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November 07, 2012

「もっと大きなはずの自分を探す終わりなき旅」〜ブログは第2章へ

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 8月上旬から諸事情により本ブログを小休止していたが、あれから個人的にいろいろと考えるところがあり、本ブログには一旦ここでピリオドを打って、新しいブログを立ち上げようという結論に至った。本ブログは、私が最初の会社を退職する直前の2005年5月から書き始めたもので、初めの頃は今になって読み返すのが恥ずかしいぐらい拙い文章を世に曝け出し(それも「生きた証」みたいなものなので、消さずに残してある)、途中1年ぐらいブランクがありながら、それでも約7年間で1,100本近い記事を書いてきた。

 ただ、ふと立ち止まってこれまでの記事を振り返ってみると、(時折趣味の話に脱線しつつも、)マネジメントやリーダーシップに関する事柄を、割と教科書的・網羅的に書いてきたという印象があり、その書き方がかえって自分の書きたい内容に制約をかけてしまっているような気がしてきた。今はもっと異分野から学び、異分野について書くことが、自分の中にコツコツと積み上げてきた経営学に磨きをかけ、エッジの効いた豊かな思想を構築するための最善策なのではないか?と考えるようになった。

 よって、新しいブログでは、このブログならば書かなかったであろうこともどんどん書いていくつもりである。端的に言えば、新しいブログでは、私はもっと自由になるつもりだ。そんな意味も込めて、新しいブログのタイトルは"free to write WHATEVER I like"とした。これは「もっと大きなはずの自分を探す」新しい旅の幕開けである。「必然を 偶然を すべて自分のもんに」しながら進んで生きたいと思う。



 本ブログ最後の記事として、私が7年間で書いた記事の中から、お気に入りの記事を10本ほど紹介したいと思う。1,000本以上書いておきながら、お気に入りが10本しかない、つまり、1%しか自分が気に入っている記事がないというところが私の腕の未熟さを表しているのだが、1,000本ノックという言葉があるように、これも自分にとって必要な試練だったのだと割り切ることにしよう。読者の皆様、7年間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。よろしければ、新ブログも引き続き楽しんでいただければ幸いです。なお、本ブログは閉鎖せずに残しておきます。

 (1)何かを諦めざるを得ない時こそ、大切な価値観に気づく(2009年8月31日)
 アクセス解析をしてみるとあまり読まれていないのだが、個人的には結構気に入っている記事。別の媒体に同じ記事を掲載する機会があって、その時は読者からそれなりに反応があった。私自身も、今年に入って「何かを諦めざるを得ない」状況を体験し、自分の本当の価値観とは何かを内省する時間をもらった。

 (2)自分の「強み」を活かすのか?「弱み」を克服するのか?(2010年3月8日)
 ドラッカーが常々口にしていた「強みを活かせ」の意味を考察した記事。かつて転職活動の時に、人材育成の重要性について、ドラッカーのこの言葉を引用しながら熱弁をふるっていたところ、面接官から「なぜ、強みを活かすことが大切なのか?」と聞かれて答えに窮してしまった苦い経験が基になっている。

 (3)「やりたいこと」と「得意なこと」のどちらを優先すればいいんだろう―『リーダーへの旅路』(2010年12月23日)
 日本語には、「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き(物好き)」という、矛盾する慣用句が存在する。我々は、「自分が好きなことを仕事にできたらどんなに幸せだろうか」と考えるものの、好きなことと得意なことが一致する人はほんの一握りである。個人的な経験からすると、好きなことと得意なことが異なる場合は、後者を仕事にした方がよい、というのが私の見解である。「下手の横好き」で周囲に迷惑をかけている人(そして、迷惑をかけていることに気づいていない人)を私はたくさん見てきた。

 (4)会社を退職しました(2011年6月30日)
 タイトルの通り、1年前に会社を辞めた時に書いた記事。ジェームズ・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー』に触れつつ、中小企業やベンチャー企業において採用活動がいかに重要であるかを説いた。大企業であれば、1人や2人ぐらい不適切な人材を採用してしまっても、全体に対する割合で見れば数%にも満たないから、影響は軽微であろう。これに対して、中小企業では、間違った採用をしてしまうと取り返しがつかない。

