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November 05, 2005
ビジネスパーソンは一般教養としてのマネジメントを必要としている
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>>以前に書いた類似の記事はこちら⇒「ドラッカーが説く『一般教養としてのマネジメント』」
マネジメントは組織で仕事を行うあらゆる人々にとっての一般教養であるべきだ、というのは私の一貫した主張であり、マネジメントが経営層あるいはマネジャーの仕事であるという通説的な見解とは立場を異にするものです。
物理学者でフランスの教育革命をリードしたポール・ランジュバンの言葉を借りれば(※注)、一般教養とは「職業的専門化とは独立に、私達を現実との接触に準備させる一切のもの」と言えるでしょう。私達は生計を立てるためであれ、あるいは自己実現をするためであれ、理由はともかくとして何らかの職業に就き、何らかの仕事を手にしています。ところで、私達の仕事にとって「現実」とは何かといえば、私達は必ず「組織」という道具を通じて仕事を行う、ということに他なりません。組織と個人が対等な関係になりつつあるとか、インデペンデント・コントラクター(Independent Contractor)が急増しているといった話題に触れると、組織の相対的な地位が低下しているかのような印象を受けますが、実際には全く逆であり、組織の重要性はますます大きくなっています。インデペンデント・コントラクターのほうがむしろ組織を必要としているのです。
19世紀には組織の代表格である企業は、労働者の全人格的な支配を目指しました。人間を雇用しておきながら、まるで手足のみを給料と引き換えに買い取っているかのような扱いをしました。20世紀になって、企業は19世紀型からの脱却を図り、労働者を生存権主体として尊重し、社会に対して負うべき義務や使命に目覚め、適正な成果を上げることを目指す方向へと転換を遂げました。これにより、企業は初期資本主義の禍根を徐々に克服してきたのです。
私達は、かつて奴隷として身体を差し出していた組織を、経済社会的な手段として見なすことができるようになりました。そして今や、昨日の敵は今日の友とでも言わんばかりに、組織を求めています。その意味では確かに、個人と組織は対等な関係になりつつあるとも言えます。しかしながらそれは、個人の力が強大になったという、一種の驕りを意味するというよりもむしろ、あらゆる個人が組織という道具の使途について理解し、責任を有することを要求されていると読むべきなのです。組織で働くあらゆる個人は、様々な個人の諸活動を組織に集約して、組織が望むべき成果を上げ、以って経済社会的な進歩に貢献するための原則、すなわちマネジメントについて理解し、その原則を責任を持って実行しなければならないと思うのです。
マネジメントの主体は「あらゆる個人」であって、経営陣やマネジャーといった一部の人々に限るべきものではありません。
例えば経営者が「参加型経営」を掲げて従業員を経営に参加させたところで、肝心の従業員が戦略の構築や、マーケティング、イノベーション、資金の目標などについて理解していなければ、あれこれ意見は出るものの集約はされず、船頭多くして船山に登るだけでしょう。
例えばマネジャーが従業員を意思決定に加えたところで、意思決定が対象とする問題とはいかなるものか、効果的な意思決定の手順とは何か、(アンカー効果など)意思決定が陥りやすい傾向は何かについて従業員が理解していなければ、結局意思決定は歪められるでしょう。
例えばリーダーが「サーバント・リーダーシップ(リーダーが部下をリードするのではなく、部下に仕えることによって部下の力を最大限に発揮させようとするリーダーシップ)」を導入しようとしたところで、優れたリーダーを作るのは優れた部下であることを部下自身が理解していなければ、部下はリーダーのことを単に頼りないと思うだけでしょう。
例えばマネジャーがナレッジ・マネジメントを導入し、グループウェアを活用して従業員の暗黙知を形式知に変換して蓄積しようとしたところで、従業員自身が組織の知識戦略について理解していなければ、グループウェアに投稿されるのはとりとめのない情報ばかりになるでしょう。
マネジメントはあらゆる組織人が必要としている一般教養なのです。20世紀はマネジメントが発見され、大きく花開いた世紀でしたが、21世紀のマネジメントの大きな課題は、マネジメントを広く一般に浸透させることだと思います。
(※注)
