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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
March 12, 2010
感情は問題提起のサインである
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先日の記事「果たして意思決定に感情は不要なのか?」では、感情を完全に取っ払えば人間は合理的な意思決定ができるわけではなく、感情は理性と連携を取りながら意思決定を導き出しているという脳科学の研究を紹介した。しかし一方で、感情が意思決定を歪めるケースが多いことも指摘した(「怒り」が合理的な意思決定を歪める一例として、「最後通牒ゲーム」がある)。
兵法の最高の教科書と言われる『孫子』には、「主は怒りを以て師を興すべからず、将は慍(いか)りを以て戦を封ずべからず」という一文がある。怒りは戦いにおける合理的な意思決定を妨げ、自らの命を危険にさらすと孫子は警告しているのである。
中国の三国時代、袁紹(えんしょう)という人物はこの過ちを犯し、自滅の道をたどった。袁紹は当初、後漢の政権を脅かした董卓(とうたく)を倒して漢を復興することを目指していた。袁紹の元には曹操がいた。しかし曹操は、董卓に対していつまでも煮え切らない態度を取る袁紹から次第に距離を置くようになり、魏国の地盤を広げて独自の勢力を形成した。ついに両者は「官渡の戦い」(官渡は現在の河南省中牟の近く)で激突する。
官渡で両者の膠着が続いた時、袁紹の臣下は『孫子』に基づいて官渡の死守にこだわらない別の作戦を進言した。だが、袁紹はそれを無視した。袁紹は官渡の戦いの前哨戦で曹操の誘導作戦にまんまと引っかかり、2人の武将を失ったがゆえに怒り心頭であったようだ。袁紹はあくまでも官渡で戦いを続けることに固執し、無茶な攻城法に出た。その作戦は、孫子が「莫大な資源と労力を必要とするから、やむを得ない時にしかやってはいけない」と警告した作戦であった。
孫子の警告通り、袁紹の無理がたたって軍は大いに疲弊し、膠着状態は解決しなかった。最終的には、袁紹の重臣である許攸(きょゆう)が袁紹を見限って曹操に降伏したため、袁紹軍は総崩れとなった。袁紹は曹操に対するつまらない怒りが原因で、合理的な意思決定ができなくなってしまったのである。(※)
冒頭の記事では、最終的に私の中で「意思決定にプラスに作用する感情は『冷静さ』ぐらいではないか?」という結論に達したわけだが、ここで1つ別の疑問が出てくる。それは「感情は何のためにあるのか?」ということである。感情が意思決定にマイナスの影響を及ぼすことが多いのであれば、我々が感じる不安や怒り、競争心あるいは喜びなどの感情は、一体何のために存在するのだろうか?
本当に突き詰めて考えると脳科学や心理学、哲学の専門的な分野に入っていく必要がありそうなので止めておくが、マネジメントの世界で感情の意義を考えるならば、それは「組織における問題発生のサインである」というのが私の考えである。
以前、「『小さな問題意識』が若手社員のキャリア開発のきっかけとなる」という記事で、銀行に勤める私の知人の苦悩を紹介した。彼は銀行の方針に対して不安を抱えている。しかしながら、不安に煽られて衝動的に上司に掛け合ったり、何か運動を起こしてみたりしても何の効果もないだろう。彼は冗談半分で「政治家になって金融庁の方針を変えさせてやりたいよ」などと言っていたが、だからと言って「じゃあ、明日から銀行を辞めて次の国会議員選挙に出馬します!」とはならない。
彼が感じる不安は、今の銀行のマネジメントに潜む何らかの深刻な問題のサインと言える。彼に必要なのは、果たして銀行の方針がころころ変わるのはなぜなのか?本当の問題はどこにあるのか?その問題を解決するためにはどうすればいいのか?今動くべきなのか、もっと年月が経って自分の意見に同調してくれる味方が増え、昇進に伴って権限が広がった時に動くべきではないのか?という冷静な分析と判断である。心の中に渦巻くマイナスの感情の存在に気づくことは非常に重要である。だが、その感情に任せて意思決定をすると道を踏み外す。マイナスの感情が芽生えた時には、「これは何かの問題のサインだ」と捉えて冷静にならないといけないのである。