 (5)プロフェッショナルの条件とは「辞めさせる仕組み」があること(2010年1月6日)
 プロフェッショナルとアマチュアの違いとして、金銭的報酬の有無が指摘されることがあるが、私はそれだけでは不十分だと思う。プロフェッショナルとは、一定の能力基準・行動規範を満たしていることを証明する職業であり、逆に言えば、能力が落ちている者や行動規範に反する者は、その仕組みによって淘汰されなければならない(プロ野球選手などは最も解りやすい例の1つだろう)。この意味において、現在の会社員はプロフェッショナルとは言えない。最近の人事部は、「自社の社員をプロフェッショナル化したい」と目論んでいるようだが、それを実現するのは教育研修ではなく、解雇要件が組み込まれた人事考課制度だと考えている(もちろん、労働法に抵触しないことが前提だが)。

 (6)【水曜どうでしょう論(3/6)】外部のパートナーを巻き込んで「価値観連鎖(バリューズ・チェーン)」を形成する(2011年8月25日)
 (7)【水曜どうでしょう論(4/6)】素人さえも「価値観連鎖(バリューズ・チェーン)」に組み込んでしまう凄さ(2011年9月4日)
 7年間ブログを続けてきた中で、一番の収穫はこの「価値観連鎖(Values Chain)」という概念を得られたことかもしれない。しかも、経営学の書籍やビジネスの体験からではなく、私が好きな「水曜どうでしょう」というバラエティ番組が発端となっている。どうでしょうは偶然、運任せで成り立っているような番組だけれども、「価値観連鎖(Values Chain)」というコンセプトもまた偶然にして生まれたというのは、何とも因果な話である。

 (8)【ドラッカー書評(再)】『創造する経営者』―ドラッカーの「戦略」を紐解く(5)〜イノベーションの7つの機会の原点(2012年5月1日)
 今年に入ってから始めた【ドラッカー書評(再)】シリーズの中で、今のところ一番のお気に入りがこの記事。20代の前半にドラッカーを読んだ時は、ドラッカーの主張を無批判的に受け入れていた。しかし、改めてドラッカーを読んでみると、ドラッカーの限界が見えてきた気がする。それは、ドラッカーのマネジメントは人間本位である(それゆえに、日本人受けしやすい)とされながら、実は人間の意志の力をあまり重視していないのではないか?ということだ。

 もちろん、ドラッカーは「変化は自ら作り出すものである」と述べて、人間の主体性を認めてはいる。だが、『すでに起こった未来』というタイトルの書籍があることからもうかがえるように、外部環境の変化の意味をいかに早く理解し実行に移すかに力点が置かれており、人間の意志に宿る主観的なビジョンを具現化することには消極的であるように感じる。【ドラッカー書評(再)】シリーズは新ブログでも継続するので、是非この点をもっと深く掘り下げてみたい。

 (9)個性を伸ばす前にやるべきことがある―『ゆとり教育が日本を滅ぼす』(2010年4月1日)
 (10)「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた―『それでも、ゆとり教育は間違っていない』(2010年5月11日) 
 教育関係の書評の中で、割とよく書けた(と私が勝手に思っている)もの。寺脇氏の教育改革の穴を突いた記事と、保守派によるゆとり教育批判を取り上げた記事。興味深いことに、「子どもたちが、解のない社会規範や道徳、規律などについて考える力を伸ばす」という教育目的の面では、双方の立場は一致している。ところが、寺脇氏は、考える力の習得時間を確保するために学習内容を削ったのに対し、保守派の人々は、何かを考えるためには大量の情報を暗記する訓練を積まなければならないと、詰め込み型教育を擁護する立場をとっている。

