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December 25, 2011

野中郁次郎氏が分析する「日本軍6つの敗因」(2/2)―『リーダーシップ不在の悲劇(DHBR2012年1月号)』

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 (昨日の続き)

(4)日本軍そのものの社会的孤立
 真珠湾攻撃は軍事面では成功例であったけれども、政治・外交面では失敗例だった。攻撃の30分前にアメリカ政府に宣戦布告の最後通牒を手渡すという手順が、在米日本大使館の不手際で狂い、結果的に手渡されたのが攻撃が始まった1時間後だったからだ。肝心な場面で、日本軍と在米日本大使館の連携の悪さが露呈したのである(もっとも、これには諸説あって、陸軍がわざと発信を遅らせたという説や、アメリカ側は日本からの暗号を既に解読しており、F・ルーズベルト大統領は日本が自ら戦端を開くのを解っていたという説もあるらしい)。

 さらに言えば、日本軍は社会そのものから孤立していた。アメリカやイギリスは、特殊技能者および知的労働者には軍の抱える問題を提示し、それに対する解決手法を研究させていた(経営学で出てくる「オペレーションズ・リサーチ(OR)」は、こうした研究から生まれた手法の1つである)。また、軍の中枢に法律家や研究者など、多種多様な人たちを配していた。民間人を一時的に抜擢し、用向きが済んだら元に戻すという一時的昇進人事が陸海空でごく普通に行われていた。

 これに対し日本軍の人事は基本的に年功序列で、抜擢はほとんどなかった(※1)。また、軍人教育機関で教えられていた内容も非常に偏っており、哲学、文学、芸術、自然科学といったリベラル・アーツは皆無だった(※2)。英米との戦争も予想されるというのに、陸軍大学校では英語も教えられていなかったのである。

(5)共有されない作戦目的
 日本軍が大敗北を喫した1942年6月5日のミッドウェー海戦では、連合艦隊司令長官の山本五十六大将と、第一次機動艦隊司令長官の南雲忠一中将との間で作戦目的が共有されていなかった。山本が考えた作戦の狙いは、真珠湾攻撃で撃ち漏らした敵の太平洋艦隊の空母を根こそぎ撃沈させることだった。ミッドウェーの占領そのものは目的ではなく、それによって空母を誘い出し、そこに航空決戦を仕掛けようというものだった。一方の南雲は、作戦目的はミッドウェー攻略にあり、アメリカ軍の機動部隊が出てくることがあってもその後だ、という根拠のない認識を持っていた。

 個別の作戦レベルで目的が共有されていないだけでなく、そもそも陸軍と海軍では思い描いていた目的が異なっていた。日本陸軍は、自分たちの戦場はあくまで極東ソ連およびインド・中国大陸だという認識で凝り固まっていた。他方、海軍はアメリカ主力艦隊の撃沈を第一目標としていた。双方が異なった戦略構想を描いていたがゆえに、アメリカ軍の現状を直視する目を曇らせ、両軍ともアメリカが海兵隊を中心として水陸両用作戦を展開し、太平洋の正面から本土に向かってくる危険性を意識することができなかった。

(6)悪しき演繹主義の蔓延
 山本五十六は、入念なアメリカ視察に基づいてアメリカ軍の戦力を把握し、自軍の戦力的劣勢をカバーするために空母と艦載機を組み合わせた奇襲作戦を思いついた。また、1945年2月から3月の硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将は、硫黄島の単調な形状を島南部の擂鉢山の頂上から眺めながら、それまでの常道だった海岸で敵の上陸を迎え撃つ水際防御作戦をやめ、長い地下壕を掘り、そこに隠れて敵を撃つという新たな作戦を編み出した。

 こうした”帰納主義”は、日本軍の中では例外だった。日本軍は、日露戦争の成功体験から得た「海軍は艦隊決戦、陸軍は白兵銃剣突撃」というコンセプトを墨守するのみで、”悪しき演繹主義”に陥っていた。イノベーションは演繹的思考では実現しない。そうではなく、個別具体の現実から出発し、新しいコンセプトや物事の見方を打ち立てようという強い思いから生まれる帰納的思考が、イノベーションには不可欠であると野中氏は述べている(※3)。


 この論文で1つ非常に興味深かったのが、昨日の記事で登場したバトル・オブ・ブリテンの際のイギリス・チャーチル首相をめぐるエピソードである。チャーチルは、ドイツのイギリス本土侵攻について側近に語り続けていたが、その内容は目前のドイツによるものではなく、900年近くも前のノルマン人のイングランド島侵攻についてだったという。野中氏は、「こうした歴史についての深い理解が、戦時指導者としての水際立った活躍を可能にしたのだろう」と評している。

 チャーチルが話していたのはおそらく、1066年にノルマンディー公ウィリアムがイングランド島に攻め込んでウィリアム1世として即位し、ノルマン王朝を立てた頃のことだと思われる。チャーチルの話の内容を詳しく知りたいものだ。それと同時に、成功体験は数十年しかもたないけれども(日露戦争で得た成功体験が第2次世界大戦では通用しなかった)、失敗の教訓は何百年も生きることを改めて感じさせられた。ならば、戦争を直接体験していない我々の世代も、第2次世界大戦の日本軍の失敗を的確に後世に伝えていかなければならないであろう。


(※1)日露戦争では、桂太郎内閣の副総理、内閣大臣権台湾総督であった児玉源太郎が自ら”降格人事”を申し出て、参謀本部次長に就任している(「戦時には戦時の人事制度ってものが必要だ」を参照)。そのような人事は、第2次世界大戦では見られなかったようだ。

(※2)論文ではこのように述べられているが、リベラル・アーツを学ぶ機会が日本に全くなかったわけではなさそうだ。本号の特集の最後に登場する「「総力戦研究所」とは何だったのか」を読むと、イギリスの国防大学やフランスの国防研究所に倣い、国防国家の支柱となるべき人材を養成する目的で「総力戦研究所」が1941年4月に開設されたとある。同研究所では、次代を担うリーダーとして各省庁、民間企業、陸海軍から選抜された人々が、軍事的視点だけでなく、経済、政治、外交、国民生活などを総括した統合国策の立案研究を行っていた。

(※3)演繹的思考と帰納的思考の区別は、マネジメントとリーダーシップを峻別する際に有益であると私は考えている。詳しくは「マネジメントとリーダーシップの違いを自分なりにまとめてみた」、「リーダーが帰納的に課題を設定するとはどういうことか?」を参照。
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