ポジティブな感情でも同じようなことが言える。例えば、ある新製品が大ヒットし、嬉しくて興奮しているマネジャーがいるとしよう。彼は、今のうちに売れるだけ売ってしまおうと考え、勢いに任せて営業担当者をガンガン採用する。だが、採用した社員はトレーニングもそこそこに現場に放り込まれ、マネジャー自身も一気に部下が増えたことで全員に目が行き届かなくなる。やがて、いい加減な営業活動に対する顧客からのクレームが増え、会社の売上と信用を落とすことになる。
この場合は興奮して積極攻勢に出るのではなく、一歩引いた視点から、「今わが社は成長期を迎えているが、現在の体制で果たしてやっていけるのか?」と問う必要がある。「勝って兜の緒を締める」という言葉があるように、一時の勝利で浮き足立っているようではダメだ。勝利の美酒は未来の問題に対する知覚を麻痺させる。
適度な競争心は組織や社員を成長させるが、過剰な競争心もまた組織を間違った方向に導く。例えば、ライバル会社を徹底的に潰すことばかりを考えていると、顧客のニーズに応えるという本来の事業の目的から遠ざかってしまい、顧客の離反を招く恐れがある。また、(再び営業の例で恐縮だが、)営業部門が売上偏重主義で、担当者の売上高による競争を煽りすぎると、営業担当者は自分の売上を立てることばかりを考えて重要な顧客情報やナレッジをお互いに共有しなかったり、違法すれすれの営業活動を平気でしたりするようになり、部門の雰囲気が殺伐としたものになっていく。もし自分の中に異常なまでの競争心が沸き起こってくるようならば、組織のどこかに何らかの歪みが生じている可能性があると考えた方が賢明だ。
感情は問題提起のサインである。だから決して無視してはいけない。だが、感情が問題を解決するわけではない。自分の中に通常とは異なる感情が湧き上がった時には、「今の組織に何かしらの問題が起きている予兆かもしれない」と冷静になることが大事だ。感情の赴くままに問題解決に取り組むのはご法度である。問題解決のための意思決定は、あくまでも「冷静」に下さなければならないのである。
(※)袁紹に関する記述は、山本七平「『孫子の兵法』で『三国志』を読む(第2回)」(『歴史に学ぶ』2009年6月)を参考にしている。
兵法の最高の教科書と言われる『孫子』には、「主は怒りを以て師を興すべからず、将は慍(いか)りを以て戦を封ずべからず」という一文がある。怒りは戦いにおける合理的な意思決定を妨げ、自らの命を危険にさらすと孫子は警告しているのである。
中国の三国時代、袁紹(えんしょう)という人物はこの過ちを犯し、自滅の道をたどった。袁紹は当初、後漢の政権を脅かした董卓(とうたく)を倒して漢を復興することを目指していた。袁紹の元には曹操がいた。しかし曹操は、董卓に対していつまでも煮え切らない態度を取る袁紹から次第に距離を置くようになり、魏国の地盤を広げて独自の勢力を形成した。ついに両者は「官渡の戦い」(官渡は現在の河南省中牟の近く)で激突する。
官渡で両者の膠着が続いた時、袁紹の臣下は『孫子』に基づいて官渡の死守にこだわらない別の作戦を進言した。だが、袁紹はそれを無視した。袁紹は官渡の戦いの前哨戦で曹操の誘導作戦にまんまと引っかかり、2人の武将を失ったがゆえに怒り心頭であったようだ。袁紹はあくまでも官渡で戦いを続けることに固執し、無茶な攻城法に出た。その作戦は、孫子が「莫大な資源と労力を必要とするから、やむを得ない時にしかやってはいけない」と警告した作戦であった。
孫子の警告通り、袁紹の無理がたたって軍は大いに疲弊し、膠着状態は解決しなかった。最終的には、袁紹の重臣である許攸(きょゆう)が袁紹を見限って曹操に降伏したため、袁紹軍は総崩れとなった。袁紹は曹操に対するつまらない怒りが原因で、合理的な意思決定ができなくなってしまったのである。(※)
冒頭の記事では、最終的に私の中で「意思決定にプラスに作用する感情は『冷静さ』ぐらいではないか?」という結論に達したわけだが、ここで1つ別の疑問が出てくる。それは「感情は何のためにあるのか?」ということである。感情が意思決定にマイナスの影響を及ぼすことが多いのであれば、我々が感じる不安や怒り、競争心あるいは喜びなどの感情は、一体何のために存在するのだろうか?
