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November 16, 2008
明確すぎる評価基準も問題?−『人を見る目がない人』
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「人の記憶を過信しないことが大事−人を見る目がない人」を書いた後、この本に絡めてもう1つ記事を書く予定だったのだが、3ヶ月以上放置状態だった。こんな具合に先延ばしにしてばかりいるからいつまでたってもブログの更新頻度が上がらないんだな…。
「一部が曖昧」な評価基準の人に惹かれる傾向
言うまでもないことだが、部下を公正に評価できる上司は部下から信頼される。これは学術的な調査でも明らかになっている(嫌われる上司の共通点 「事なかれ主義、陰険、保身」)。部下の立場からすれば、昨日と今日で全然言っていることが違う上司と働くよりも、評価軸がぶれることなく安定したフィードバックをしてくれる上司の下で働きたいと思うものだ。
ここで「公正さ」の中身が問題になるのだが、人間というのは不思議なもので、100%評価基準が決まっていて、全ての評価がその基準の下に行われれば満足かというと必ずしもそうではない。この本の著者は、(仕事以外の場面で)男性が女性を評価するケースを取り上げて、次のように述べている。
「到達度評価(※あらかじめ決められた明確な評価基準に従って行われる客観的な評価)のほうは、するほうにとってもされるほうにとっても、とても分かりやすい。『3kgスリムになる』『料理レシピを10品おぼえる』といった、明示的なゴールが共有されたうえで、行われるコメントだからだ。だから、『痩せてきたね』『料理上手になったね』と、目標に照らしたコメントだけが行われ続けることになる。この方法は、どこに向かって頑張ればいいのかが明確なため、相手の気持ちを安定させる。これは男女間の問題の話だが、仕事上でも同じことが言えると思う。特定の上司と長く一緒に仕事をしていると、その上司が自分に期待することや評価のポイントがだんだんと解ってくる。そうすると、ある時から「このくらいやればあの上司は納得するだろう」と思いながら仕事をするようになる。そんな時に突然、「これじゃ全然ダメだよ」とか「もっとこういう視点で仕事をしろよ」と、今まで言われたことのないような一撃を上司から食らうと、「あぁ、自分はまだまだなんだな」とか、「もっと上を目指さなければならないんだな」と感じることになる。改めて「やっぱり上司はすごい」と痛感させられ、「この上司についていこう」という思いを強くする。
しかし、ときとして、それだけでは刺激に欠ける。より強いインパクトを残し、相手の気持ちを引きつける人は、もうひとつの評価、つまり「認定評価」のほうもうまく取り入れているのだ。
認定評価とは、相手に公開していない基準、つまり、こちらの頭の中にある満足度というものに合わせて、相手を評価することだ。だから、唐突に『この間より痩せてきれいになった』と褒めることもあれば、『もう痩せなくてもいい』と咎めることもある。本人の描く理想に照らして判断するわけだから、一貫性がゆるい。また、どこを重んじるかも絞らないので、『女らしさ』を強く評価することもあれば、『知性』を評価することもある。つまり、評価観点として、いろいろな引き出しをもっているのだ。」
仕事の話ではないが、私は学生時代に「能楽サークル」に所属していた。伝統芸能である能楽の舞や謡いを稽古するサークルである。師匠にはプロの能楽師が何人かおり、定期的に稽古をつけてもらっていた。師匠の中には舞台歴が長く能楽界で有名な方もいらっしゃったのだが、この方こそまさに「一部が曖昧」な評価基準の人であった。稽古をつけてもらうと、たまに以前に指摘されたことと全く違うことを言われることがある。一つ一つの型(動作)がスムーズにつながるように舞いなさいと指摘されたのに、「さっさと進んではダメ。1回1回ちゃんと止まってから次の動作に移りなさい」と言われたり、抑揚をつけて謡うようにとアドバイスされたのに、「声のリズムを変えてはダメ。もっとさらさらと謡いなさい」と言われたりする。もちろん、単にこちら側の技量不足が原因ではあるものの、言われた側は「あれ、前と言っていることが違う」と頭の中が混乱する。だが、その混乱を乗り越えて、「どうすればいい舞/謡いになるのか」を自分なりに研究することに稽古の面白さがあった。もちろん、師匠のことは誰もが非常に尊敬していた。
人事評価はどこまで曖昧さが許されるのか?
1対1の関係では「一部が曖昧な」評価基準の人が信頼されるとしても、会社の人事評価では曖昧さは許されるのだろうか?もともと日本の人事制度は能力主義に基づいており、非常に曖昧な評価がされていた。だがそれではダメだろうということで欧米から成果主義が輸入され、評価基準を厳格に決める方向にシフトした。成果主義型の人事評価では、期初に会社の目標・部署の目標をブレイクダウンして各個人の目標を可能な限り定量的に設定し、期末には目標の達成度合いで評価を決定する。しかし、最近では成果主義の弊害が目立つようになり、再び人事評価は見直しの時期を迎えている。
成果主義の問題の1つとして、目標が適切に設定されていないという点がしばしば挙げられる。達成容易な目標を立てて、評価を水増ししようとする人が出てくるということだ。しかし私は、仮に期初の段階で各個人の目標が完璧に設定されたとしても、従来型の成果主義では問題があると思っている。
期初に立てた目標は、期初の段階における会社の内外環境を踏まえたものだ。期中に環境変化が起きて、当初の目標が意味をなさなくなることも少なくない。その場合は、会社の未来を創るために、当初の想定にはなかった仕事をしなければならない。だが、従来型の成果主義ではそうした活動は一切評価されず、会社の過去を守るための活動ばかりが評価されることになる。
「当初想定していなかったが、会社の未来のために必要な仕事」−これを評価する仕組みにしなければならない。そうすると、自ずと評価基準に曖昧さが生まれることになる。なぜならば、想定外の仕事ゆえに、あらかじめ評価基準など持ちようがないからだ。期末の段階で、当初想定していなかった仕事について、「会社の未来にどれだけ貢献したか?」という観点で評価する。きわめて主観的な評価しかできないが、それでもいい。
個人的には、評価基準があらかじめ決まっているのは80%ぐらいで、20%ぐらいは「未来への貢献」という曖昧な項目で評価してもいいのではないかと思っている。場合によっては後者の割合をもっと増やしてもいい。会社が決めた評価基準のために仕事をする人ばかりにせず、未来にチャレンジする社員を増やすためにも必要な方策ではないだろうか?
ちなみに、この本の著者はこんなことも述べている。
「経験上の話だが、大学の授業では、試験のような相対評価や到達度評価だけではなく、『平常点』といった、学生にとっては『なんだかゴールがよく見えない』認定評価法を混ぜたほうが、熱意が維持されやすい。」
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