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   新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
September 13, 2010

論語のお気に入り文章をまとめてみた(年齢によって変わるらしいよ)

拍手してくれたら嬉しいな⇒
渋沢 栄一
三笠書房
2004-10
おすすめ平均:
渋沢さんの心、論語の心、それらが相俟って浮き彫りにされていく本
論語を理解するには、不適
論語の入門書に最適でしょう。
posted by Amazon360

 『渋沢栄一「論語」の読み方』をせっかく読んだので、『論語』の中からお気に入りの文章をまとめてみた(書き下し文は同書から引用)。現代語訳は私が我流でつけたものなので、間違いがあったらご指摘願います。
 子曰く、君子重からざれば則ち威あらず、学も則ち固からず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ること勿れ(学而第一−八)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「君子の態度が重厚でなければ威厳を保つことはできない。学んだことも確固たるものとはならない。忠実・信頼を第一に考え、自分に及ばない人間を友人としてはならない。また、自分が間違いを犯した時は、これを改めることを躊躇してはいけない」
 「己に如かざる者を友とすることなかれ」は、自分よりも能力が劣る人間を無視してよいという意味ではない。その次に続く文が「自分が失敗した時は、それを改めなければならない」という意味であることと対比させるならば、「己に如かざる者を友とすることなかれ」は「人が失敗した時は、それを反面教師として学ばなければならない」と解釈するのが適切だろう。
 子曰く、人の己れを知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。(学而第一−十六)
【現代語訳】  先生がおっしゃった。「他人が自分を評価してくれないことを嘆いてはいけない。他人の評価基準を自分が理解していないことを心配するべきだ」
 自分では努力しているつもりでも、他人がなかなか認めてくれないことはよくある。そんな時に、評価してくれない他人を責めるのではなく、自分に何が欠けているのかをもっと真剣に考えることが重要だと孔子は諭している。
 子曰く、その以(な)す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ捜(かく)さんや、人焉んぞ捜さんや。 (為政第二−十)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「まず人の外面に現れる行動を視て、次にその行動の背後にある価値観を観て、さらにその背後にある基本的な欲求を察すれば、人の本性はおのずと明らかになるものだ」
 孔子が説く3段階の人物観察法である。立派な行動に見えても、その人が持っている価値観が歪んでいたら信用してはならない。さらに、行動も立派で大義名分が備わっているのだが、よくよく話を聞くと実は「お金を儲けたい」とか「ポストを手に入れたい」といった低俗な欲求が根底にあるのならば、やはり信用してはならない、ということを孔子は言っているのだと思う。
 子曰く、学んで而して思わざれば則ち罔(くら)し。思うて而して学ばざれば則ち殆(あや)うし。(為政第二−十五)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「他人からよく物事を学ぶが自分なりに考えをめぐらせない人の思考は視野が狭く暗い。また、自分なりの考えは持っているが合わせて他人から学ばないような人の思考は偏っていて危険である」
 学習の基本姿勢。世間一般の知識や常識に依存してもダメだし、自分勝手な考えで凝り固まっていてもダメということ。両者のバランスをとらなければならない。
 子曰く、由、女(なんじ)にこれを知るを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らざるとなす。これ知れるなり。(為政第二−十七)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「子路(名前は由)よ、お前に『知る』とはどういうことかを教えよう。あることを知っていれば『知っている』と言い、知らなければ『知らない』と言う。これが『知る』ということである」
 ソクラテスの「無知の知」とも共通する内容。要するに知とは、「自分が知っていることと知らないことの境目を認識していること」と言えるだろう。知らないことを「知らない」と認めるのは勇気がいるが、「知らない」と認識しない限り、「知ろう」とは思わない。
 子曰く、ただ仁者のみ、能く人を好み、能く人を悪む。(里仁第四−三)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「仁の心がある人のみが、本当の意味で人を愛し、人を憎むことができる」
 「仁」は、孔子が『論語』の中で最高の徳と位置づけるものである。狭義の意味では他人に対する慈しみや思いやりの心を表し、広義の意味では万民の安全と安心を願い、国家の安泰を保つことを表す。「仁」だからといって誰でも分け隔てなく愛するというわけではなく、人を憎むこともあるというのは深い(その真意を心の底から理解するのには長い年月がかかりそうだが…)。
