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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
September 15, 2010
「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力−『渋沢栄一「論語」の読み方』
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またまたこの本で1つ記事を書いてみた。「どれだけ引っ張るんだ?」という突っ込みはやめてね。
渋沢は何千もの企業や非営利組織の設立、運営に関わっていたから、当然のことながら様々な交渉の場に顔を出す必要があった。しかし、渋沢は今でいうアップルのジョブズみたいなタフ・ネゴシエーターというよりも、その丸顔からイメージされる通りの温厚な性格をいつも崩さなかった。どんなに厳しく難しい交渉であっても、交渉が終わって部屋から出てくる渋沢の表情はニコニコしていたと言われる。とかく交渉のテーブルでは、怒りや憎しみといった個人的な感情が交錯するものだが、渋沢はそうした感情を超えて意思決定をすることができる人物であった。
『論語』の一番最初の文章は、
子曰く、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋遠方より来たるあり。また楽しからずや。人知らずして慍(いきどおら)ず、また君子ならずや。(学而第一−一)である。渋沢は、とりわけ最後の「人知らずして慍ず、また君子ならずや」という部分を重要な教訓として、終生大事にしていたようだ。
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「物事を学習して日常生活の中で復習する。これは非常に嬉しいことだ。自分と同じく学問を志す友人が遠くから訪ねてくる。これは非常に楽しいことだ。他人が自分のことを評価しないからと言って怒ったりしない。これは君子として立派な態度だ」
私は今日まで『論語』のこの教訓を肝に銘じてきた。自分の尽くすべきことを尽くしさえすれば、たとえそのことが人に知られず、世間に受け入れられようが入れられまいが、いっこうに気にせず、けっして、慍るとか立腹するとかいうことはせずにきたつもりである。怒りは冷静な判断を阻害し、意思決定の質を歪める方向に作用する。そのことを『論語』を通じて知っていた渋沢は、どんな局面でも努めて冷静に振舞うよう、日頃から精神を鍛えていた。いやー、本当に尊敬するなぁ。私なんかは、自分で「果たして意思決定に感情は不要なのか?」という記事を書いておきながら、どちらかというと短気な性格が未だに直らないから、まだまだ人間として未熟だ…。
前述の通り、渋沢は怒りの感情を封印していたとはいうものの、渋沢が争いごとを好まなかったわけではない。むしろ、他人と争うことには肯定的であり、やるからには徹底的にやるという覚悟も持っている。
私も若いときから争わねばならぬことにはずいぶん争ってきた。威望天下を圧していた大久保利通大蔵卿とも侃侃諤諤の議論を闘わしたこともある。八十の坂を越した今日でも、私の信じるところをくつがえそうとする者が現れれば、私は断乎としてその人と争うことを辞さない。私が自ら信じて正しいとするところは、いかなる場合にも、けっして他人に譲るようなことをしない。渋沢の考えと真っ向から対立する人物の代表格が、三菱の創始者・岩崎弥太郎である。渋沢は多数の株主から出資を募る「合本主義」を唱え、合議による経営を是としていたのに対し、岩崎は自らが資本も経営も独占するという典型的な「専制主義」の立場をとっていた。
両者の対立が最もヒートアップしたのは、三菱の独占的な海運事業に対抗して、渋沢と井上馨らが共同運輸会社を設立した時であろう。2社は熾烈な値引き合戦を繰り広げたため、ついには双方の経営が危うくなるほどであった。共倒れを回避したい渋沢は、最終的には2社を合併することで決着させる。こうして生まれたのが、現在の日本郵船である。
だが、渋沢がいくら争いごとで立腹しないといっても、これほどの過激な争いをいつも続けていたら、さすがに身がもたないだろう。渋沢は、基本的には臨戦態勢を見せているものの、ほどほどでやめることも心得ていたようだ。
私の多年の経験によれば、自分と処世の流儀が全然違う人に対しては、どれほど自分の意見を述べて同意させようとしてみても、それは聞き入れられるものではなく、無駄な努力に終わる。釈迦も「縁なき衆生は度し難し」と言っている。では、渋沢が師と仰ぐ孔子はどうなのか?『論語』の文章を丁寧に読んでいくと、面白いことに気づかされる。
