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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
August 16, 2010
最初の動機は不純だって構わないんじゃないか?
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本ブログでは動機の構造について何度か記事を書いてきた。
「動機」の構造を自分なりにまとめてみた−『"働く"をじっくりみつめなおすための18の講義』
入社後3年目までのキャリア開発−仕事の仕組みを知り、自分の得手・不得手を見極める
入社後4年目からのキャリア開発−内発的動機を育て、仕事に自分色を加える
「社員の7割が障害者」日本理化学工業・大山泰弘会長のインタビューに感動
「内発的動機と外発的動機のどっちが重要か?」という問いは意味があるか?
動機には大きく分けると、他者からの評価や報酬によって触発されるという「外発的動機」と、自分の興味や価値観を源泉とする「内発的動機」の2種類がある。「お金が欲しい」、「出世したい」という利己的な外発的動機はどちらかというと不純なものとされ、「何か社会に影響を与えることを実現したい」、「世のため人のためになりたい」という使命感にも似た内発的動機の方が崇高なものとみなされる傾向がある。
私自身は猜疑心が強い人間なので、最初から「世の中を変えてみたい」とか「社会に貢献したい」と熱っぽく語る人を見ると、「どこか裏があるのではないか?」と勘ぐってしまう(そのせいで人脈を広げられず、損をすることもあるのだが…)。表面上は立派な理念や大義名分を掲げていても、いざふたを開けてみたら自分の利益や特定の集団の利害を増長することが目的だったという話は枚挙に暇がない。つまり、内発的動機を装って、実際には外発的動機に突き動かされていたというわけだ。特に政治の世界では、こういうことがよく起こっているように感じる。
誤解を恐れずに言えば、私自身は別に外発的動機が全くの悪だと主張したいのではない。動機の順番が問題なのだ。リーダーが最初に「この改革は皆のためだ」と言っておきながら、実は裏で私服を肥やしていたと解ったら、少なくとも私はどこか騙された気分になる。
だが、内発的動機と外発的動機の順番が入れ替わって、「この改革をすると私自身は儲かるが、やがては皆さんのためにもなる」と言われると、不思議とその潔いほどの正直さに人間味を覚えて、その人を信頼してみようという気分になるのである。それはちょうど、手塚治虫が描いたブラック・ジャックが、拝金主義にまみれて違法に荒稼ぎしながらも、実は正規の医師以上に純粋な正義を追求し、生命の尊さを訴える姿に共感してしまうのに似ている。
これを「漫画だから」という一言で片付けるのは簡単だが、実際の世界でも同じような例を発見することができる。社会的使命感を持った起業家の代表格とも言える松下幸之助ですら、最初に事業を始めた時はお金のために働いていたことを認めている。
本ブログで最近たびたび紹介している渋沢栄一も、最初から日本に資本主義を確立しようと思っていたわけではない。渋沢は幕末に一橋家に仕官し、幕府の費用でフランスを訪れる機会を得た。しかし、フランス滞在中に大政奉還が行われ、幕府は消滅してしまった。
一橋家に忠義を尽くすならば、日本に帰って慶喜の元に身を寄せるのが筋である。ところが、渋沢はそうはしなかった。幕府が倒れた今となっては、帰国しても身の保証はない。それよりも、いくばくかのお金があることだし、せっかくフランスで勉強するチャンスを与えてもらったのだから、それを最大限に活かすことにした。渋沢はフランスの社会を隅々まで観察して知識を吸収し、同時にフランス人から学んだ資産運用で手持ち資金を運用してかなりのリターンを得たという。
渋沢の動機は、武士としては決して褒められたものではない。だが、この時渋沢が大義名分を貫いていたならば、「日本の近代資本主義の父」は誕生しなかったであろう。
例が古いという声も聞こえてきそうなので、もう1つ最近の話を紹介したい。前ベイン&カンパニー東京事務所代表パートナーで、現在は維真塾を主宰する山本真司氏の話である。これは友人から教えてもらったのだが、山本氏はある講演で、「最初から世のため人のためみたいな動機で仕事をする人は成功しにくい。生活のためとか、コンプレックスとか、もっとネガティブな動機で始めて馬力をつけた人が途中で崇高な動機に目覚めると化ける」とおっしゃっていたそうだ。
周囲からの批判を恐れて、不純な外発的動機を隠す必要は全くない。不純な動機を取り繕うために、聞こえのいい理想や大義名分を掲げることの方がよっぽど恥ずかしいことだ。不純な外発的動機は、とりわけ物事を始めたばかりの時期にはこの上ない推進力となる。その力をうまく活用して、一気に物事を進めることが肝要だ。使命感やビジョンといった崇高な想いは、もっと後になってから考えても遅くないと思うのである。
「動機」の構造を自分なりにまとめてみた−『"働く"をじっくりみつめなおすための18の講義』
入社後3年目までのキャリア開発−仕事の仕組みを知り、自分の得手・不得手を見極める
入社後4年目からのキャリア開発−内発的動機を育て、仕事に自分色を加える
「社員の7割が障害者」日本理化学工業・大山泰弘会長のインタビューに感動
「内発的動機と外発的動機のどっちが重要か?」という問いは意味があるか?
