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March 22, 2012

競争優位が戦略からビジョンへ移行しつつあることの再発見―『絆の経営(DHBR2012年4月号)』

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Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 04月号 [雑誌]Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 04月号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2012-03-10

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 (1つの論文のレビューだけで2本の記事を使うという贅沢ぶり。単にレビューが長いだけなのだが・・・)

組織の「接着剤」と「潤滑油」が生み出す 「集合的野心」の力(ダグラス・A・レディ、エミリー・トゥルーラブ)

 もう1つの面白い発見は、セフォラ(※LVMH傘下のコスメブランド)の事例から。LVMHは2003年に、問題を抱えていたセフォラの売却を検討したが、セフォラは新しく迎え入れたCEOの下で戦略を再構築した。新しい経営陣は典型的な市場調査も実施したものの、最終的に戦略の決定打となったのは、セフォラの創業者が築いた価値観であった。
 セフォラの場合、楽しいショッピング経験を提供することが目的ならば、他社とは異なるサービスの提供を戦略とすべきであると判断した。すなわち、いわゆる優れたサービスではなく、「自由」「感情的な絆」、そして「大胆さ」という、同社の価値観と一致するサービスである。
 よく、ビジョン、戦略、戦術、組織・・・を上から順番に並べた三角形の図が描かれて(例えば「理念・ビジョン・戦略・戦術|プログラマー社長のブログ」[ITmedia オルタナティブ・ブログ、2010年11月8日]など)、ビジョンと戦略の一貫性を取ることが重要だと言われるが、実際に戦略を策定する段階になると、ビジョンとの関連性が忘れられることがしばしばある。これは、外部環境と内部環境を客観的に分析して、そこから戦略オプションを生成し、経済的価値が最大のもの(=平たく言えば、一番儲かるもの)を選択する、というMBA的な戦略策定プロセスに起因するところが大きい。

 このプロセスに従うと、誰が分析しても結局は同じ戦略に行き着いてしまうというパラドクスが指摘されている(ヘンリー・ミンツバーグなどはその代表)。どの企業も競合他社との差別化を意図し、競合とは異なるコンサルファームの力を借りながら戦略を練ったのに、ふたを開けてみたらどこも大して変わらない戦略だった、というオチになる。

 こうしたパラドクスを回避する上で、ビジョン、その中でもとりわけ価値観が果たす役割は大きい。価値観は社員の行動を規定すると同時に、事業環境に対する社員の見方をも規定する。価値観は主観的であるがゆえに、価値観の違いが事業環境の異なる側面を浮き彫りにする。つまり、セフォラの例で言えば、「我が社が言う『自由』を求めている顧客とは具体的に誰か?」、「我が社が言う『感情的な絆』に最も敏感に反応する顧客はどこにいるか?」、「我が社が『大胆さ』という時、顧客は我が社に何を期待しているのか?」と問う時、セフォラは市場に対し、客観的な市場調査のみに頼る競合他社とは異なる見方をしていることになる。この視点の差が、他社とは異なる市場の機会を発見する可能性を秘めている。

 同じような問いを、セフォラは内部環境に対しても発することができる。すなわち、「我が社が言う『自由』、『感情的な絆』、『大胆さ』を実現するサービスとは何か?どのような場所に、どのようなレイアウトの店舗を構え、どんな製品を揃え、どのようなサービスを販売スタッフは提供し、どんなメッセージを企業として発信すべきか?」、「望ましいサービスを提供するのに必要な組織能力は備わっているか?欠けているものは何か?ギャップを埋めるためにどのような手を打つか?」という問いである。

 このような問いを通じてセフォラは、MBA的な戦略策定アプローチでは得られないような差別化戦略へと到達することが可能となるだろう。そういう意味で、以前「戦略による競争優位からビジョンによる競争優位へ?―『「チェンジ・ザ・ワールド」の経営論(DHBR2012年3月号)』」でも述べたように、競争優位の源泉が、戦略からビジョンへと移行しているように思えるのである(三角形の図に従えば、それが本来のあるべき姿なのだが)。

 ただし、ビジョンは主観的であるがゆえに、絶えざる「解釈」によって常にその意味を肉付けしていく必要がある(以前の記事「<布教>という時代は終わりました−『感じるマネジメント』」を参照)。セフォラの「自由」、「感情的な絆」、「大胆さ」という価値観は、字面だけを見れば至って普通である。そして、これは多くの企業のビジョンにも当てはまる。ビジョンの表現そのものは、得てして凡庸なものだ。ゆえに、その意味を十分に組織内で咀嚼しないまま、ビジョンとリンクした戦略を構想しようとしても、MBA的な戦略策定アプローチと同様に、何とも変わり映えのしない戦略に陥る危険性がある。

