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November 30, 2005
「大学における教育と研究は分離しない方がよい」と考えを改めた
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私が学生時代に大学の問題について関心を抱いていた頃、大学においては教育者と研究者の役割を明確に分離した方がよいと考えたことがありました。通常、大学教授は自ら設定したテーマに従って研究を進めると同時に、学生を対象に講義も行います。私が考えていたのはこうした慣例に反して、研究を担当する研究者と、講義を担当する教育者を別々に配置すべきだということです。
これには2つの理由がありました。一つは、大学教授は自分の研究を優先しがちで、講義がなおざりになりやすいということです(ただし、これは一般論としてではなく、私が学生時代に感じていたことです)。要するに、大学教授の負担が重過ぎるのではないかと思っていました。もう一つは、教授あるいはそれに準するポストの不足という問題です(これも一般論というより、私がいた大学で顕著に見られた現象でした)。研究職を目指し、やがては大学で教鞭をとりたいと願う学生の数に比して、大学側のポストがあまりに足りていませんでした。研究者と教育者を分離すれば自ずとポストが増えるため、この問題が解消されると思ったのです。
しかし最近になって、事はそう簡単には運ばないと自分の考えを改めることにしました。やはり、大学教授はたとえ負担が重くなろうとも、研究と教育の役割を同時に担うべきであると私は思います。
大学が扱う知識は、初等教育のそれとはかなり異なります。初等教育で教える知識は、広く一般的であると言えるほどに、社会的に正当性を認められた知識です。初等教育の知識は、一定の時間をかけて市民権を獲得した、いわば古典的な知識と言えます。それは、あらゆる者が容易にアクセスし、習得することが可能です。これに対して、大学が扱う知識は高度に専門的であり、古典的でありながら同時に最先端のものでもなければなりません。常に更新される知識であり、習得するためには時間も費用も必要です。
この点を考慮すると、大学において教育者と研究者を分離することには2つの致命的な問題が潜んでいることになります。第一に、教育者が最新の知識を教授するためには、一度研究者からその知識を学ぶ必要が生じます。これには並々ならぬ時間と費用がかかるため、かなり非効率です。そして第二に、教育に対する熱意の問題です。人に何かを教えようとする時、その知識を通常の方法で学んだ者よりも、知識の発見と洗練に実際に関与した者の方が、より献身的に知識を教えることができるだろうというのが、私達の経験則であると言えます。
大学教授が教育と研究の両方を担当するのは荷が重過ぎるとしても、双方に責任を有することこそが大学そして大学教授の使命であると言うより他はありません。さらに、今後大学の社会的な地位が高まり、大学が20歳前後の若者だけではなく、社会人教育に本格的に乗り出せば、教授陣のポスト不足という問題はそれほど深刻なものではなくなるような気がします。
これには2つの理由がありました。一つは、大学教授は自分の研究を優先しがちで、講義がなおざりになりやすいということです(ただし、これは一般論としてではなく、私が学生時代に感じていたことです)。要するに、大学教授の負担が重過ぎるのではないかと思っていました。もう一つは、教授あるいはそれに準するポストの不足という問題です(これも一般論というより、私がいた大学で顕著に見られた現象でした)。研究職を目指し、やがては大学で教鞭をとりたいと願う学生の数に比して、大学側のポストがあまりに足りていませんでした。研究者と教育者を分離すれば自ずとポストが増えるため、この問題が解消されると思ったのです。
しかし最近になって、事はそう簡単には運ばないと自分の考えを改めることにしました。やはり、大学教授はたとえ負担が重くなろうとも、研究と教育の役割を同時に担うべきであると私は思います。
大学が扱う知識は、初等教育のそれとはかなり異なります。初等教育で教える知識は、広く一般的であると言えるほどに、社会的に正当性を認められた知識です。初等教育の知識は、一定の時間をかけて市民権を獲得した、いわば古典的な知識と言えます。それは、あらゆる者が容易にアクセスし、習得することが可能です。これに対して、大学が扱う知識は高度に専門的であり、古典的でありながら同時に最先端のものでもなければなりません。常に更新される知識であり、習得するためには時間も費用も必要です。
この点を考慮すると、大学において教育者と研究者を分離することには2つの致命的な問題が潜んでいることになります。第一に、教育者が最新の知識を教授するためには、一度研究者からその知識を学ぶ必要が生じます。これには並々ならぬ時間と費用がかかるため、かなり非効率です。そして第二に、教育に対する熱意の問題です。人に何かを教えようとする時、その知識を通常の方法で学んだ者よりも、知識の発見と洗練に実際に関与した者の方が、より献身的に知識を教えることができるだろうというのが、私達の経験則であると言えます。
大学教授が教育と研究の両方を担当するのは荷が重過ぎるとしても、双方に責任を有することこそが大学そして大学教授の使命であると言うより他はありません。さらに、今後大学の社会的な地位が高まり、大学が20歳前後の若者だけではなく、社会人教育に本格的に乗り出せば、教授陣のポスト不足という問題はそれほど深刻なものではなくなるような気がします。
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