動機には大きく分けると、他者からの評価や報酬によって触発されるという「外発的動機」と、自分の興味や価値観を源泉とする「内発的動機」の2種類がある。「お金が欲しい」、「出世したい」という利己的な外発的動機はどちらかというと不純なものとされ、「何か社会に影響を与えることを実現したい」、「世のため人のためになりたい」という使命感にも似た内発的動機の方が崇高なものとみなされる傾向がある。
私自身は猜疑心が強い人間なので、最初から「世の中を変えてみたい」とか「社会に貢献したい」と熱っぽく語る人を見ると、「どこか裏があるのではないか?」と勘ぐってしまう(そのせいで人脈を広げられず、損をすることもあるのだが…)。表面上は立派な理念や大義名分を掲げていても、いざふたを開けてみたら自分の利益や特定の集団の利害を増長することが目的だったという話は枚挙に暇がない。つまり、内発的動機を装って、実際には外発的動機に突き動かされていたというわけだ。特に政治の世界では、こういうことがよく起こっているように感じる。
誤解を恐れずに言えば、私自身は別に外発的動機が全くの悪だと主張したいのではない。動機の順番が問題なのだ。リーダーが最初に「この改革は皆のためだ」と言っておきながら、実は裏で私服を肥やしていたと解ったら、少なくとも私はどこか騙された気分になる。
だが、内発的動機と外発的動機の順番が入れ替わって、「この改革をすると私自身は儲かるが、やがては皆さんのためにもなる」と言われると、不思議とその潔いほどの正直さに人間味を覚えて、その人を信頼してみようという気分になるのである。それはちょうど、手塚治虫が描いたブラック・ジャックが、拝金主義にまみれて違法に荒稼ぎしながらも、実は正規の医師以上に純粋な正義を追求し、生命の尊さを訴える姿に共感してしまうのに似ている。
これを「漫画だから」という一言で片付けるのは簡単だが、実際の世界でも同じような例を発見することができる。社会的使命感を持った起業家の代表格とも言える松下幸之助ですら、最初に事業を始めた時はお金のために働いていたことを認めている。
ぼくでも、最初は飯を食うために働いたにすぎなかった。しかし、1年、2年たつに従って、また、人が10人、20人集まってくるに従って、だんだん考えざるをえなくなってきた。年じゅう、なんとなしに働いていたのではすまん気がして、これではいかん、一つの理想というか使命というか、そういうものが、ぼく自身ほしくなった。
松下 幸之助 PHP研究所 2009-08-29 おすすめ平均: いくつもの原理原則が著者ならではの解り易い言葉で語られている 人生の基本 確固たる経営理念の元に危機を乗り切る |
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本ブログで最近たびたび紹介している渋沢栄一も、最初から日本に資本主義を確立しようと思っていたわけではない。渋沢は幕末に一橋家に仕官し、幕府の費用でフランスを訪れる機会を得た。しかし、フランス滞在中に大政奉還が行われ、幕府は消滅してしまった。
一橋家に忠義を尽くすならば、日本に帰って慶喜の元に身を寄せるのが筋である。ところが、渋沢はそうはしなかった。幕府が倒れた今となっては、帰国しても身の保証はない。それよりも、いくばくかのお金があることだし、せっかくフランスで勉強するチャンスを与えてもらったのだから、それを最大限に活かすことにした。渋沢はフランスの社会を隅々まで観察して知識を吸収し、同時にフランス人から学んだ資産運用で手持ち資金を運用してかなりのリターンを得たという。
渋沢の動機は、武士としては決して褒められたものではない。だが、この時渋沢が大義名分を貫いていたならば、「日本の近代資本主義の父」は誕生しなかったであろう。
例が古いという声も聞こえてきそうなので、もう1つ最近の話を紹介したい。前ベイン&カンパニー東京事務所代表パートナーで、現在は維真塾を主宰する山本真司氏の話である。これは友人から教えてもらったのだが、山本氏はある講演で、「最初から世のため人のためみたいな動機で仕事をする人は成功しにくい。生活のためとか、コンプレックスとか、もっとネガティブな動機で始めて馬力をつけた人が途中で崇高な動機に目覚めると化ける」とおっしゃっていたそうだ。
