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April 01, 2010
個性を伸ばす前にやるべきことがある−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』
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かれこれ1年近く前に書いた「何でゆとり社員が生まれたかもうちょっと詳しく考えてみる必要があるな−『職場を悩ますゆとり社員の処方せん』」という記事で、ゆとり教育のことを調べようと思って買った本を完全に放置していた…。一般に「ゆとり世代」とは、2002年度(高等学校は2003年度)学習指導要領による教育を受けた世代のことを指し、この新学習指導要領を最初に受けた1987年4月2日〜1988年4月1日生まれは「ゆとり第一世代」と呼ばれる。昨年、このゆとり第一世代が初めて社会人になったことから、彼らの新人教育の模様が注目を浴びたわけだが、今年も「ゆとり第2期生」がいよいよ入社してきた。
学習内容減らしは2002年よりもずっと前の1980年代から既に始まっており、広義の意味では現在の30歳前後までが「ゆとり世代」と呼ばれるそうだ。ということは、私自身もゆとり教育に片足を突っ込んでいたわけだな。そういえば、何年生からだったかは記憶が定かではないものの、週休2日制へと段階的に移行されていったことは覚えている。
本書はジャーナリストの櫻井よしこ氏と、作文・表現教育というユニークな教育方法を実践している宮川俊彦氏の対談形式でゆとり教育を批判しているが、割とオーソドックスな内容という印象だった。ゆとり教育のここがダメだとか文部科学省のここがなっていないという各論よりも、そもそも論に立ち返って「学校とはどのような力を身につける場なのか?」ということを、教育の専門家ではないが勇気を振り絞ってまとめてみた。
要するに、「覚える力」と「考える力」、この2つを身につけるのが学校という空間である。「覚える力」とは、既に確立されている客観的な知識や技能を習得することであり、答えが限られた問題に取り組む力である。もっと噛み砕いて言えば、通常のペーパーテストが解ける力と捉えてもよい。
これに対して「考える力」とは、答えが1つとは限らない、あるいは複数の選択肢から何らかの価値判断によって解を導かなければならないような問題に取り組む力を意味する。別の言い方をすれば、社会的な規範やルール、倫理や道徳が絡むような問題、個人の価値観や信条(ここでは宗教的な信条というよりも、「各個人が譲れないものとして持っている考え方」という意味合い)に関わるような問題である。
何かを覚えなければ、何かを考えることはできない。これは自明のことである。例えば、地球温暖化の問題に関わるには、前提として地球温暖化が起こる科学的メカニズムや、そのメカニズムと関連する人間の経済・社会活動などに関する客観的な知識が必要となる。その上で、各国が現在どのような立場を取っているのか、各国はどのような政策を打ち出そうとしているのか、日本はどうするべきなのか、私達個人はどうするべきなのか、などといった論点について考えることになる。これらの論点は、各ステークホルダーの政治・文化的背景や倫理観、価値基準などの主観的な側面を踏まえた上で考察することが求められる。
「覚える力」と「考える力」の両方が相まって、その人らしい価値が発揮され、成果が上がる。これこそが「個性」である。仮に皆が同じ問題に取り組んだとしても、客観的な知識や情報を相互に関連づけ、そこに個人の主観的な価値判断を加えることで、他者とは一味違う解にたどり着くことができる。
もっとも、実際に成果を上げるのは社会人になってからで十分である。先ほどの地球温暖化の問題で言えば、子供たちが解決策を実行することにはどうしても限界がある。だが、「覚える力」と「考える力」を養う学習素材としては、学校でも十分に扱える事例である。学校教育は「覚える力」と「考える力」を訓練することが第一目的だと私は思う。
ゆとり教育は「覚える力」と「考える力」のどちらも中途半端にしてしまったように映る。詰め込み教育の反動で学習内容が大幅にカットされたことにより、「覚える力」を鍛える機会が失われてしまった。また、「考える力」も本来それを身につけるための時間とされる「総合学習」の位置づけが曖昧なために、学校の現場でどのように扱われているのか不明である。
「考える力」を育てる素材は、何も世の中の時事問題でなければいけないというわけではない。「クラスの皆が決められた係の仕事をきちんとこなすためにはどうすればよいか?」、「クラス対抗の運動会で勝つためにはどうすればよいか?」といった、クラス運営に関わる身近な問題でもよい。要は「社会性」に絡むことであればどんなことでも題材にできる。なぜならば、様々な価値観を持つ人が集まる社会では、必ず何らかの主観的対立に直面するからだ。
ところが、今はこうしたクラス行事も削減される傾向にある。「覚える力」と「考える力」両方の土台が揺らいでいるのだ。それなのに、「個性が大事だ」と一丁前に叫んで、軟弱な土台の上に個性を無理やり乗せようとしている。挙句の果てには、「できないのも個性だ」などという訳の解らない主張までまかり通るようになる。もし企業が顧客に対して欠陥品を渡しておきながら、「欠陥があるのも当社の個性なんです」などと言おうものなら、どんなバッシングを受けることか?しかしながら、どうも教育の世界はビジネスとは違う論理で動いているらしい。
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