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   新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
May 06, 2009

「大物リーダー」不在の時代はつまらないか?

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現在は「大物リーダー不在」の時代らしい
 もう結構前の話になるが、日曜日の朝たまたまTBSを見ていたら、「サンデーモーニング」の「風を読む」というコーナーで、「今の日本は昔に比べて大物と呼べる人物が少なくなった」という話をやっていた。この放送で、「昭和の大物」として取り上げられていたのは、

・政治界=吉田茂、田中角栄
・芸能界=石原裕次郎、美空ひばり
・スポーツ界=大鵬、力道山、王貞治、長嶋茂雄

である。そして、彼ら彼女らが国民的なリーダーとして活躍していたのに対し、現在のリーダーはみな小粒で見劣りする、という論調だったと記憶している。私みたいな1980年代生まれの人間は、彼ら彼女らの活躍をリアルタイムで全く見ていないため、当時の世間がどれほど熱狂していたのか全く解らないのだが、同じ時代を生きた人たちから見ると、現在のリーダーはどうやら物足りなく映るらしい。

 高度経済成長期と現在とでは状況が全く違うため、単純に比較するのはやや無理があるようにも思える。高度経済成長期はあらゆる分野が黎明期にあり、それぞれの分野で活動する人々の数もまだまだ限られていた。そのため、ずば抜けた才能を持った数名が、周囲から特別な注目と人気を集め、「大物リーダー」として認知されるようになったと言えなくもない。誤解のないように断っておくが、彼ら彼女らが簡単にリーダーになったと言いたいわけでは決してない。並々ならぬ努力の末に栄誉と名声を手に入れたことは確かである。だが、初期に偉業を成し遂げた人物の印象は強烈であり、多くの人々の記憶に長く留まるものだ。一方、現在は活動のフィールドが成熟化かつ多様化している上、各分野の人口も増加しているため、傑出した才能が一部の人に限られることが少なくなってきている。これが、大物リーダーの登場を難しくしている、という考え方も成り立つ。

大物リーダーを「待ち望む」だけの精神は健全か?
 現在のリーダーが小粒であるという論調の裏には、かつてのような大物リーダーが再び現れることへの期待が隠れている。私がこの放送を見て引っかかったのは、このご時世に大物リーダーを「待ち望む」姿勢が果たしてまともかどうか?という点である。とりわけ、情勢が不安定で人々が不安を募らせている時には、大物リーダーを望む声が大きくなる傾向がある。だが、それは健全な期待と言えるのだろうか?

 「大物リーダー待望論」は、過熱すると「カリスマリーダー待望論」になる。「何が何でもこの人についていきたい」と思えるリーダーを歓迎するようになる。しかし、カリスマに対する支持は「理由なき追従」であり、非常に危険な行為である。思考を司る神経が麻痺しており、カリスマが示した方向が正しいのか間違っているのかを判断することができない。その方向が正しければ天国に行けるが、そうでない場合は地獄に道連れである。ドラッカーも次のように述べている。
 カリスマがはやりである。いたるところで論じられている。本も無数にある。だが、カリスマ待望は政治的な集団自殺願望である。

 20世紀ほどカリスマに恵まれた世紀はなかったし、20世紀の4人のカリスマほど害をなした政治リーダーもいなかった。スターリン、ムッソリーニ、ヒトラー、毛沢東である。重要なことはカリスマ性の有無ではない。正しい方向に導くか、間違った方向に導くかである。20世紀における建設的な成果は、カリスマ性とは縁のない人たちの手によるものだった。第二次世界大戦で連合軍を勝利に導いた軍人も、抜きんでて有能だが死ぬほど面白みのなかったアイゼンハワーとマーシャルだった。
(P・F・ドラッカー著『ドラッカー365の金言』ダイヤモンド社、2005年)
(余談だが、書店で立ち読みした時に、一番最初に開いたのがこのページだった。「集団自殺願望」というドラッカーらしい刺激的な言葉遣いでカリスマを待望する世の風潮を一刀両断した点が印象的で、本の購入を決めた記憶がある。)

「みんなリーダー」の時代の方がきっと面白い
 大物リーダーはもはや不要というわけではない。ビジョナリーで情熱に溢れる有能な大物リーダーがいれば非常に心強い。警告すべきは、大物リーダーが現れるのをひたすら待ち続け、いざ現れたならば盲目的に従おうとする「受動的な態度」なのである。かつてとは比べ物にならないほど複雑で乱気流に満ちた環境を、限られた数名の大物リーダーが克服してくれると期待するのはいかにも虫が良すぎる話だ。今や、あらゆる人たちが変化に対応し、変化を生み出すために動き始めなければならない。つまり、あらゆる人がリーダーシップの発揮を求められる時代なのである。リーダーシップは我々に課せられた「責任」であるといっても過言ではない。

 そんなリーダーシップを自分が発揮することができるのか?と心配になるかもしれない(…と書いている私自身のことが一番心配だ)。「リーダーは別に1人じゃなくたっていい」でも書いたが、リーダーシップを1人の強い人間「のみ」が発揮するということ自体がそもそもレアケースなのである。多くの場合、リーダーシップの機能は「分かち合う」ものだし、誰もがリーダーのように振る舞うことができる。リーダーシップは天賦の才ではなく、習得可能な行動である。

 誰もが変化を生み出すことに責任を負うと書くと、すごく重苦しい時代に突入してしまったような気がするが、裏を返せば、誰もが変化を生み出す可能性を持っていることを意味する。大物リーダーが輝きを放っていた時代には、凡人はその陰に隠れて注目されることがなかった。しかし、あらゆる人がリーダーシップを発揮する時代には、あらゆる人に光を享受できるチャンスがあるのである。そう考えるとワクワクしてこないか?誰もがリーダーになれる時代は、旧来型の大物リーダーを追いかけたがるメディアにとってのみつまらないのであって、現に生きている人間にとってはとっても面白い時代になるはずだと思う。
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