周囲からの批判を恐れて、不純な外発的動機を隠す必要は全くない。不純な動機を取り繕うために、聞こえのいい理想や大義名分を掲げることの方がよっぽど恥ずかしいことだ。不純な外発的動機は、とりわけ物事を始めたばかりの時期にはこの上ない推進力となる。その力をうまく活用して、一気に物事を進めることが肝要だ。使命感やビジョンといった崇高な想いは、もっと後になってから考えても遅くないと思うのである。
July 17, 2010
岩崎・渋沢の相克、そして龍馬・陸奥が張った意外な伏線(2)−『岩崎弥太郎「三菱」の企業論』
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(昨日の続き)
岩崎は徹底した「専制主義」で経営を行い、会社の利益を独占しようとした。これに対して渋沢は、フランス留学で持ち帰った株式会社の知識に忠実に従い、多数の出資者による会社設立を基軸とする「合本主義」を貫いた。2人の思想はしばしば激しい対立を引き起こした。最も深刻だったのが、「郵便汽船三菱会社」と「共同運輸会社」の対立である。
共同運輸会社は、海運を独占する岩崎に対抗して、三井系の人間と渋沢、そして政府も加わってその名の通り共同で設立した半官半民の株式会社である。2社の激しい競争は著しい価格下落を招き(横浜〜神戸間の三等運賃が5円50銭から55銭に下がるという、とんでもない値下げであった)、双方の経営状態が危ぶまれるほどの深刻なダメージを与えた。そこで両社は協議を行い、合併によって会社を存続する道を選択したのである。こうして生まれたのが現在の日本郵船だ。
合併当初の日本郵船の株主比率を見ると、三菱より共同運輸の方が上であった。ここだけを取り上げれば、岩崎が渋沢に敗れたかのようであるのだが、岩崎は非常にしたたかな人間であった。実のところ、日本郵船が成立した時、岩崎は病に倒れ、既に故人になっていた。だが、残った岩崎家の人々が共同運輸の株を買いあさり、日本郵船の過半数の株式を握ってしまう。やがて、経営陣から共同運輸側の人間を締め出し、三菱側の人間に挿げ替えてしまったのである。
渋沢はこれ以外にも何度か岩崎に煮え湯を飲まされている。渋沢が設立に関わった「第一国立銀行」でも岩崎による株式の買い占めを食らったし、共同運輸より以前に三井物産が三菱に対抗するために設立し、渋沢も役員となっていた「東京風帆船会社」に対しては、岩崎が渋沢を中傷する文章をメディアに書かせて妨害工作を働いている。岩崎は「合本主義」の弱点を突くような攻撃を何度も仕掛けてきた。それにもかかわらず、渋沢は岩崎を終身憎むことはなかったという。
著者である中野明氏は、岩崎と渋沢の思想について、ゲーム理論を使いながら次のように説明している。
選択肢が競争か協調かという資本主義の戦いにおいて、道徳経済合一という「資本の倫理」に軸足を置く渋沢の思想は、圧倒的に不利な立場にある。渋沢の思想は基本的に競争を好まないからである。「囚人のジレンマ」では、2人が協調(=自白)した方がお互いにとってメリットがあるにもかかわらず、各人は自分の利益を優先して裏切り(=黙秘)を行う。この場合、全体としては最適な選択にはならない。さらに、一方が自白をし、もう一方が黙秘をすると、黙秘をした方が逃げ得となり、自白した方は重罰を受ける。著者はこの構図を岩崎VS渋沢にも当てはめている。
(中略)渋沢の思想が、好戦的な弥太郎の思想と真っ向勝負になると、戦いは渋沢の思想が常に不利になる。さらに押し広げると、競争が基本である資本主義にあって、資本の倫理は資本の論理に対して、常に弱い立場に甘んじるしかない。
しかし、この説明はやや物足りない。というのも、『論語と算盤』を読めば解るように、渋沢は決して競争を避けていたわけではないからだ。むしろ、競争原理の強力な支持者である。岩崎と渋沢の対立の焦点は、「独占を許すか否か?」という1点に尽きる。
独占理論は、ドラッカーが『企業とは何か−その社会的な使命』の中で指摘したように、「供給が限られ、需要が無限に存在する場合」にのみ成立する理論である。あるいは、初期投資が莫大で、かつ収穫逓増の法則が当てはまるような公共事業においても、独占の有効性が認められている。
しかし、岩崎が行っていた海運ビジネスはこのどちらにも当てはまらない。既に外国船が日本の海運市場に多数参入していたため、むしろ供給過多の状態であった。また、電力や水道・ガス事業に比べれば、海運事業の初期投資などたかが知れている。よって、独占を許すと三菱が儲かる一方で、社会的便益が著しく損なわれる可能性があるのだ。