 ビジョンを社員の間で解釈し続ける活動は、非常にシンプルである。しかし、地道な努力の積み重ねを要する。ちょうど、長尾吉邦氏の『企業盛衰は「経営」で決まる―中小・中堅企業のための自立経営へのステップ』を読んでいたら、1つ興味深い事例があったので紹介したいと思う。

企業盛衰は「経営」で決まる―中小・中堅企業のための自立経営 へのステップ企業盛衰は「経営」で決まる―中小・中堅企業のための自立経営 へのステップ
長尾 吉邦

ダイヤモンド社 2009-04-17

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 千名の従業員を抱えるあるメーカーは、毎年1月に全社員(部課長を含む)にリポートの提出を義務づけている。テーマは「私が経営理念の実現で行動したこと、成果を上げたこと」。すなわち、毛鋭意理念を実現するために具体的にどうしたのか、どんな成果が上がったのか、そして、なぜそれをしようと思ったのか、などについてリポートさせているわけだ。そして、そのリポートを役員会で審議にかけるだけでなく、「優秀者委員会」を設けてそこでも審査している。(中略)

 大事なのはこの次のステップで、(優秀者委員会で)選ばれた5名は年度方針発表会で表彰されるだけでなく、1人当たり30分間、社員の前で発表しなければならない。社員に聞くと、発表のなかで一番印象に残るのはいつも「なぜ、それをしようと思ったのか(背景)」であると、口をそろえて言う。
 これは、社員が1,000人程度の中堅企業だからできるのだろうと思われるかもしれないが、大企業でも基本的にやり方は同じである。例えば、本体だけで6,000人以上の社員を擁する三井物産は、槍田松瑩前社長が「社長車座集会」という社員との対話の場を設け、社員と食事をしながら、経営の目指す方向や経営の問題意識を語り合う活動を世界中で続けていた(「IT 先進企業 : 三井物産 - 「業態変革」を旗印に社員の意識改革と経営効率化に邁進する」[Microsoftホームページ])。

 また、社員約3,000人のファミリーマートでは、毎年1回、「ファミリーマートらしさ」について考えるワークショップ「らしさDAY」が開催されている。本部や支店ごとに社員が集まり、それぞれの社員が考える理想の仕事像を共有し、製品やサービスに活かすことを目的としている。2009年からはフランチャイズ店のオーナーを対象とした「加盟店ワークショップ」も開催されているという(『日経情報ストラテジー』2012年3月号)。

日経 情報ストラテジー 2012年 03月号 [雑誌]日経 情報ストラテジー 2012年 03月号 [雑誌]
日経情報ストラテジー

日経BP社 2012-01-28

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 逆に、ビジョンが社員の腹に落ちていない企業はどうなってしまうのか?長尾氏の著書から、先ほどのメーカーとは対照的な企業の例を引用しておく。
 フルサービスのガソリンスタンドを営むK社は、毎年「洗車中心」の方針をうたっていた。ところが実際は、目標未達成の連続であった。その原因を探るべく、K社の幹部から末端社員に至るまでヒアリング調査を行ってみた。部長に「方針は?」と問うと、間髪を入れずに「洗車中心です」との答えが返ってきた。次にエリア長・店長に聞くと、やはり「洗車中心です」。社員に聞くと「洗車中心です」。そして、末端のアルバイトに聞いても「洗車中心です」。K社の方針は見事なまでに組織全体に浸透していた。

 ところが、アルバイトに対して「洗車中心という方針を実行するため、あなたは具体的に何をやっていますか?」と問いかけたところ、返ってきたのは「できるだけ気をつけています」というものでしかなかった。つまり、方針そのものは末端まで理解されているものの、行動にまでは移されていなかったのである。
 こういう企業では、ビジョンとリンクした独創的な戦略は期待できない(もっとも、それ以前の問題として、こういう状態では日々のオペレーション自体が機能しないのだが・・・だから、K社はずっと目標未達成が続いているのだろう)。
February 06, 2012

前提となる世界観はデヴィッド・ボームの「ダイアローグ」と共通な気が―『怒り(心の炎の静め方)』

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怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

