野との接点を有しています。真にある専門分野を極めようとするのならば、自ずと接点を有する他の専門分野も理解する必要が生じます。
他の専門分野まで「極める」必要はありません。それは不可能に近い荒業です(ダ・ヴィンチのような一部の天才にはできるかもしれませんが)。ただし、他の専門分野を「理解する」能力は要求されます。とはいえ、それは誰でも獲得することが可能なはずです。他の専門分野の知識は、すでに核としている専門分野の知識との関連性において理解することができます。こうして、私達は知識を豊かにすることができるのです。
ドラッカーは次のように述べています。
「あれもこれもと知識を追い求めるよりも、一つのことに集中した方が、むしろ周辺の知識も得られてより知識が豊富になる。」
逆説的な表現ですが、さすが所さん、いいこと言うなと思いました。
仕事であれ学問であれ、専門分化した方が成果を上げやすいことはほとんど異論のないことだと思います。人間の知識欲は強大で、欲望の赴くままに次から次へと様々な分野に手を出してみたい誘惑に駆られることもあります。しかし、そのようなことをしても、結局は注ぐべきエネルギーが散漫になり、どの分野も中途半端にしか習得できないのがおちです。「二兎を追うもの一兎も得ず」とはよく言ったもので、僅か二兎を追っただけでも人間は失敗してしまうのです。
専門分野は、確かに名目上は他の分野と明確に区別されますが、実際には他の分野から完全に独立しているような専門分野は皆無です。ある専門分野は別の専門分野と知識を共通にするか、別の専門分野の思想的影響を受けるか、別の専門分野の方法論を借用するなどして、必ず他の専門分野との接点を有しています。真にある専門分野を極めようとするのならば、自ずと接点を有する他の専門分野も理解する必要が生じます。
他の専門分野まで「極める」必要はありません。それは不可能に近い荒業です(ダ・ヴィンチのような一部の天才にはできるかもしれませんが)。ただし、他の専門分野を「理解する」能力は要求されます。とはいえ、それは誰でも獲得することが可能なはずです。他の専門分野の知識は、すでに核としている専門分野の知識との関連性において理解することができます。こうして、私達は知識を豊かにすることができるのです。
ドラッカーは次のように述べています。
われわれは、多様な知識に精通する「博学」を必要としてはいない。また事実、そのような人間は存在しえない。
逆にわれわれは、ますます専門化していく。
われわれが、真に必要とするものは、多様な専門知識を理解する能力である。そのような能力を持つ者が、「知識社会」における「教育ある人間」である。
(P・F・ドラッカー著『ポスト資本主義社会 21世紀の組織と人間はどう変わるか』)
![]() | ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか P.F. ドラッカー P.F. Drucker ダイヤモンド社 1993-07 Amazonで詳しく見るby G-Tools |