ポール・ランジュバンは、一般教養として科学を教育する必要性を説いた際、一般教養とは「職業的専門化とは独立に、子どもを現実との接触に準備させる一切のもの」と述べた。
マネジメントは組織で仕事を行うあらゆる人々にとっての一般教養であるべきだ、というのは私の一貫した主張であり、マネジメントが経営層あるいはマネジャーの仕事であるという通説的な見解とは立場を異にするものです。
物理学者でフランスの教育革命をリードしたポール・ランジュバンの言葉を借りれば(※注)、一般教養とは「職業的専門化とは独立に、私達を現実との接触に準備させる一切のもの」と言えるでしょう。私達は生計を立てるためであれ、あるいは自己実現をするためであれ、理由はともかくとして何らかの職業に就き、何らかの仕事を手にしています。ところで、私達の仕事にとって「現実」とは何かといえば、私達は必ず「組織」という道具を通じて仕事を行う、ということに他なりません。組織と個人が対等な関係になりつつあるとか、インデペンデント・コントラクター(Independent Contractor)が急増しているといった話題に触れると、組織の相対的な地位が低下しているかのような印象を受けますが、実際には全く逆であり、組織の重要性はますます大きくなっています。インデペンデント・コントラクターのほうがむしろ組織を必要としているのです。
19世紀には組織の代表格である企業は、労働者の全人格的な支配を目指しました。人間を雇用しておきながら、まるで手足のみを給料と引き換えに買い取っているかのような扱いをしました。20世紀になって、企業は19世紀型からの脱却を図り、労働者を生存権主体として尊重し、社会に対して負うべき義務や使命に目覚め、適正な成果を上げることを目指す方向へと転換を遂げました。これにより、企業は初期資本主義の禍根を徐々に克服してきたのです。
私達は、かつて奴隷として身体を差し出していた組織を、経済社会的な手段として見なすことができるようになりました。そして今や、昨日の敵は今日の友とでも言わんばかりに、組織を求めています。その意味では確かに、個人と組織は対等な関係になりつつあるとも言えます。しかしながらそれは、個人の力が強大になったという、一種の驕りを意味するというよりもむしろ、あらゆる個人が組織という道具の使途について理解し、責任を有することを要求されていると読むべきなのです。組織で働くあらゆる個人は、様々な個人の諸活動を組織に集約して、組織が望むべき成果を上げ、以って経済社会的な進歩に貢献するための原則、すなわちマネジメントについて理解し、その原則を責任を持って実行しなければならないと思うのです。
マネジメントの主体は「あらゆる個人」であって、経営陣やマネジャーといった一部の人々に限るべきものではありません。
例えば経営者が「参加型経営」を掲げて従業員を経営に参加させたところで、肝心の従業員が戦略の構築や、マーケティング、イノベーション、資金の目標などについて理解していなければ、あれこれ意見は出るものの集約はされず、船頭多くして船山に登るだけでしょう。
例えばマネジャーが従業員を意思決定に加えたところで、意思決定が対象とする問題とはいかなるものか、効果的な意思決定の手順とは何か、(アンカー効果など)意思決定が陥りやすい傾向は何かについて従業員が理解していなければ、結局意思決定は歪められるでしょう。
例えばリーダーが「サーバント・リーダーシップ(リーダーが部下をリードするのではなく、部下に仕えることによって部下の力を最大限に発揮させようとするリーダーシップ)」を導入しようとしたところで、優れたリーダーを作るのは優れた部下であることを部下自身が理解していなければ、部下はリーダーのことを単に頼りないと思うだけでしょう。
例えばマネジャーがナレッジ・マネジメントを導入し、グループウェアを活用して従業員の暗黙知を形式知に変換して蓄積しようとしたところで、従業員自身が組織の知識戦略について理解していなければ、グループウェアに投稿されるのはとりとめのない情報ばかりになるでしょう。
マネジメントはあらゆる組織人が必要としている一般教養なのです。20世紀はマネジメントが発見され、大きく花開いた世紀でしたが、21世紀のマネジメントの大きな課題は、マネジメントを広く一般に浸透させることだと思います。
(※注)
ポール・ランジュバンは、一般教養として科学を教育する必要性を説いた際、一般教養とは「職業的専門化とは独立に、子どもを現実との接触に準備させる一切のもの」と述べた。
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