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 相も変わらず「怒り」に関する書籍を読んでいるところ。これまでに紹介した加藤諦三著『どうしても「許せない」人』やクリスティン・デンテマロ他著『キレないための上手な「怒り方」』は、ひとまず相手のことは置いておいて、自分が怒りを感じた時にどう対処するか?という本だったが、今日紹介する本は、双方が怒りを感じている時にどうすればよいか?という本である。そういう意味ではより実践的な本のはずなんだけれども、この本は宗教色が強く(ブッダの教えに立脚している)、読む人を選ぶような気がした。
 内なるブッダに触れるためには、意識的な呼吸や歩行の実践をする必要があります。意識の中にある気づきの種に触れると、顕在意識にブッダが現れ、あなたの怒りを包み込みます。何も心配することなく、ブッダを生かし続けるように呼吸と歩行の実践を続けてください。そうすればすべてがうまくいきます。ブッダは怒りに気づき、受け入れ、和らげ、怒りの本質を深く見つめます。そしてブッダは理解します。この理解が変容をもたらすのです。
 うーん、私は恥ずかしながら仏教に対する理解がないので、こういう話はイメージが難しいな・・・。

 怒りの鎮め方を論じるにあたって、著者は「非二元論」と「相互共存」という2つの原則を拠り所としている。「非二元論」とは、体と心を区別しないことであり、怒りを抱えた心を大事に扱うには、まず体を大切にしなければならないという。仏教では、体と心の形成物を「ナーマルーパ(名色)」と呼ぶそうだ。心に起こることは体にも起こるという考えに基づき、呼吸や歩行、さらには食事を整えることの重要性が強調されている。

 もう1つの「相互共存」(本書を読んだ印象では、こちらの方が重要な気がした)とは、ブッダの言葉を借りれば「人は誰も孤立した存在ではない」ということであり、さらに突き詰めていくと、「私はあなたであり、あなたは私である」といった、人間同士の境界線を取り払う思想に行き着く。

 「相互共存」の原則によれば、「私の怒りは相手の怒り」であり、「私の苦しみは相手の苦しみ」となる。よって、自分が相手に怒りを伝える際には、相手が同じように抱えているであろう怒りにも耳を傾け、尊重しなければならない。端的に言えば、相手を愛さなければならない。しかしここで、「相互共存」の原則に従って、今度は逆に「相手を愛するには、まずは自分を愛する必要がある」という考え方が導かれるのである(この辺りになると、解ったような解らないような、不思議な感覚に襲われる。いや、実際にはよく解っていないのだけれど、汗)。

 「相互共存」の原則は、自分の怒りを相手に伝える際のコミュニケーションに端的に表れている。『キレないための上手な「怒り方」』などでは、効果的な怒りの表現とは、(1)怒りを感じた具体的な状況を特定し、(2)自分がどう感じたのかを率直に表現して、その上で(3)相手の行動をどう改めてほしいのか、要望をストレートに伝えることだとされる。

 これに対して本書の著者は、次の3つの言葉によって相手に怒りを伝えるのが効果的だと述べている。
(1)「私は怒っています。私は苦しんでいます」
 苦しいとき、怒っているときも、あなたの気持ちを相手に伝えなくてはなりません。これが真の愛です。できるだけ穏やかに伝えてください。声に悲しみが表れるかもしれませんが、それは構いません。とにかく相手を罰したり責めたりすることだけは言ってはいけません。「私は怒っています。苦しんでいます。あなたにそれを知ってもらう必要があるのです。」お互いを支え合うという誓いを立てた2人にとって、これは愛の言葉です。

(2)「私は最善を尽くしています」
 これは、あなたが怒りに任せて行動しているのではなく、意識的な呼吸、意識的な歩行を実践し、気づきによって怒りを受け入れようとしていることを意味します。「私は最善を尽くしています」と言うとき、あなたは自分がこれまでに何度も、誤った認識のために怒ってしまったことに気づいています。ですから今、あなたはとても慎重です。自分は相手の言動の犠牲者であると簡単に思い込むべきではないことを知っているからです。自分の中に地獄を創り出していたのは、あなた自身かもしれないのです。

(3)「助けてください」
 3つ目の言葉は自然に後に続くでしょう。これは真の愛の言葉です。相手に腹を立てているとき、「あなたなんて必要ない。私はあなたがいなくても十分やっていけるわ!」と逆のことを言いがちです。でもあなた方はお互いを支え合う誓いを立てました。苦しいとき、たとえ自分で実践の方法を知っていたとしても、相手の協力を必要とするのはとても自然なことです。
 (1)は通常の怒りの表現とほぼ共通しているが、(2)(3)には「相互共存」の思想が色濃く表れている。つまり、自分が怒りを感じた時、これは自分だけの問題ではなく、自分と相手の問題なのであり、お互いの協力による解決を望んでいると相手に訴えているわけである。