 (11)「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ(2011年9月8日)
 これは賛否両論がありそうな記事。近年、企業内のコミュニケーション不全が問題視されることが多くなり、「対話(ダイアローグ)」という手法が注目を集めている。「ワールド・カフェ」のように、オープンな話し合いの場を作る取り組みもあちこちに広がっているようだ。しかし、激しい意見の応酬が行われる「議論(ディスカッション)」に対して、ややもすると「対話」は、ざっくばらんに話すというソフトなイメージが定着しているように思える。「議論」の対極として「対話」を定義するならば、実は「対話」こそが本質的には暴力的なのではないか?という問題提起をした記事である。

 (12)「危ない中国製『割り箸』」より危ないのは日本人の思考か?(2007年8月24日)
 これも賛否両論がありそうな記事。しかも、これまでの11本に比べて昔の記事であり、文章にかなり拙さが表れている(恥)。サプライチェーンが長くなると、1次取引先、2次取引先ぐらいまでは本社・工場の目が行き届いても、それより先はブラックボックスになりやすい。東日本大震災で自動車メーカーのサプライチェーンが遮断された時、系列関係によって末端まで取引先を把握していると思われた自動車メーカーでさえ、実は2次下請ぐらいまでしかコントロールできておらず、末端部品の1つであるLSIがほとんどルネサスに集約されていることを初めて知ったぐらいである。

 国内におけるサプライチェーンですらこういう状況であるから、グローバル規模のサプライチェーンともなれば、事態が複雑になるのは自明である。そのサプライチェーンに、毒入り割り箸を作る中国メーカーのような問題児がいないかどうかをどのようにチェックすればよいか?また、そういうプレイヤーがいた場合にどういう対処法を取るべきか?今後、こうした問題が提起されることだろう。
July 08, 2012

「日本らしい経営」を探求する必要性〜創業1周年に寄せて(2)

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 (前回の続き)

 私は、世の中には5タイプの人間がいると考えている。すなわち、「革新者」、「媒介者」、「追随者」、「批判者」、「抵抗者」である。革新者は読んで字のごとくであり、「媒介者」は革新者のアイデアに補足や調整を施しながら、アイデアの推進力となる。「追随者」は、おそらくそのアイデアがよいだろうという理由で付き従う人々である。「批判者」は新しいアイデアが出るとまずは懐疑的な態度から入る。革新者たちのアイデアを必ずしも否定するわけではないが、いたずらに変化を求めることには難色を示す。「抵抗者」は一も二もなく変革に反対し、現状に固執する人たちを指す。ただし、特定の人が5つのカテゴリーのいずれかにぴったりと当てはまるというよりも、実際には5タイプの要素を少しずつ持ち合わせていると言った方が正確である。

 私自身はずっと、「革新者」になれたらいいなと思っていた。ところが、前回の記事で述べたように「新しいことが本当によいことなのか?」という問題意識が芽生えたことに加え、自分の性格が元来革新者に向いていないことを薄々自覚するようになった。7年間このブログを書く間に私自身が生み出した新しいコンセプトと言えば、おそらく「価値観連鎖(Values Chain)」の1個だけである。しかも、まだコンセプトレベルであり、中身は綺麗に整理されていない。ひょっとしたら、私が知らないところで、既に誰かが「価値観連鎖」に関して精緻な議論を展開しているかもしれない。

 【水曜どうでしょう論(3/6)】外部のパートナーを巻き込んで「価値観連鎖(バリューズ・チェーン)」を形成する
 自社のビジョンに利害関係者も巻き込む「価値観連鎖(Values Chain)」の再発見―『絆の経営(DHBR2012年4月号)』

 それよりも、「温故知新」ということわざに従うわけではないが、十分に消化されていないまま、流行に押されて人々の記憶から遠ざかってしまった知識や情報を深耕し、その中に価値を見出していく作業が必要なのではないか?と思うのである。先ほどの分類を使うと、「批判者」的な立場を取りながら「媒介者」となることが、私にフィットした役割なのかもしれない。とはいえ、単純にこれまでの経営技法を振り返り、修正し、再構築するだけでは不十分である。