子曰く、吾知ること有らんか、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う、空空如(くうくうじょ)たり。我れその両端を叩き而して竭(つく)せり。(子罕第九−八)孔子も、相手が誰かを問わず、知恵を絞って真摯に教えることを基本姿勢としている。ただし、これには「相手が真面目な態度であること」という条件がついている。
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「私はあらゆることを知っているだろうか。いや、そんなことはない。卑しい男が私のもとにやって来て、真面目な態度で質問するならば、私は自分の頭を隅々まで叩いて、納得するまで答えてやるつもりだ」
別の箇所では、孔子は次のように述べている。
子曰わく、狂にして直ならず、侗(どう)にして愿(げん)ならず、悾悾(くうくう)として信ならずんば、吾れこれを知らず。(泰伯第八−十六)孔子はどんな人であっても教えを授ける、というわけではないことがこの一文からも伺える。性格に問題を抱えている人間は自分の手に負えない。孔子ですら、あっさりと切り捨てているのである。
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「志は大きいのに正直でなく、無知なのに真面目でなく、無芸無能なのに誠実でないような人は、私でもどうしようもない」
孔子は自らが理想とする政治の実現に尽力したが、孔子が生きた時代は春秋・戦国という動乱の世である。低俗な動機で動いている人間も少なくなかったはずだ。彼らに孔子のような高潔な考えはなじまない。よって、孔子は自分の主張が受け入れられず、しばしば諸国を転々とせざるを得なかった。
渋沢が生きた幕末から明治も、社会構造が大きく変わったという点で春秋・戦国時代と共通している。孔子の教えに従った渋沢もまた、何度か苦い経験を味わっている。その1つが「王子製紙乗っ取り事件」だ。
渋沢は、自らが社長を務める王子製紙の増資の件で、大株主である三井に相談をもちかけた。三井のトップである中上川彦次郎は、増資に同意する代わりに、藤山雷太を役員として派遣する約束を交わした。ところが、役員になった藤山は、社内政治を巧みに利用して渋沢をはじめとする旧経営陣を一掃してしまったのだ。
ただ、渋沢がすごいと思うのは、「君とは馬が合わないからハイさよなら」と簡単に関係を断ち切るようなことがない点である。
しかし、あまり早々と見切りをつけるのもよくない。縁が切れてしまえば、いかに主人に欠点を改めさせよう、友人の欠点を矯正してやろうと思っていても、不可能である。絶交してしまったりするよりも、その関係を絶たぬようにしていれば、長い歳月のうちには、よい機会があって多少なりとも、アドバイスできることもあるものである。実際、先ほどの藤山雷太に関して言えば、大日本製糖(現大日本明治製糖)が汚職事件を起こして経営に行き詰った際に、渋沢が会社再建のキーマンとして藤山を指名しているくらいだ。かつて自分を社長の椅子から蹴り落とした人間を推薦するとは普通では到底考えられないことだが、渋沢はあくまでも個人的な感情を差し置いて藤山の能力を買ったのである。(※)
(※)中野明著『岩崎弥太郎「三菱」の企業論−ニッポン株式会社の原点』(朝日新聞出版、2010年)
July 29, 2010
社会的利益が明確でない場合の合意形成は超難問だなぁ−『合意形成の倫理学』
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今月に入ってから、当ブログでは合意形成に関する本を2冊紹介した。
「みんなの意見」が案外正しくなるためには、個人が自立していないとダメ・・・(A)
合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』・・・(B)
(A)で取り上げたジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』は、個々人の多様な意見を集約し、正しい解を導くための仕組みとして、「市場原理」に着目している。ただ、市場原理が有効であるためには、2つの条件が揃っていなければならないと私は思う。1つは「選択肢が明確であること」、もう1つは「選ばれた選択肢の正しさを確認する方法があること」である。