 子貢問うて曰わく、孔文子何を以てこれを文と謂うやと。子曰く、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、これを以てこれを文と謂うなり。(公冶長第五−十五)
【現代語訳】 弟子の子貢が先生に尋ねた。「孔文子は(生前の素行が悪かったにもかかわらず)なぜ『文』という贈り名(=死後に与えられる名)」がついているのでしょうか?」先生がおっしゃった。「孔文子はひたすら学問を好み、自分の知らないことを他人に質問することを恥ずかしいと思わず、どんどん聞いて回った。だから『文』という贈り名が与えられたのだ」
 「下問を恥じず」−この言葉は心に留めておきたい。ただ、何でもかんでも人に聞けばいいというわけではなく、自分で調べられる範囲のことは調べた上で質問するのが筋だとも思う。
 子曰く、三人行けば、必ず我が師あり。その善者を択んでこれに従い、その不善者にしてこれを改む。(述而第七−二十一)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「私が3人に会えば、必ずその中には先生がいる。よいところは自分にも取り入れ、悪いところは反面教師として学ぶ」
 孔子は周時代の「礼楽(礼節と音楽。社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽)」の復興を望み、自分の理想を実現すべく諸国を回っていた。しかし、孔子は誰かの元で礼楽を学んだことがなく、体系だった礼楽の知識を持っているわけではなかった。そこで、諸国を回りながら礼楽のことを様々な人に聞き、独自に知識を蓄積していったという。そうした孔子の人生を知ると、この言葉の意味がより重く感じられる。
 子曰く、後生(こうせい)畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして而して聞ゆることなきはこれまた畏るるに足らざるのみ。(子罕第九−二十三)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「青年は末恐ろしい。どうして青年が今の自分に及ばないと言えるのだろうか。ただ、彼らが40歳、50歳になってもいい評判が聞こえてこなければ、恐れることは何もない」
 前半は孔子が若者に対してエールを送っているが、後半は40歳、50歳になっても名を馳せることがなければ大したことはないと手厳しい。私にとっては、これから10年あまりが勝負になりそうだ。
 子曰く、歳寒くし然るのち松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。(子罕第九−二十九)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「気候が寒くなってからも、松や柏は葉を落とさずに耐え忍ぶものだ」
 冬になっても葉を落とさない松や柏を例にとって、逆境に耐える精神力の重要性を説いた一文である。もちろん、クランボルツの「計画的偶発性理論」で説かれているように、人生においては時には変化に身を任せるのも重要ではある。しかしながら、「この変化に身を委ねると危険だ」とか、「これだけは絶対に譲れない」と感じる時は、敢えて変化に抗う覚悟を持ちたいものだ。
 子曰く、与(とも)に言うべくしてこれと言わざれば、人を失う。与に言うべからずしてこれと言えば、言を失う。知者は人を失わず、また言を失わず。(衛霊公第十五−八)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「一緒に議論すべき人なのに議論をしなければ、相手の人を失う。一緒に議論すべきではない人なのに議論をすれば、言葉が無駄になる。賢い人は、相手を失うこともなければ、言葉を無駄にすることもない」
 孔子は自分に教えを請う人に対しては、どんな愚者であっても懇切丁寧に説明するつもりでいると別の箇所で述べている。しかし同時に、敬意や誠意のない人間に対しては、何を言ってもムダであるとも断言している。要するに、「人を選んで議論をせよ」と孔子は主張している。

 一見すると自己中心的な考え方であり、「仁」の心に従うならば万人に分け隔てなく接するべきではないか?という疑問を投げかけたくなる。だが、誰に対しても公平に接するということは、あらゆる人間よりも自分が超越した存在であることが前提となる。これは「仁」の面を被った偽善であり、自己欺瞞にあたると孔子は考えていたのかもしれない。

 以上、お気に入りの文章をまとめてみた。ところで、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー2009年10月号に所収されている松岡正剛氏のインタビューには、「論語のお気に入り文章は、年齢によって変わる」といった趣旨の発言が掲載されていた。

 改めて自分のお気に入りの文章を眺めてみると、全体的に「学習の姿勢」に関するものが多い。他方、『論語』の本質である「仁」については、まだまだ理解できるレベルには遠く及ばない。年齢を重ねると、「剛毅朴訥、仁に近し」といった文章がよく理解できるようになり、これをお気に入りとして挙げることができるようになるだろうか??
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