 正直に告白すると、ブログを書きながら、記事の内容が何となく表面的な技法に終始しており、全体的に“上滑りしている感じ”を覚えることがある。自分がこれまで書いてきた経営技術には、思想的な肉付けが欠けていると思うのである。本田宗一郎は「技術はあくまでも末端のことであり、思想こそが技術を生む母体だ。技術は思想の結晶であり、哲学こそが大事だ」と述べた。これは、製造業の技術に限らず、経営技術を含む技術一般に言えることだと思う。経営技術にも思想、特に社会の思想が反映される必要がある。

名言物語 人生の極意、経営の勘どころ名言物語 人生の極意、経営の勘どころ
青野 豊作

講談社 1996-12

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 ピーター・ドラッカーの経営学は、著書のあちこちが切り取られて名言として紹介されることが多いけれども、根底を貫くいくつかの思想的源流があることを忘れてはならない。ドラッカー思想の出発点は、政治における自由主義である。ドラッカーは、第2次世界大戦を「アメリカが全体主義から自由を守るための戦い」と位置づけた(『新しい現実』)。ドラッカーが自由を強く信奉していたことには、第2次世界大戦時に、ナチスの迫害を逃れてオーストリアからアメリカに移ったという、ドラッカー本人の経験も強く影響していると思われる。

[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2004-01-08

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 そのナチスから発禁処分を受け、迫害のきっかけとなった1933年の処女作『フリードリヒ・ユリウス・シュタール 保守的国家論と歴史的発展』(『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2009年12月号で読むことができる)は、政治における保守主義の有用性をキリスト教の視点から説いたものである。したがって、ドラッカー経営学と宗教との間に連関を探ることも可能であろう(具体的にどこに関連性があるのか、まだ見いだせていないのだが・・・)。

Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2009年 12月号 [雑誌]Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2009年 12月号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2009-11-10

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 また、ドラッカー経営学には、ハーバート・スペンサーの社会進化論も影響していると考えられる。ドラッカーは、人間の能力は無限に伸びると考え、「マネジメントは、経済的資源の組織化によって、人類の生活を向上させられるという信念の具現である」(『現代の経営(上)』)といった前提の下にマネジメントを論じている。これらはまさに、スペンサーの思想を反映するものであろう。加えて、ドラッカーが学生時代にキルケゴールを読んでいたと回想していることから、ドラッカーの経営学には、実存主義の影響も見て取れるはずである(私の怠慢ゆえに、まだキルケゴールを勉強していないため、宗教とドラッカーの関係と同様に、キルケゴールとドラッカーの関連性もつかめていないのだが・・・)。

ドラッカー名著集2 現代の経営[上]ドラッカー名著集2 現代の経営[上]
P.F.ドラッカー

ダイヤモンド社 2006-11-10

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 ドラッカーがアメリカ社会の思想や宗教に基づいて経営を論じたのであれば、日本人である私は、日本社会の思想に基づいて経営を論じる必要があるのではないか?また、日本の政治・経済思想は、日本人の国民性・民族性や文化と結びついているから、その辺りも視野に入れなければならない。こうして日本の思想の源流を手繰ることは、必然的に日本の歴史を手繰ることを意味する。よって、日本の歴史とは切っても切り離せないアジアとの関係を考慮しないわけにはいかない。

 キルケゴールは「人生は前向きに進むしかないが、後ろ向きにしか理解できない」という言葉を残したが、私が経営技法に磨きをかけて前に進むためには、後ろを振り返るべき時期に来ていると思うのである。
May 19, 2012

アメリカ金融帝国主義が本当なら経営学は何のためにあるのか?―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』

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Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 06月号 [雑誌]Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 06月号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2012-05-10

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 今月のDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューは、マクロ経済、金融、政治が絡んでいるので、私にとっては非常に難易度が高かった。こういう時に政治や経済をもっと勉強しておけばなぁ・・・と後悔するんだよね。それでも何とか頑張って3本ぐらいレビュー記事を書こうと思うのだが、なにぶん知識不足ゆえに内容が誤っているかもしれないので、お気づきの方はご指摘いただければ幸いです。