例えば、(A)の記事で引用した「選挙結果の予測市場」では、選択肢が立候補者という形で明確に示されているし、予測が正しかったかどうかは選挙後に当選者を見れば解る。また、ヒューレット・パッカードが社内に設けた「プリンタ売上の予測市場」も、金額の刻み方によって選択肢が増えるものの、一応選択肢をきちんと示すことができるし、どの選択肢が正しかったかのかは、期末の業績評価に照らし合わせれば判明する。
しかしながら、現実の世界では、選択肢がもっと複雑である場面も少なくない。(B)で紹介したローレンス・E・サスカインドらの『コンセンサス・ビルディング入門』がターゲットとしているのは、この手の複雑なケースである。
同書には、アメリカのある町の生誕200周年記念行事のプログラムを企画するという架空のケースが登場する。記念行事をお祭りとして楽しく盛り上げたいグループ、町の歴史を(民族抑圧という)負の部分も含めて市民に紹介する教育的な行事にしたいと思っているグループ、町の政治家も絡めて政治活動の一環にしようとするグループ、町に住む少数民族のアイデンティティをアピールする場を望んでいるグループなど、この企画には様々なステークホルダーが関わっている。
彼らがやりたいことを全部詰め込むと、とてもではないが記念行事のスケジュールに収まらない。そこで、各ステークホルダーの利害を調整しながら、どのグループも満足できるような企画内容に仕立て上げていくのがこのケースのストーリーである。
この場合、どういう記念行事がよいかという選択肢を事前にはっきりと示すことはできない。あくまでもステークホルダー間の条件取引を通じて、選択肢が徐々に形成されていくのである(同書では「パッケージ化」という言葉が使われている)。
一方で、その選択肢が正しかったかどうかは、各ステークホルダーが合意した案に納得しているかどうかで判断することができる。数学的な処理が好きな人ならば、それぞれの利害関係者の利益をパラメーター化し、町全体の利益が最大になるように各パラメーターの値を調整する方法を生み出すに違いない。
一番厄介なのは、「選択肢が非常に複雑」であり、かつ「形成された選択肢の正しさを判断することが非常に困難」なケースである。『合意形成の倫理学』で著者が取り上げているのは、安楽死や代理懐胎の是非、宗教対立などといった難易度の高い社会問題である。
代理懐胎に関して言うと、生殖補助技術の発達によって、現在では様々なパターンの代理懐胎が可能になった。同書では以下の6パターンが紹介されている。
(1)夫の精子、妻の卵子、他人の腹
(2)夫の精子、他人の卵子、妻の腹
(3)夫の精子、他人の卵子、他人の腹
(4)他人の精子、妻の卵子、妻の腹
(5)他人の精子、妻の卵子、他人の腹
(6)他人の精子、他人の卵子、妻の腹
この場合、母親は誰かという問題が生じるのだが、現行民法では「生んだ人=母親」ということになっており、(1)、(3)、(5)では妻と子どもの間に母子関係が認められない。仮に代理懐胎を認めるとして、どのパターンにおいて妻と子どもの間に母子関係を認めるかとなると、これは非常に難しい問題である。単にどのパターンがOKかを決めるだけでなく、どういう事情の下で代理懐胎を行ってもよいか(夫婦の身体の状況、治療の内容や期間、医師の見解などに応じて代理懐胎の可否を決める)という判断も絡めると、頭が痛くなるほど選択肢は複雑になる。
著者によると、法哲学者のジョン・ロールズは、一切の利害・関心を排除し「無知のヴェール」をかぶって最初の投票を行うことを勧めているという。
彼らは、様々な選択対象が自分に特有の事情にどのように影響を与えるのかを知らないし、ただ、一般的な事由にもとづいてのみ原理を評価せざるをえない。そこで、当事者は、ある種の特定の事実を知らないと仮定する。まず、自分の社会における位置とか階級上の地位とか社会的身分を誰も知らない。また、生来の資産や能力の分配に関する自分の運、つまり、自分の知性や体力等々についても知らない。また、自分の善の概念とか、自分の合理的な人生計画に特有の事柄とか、危険回避度あるいは楽観論に陥りやすいかといったような自分の心理に独特の特徴でさえも、誰も知らない。これに加えて、当事者は、自分の属す社会に特有の環境についても知らないと、私は仮定する。つまり、彼らは、その経済的、政治的状況とかこれまでに達成できた文明や文化の水準を知らないのである。ロールズは我々に対して、完全に中立的な視点(神の視点と言ってもいいぐらいだ)から意思決定することを求めている。しかし、これはちょっと楽観的過ぎるように思える。そもそも、ロールズがいう無知な人間の設定があまりに非現実的だ。我々はむしろ、利害を抱えているからこそ、合意形成のプロセスにおいてその利害を調整しようとする気持ちになるのではないだろうか?
