※2012年12月1日より新ブログに移行しました。
>>>現行ブログ free to write WHATEVER I like
⇒2019年にさらにWordpressに移行しました。
>>>現行HP シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)
⇒2021年からInstagramを開始。ほぼ同じ内容を新ブログに掲載しています。
>>>Instagram @tomohikoyato
新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
トップ>書評(ビジネス書中心)(リーダーシップ)>明治時代から浮かんでは消えるリベラル・アーツ渇望論―『リーダーシップ不在の悲劇(DHBR2012年1月号)』
前の記事:2人の暴走を招いた「そうせい候」的な上司・板垣征四郎―『リーダーシップ不在の悲劇(DHBR2012年1月号)』
次の記事:【2011年最後の記事】「問題を解決する気がない人」の問題解決にいつまでもつき合うな
前の記事:2人の暴走を招いた「そうせい候」的な上司・板垣征四郎―『リーダーシップ不在の悲劇(DHBR2012年1月号)』
次の記事:【2011年最後の記事】「問題を解決する気がない人」の問題解決にいつまでもつき合うな
December 28, 2011
明治時代から浮かんでは消えるリベラル・アーツ渇望論―『リーダーシップ不在の悲劇(DHBR2012年1月号)』
拍手してくれたら嬉しいな⇒
![]() | Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 01月号 [雑誌] ダイヤモンド社 2011-12-10 Amazonで詳しく見るby G-Tools |
【995本目】1,000エントリーまであと5。
総合国策の研究と次世代リーダーの養成 「総力戦研究所」とは何だったのか(土居征夫)
先日の記事「野中郁次郎氏が分析する「日本軍6つの敗因」―『リーダーシップ不在の悲劇(DHBR2012年1月号)』」の脚注で触れた論文。「総力戦研究所」は、イギリスの国防大学やフランスの国防研究所に倣い、国防国家の支柱となるべき人材を養成する目的で1941年4月に開設された。同研究所では、次代を担うリーダーとして各省庁、民間企業、陸海軍から選抜された人々が、軍事的視点だけでなく、経済、政治、外交、国民生活などを総括した統合国策の立案研究を行っていた。日本軍、政府省庁ともにセクショナリズムが横行していた当時、組織の壁を超えて多様な人材が一堂に会する組織は例外的な存在であっただろう。
同研究所に集まった若手リーダーは、総力を挙げて日米開戦を前提とした戦局を予想したが、そこで導き出された結論は「日本必敗」であった(必要な船舶量は月10万トン、年間120万トンと試算されたが、当時の日本の造船能力は多く見積もってもその半分であるなど、日本に不利なデータが次々と明らかになった)。彼らの分析結果は、後の太平洋戦争における戦局の推移を、真珠湾攻撃を除いてほぼ正確に予測していたという。
しかし、シミュレーションの内容を近衛文麿首相とともに聞いていた東条英機陸相は、
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまで机上の演習でありまして、実際の戦争というものは君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。(中略)君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります」と述べて、結果を受け入れなかった。実際の戦局では「意外裡の要素」が働くという東条の言葉は確かに一理ある。ただ、当時の東条が、日露戦争で日本に有利に働いた意外な要因とは何だったのか?あるいは、太平洋戦争ではどのような偶発的要因を想定していたのか?また、その偶発的要因が起きる可能性をどの程度と見積もっていたのか?などに関して、確固たる考えを持っていたかどうかは不明だ(論文には特に書かれていない)。
結局、総力戦研究所はわずか数年で閉鎖され、次代のリーダーを輩出するという目的は完遂されなかった。著者は、日本の軍事教育の欠陥に踏み込み、「リベラル・アーツ教育」の欠如を指摘している。
陸軍大学校、海軍大学校、帝国大学に代表される明治以降の高等教育は、法律や軍事など実利本位の知識や技術の習得に専念した。その結果、大正・昭和期に、利害打算に長けた深みのない似非リーダーを多く輩出した。(中略)
陸大海大ともに、リーダー(将帥)を養成するための教育は、主として上に立つ者としての徳目教育に終始し、深い人間観、世界観に根差す戦略的思考や、政治と軍事の関係を洞察する識見を養うものではなかった。
リーダーの養成過程で最も重要なのは、リベラル・アーツ教育の拡充である。アメリカの高等教育機関では、毎回課題図書を与えて討議し、歴史や哲学、宗教、人間観について自分の頭で考える訓練を行う。(中略)軍事教育にリベラル・アーツが欠けていたという主張は、実は野中郁次郎氏の論文「名将と愚将に学ぶトップの本質 リーダーは実践し、賢慮し、垂範せよ」とも共通する。野中氏は同論文の中で、次のように述べている。