構造的な問題の克服への提言 それでもアメリカ経済は成長する(マイケル・E・ポーター、ジャン・W・リプキン)
 公共財への投資が不十分であるため、アメリカは事業を展開するうえで魅力の乏しい国となり、企業は外国に投資しようとする。企業活動が国外へ移り、それに伴い税収が失われるので、政府にとって公共財への充分な投資はいっそう難しくなる。

 企業が雇用を国外に移して記録的な利益を上げる一方で、アメリカ人の賃金が伸び悩み、社会ではビジネスの制度面に対する懐疑的な見方が高まる。そうなると政治家は、アメリカでビジネス支援策を成立させることがより難しくなり、企業はますます国外拠点を目指すようになる。

 反対に、好循環をうまく利用しているのが中国である。その政策と莫大な規模を考えれば、同国の存在はアメリカにとって深刻な課題である。中国は余剰資金を生産性向上への投資に回し、それがさらに余剰資金を生む。拡大する国内市場が多様な国々の投資を呼び、それがまた国内の賃金や購買力を押し上げ、・・・というように。
 この論文でポーターらが最も懸念しているのは、「アメリカで熟練労働者、R&Dの能力、先進的な製造能力、国内サプライヤーのネットワーク、国内教育機関への投資が減少している」ことだ。ポーターが産業クラスタの競争力を論じる際に用いる「ダイヤモンド・モデル」に従えば、アメリカはとりわけ「要素条件」が弱っている、ということになるだろう(「ダイヤモンド・モデル」については、以前の記事「サステナビリティ=環境経営になってない?−『戦略の実現力(DHBR2010年11月号)』」を参照)。引用文にある「公共財への投資が不十分」とは、要素条件を支える教育や研究開発への投資が不十分であることを意味している。

 引用文にあるアメリカと中国の対比を読んでいて、『TOPPOINT』2012年4月号で紹介されていた中谷巌著『資本主義以後の世界』と、原田武夫著『教科書やニュースではわからない 最もリアルなアメリカ入門』の2冊のことを思い出した。まず『資本主義以後の世界』によると、アダム・スミスが描いた理想的な資本主義に近いのは、アメリカではなく中国の方であるようだ。
 スミスが『国富論』の中で考えた資本主義発展のあるべき姿は、まず農業の生産性の向上からスタートして、国内の社会基盤を整え、徐々に工業化へ進む。そして余力ができたら、商業、金融を整備し、最後に外国との交易を通じて豊かな社会を築く。つまり、社会が内部からゆっくり成長していく、「自然な」発展形態を理想としていた。(イタリア人学者の)ジョヴァンニ・アリギによれば、中国経済の発展はまさにこうのスケジュール通りに進展してきた、という。
(※『TOPPOINT』2012年4月号からの引用)
資本主義以後の世界―日本は「文明の転換」を主導できるか資本主義以後の世界―日本は「文明の転換」を主導できるか
中谷 巌

徳間書店 2012-01

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 もう少し補足すれば、理想的な資本主義は、

 農業の生産性向上⇒所得の増加⇒余剰資金の発生⇒銀行の登場⇒余剰資金を銀行に預金
 ⇒銀行は預金を元手に工業へ融資⇒工業化の進行⇒所得の増加⇒余剰資金の発生
 ⇒余剰資金を銀行に預金⇒銀行は預金を元手にさらに工業へ融資(=いわゆる信用創造機能)
 ⇒工業化のさらなる進行⇒農作物や簡単な工業品を輸出
 ⇒外貨の取得⇒所得の増加⇒高度な工業品の輸入
 ⇒高度な工業品を国内でも生産(政府の保護主義により、輸入は制限される)
 ⇒国民が高度な工業品を購入&輸出(輸出規模が大きくなるにつれて、政府の保護主義は弱められる)