(ジョン・ロールズ著、矢島釣次監訳『正義論』、『合意形成の倫理学』より引用した)
代理懐胎をめぐる合意形成を難しくしているもう1つのポイントは、代理懐胎を認めることによって得られる、あるいは失われる社会的利益が不明瞭なことである。つまり、選択肢の正しさを確認するのがとても難しいのである。
代理懐胎は人間の尊厳に関わる問題だとも言われるが、人間の尊厳の大きさや重要性をどうやって推し量るのか?また、代理懐胎によって複雑化する母子関係が社会に与える負の影響をどこまで正確に見積もることができるのか?さらには、生まれてくる子どもの利益は誰が代弁し、どうやって社会的利益に反映すればよいのか?これらのことを考え出すと、もう頭が割れそうである。
宗教対立も非常に難易度が高い社会問題の典型例である。特に、イスラム原理主義をめぐる問題は世界的にインパクトが強い。今年に入ってからも、パレスチナのガザ地区に支援物資を届けようとしたトルコの船がイスラエルによって襲撃されるという事件が起きた。ガザ地区はイスラム過激派であるハマスの居住地域であり、イスラムVSユダヤの根深い対立がまたしても浮き彫りになった形だ。
著者はドイツの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーの主張を踏まえ、こうした宗教対立を解決するには、各宗教の古典的テキストの深い理解を通じて、「解釈学的破壊」を起こす必要があると提唱している。つまり、排他的になっているそれぞれの宗教の狭くて古い枠組みをぶち壊し、我々が根源の部分でお互いにつながっていることを確認するというものである。
ガダマーの言いたいことは、「われわれが、お互いを経験し、歴史の伝統を経験し、われわれの実存や世界での自然の出来事を経験するそのありようも真に解釈学的宇宙を形成している」ということ、すなわち、われわれの相互理解、歴史理解、実存体験、自然経験のすべてが「解釈学的宇宙」すなわち、古典のテキストとの対話的関係のなかにあるということである。この解決策は聞こえはいいかもしれないが、何千年という長い歴史の中で蓄積されてきたテキストを再解釈しようと思ったら、膨大な時間と大量の研究者が必要になってしまう。しかも、インターネットを通じて解釈が爆発的に増えて行くことを考えると、果たして現実的な方法と言えるかどうかは個人的に疑問が残るところである。彼らが書庫にこもってテキストと向き合っている間にも、各地で紛争やテロが起き、市民の生活が脅かされ、多数の犠牲者が出ているのである。
何だか批判ばかりで自分なりの代替案を提示できていないのが歯痒いのだが、ここまでで既に頭がパニック状態になりかけているので、本エントリーはこれにて一旦終了。
《追記》
こういう本を読むと、学生時代にもっと政治学、倫理学、哲学を真面目に勉強しておけばよかったと後悔するんだよなぁ。文系科目は社会に出てからその有用性と重要性に気づかされるものだ。
July 19, 2010
合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』
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何度かダイアローグのプロセスについて取り上げてきたが、何となく表面的なプロセスをなぞっているだけで、ダイアローグがどのように変化を創出するのかについてはほとんど書けていない気がしていた。例えて言うならば、自動車の部品構造については説明したが、それらの部品がどのように作用し合って動力を生み出しているのかについては言及していないような感じだった。
<過去のダイアローグに関する記事>
ダイアローグの4プロセスを整理してみた−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』
ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(1)−『出現する未来』
ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(2)−『出現する未来』
そこで、「もっと実務的な観点からダイアローグを扱った本はないか?」と探してたどり着いたのがこの本。タイトルに「コンセンサス・ビルディング(合意形成)」という言葉が使われ、取り上げられているケースも「公共政策」に関するものではあるが、ダイアローグの理解を深める上では十分に有益な本であった。
「合意形成」というと、全員が納得するような意思決定を指しているようなイメージがあり、「そんなのは非現実的だ」と言いたくなるのだが、同書ではこの出発点をうまく変えている。つまり、合意形成とは「ほぼ全員の同意」であり、「合意しないよりは合意した方が各ステークホルダーにとって利益となる状態」を作り出すことだとしている。これはかなり実務的な定義だ。
