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April 07, 2010

人材育成のPDCAサイクルを学校教育にも取り入れるべき−『ドキュメント ゆとり教育崩壊』

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小松 夏樹
中央公論新社
2002-02
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ゆとり教育をめぐる文科省の迷走
posted by Amazon360

 昨日の記事「文科省の迷走っぷりが手に取るように解った−『ドキュメント ゆとり教育崩壊』」の続き。

(2)イデオロギー論争を言い訳にして学力レベルの定点観測を怠った文科省
 2001年の省庁改編で文部「科学」省となり、教育における科学の地位を向上させるはずだったのに、2002年度から採用された新しい教科書では、理数の学習内容が学習指導要領の厳格な適用によって大幅に削減された。一方で、それ以外の教科については、「つくる会」の新しい歴史教科書が物議を醸したものの、全体としてみれば理数に比べて実にゆるい教科書検定だったらしい。

 なぜこんなことが起きてしまうのか?結論から言ってしまえば、文科省は「教育を通じて育成を目指す人材像を明確にし、あるべき像と現状を埋めるための教育方針を打ち出す」という、企業の人材マネジメントで言えば当たり前のことができていない」ということに尽きるだろう。それを端的に表すエピソードが同書の中で紹介されていた。

 文科省は2002年1月から小中学校での学力テストを再開したが、半世紀近く遡ると、1956年度以降、小中学校は66年度まで、高校は62年度まで全国統一の学力調査が実施されていた。しかも中学校においては、61年度からの4年間は全員が調査対象だった。

 ところが、競争原理や序列を学校に持ち込むことに強く反対する左派からの圧力によって、学力調査は中止に追い込まれる。その後は81年度、93年度からそれぞれ3年間だけ小規模抽出で細々と実施された。私も1度だけ、通常の学校のテストとは異なる変な(?)テストを受けさせられた記憶がある。ひょっとしたら93年度から95年度の間に実施された学力テストだったのかもしれない。

 文科省は各年度の学力テストの結果を分析して報告書にまとめる。しかし、93年度の中学校の報告書だけがなぜか存在しないことがマスコミや教育研究者の間で話題になった。著者が取材を進めたところ、驚くなかれ「担当者が忙しくて作成できなかった」というのが真意らしい(ほんと、冗談抜きで)。文科省は現状分析もろくにやらずに、聞こえのいいキーワードを使ってもっともらしい人材像を掲げ、教育方針を現場に伝達しているのである。何とも恐ろしい話だ。

 企業での人材マネジメントであれば、こんなことは考えられない。企業が戦略実現のために必要とする人材の要件(To-Be)を定義し、それに対する現状(As-Is)の能力を調査した上で、To-BeとAs-Isのギャップを埋めるための人材育成計画を立案・実行するのが人事部・人材開発部の仕事である。先進的な企業であれば、社員のスキルレベルを定量的に測定するアセスメントツールを開発し、診断結果に応じて各社員に合った研修プランやキャリアコースを提示するプログラムまで用意しているところもある。

 日教組を含む左派とどういう論争が過去に繰り広げられたのか私はよく知らないが、彼らの教条的な態度に押し切られる形で文科省が現実的な人材育成の基本を忘れてしまっていたとしたら、これは悲しい話である。確かにかつての学力調査は、指導要録に子どもの成績を記録したり、生徒の成績と順位を校内で発表したりしていたから、「学力の実態を把握する」という本来の目的とは外れたところで、生徒に変な競争意識を植えつけていた可能性も否定はできない。

 だが、本来の調査目的に立ち返れば、別に本人にテスト結果をフィードバックする必要などは全くなくて、文科省が全国あるいは地域別の学力の傾向を見るために使えばよいだけの話である。2002年度から再開された学力テストが有意義な形で活用されることを国民は望んでいる。

(3)知識だけでない「学力」を測る世界的なテスト=PISAの存在
 教育研究者が「学力低下」を指摘すると、文科省は「学力は低下していない」と反論する。これが、ここ数年ずっと続いていた図式である。なぜこうしたことが起こるのか?それは、(2)で述べたこととも関連するが、「学力」の定義についてのコンセンサスが両者の間でとれていないことに起因する(「学力」とは何かが明らかにされないまま、文科省が学力テストを再開したのは果たして是なのか?という別の不安もあるが…)。

 文科省が「学力」を明確に定義しないから、教育研究者はそれぞれ独自に学力の中身を定義し、各自の調査方法で学力を測定する。研究者の頭の中には「学力が低下している」という仮説があって、だいたいはその仮説を支持する結果が得られる。これに対して文科省は、いくつかの学力テストの中から「学力低下を明確には示さないデータ」を巧妙に引っ張り出して研究者に提示する。両者が同じ土俵の上で議論していないのだから、話が噛み合わなくて当然である。

 「学力」について、著者は次のように定義している。
学力A=主に座学による学習で身につける知識・技能
学力B=問題解決能力や理解力、思考力、創造性、意欲、関心、コミュニケーション能力など
 以前の記事「個性を伸ばす前にやるべきことがある−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』」で、学校で身につけるべき力は「覚える力」と「考える力」の2つだと述べたが、「覚える力」が学力Aに、「考える力」が学力Bにおおよそ対応している。教育研究者や文科省が「学力」という場合、学力Aなのか学力Bなのか、はたまた学力A+Bなのか判然としないことが多い。

 最近になって、学力A+Bを測定する世界的なテストができた。OECDが実施している「生きるための知識と技能−生徒の学習到達度調査(PISA)」がそれだ。2000年に第1回の調査が行われ、以後3年ごとに実施されている。

 同書で紹介されている「落書きに関する問題」(2000年)が、下記サイトの「PISA調査(読解力)の公開問題例」p19以降に掲載されている。大人がやっても結構考えさせられる問題で、かなり興味深いと思った。
http://www.ocec.ne.jp/linksyu/pisatimss/koukaimonndai.htm

 問1のみが選択式で、問2〜問4は全て記述式だ。つまり、問1は学力Aを見る問題、問2〜問4は学力Bを見る問題である。問2以降は、国語の問題といいつつも、「落書きは善か悪か?」、「芸術と落書きの境目は何か?」、「広告と落書きの境目は何か?」、「コミュニケーションとはどういう性質を持つものなのか?」などといった、主観的な価値判断を問う問題になっている。生徒の「考える力」が試されるところだ。

 日本の傾向としては、問1の正答率は高いものの、問2以降の無回答が目立つ。少々乱暴な言い方だが、学力Bを端から放棄してしまう生徒が多いのだ。日本の生徒の学力がいびつな構造になっていることを表す一例と言えよう。頭でっかちで考えることはしない。これでは個性など育ちようがない。

 2000年の日本の結果はまずまずであったが、2003年に順位を落としたことが、ゆとり教育見直しの決定打になったようだ。 当時の中山文科相は「学力低下」の危機を訴え、学習指導要領全体の見直し、教員の指導力向上、全国学力調査(全国すべての小学5年生と中学2年生が参加)などの改善策を表明した。

 PISAはまだ歴史が浅く、いろいろ問題点もあるだろうから、今後回を重ねるにつれてPISAのデータの分析・活用方法をわが国なりに深めていく必要はあるだろう。だが肝心なのは、PISAで測定されている「学力」を鵜呑みにするのではなく、「日本の学力観」を文科省がきちんと明示することである。それが、様々な学力調査データにいちいち振り回されず、筋の通った教育施策を教育現場や国民に知らしめることにつながると思う。
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