という流れ(かなり大雑把だが・・・)で発展していくものと思われる。ただし、このシナリオには1つ条件がある。それは、発展途上の段階で、自国の製品を輸出する相手国が存在しなければならない、ということである。しかし、最初に本格的に資本主義化した国、つまり(イギリスではなく)アメリカには、主たる輸出相手国がいない。輸出ができなければ、外貨が取得できず、所得を増やすことができない。そこでアメリカがひねり出したのが「金融帝国主義」という考え方なのではないか?という気がしてきた。

 もう1冊の『最もリアルなアメリカ入門』によると、「金融帝国主義」が生まれたのは、1890年頃のこととされる。当時のアメリカは西部を開拓し尽くしており、帝国主義を掲げてアジア・アフリカなどを支配し始めていたヨーロッパに対抗すべく、海外の植民地化に乗り出そうとしていた。しかし、イギリスの迫害を逃れて誕生したアメリカが、他国を侵略するのはアメリカの精神に反するということで、世論は批判的であった。そこで、時のセオドア・ルーズベルト大統領は、武力ではなく金融の力で支配することにしたのである。
 まず表向きは、中南米の国々に対する経済的な支援という体裁をとり、各国の発行した国債を買い取る。次に、経済使節団を派遣して、その国の経済政策を徹底的に変えさせ、繁栄させる。この結果、その国の政府はアメリカが持っている国債の償還に応じることができ、アメリカは儲かるという仕組みを作り上げたのである。
(※『TOPPOINT』2012年4月号からの引用)
教科書やニュースではわからない 最もリアルなアメリカ入門教科書やニュースではわからない 最もリアルなアメリカ入門
原田武夫

かんき出版 2012-01-21

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 原田氏によれば、現在のアメリカの「金融帝国主義」はさらに進んで、次のようになっているという。
(1)アメリカが外国から借金をする(=米国債を購入してもらう)。そして、借りたマネーで景気がよくなるよう、国内にそれを流していく。
(2)その結果、アメリカ国内はカネ余りの状態が生じ、アメリカの株価が上昇する。
(3)アメリカ人が高騰を続ける株に続々と投資をし始める。そこで儲かったマネーを使って、外国製品を次々に購入・消費していく。
(4)繊維・自動車・半導体といったモノを生産し、アメリカで儲けた国々には貿易代金の決済のため大量の米ドルが蓄積されていく。これらの国々は放っておいては増えることのないこの外貨で、米国債を再び購入する。その結果、このプロセスの振り出しである(1)に戻る。
(※『TOPPOINT』2012年4月号からの引用)
 すなわち、「国債」を使って錬金術的にカネを増やせるようになっているというわけだ。先ほどのセオドア・ルーズベルト大統領が取った方法と合わせると、アメリカの「金融帝国主義」は次のようにまとめられる。

(A)新興国・途上国に対しては、その国の国債を購入し、アメリカに有利になるようにその国の経済を発展させる。
(B)先進国には米国債を購入させ、キャッシュリッチになったアメリカ人が先進国からの輸入品を購入する。
(C)新興国・途上国も、米国債を購入できるレベルまで発展すれば、(B)の仕組みに組み込まれる。

 「モノを作るためにカネが必要」という本来の資本主義ではなく、「モノとは関係なく、カネがカネを呼ぶ」というのがアメリカの資本主義なのである。だから、冒頭でポーターが提示した問題に対しても、「金融帝国主義」の立場からすれば、公共財になど投資せず、国債を刷りまくって米国企業に投資させておけば、勝手に所得が増えていくからOK、ということになる。

 もっとも、これはかなり極端なモデル化のようで、本当にそう言えるのかどうかは検証が必要であろう。ただ、もしこれがそれなりに妥当性を持っているとすれば、経営資源をうまく活用して、顧客に製品やサービスを購入してもらうための方法を一生懸命に追求している経営学は、一体何のためにあるのだろうか?と、ちょっと空しい気持ちになった。