訳者の補論には、「同床異夢」という言葉が出てくる。お互いの利害(=夢)が一致する必要はないが、相互に共存できる状態を目指すのが合意形成であるという。そうか!デビッド・ボームが『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の中で、「お互いの『見解』を合致させることは必ずしも必要ではなく、『意味』を共有することが重要である」と述べたのは、こういう意図だったのかもしれない。
「合意しないよりは合意した方が各ステークホルダーにとって利益となる状態」は、それぞれのステークホルダーが持っている複雑な「利害」を、様々な「取引」を通じて調整することで達成されるという。取引の際の具体的なやりとりも、架空のケースを用いながら丁寧に記述されているのが読者にとっては嬉しい。その意味でも、同書はダイアローグの「動力」にまで踏み込んだ良書であると思う(欲を言えば、例示にとどまらず、利害の取引方法についてもっと一般化された解説があるとよかったが…)。
かといって、同書では合意形成の「プロセス」が軽視されているわけではない。むしろ、属人的で個別対応になりがちな合意形成に、割と厳格なプロセスを導入しようとしている(※)。例えば、合意形成を行うメンバーを選定するにあたって、「紛争処理アセスメント」という手続きを踏み、利害関係のある組織・団体と彼らの利害をモレなく洗い出し、各ステークホルダーの利害を的確に代表するメンバーを選出することを勧めている。
また、合意内容を文書にまとめた後、メンバーが文書を所属元の組織・団体に持ち帰って承認を得る(=単にOKをもらうのではなく、文書に印鑑をもらう)ことの重要性を説いている(もちろん、所属元から異論が出れば、メンバーはそれを合意形成の場にフィードバックし、合意内容を修正する)。
そして、最終的な合意文書に対しては、各ステークホルダーの承認に加え、合意形成に参画したそれぞれのメンバーも個人として承認を下すことを求めている。当たり前といえば当たり前のことだが、後から合意内容を不合理な理由でひっくり返されないためにも、こういう手続はとても大事だ。
日本にはもともと根回し文化があり、欧米人に比べれば合意形成には慣れている方だと思う。ちょっと話が脱線するが、城山三郎の小説『雄気堂々』(下)には、大隈重信が「八百万の神達、神計りに計らいたまえ」という言葉を引き合いに出して、様々な能力を持った人々をかき集め、ありとあらゆる角度から議論を行って、新しい国家の仕組みを作り上げていく様子が描かれている。
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企業経営でも政治でも、根回しは意思決定を左右する重要な要素である。だから、本書を読む人の中には、「日本人にとっては当たり前の内容ではないか?」と感じる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、全ての根回しがうまく機能しているわけではない。前述した通り、往々にして非公式に行われる根回しは属人的で場当たり的である。特定のステークホルダーを意図的に外して、利害が近い者同士で合意形成を進め、既成事実を作ってしまうというケースも多々見られる。
訳者の補論では、日本の公共政策における合意形成の現状が記述されている。これを読むと、日本でも合意形成が必ずしもうまくいっているとは言えないことが解る。一つには先ほど述べたステークホルダーの選出に関する問題があるが、もう1つの問題として、「形式的なプロセスを重視しすぎている」という点も指摘されている。
「手続が公正ならば、その結果も公正である」という手続き的正義を支持する行政側は、合意内容の「正統性」を担保するために、プロセスを厳格にしようとする。しかし、この形式主義が、合意形成の本来のメリットである「柔軟な利害調整」を妨げているのである。
私は民間に身を置く立場なので、企業やNPOなどで役に立つダイアローグ、合意形成の方法を構築したいと思っているのだが、日本の行政と同じ轍を踏まないよう気をつけなければ、と気を引き締め直したところだ。
(※)日本ではあまり馴染みがない(私も恥ずかしながら知らなかった)のだが、アメリカには多数決原理に基づいて意思決定を効率的に進めるための「ロバート議事規則」という詳細なルールブックが存在する。
しかし、あまりにルールが細かく定められているために、意思決定が形式主義に陥りやすいという欠点がある。著者のローレンス・E.サスカインドも、「ロバート議事規則」の反省を十分に踏まえ、合意形成に形式的なプロセスを導入することには慎重になっていることがうかがえる。