近代日本では、西洋の列強に追いつけ追い越せとばかり、法学、工学、語学等の実学を重んじた結果、欧米諸国のリベラル・アーツ教育が重視した教養、すなわち文法・論理・修辞学の三学や、天文学、幾何学、算術、音楽などのアーツ、それに哲学、歴史などを学ぶ意義が深く省みられることはなかった。
私はリベラル・アーツのなかでも、特に知についての最も基本的な学問である哲学の素養が社会のリーダーには不可欠だと考えている。哲学は存在論と認識論で構成され、その両面から、真・善・美について徹底的に考え抜く。それによって、モノではなくコトでとらえる大局観、物事の背景にある関係性を見抜く力、多面的な観察力が養えるのだ。東洋にも『論語』などの哲学があるが、どうしても道徳論になりがちで、知の飽くなき探求という意味では真善美を追求する西洋哲学に及ばない。真善美を学ぶ上では、東洋哲学より西洋哲学の方が優れているという点は、おそらく賛否両論があろう。個人的には、『論語』のような道徳は善の一部であると思うし、「美徳」という言葉があるように、美と道徳も密接な関係にあると考える。ただ、野中氏も土居氏も、哲学や歴史、文学などを学ぶことの意義を同じように強調している点は押さえておかなければならない。
実のところ、リベラル・アーツ渇望論は、明治時代から3度発生していると私は考える。1回目は明治時代中期であり、明治政府が西洋列強に追いつくために積極的に欧化主義を採用してた頃である。幕末に佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」という言葉を用いて、東洋の道徳を温存しながら西洋の芸術(技術)を習得することは可能だと主張し、明治政府もその路線を突き進んだ。
しかし、西洋技術や制度の表面的で過剰な輸入が進むにつれて、日本人は西洋人に対して人種的に劣位にあるという見方が登場し、人種改造論までが真面目に議論されるようになった。こうした事態に耐えかねた人々は、次第に政府に対し反発を見せるようになる。例えば、佐久間象山に師事した西村茂樹は、1886年に発表した『日本道徳論』の中で、「道は本なり、制度は末なり」と説いて、伝統的な儒教観に根差した道徳の重要性を訴えた。
また、ジャーナリストの陸羯南は、明治政府=国家が国民の上に立っていたずらに西洋を追いかける国家主義的な現状を「日本社会の支離滅裂」と批判し、国家主義に対立する概念として「国民主義」を提唱した。陸の国民主義は、国民の歴史的継続性と、精神的な面までをも含んだ国民の有機的統一性を重視する。
さらに、同じくジャーナリストの三宅雪嶺は、先ほどの人種改造論に真っ向から反対し、1891年に『真善美日本人』を発表して、日本人の優位性と日本人が世界で果たすべき任務を提示した。三宅は、哲学のみが、個人の自由な活動と、学問を通じた一国の独立という2つの目的を同時に達成することができるとの信念を持ち、スペンサーの影響を受けながら独自の宇宙観を形成している。
いずれの主張にも共通するのは、道徳観や歴史観などに基づいた社会構築の必要性である。当時はリベラル・アーツなどという言葉はなかったが、その意義を認識している人々は決して少なくなかったわけだ(※)。
2回目は、この論文にあるように第2次世界大戦の時期である。そして、3回目は他ならぬ現代だ。土居氏や野中氏のリベラル・アーツ渇望論は、軍事教育の欠陥にのみ向けられているのではなく、そのまま現代にも通用するものである。3度の渇望論は、「技術が先行した時期」に発生しているという点で共通している。技術の著しい進歩によって、人間が技術に使われるようになると、リベラル・アーツにスポットが当てられると言ってよい。
ここからは感覚的な記述になって恐縮だが、私自身社会人になってからずっと、「企業が利益を上げるための方法」をいろいろと模索し、顧客企業にも提案してきたつもりではあるけれども、どこか”上滑りしている感覚”があったのは否めない。利益を出すための技術的な方法を挙げろと言われればいくつも思い当たるものの、利益を出せばそれでOKなのか?という疑問に何となく胸が痞えている。
企業は単に利益を追求するだけではなく、「よい利益」を追求しなければならない。言うまでもなく、「よい」とは価値基準であり、利益のよしあしを評価するのは企業が存立する社会である。ならば、社会がよいと認めるものは何なのかについて、もっと深く洞察する必要がある。社会の価値基準を考察するには、社会を構成する人間というものを深く理解しなければならない。同時に、社会が何百年、何千年と受け継いできた歴史の流れを紐解き、文化の中に埋め込まれた価値基準を掘り当てる必要もあるだろう。これこそまさに、リベラル・アーツの世界である。
1つ例を挙げると、縮小する国内市場において、限られたパイを手放さないために、CRM(顧客関係管理)に注力して顧客を囲い込もうとする企業が増えている。CRMが成功すれば、確かにLTV(顧客生涯価値)は上がり、持続的な利益の創出が可能になるだろう。しかし一方で、囲い込みは顧客による自由な選択の余地を奪っているとも言える。そこまでして利益を出すことが果たして「よい」ことなのだろうか?むしろ顧客を解放して顧客の自由な選択に委ね、自社を選んでくれたその時には最高の体験を提供するというやり方の方が、「よい」経営とは言えないだろうか?
来年はリベラル・アーツの世界にも足を突っ込むことにしよう。
(※)朝日ジャーナル編『日本の思想家(上)』(朝日新聞社、1975年)
トラックバックURL
このエントリーのトラックバックURL: