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February 17, 2009
鳥取の公立小学校はどんな平等を目指しているのか?
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スルーするつもりでいたが、一言ぐらい何か述べておこうと思い直し、記事を起こすことにした。
中途半端な「結果の平等」
最初タイトルだけを見た時は、学級委員というポスト自体がないのかと思ったが、どうやら他の委員と同列のポジションとして学級委員は存在し、児童が持ち回りで担当するシステムになっているらしい。いわゆる「結果の平等」を目指しているものと思われる。
「機会の平等」とか「結果の平等」といった平等論にあまり深入りすると墓穴を掘りそうな気がするので止めておくが、素人目に見ても何とも中途半端な結果の平等だという印象がぬぐえない。なぜなら、授業のテストではちゃんと点数が出るし、体力テストなどでも個人の身体能力の差ははっきりと解る(※)。それなのに、なぜ学級委員や運動会や演劇(引用文にはないが、演劇でも主役を持ち回りで演じることになっている)に限って平等主義を貫こうとするのか?ある面では結果に差が出ることを容認しておきながら、別の面では結果を平等にするというのであれば、その線引きの根拠を明確にする必要がある。人権団体の主張を詳しく知りたいし、その主張を受け入れた教育委員会の論理も気になるところだ。
(※)鳥取県教育委員会は「全国体力テスト」について、2009年度実施分より市町村別・学校別データの開示を前提に実施すると明らかにしている。(「全国体力テスト、市町村別・学校別成績開示前提に実施:鳥取県」)
結果の平等は才能を摘む
鳥取県の教育委員会(というか、背後にいる人権団体)が実現しようとしている結果の平等が中途半端であるという点はさておき、仮に完全な結果の平等が実現されたとしても、いや結果の平等が完全であればあるほど、結果の平等は悪平等をもたらす。なぜなら、本来最も学級委員に向いているはずの児童の活躍シーンがなくなり、本来最も足が速いはずの児童が輝く瞬間は台無しにされ、本来最も主役に向いていたはずの児童の存在感が失われる。また、逆にそれほど学級委員に向いていない児童が学級委員を無理やりやらされ、それほど主役に乗り気でない児童が嫌々主役に仕立て上げられるのも、児童にとっては悲劇である。
児童にとって、到達可能性のある結果というのは複数存在する。児童は自分の好みや向き・不向きを考えながら、どの結果が最も自分にとって実現可能性が高いかを見極めていく。周りの大人は到達度に関するフィードバックを行いながら、児童が結果にたどり着くのを支援し、時に軌道修正する。こうした相互作用によって、児童は自分の適性を発見していくのである。これは社会に出るうえで重要な訓練である。社会とは、個人の内面的な意思・能力と外部からの評価・判断とがせめぎあいながら、個人が最も力を発揮する位置を与える場である。子供は社会に出る前に、社会での振る舞いを十分に練習する必要がある。その練習場が、学校というリスクの低減された擬似社会なのである。その学校が、結果の平等という名のもとに機械的に結果を配分してしまっては、児童の主体性は抑圧されてしまう。
結果の平等は、個人の意思とは関係なく何らかの外在的なルールによって自動的に結果を配分する。これはよくよく考えると何とも恐ろしいシステムだ。見かけ上は各個人が平等に結果を享受しているようでも、絶対不可侵の権力によって結果を配分する第三者がシステムを支配しており、個人とその第三者との間には歴然とした格差が存在しているのである。これは果たして平等な状態と言えるのだろうか?
「鳥取県の公立小学校が『学級委員長』を無くしたのは、人権団体などから『委員長になれなかった子供が傷つく』『自分にはできないと劣等感が生まれる』などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。また、『差別』の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。」
(「鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?」J-CASTニュース、2009年2月12日)
「小学校でずっと学級委員長を置いてこなかった鳥取県。『リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ』との考えが教員にあり、徒競走でも順位を決めないほどだったが、この春、鳥取市の1校で約20年ぶりに学級委員長が生まれることになった。『横並びでは子どもの主体性が無くなる』という鳥取市教委は、各校に『委員長復活』を推奨している。」
(「小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ」asahi.com、2009年2月8日)
中途半端な「結果の平等」
最初タイトルだけを見た時は、学級委員というポスト自体がないのかと思ったが、どうやら他の委員と同列のポジションとして学級委員は存在し、児童が持ち回りで担当するシステムになっているらしい。いわゆる「結果の平等」を目指しているものと思われる。
「機会の平等」とか「結果の平等」といった平等論にあまり深入りすると墓穴を掘りそうな気がするので止めておくが、素人目に見ても何とも中途半端な結果の平等だという印象がぬぐえない。なぜなら、授業のテストではちゃんと点数が出るし、体力テストなどでも個人の身体能力の差ははっきりと解る(※)。それなのに、なぜ学級委員や運動会や演劇(引用文にはないが、演劇でも主役を持ち回りで演じることになっている)に限って平等主義を貫こうとするのか?ある面では結果に差が出ることを容認しておきながら、別の面では結果を平等にするというのであれば、その線引きの根拠を明確にする必要がある。人権団体の主張を詳しく知りたいし、その主張を受け入れた教育委員会の論理も気になるところだ。
(※)鳥取県教育委員会は「全国体力テスト」について、2009年度実施分より市町村別・学校別データの開示を前提に実施すると明らかにしている。(「全国体力テスト、市町村別・学校別成績開示前提に実施:鳥取県」)
結果の平等は才能を摘む
鳥取県の教育委員会(というか、背後にいる人権団体)が実現しようとしている結果の平等が中途半端であるという点はさておき、仮に完全な結果の平等が実現されたとしても、いや結果の平等が完全であればあるほど、結果の平等は悪平等をもたらす。なぜなら、本来最も学級委員に向いているはずの児童の活躍シーンがなくなり、本来最も足が速いはずの児童が輝く瞬間は台無しにされ、本来最も主役に向いていたはずの児童の存在感が失われる。また、逆にそれほど学級委員に向いていない児童が学級委員を無理やりやらされ、それほど主役に乗り気でない児童が嫌々主役に仕立て上げられるのも、児童にとっては悲劇である。
児童にとって、到達可能性のある結果というのは複数存在する。児童は自分の好みや向き・不向きを考えながら、どの結果が最も自分にとって実現可能性が高いかを見極めていく。周りの大人は到達度に関するフィードバックを行いながら、児童が結果にたどり着くのを支援し、時に軌道修正する。こうした相互作用によって、児童は自分の適性を発見していくのである。これは社会に出るうえで重要な訓練である。社会とは、個人の内面的な意思・能力と外部からの評価・判断とがせめぎあいながら、個人が最も力を発揮する位置を与える場である。子供は社会に出る前に、社会での振る舞いを十分に練習する必要がある。その練習場が、学校というリスクの低減された擬似社会なのである。その学校が、結果の平等という名のもとに機械的に結果を配分してしまっては、児童の主体性は抑圧されてしまう。
結果の平等は、個人の意思とは関係なく何らかの外在的なルールによって自動的に結果を配分する。これはよくよく考えると何とも恐ろしいシステムだ。見かけ上は各個人が平等に結果を享受しているようでも、絶対不可侵の権力によって結果を配分する第三者がシステムを支配しており、個人とその第三者との間には歴然とした格差が存在しているのである。これは果たして平等な状態と言えるのだろうか?
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