本当に突き詰めて考えると脳科学や心理学、哲学の専門的な分野に入っていく必要がありそうなので止めておくが、マネジメントの世界で感情の意義を考えるならば、それは「組織における問題発生のサインである」というのが私の考えである。
以前、「『小さな問題意識』が若手社員のキャリア開発のきっかけとなる」という記事で、銀行に勤める私の知人の苦悩を紹介した。彼は銀行の方針に対して不安を抱えている。しかしながら、不安に煽られて衝動的に上司に掛け合ったり、何か運動を起こしてみたりしても何の効果もないだろう。彼は冗談半分で「政治家になって金融庁の方針を変えさせてやりたいよ」などと言っていたが、だからと言って「じゃあ、明日から銀行を辞めて次の国会議員選挙に出馬します!」とはならない。
彼が感じる不安は、今の銀行のマネジメントに潜む何らかの深刻な問題のサインと言える。彼に必要なのは、果たして銀行の方針がころころ変わるのはなぜなのか?本当の問題はどこにあるのか?その問題を解決するためにはどうすればいいのか?今動くべきなのか、もっと年月が経って自分の意見に同調してくれる味方が増え、昇進に伴って権限が広がった時に動くべきではないのか?という冷静な分析と判断である。心の中に渦巻くマイナスの感情の存在に気づくことは非常に重要である。だが、その感情に任せて意思決定をすると道を踏み外す。マイナスの感情が芽生えた時には、「これは何かの問題のサインだ」と捉えて冷静にならないといけないのである。
ポジティブな感情でも同じようなことが言える。例えば、ある新製品が大ヒットし、嬉しくて興奮しているマネジャーがいるとしよう。彼は、今のうちに売れるだけ売ってしまおうと考え、勢いに任せて営業担当者をガンガン採用する。だが、採用した社員はトレーニングもそこそこに現場に放り込まれ、マネジャー自身も一気に部下が増えたことで全員に目が行き届かなくなる。やがて、いい加減な営業活動に対する顧客からのクレームが増え、会社の売上と信用を落とすことになる。
この場合は興奮して積極攻勢に出るのではなく、一歩引いた視点から、「今わが社は成長期を迎えているが、現在の体制で果たしてやっていけるのか?」と問う必要がある。「勝って兜の緒を締める」という言葉があるように、一時の勝利で浮き足立っているようではダメだ。勝利の美酒は未来の問題に対する知覚を麻痺させる。
適度な競争心は組織や社員を成長させるが、過剰な競争心もまた組織を間違った方向に導く。例えば、ライバル会社を徹底的に潰すことばかりを考えていると、顧客のニーズに応えるという本来の事業の目的から遠ざかってしまい、顧客の離反を招く恐れがある。また、(再び営業の例で恐縮だが、)営業部門が売上偏重主義で、担当者の売上高による競争を煽りすぎると、営業担当者は自分の売上を立てることばかりを考えて重要な顧客情報やナレッジをお互いに共有しなかったり、違法すれすれの営業活動を平気でしたりするようになり、部門の雰囲気が殺伐としたものになっていく。もし自分の中に異常なまでの競争心が沸き起こってくるようならば、組織のどこかに何らかの歪みが生じている可能性があると考えた方が賢明だ。
感情は問題提起のサインである。だから決して無視してはいけない。だが、感情が問題を解決するわけではない。自分の中に通常とは異なる感情が湧き上がった時には、「今の組織に何かしらの問題が起きている予兆かもしれない」と冷静になることが大事だ。感情の赴くままに問題解決に取り組むのはご法度である。問題解決のための意思決定は、あくまでも「冷静」に下さなければならないのである。
(※)袁紹に関する記述は、山本七平「『孫子の兵法』で『三国志』を読む(第2回)」(『歴史に学ぶ』2009年6月)を参考にしている。
March 11, 2010
ナットアイランド症候群〜チームメンバーの固定化は不正の温床にもなる
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先日の記事「何でもコラボすりゃいいってもんじゃないんだよ(後半)−『信頼学(DHBR2009年9月号)』」の中で、「メンバーを頻繁に交代せず、同じメンバーで臨んだ方が真のチームワークが築かれる」という内容のインタビュー記事を紹介した(J・リチャード・ハックマン「チームワークの嘘」)。
確かに、チームメンバーの固定化は信頼関係の構築に貢献するかもしれないが、一方でメンバーの考え方が同質化して新しいアイデアが生まれにくくなり、変化に適応できない硬直的なチームになる可能性もありうる。こういうデメリットは頭の中に入れておく必要があると思う。
また、今回の記事のタイトルにもあるように、チームメンバーの固定化は「不正の温床」になる危険性をもはらんでいる。DHBR2009年11月号のダン・アリエリー「合理的経済学の終焉」という論文の中で、興味深い実験が紹介されている。ちょっと長くなるが引用してみる。
上記のように最初から堕落の一途をたどるチームもあるが、理想的なチームがいつのまにか不正だらけのチームになるという事例も存在する。DHBR2006年12月号のポール・レビー「模範的チームはなぜ失敗したか」という論文は、著者が「ナットアイランド症候群」と命名した組織病を解説した非常に面白い論文である。
マサチューセッツ州クインシーにあるナットアイランド下水処理場は典型的な「3K職場」でありながら、そこで働く人たちは精力的に仕事を行い、残業をいとわず、部品を買うために自腹さえ切るほどであったという。経営者ならば誰もがうらやむようなこの理想的なチームは、1960年代後半から30年あまりの間、ボストン港の水質を守ることを目標にしていた。しかし、崇高なミッションの裏で、彼らはとんでもないことをしでかすようになった。1982年、彼らは37億ガロンもの未処理下水を、通常業務中に、しかも半年間に渡って港に垂れ流しにしていたのである。
論文の著者であるポール・レビー氏は、彼らのような模範的なチームが倫理観を失い崩壊していく様子を「ナットアイランド症候群」と名づけ、症状の進行の説明を試みた。詳細はここでは書き切れないが、チーム崩壊のカギを握っているのは、チームのマネジャーの存在である。
マネジャーはよかれと思って現場に権限委譲をし、実際に現場社員もプライドを持って仕事をしていた。すっかり安心したマネジャーは、現場に仕事を任せ切りにしてしまい、現場社員が日常業務上の問題を報告しても解決を先延ばしにするようになった。これが現場社員には「裏切り行為」と映り、現場社員を不正へと走らせるきっかけとなる。しかも、なまじ現場社員の結束が固いものだから、マネジャーの陰に隠れてやりたい放題に不正を犯す。その結果が、82年の汚水事件につながっていくのである。
「権限委譲(エンパワーメント)」はチームメンバーの自律と成長を促し、社員のモチベーションを高める方法として近年注目されている。しかし、それでも限界があることをこの事例は教えてくれる。「マネジメントに唯一最善解はない」とはよく言うが、まさに典型的な例である。むしろ、いろいろな研究内容や方法論、ハウツーをつぶさに調べていくと、全く相反する主張に出くわすことすらある。これはある意味、流動的な社会を観察対象とする社会科学の宿命なのかもしれない。チームメンバーがミッションに従い、高いモチベーションを維持し、固い信頼関係の下で最高のパフォーマンスを発揮し続けるための万能薬がいずれ出てくるなんてことは、期待しない方がよさそうだ。
「そういういろんな研究データがあるんだよ」というレベルで留まっているのはただの知識バカ、「矛盾する事象を包括的に説明できる新たな理論とは何か?」と問うのは学者の仕事、どんな考え方にも一長一短があることを承知の上で、「今、自分が直面している現状をどのように打破するのか?」を検討し行動に移すのが実務家の役割である。私は学者ではないから、やっぱり実務家らしくありたいなぁ。
確かに、チームメンバーの固定化は信頼関係の構築に貢献するかもしれないが、一方でメンバーの考え方が同質化して新しいアイデアが生まれにくくなり、変化に適応できない硬直的なチームになる可能性もありうる。こういうデメリットは頭の中に入れておく必要があると思う。
また、今回の記事のタイトルにもあるように、チームメンバーの固定化は「不正の温床」になる危険性をもはらんでいる。DHBR2009年11月号のダン・アリエリー「合理的経済学の終焉」という論文の中で、興味深い実験が紹介されている。ちょっと長くなるが引用してみる。
posted by Amazon360
我々は、数学の問題を5分間で20問解き、正解には1問につき50セント支払うという実験を3回実施した。チームメンバーの固定化によって得られた信頼関係が悪い方向に働くと、倫理や規範をそっちのけにして不正に走ることをこの実験は示している。これは、私たちの日常的な感覚にも合致するところがあるように思える。いわゆる「なあなあの関係」になると、メンバーのミスや不正を見過ごしたり、甘く見たりしがちになる。
1回目の実験では、各参加者たちは正答数を記入した紙だけを試験官に提出し、試験官は申告された回答数と答案用紙を照らし合わせた。2回目の実験では、参加者たちは答案用紙をシュレッダーにかけ、回収する用紙のみ試験官に提出した。ある意味、予想どおりの結果だが、この参加者たちは、1回目の参加者たちより、正答数を平均2問多く申告した。
3回目の実験では、参加者たちにペアを組ませて、獲得した金額は分け合うことにしたところ、より興味深い結果が得られた。数をごまかせば相手の取り分も増えることから、不正の割合が25%上昇したのである。
さらに別の実験では、監視したり監督したりすれば、チームの不正を防止できるのかを調査した。結果として、効果はなかった。不正行為は多少減ったとはいえ、完全になくなることはなかった。さらに驚かされたことに、実験の参加者同士が親しくなるにつれて、チームのためにいっそう不正行為に走る傾向が見られた。
上記のように最初から堕落の一途をたどるチームもあるが、理想的なチームがいつのまにか不正だらけのチームになるという事例も存在する。DHBR2006年12月号のポール・レビー「模範的チームはなぜ失敗したか」という論文は、著者が「ナットアイランド症候群」と命名した組織病を解説した非常に面白い論文である。
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マサチューセッツ州クインシーにあるナットアイランド下水処理場は典型的な「3K職場」でありながら、そこで働く人たちは精力的に仕事を行い、残業をいとわず、部品を買うために自腹さえ切るほどであったという。経営者ならば誰もがうらやむようなこの理想的なチームは、1960年代後半から30年あまりの間、ボストン港の水質を守ることを目標にしていた。しかし、崇高なミッションの裏で、彼らはとんでもないことをしでかすようになった。1982年、彼らは37億ガロンもの未処理下水を、通常業務中に、しかも半年間に渡って港に垂れ流しにしていたのである。
論文の著者であるポール・レビー氏は、彼らのような模範的なチームが倫理観を失い崩壊していく様子を「ナットアイランド症候群」と名づけ、症状の進行の説明を試みた。詳細はここでは書き切れないが、チーム崩壊のカギを握っているのは、チームのマネジャーの存在である。
マネジャーはよかれと思って現場に権限委譲をし、実際に現場社員もプライドを持って仕事をしていた。すっかり安心したマネジャーは、現場に仕事を任せ切りにしてしまい、現場社員が日常業務上の問題を報告しても解決を先延ばしにするようになった。これが現場社員には「裏切り行為」と映り、現場社員を不正へと走らせるきっかけとなる。しかも、なまじ現場社員の結束が固いものだから、マネジャーの陰に隠れてやりたい放題に不正を犯す。その結果が、82年の汚水事件につながっていくのである。
「権限委譲(エンパワーメント)」はチームメンバーの自律と成長を促し、社員のモチベーションを高める方法として近年注目されている。しかし、それでも限界があることをこの事例は教えてくれる。「マネジメントに唯一最善解はない」とはよく言うが、まさに典型的な例である。むしろ、いろいろな研究内容や方法論、ハウツーをつぶさに調べていくと、全く相反する主張に出くわすことすらある。これはある意味、流動的な社会を観察対象とする社会科学の宿命なのかもしれない。チームメンバーがミッションに従い、高いモチベーションを維持し、固い信頼関係の下で最高のパフォーマンスを発揮し続けるための万能薬がいずれ出てくるなんてことは、期待しない方がよさそうだ。
「そういういろんな研究データがあるんだよ」というレベルで留まっているのはただの知識バカ、「矛盾する事象を包括的に説明できる新たな理論とは何か?」と問うのは学者の仕事、どんな考え方にも一長一短があることを承知の上で、「今、自分が直面している現状をどのように打破するのか?」を検討し行動に移すのが実務家の役割である。私は学者ではないから、やっぱり実務家らしくありたいなぁ。
February 17, 2010
何でもコラボすりゃいいってもんじゃないんだよ(前半)−『信頼学(DHBR2009年9月号)』
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「信頼」というテーマで特集が組まれるのは珍しい。ずいぶん昔に、「信頼って何だ?(1)」、「信頼って何だ?(2)」という記事で果敢にもこの難しいテーマについて書こうとしたが、浅い文章にしかならなかったことを思い出した。「企業は人なり」と言うからには、人と人とをつなぐ「信頼」を抜きにして企業経営は語れない。今回の特集は、当たり前だけど難しい「信頼」という概念について考察するヒントをいろいろと与えてくれた。
CEOにしかできない仕事(アラン・G・ラフリー)
ピーター・ドラッカーが提唱した「CEOにしかできない4つの仕事」について、P&Gのアラン・ラフリーCEOが実際にどのように考え、行動を起こしたのかを述べたもの。現職のCEOの論文ということもあって、最近のP&Gがどうやって戦略的意思決定を下し、どのようにしてP&Gの価値観を社員と共有しようとしているのかが読み取れる面白い論文だった。
ちなみに、ピーター・ドラッカーが言う「CEOの4つの仕事」は以下の通りである。
1.外部について定義する「外部について定義する」について私なりに補足すると、ドラッカーの有名な「事業の目的は顧客の創造である」という言葉からして、多くの企業にとっては顧客が最も重要なステークホルダーとして位置づけられるはずだ。ドラッカーならば「ウォールストリートが最も重要なステークホルダーだ」とはまず言わないだろう。実際、ラフリーも消費者(厳密にはP&Gの直接の顧客=小売店の顧客にあたるが)を最重要視している。
外部のステークホルダーのうち、いちばん重要なのはだれか。また、最終的にいちばん重要視すべきものは何か。
2.「我々のビジネスは何か」を見極める
勝利を収めるために参入すべき領域はどこか。また、参入すべきではない領域はどこか。どちらも難しい判断であり、評価と議論を要する。その際、企業全体を見渡す視野を持ち、この難しい選択を下せるのは、ほかならぬCEOだけである。
3.現在と未来のバランスを図る
どのように短期と長期をバランスさせるのか、そのさじ加減を覚えるには、事実よりも経験と判断力が物を言う。バランスを図るには、現実的な成長目標を定めることが第一歩である。
長期にわたって信用を獲得し、勢いをつけるためには、短期的に達成すべき必要十分な目標を決めることが重要である。くわえて、CEOみずから、社員のリーダーシップ開発に関わることが、企業の将来に長期的な影響を及ぼす、唯一にして最たるものである。
4.価値観と基準を確立する
価値観によってコーポレート・アイデンティティが形成される。価値観とは、行動様式にほかならない。企業として勝利するためには、価値観は外部と密接に関係しており、また現在および未来との関連性が高いものでなければならない。
基準とは、期待に関するものであり、また対外的な成功を判断するものである。優れた価値観と基準を確立するには、次の2つの問いに答える必要がある。すなわち、「我々も、また最も重要なステークホルダーも成功しているのか」「業界トップとの競争に勝てるのか」である。
現在と未来の顧客を創造するために、どのような領域で勝利を狙うのか?そして、顧客との約束を果たすために、自社はどのような行動規範や成功基準を持つべきなのか?こうしたことを考えるのがCEOの仕事であるとドラッカーは伝えたいのだと思う。
信頼の科学(ロデリック・M・クラマー)
まず、人間は生まれながらにして人を信頼するようにできている、と著者は指摘している。だが、心理学の研究によると、人間は2つの認知的錯覚に陥る傾向があるという。1つは自分自身が不運に遭遇する可能性を過小評価してしまう「不死身の錯覚」(illusion of personal invulnerability)であり、もう1つは幸せな結婚、出世、長生きなど、よいことが自分に起こる可能性をしばしば過大評価してしまう「非現実的な楽観主義」(unrealistic optimism)である。
これを人間同士の信頼関係に当てはめるならば、人はあまりに簡単に他人を信頼し、他人にだまされる可能性を過小評価してしまう、ということになる。そこで著者は、「適度な信頼関係」を築くための7つのポイントを提案している(詳細は割愛)。その中でも、「信頼関係を損なう出来事があった場合に関係を解消できる免責事項をあらかじめ明文化すると、人はかえって熱心に関係を維持しようとする」というのはなるほどと思った。
論文の内容からは外れるが、「相手を簡単に信頼してしまう」という過ちと同じくらい深刻なのが、「自分は相手に信頼されている」という思い込みであると私は思う。信頼とは相手の期待に応えることによって初めて生まれる。一緒の組織やチームに属しているからという理由だけで信頼が生まれることはない。この点を誤解している人がたまにいると感じる。だから、「適度な信頼関係」を築くためには、相手が自分に何を期待しているのかを察知し、期待に十分応える努力を怠らないことが大事である。
また、たとえ相手の期待に満たない場合でも、適切なリカバリ処置を行えば信頼を獲得できることもある。例えば、クレームをつけてきた顧客に真摯に対応すると、かえって顧客満足度が向上するケースがそうだ。ただし、相手は期待を下回ったことを表情や言葉には明確に表さないかもしれない。よって、自分の行為が相手の期待を下回ったかもしれないという警戒心を常に忘れず、万一相手の期待を下回ったと感じた場合は、すぐさま的確な対応策を打つことも求められる。
(また長くなったので、この辺で一旦記事を分割します)