渋沢がどの程度まで当時の経済理論を学習していたのか現時点で情報を収集しきれていないのだが、渋沢は一企業の利益よりも国家全体の利益を常に考えていた。そのためには独占を排除し、競争を促進すべきだという信念の持ち主であった。
そう考えると、岩崎が「資本の論理」(つまり、資本主義の王道を走っている)の擁護者であり、渋沢が「資本の倫理」(資本主義の暴走を倫理で牽制する)の支持者であるという著者の説明はむしろ逆で、渋沢こそが資本主義の王道を走っていたのであり、岩崎は資本主義の黎明期に見られる特殊なパターン(※)であったと解釈した方がよさそうな気がするのである。
(※)後発の資本主義国では、資本主義を浸透させるために社会主義的な動き=資本の専有が見られることが多い。かつての韓国や現在のインドでは財閥が強い力を持っているし、中国でも資本主義を推進したのは民間に払い下げられた国営企業が中心である。
July 16, 2010
岩崎・渋沢の相克、そして龍馬・陸奥が張った意外な伏線(1)−『岩崎弥太郎「三菱」の企業論』
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三菱を作り上げた明治の実業家・岩崎弥太郎の実像を、同時代に活躍した渋沢栄一、小栗忠順、坂本龍馬、三野村利左衛門、中上川彦次郎らとの比較を通じて描き出した1冊。幕末に「会社」という概念が生まれ、欧米から輸入された「株式会社」の仕組みが明治維新後に徐々に高度化していく様子が解って、個人的にはとても面白かった。
三菱の誕生には、実は坂本龍馬の海援隊が深く関連していることをこの本で初めて知った。海援隊の前身は「亀山社中」という結社であり、龍馬を始めとする土佐の武士たちで組織されていた。亀山社中を結成する以前、龍馬は勝海舟に弟子入りしており、神戸海軍操練所で航海術の訓練を受けていた。ところが、勝が幕府に対して謀反を企てているのではないかとの疑惑が浮上し、神戸海軍操練所は解散させられてしまう。勝の蟄居に伴い行き場を失った龍馬は、西郷隆盛がいる薩摩藩で世話になることになった。
後に龍馬は薩摩から長崎の亀山に移り、そこで亀山社中を立ち上げる。亀山社中は商社のような組織であり、薩長間の武器や食料の売買を仲介していた。これは龍馬が画策していた薩長同盟の一環でもある。その後、亀山社中は、後藤象二郎の手により出身母体である土佐藩の傘下に入る。これを機に、亀山社中は「海援隊」に改名する。海援隊のミッションは、「世界規模で商社ビジネスを展開すると」いう非常に野心に満ちたものであった。
興味深いことに、ここで陸奥宗光が登場する。陸奥と言えば、「カミソリ大臣」の異名を持つ外務大臣として、不平等条約の改正に辣腕を振るったことが有名であるが、海援隊時代には後の商社ビジネスの基礎となる重要な提言をいくつか行っているのだ。
陸奥は龍馬に対し、「商法の愚案」という文章の中で「海上保険」と「船為替(今で言うところの荷為替手形)」という新しいサービスを提案している。これらはおそらく、陸奥が外国商人と取引する中で学んだものだろう。商社は単に物資を運ぶだけでなく、付帯的なサービスをパッケージすることでトータルソリューションを提供するという思想は、後の三菱にちゃんと受け継がれている。そういう意味では、陸奥の「商法の愚案」は後世に大きな影響を与えた。同書を通じて、陸奥の意外な功績を垣間見ることができた。
さて、前置きが長くなったが、海援隊と岩崎弥太郎はどこで交わったのか?土佐藩の後藤象二郎は、藩内に「開成館」という組織を設け、土佐藩の産物を諸藩や外国に販売しようとした。後藤は同時に、開成館の出先機関として長崎に「土佐商会」を設置し、岩崎をその担当に任命した。諸々の事情があって、土佐商会は海援隊の給与支払窓口としての機能も持つようになり(普通に考えると変な構図だが…)、ここで岩崎と龍馬の接点が生まれたのである。
海援隊や開成館、土佐商会は明治維新前の組織であり、本来の株式会社の形態とは程遠いものであった。一方、明治時代に入って、欧米の「株式会社」の概念が輸入されると、殖産興業の名の下に次々と株式会社が誕生する。岩崎は龍馬の死によって消滅した海援隊の流れを受け継いで、三菱商会を設立する。そして実業界には、華々しい官僚のキャリアを捨て、「論語で経営をしてみせる」と豪語した渋沢栄一が参入してくる。明治時代における株式会社の発展の歴史は、紛れもなく「岩崎VS渋沢」の相克の歴史であったと言える。
(その2へ続く)