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   新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
June 03, 2010

「思考」によって分断された世界を「対話」を通じて調和する−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』

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デヴィッド・ボーム
英治出版
2007-10-02
おすすめ平均:
私にとっては、読むのがしんどかったです。
傾聴する対話を通じて創造する
内容が難しかった。(自分の知的レベルが低いのかも)
posted by Amazon360

 前回の記事「これは宗教なのか?科学なのか?−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』」ではデビッド・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」に触れ、ボームの思想的基盤を簡単に整理してみた。今回は、同書の内容に入っていきたいと思う。言い訳になってしまうが、この本は平易な文章の割にかなり難解なため、以下の記述には論理的飛躍や間違いがあるかもしれない。もしそれを見つけた方は、コメント欄やtwitter上で教えていただけるとありがたい。

 ボームはホログラフィー宇宙モデルにおける「内蔵秩序(暗在系)−顕前秩序(明在系)」(※)という区分を人間社会にも当てはめて、社会で起こる様々な問題について思索を行っている。まず衝撃的なのは、我々は通常、「思考」によって「問題」を解決しようと試みるが、ボームによれば、我々の「思考」によって「問題」が引き起こされているという点である。

 思考とは、「言葉を通じた事象の一般化」である。例えば、「犬」という言葉は、「2つの目、2つの耳、1つの口(その口の中には鋭い牙がある)、何本かのヒゲを含む顔を持ち、4本足で四つん這いになって歩き回り、尻尾を振りながら『ワン、ワン』と鳴く動物」の総称である。我々はそうした動物が世の中にたくさん存在するのを見て、彼らを表す一般名称として「犬」という言葉を与える。

 これは非常に単純な例だが、我々の思考は、社会に散らばる無数の事象から共通している部分を取り出し、それに何らかの言葉を与えることで一般化を行う。「犬」のような物理的な存在もさることながら、「国家」、「宗教」のような抽象的な観念についても同じことが言える。こうして社会は思考によって分断化されていく。

 一方で、一般化は1つの危険を伴う。それは、「例外の排除」である。思考は、社会の事象群から共通項を抽出しているようでありながら、実は共通している「ように思えるもの」を抽出しているにすぎない。抽出から漏れてしまった事象は、人間の思考アンテナには引っかからなくなる。

 ところが、こうした例外的事象も数が多くなり、あるいはインパクトが強くなってくると、既存の思考を脅かすようになる。今までの思考では捉えきれない例外が目の前に迫ってくる時、我々はそれを「問題」と感じるのである。よって、「問題」を引き起こしているのは、他ならぬ人間の「思考」なのである。現在の日本に当てはめると、年金問題や普天間基地問題、天下り問題などは、「社会保障」、「安全保障」、「官僚機構」、「公益法人」、「国家公務員」などに関する思考から発生していると言える。

 先ほどの「内蔵秩序−顕前秩序」の区分に従えば、こうした「問題」は「顕前秩序」において発生しているということになる。しかし、「問題」だらけの分断化された顕前秩序の背後には、内蔵秩序という根源的レベルにおける「調和された全体」が存在する。「問題」を解決する方法はただ1つ、我々の意識をその「内蔵秩序」へと到達させることである。その方法としてボームが提示しているのが、「ダイアローグ(対話)」というコミュニケーションなのである。

 ダイアローグの特徴は、ディスカッション(議論)と対比すると解りやすくなると思う。同書の内容を基に、両者の特徴を以下に簡単にまとめてみた。なお、ディスカッション(discussion)の"-cussion"には「壊す」という意味があり、ダイアローグ(dialogue)は「dia(〜を通じて)」+「logos(言葉)」から派生した言葉である。

ディスカッション(議論)
 ・初めに明確なゴールを設定する
 ・進行役(ディスカッション・リーダー)を置く
 ・用意された選択肢の中から取捨選択する
 ・決断を下す
 ・他人を説得する

ダイアローグ(対話)
 ・ゴールをあえて設定しない
 ・リーダーを置かない(参加者は対等)
 ・選択肢を炙り出す
 ・想定を保留する
 ・意味を共有する

 両者の決定的な違いは、ディスカッションの意義が「意思決定」にあるのに対し、ダイアローグの意義は「意味の共有」にあるという点である。ディスカッションでは参加者が互いの意見を戦わせ、最終的には誰かの意見を採用する。しかし、誰かの意見とは、結局のところその人の「思考」の産物であり、その意見を採用して他の意見を捨てるということは、世界を何らかの形で分断することにつながる。

 一方、ダイアローグでは、意見を戦わせることはしない。各々の意見の背後にある「意味」に着目する。勝ち負けを決めるゲームではなく、互いの言葉の背後にある意味がじわっと滲み出てくるのをただひたすら「待つ」プロセスと言ってもよい。最終的に意思決定をする必要もない。意味が参加者の間で「共有」されれば、ダイアローグの目的は達成される。ボームは、意味の共有こそが、人間の意識を内蔵秩序の段階へと進ませる重要な行為なのだと言う。

 ダイアローグの具体的なプロセスについては、『学習する組織』、『出現する未来』の著者であるピーター・センゲがうまく説明しているので、センゲの文章を借りながら改めて整理することにしよう。

(※)「内蔵秩序−顕前秩序」という区分も見た目は二元論のようであるが、両者を明確に分けることはできず、むしろお互いが密接に関連しているという点で、デカルト=ニュートン的世界観でいうところの二元論とは異なる。
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