 本書を読んでいくうちに、「非二元論」と「相互共存」という2つの原則は、随分前にこのブログで取り上げた物理学者デヴィッド・ボームの『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』と共通している気がした。ボームは「ホログラフィー宇宙モデル」という二重構造の宇宙モデルを提唱し、その一方を「内臓秩序」と名づけた。内臓秩序は、我々が普段認識している世界とは異なり、物質、精神、時間、空間など、この世のあらゆるものが取り込まれ一体となっている世界だ。

 どんなに深刻な問題を抱え、心理的にズタズタに分断された人々であっても、内臓秩序の世界では分離不可能な関係を形成している。我々は、ダイアローグ(対話)を通じて内臓秩序の次元に到達し、諸々の問題を乗り越えて前進することが可能になるとボームは主張する。しかも、内臓秩序の次元に達した人々は、肉体という物理的な境界を超えて、意識のレベルでつながるという。これはまさに、本書の「非二元論」に通じるところがある。

 ただ、『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の書評でも書いたように、ボームのダイアローグ論は、「ダイアローグを根気強く続ければ、自ずと内臓秩序へ昇れる」と言っているような気がして、やや楽観的すぎる印象を受けた(単に私の理解が浅いだけだが・・・)。ディスカッションではなく、敢えてダイアローグを選択しなければならないほど深刻な問題に関わっている人々は、暴発寸前の怒りを抱えているものである(以前の記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」を参照)。その点、本書は怒りを出発点としているから、本当はボームのダイアローグ論よりも実践的なのかもしれない。しかし、冒頭で述べた通り、宗教に対する私の理解不足ゆえに、実践知に落とし込めないのが何とも歯がゆいところだ。
January 29, 2012

「好意的サディスト」という優しい顔をした攻撃者に注意―『キレないための上手な「怒り方」』

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キレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたにキレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたに
クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro

花風社 2000-12

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 先日までの記事「『キレないための上手な「怒り方」』(1)(2)」で、上手に怒ることができない3タイプの人を紹介したわけだが、このうちタイプ1「怒りを表に出さず蓄積させてしまう人」とタイプ2「怒りに気づいていない人」は、本人が怒りを表現している自覚がないにもかかわらず、実際には相手に対して強烈な怒りをぶつけていることがある、という著者の指摘にハッとさせられた。

 タイプ1「怒りを表に出さず蓄積させてしまう人」がしばしばとる「沈黙」という手段は、それだけで十分な怒りの表現になる。スコットとジュリーシャの例で言えば、口げんかの末にだんまりを決め込んでしまうスコットは、自分が怒っている理由の解読作業を全てジュリーシャに丸投げしている。スコットは「僕のことが本当に好きなら、僕が何を考えているかぐらい、言わなくても解るはずだろう?」と何気なく口にした後黙り込んでしまうけれど、別の見方をすれば「つき合っている僕の気持ちも解らないなんて、君は愚かだ」と怒っているに等しい(ジュリーシャはそう解釈するかもしれない)。

 もちろん、沈黙を通じて怒りを表していることを本人が自覚している場合もある。一例を挙げると、逮捕理由に不満がある被疑者は、黙秘によって取調官に対し怒りを伝えようとするだろう。また、私の中学校の時の理科の先生は、この手の怒りの表現が得意だった。我々生徒が私語でざわざわしていると、先生は話すのをパタッとやめてしまい、板書だけで授業を進めるのである。終業のチャイムが鳴るまで、教室に響くのはチョークと黒板消しの音のみ。これは非常に怖かった。

 こういうケースであれば、沈黙によって怒りを訴えていることが明白だし、相手も怒りの理由を比較的容易に理解することができる(理科の先生は、生徒の私語で授業が思うように進められないことに怒っている)。スコットの例で重要なのは、怒りが上手に表現できずに押し黙ってしまう人が、意に反して無意識のうちに怒りを表現し、相手に攻撃を加えることがあるという点である(スコットは本当に「ジュリーシャが愚かだ」と言いたかったわけではないはずだ)。

 本人は殻に閉じこもって、「何で自分の気持ちを解ってくれないんだろう」と被害者意識を持っている。しかし一方で、沈黙という武器を振りかざす加害者でもあるのだ。さらに悪いことに、本人には加害者意識がないし、怒りの理由を相手にちゃんと伝えていないから、相手との認識ギャップが大きくなり、問題をこじらせる危険性をはらんでいる。

 沈黙が怒りを表現する武器になる、というのはまだ解りやすいものの、実はタイプ2「怒りに気づいていない人」のように、普段は全く怒らない人でも、別の手段で怒りを表現していることがある。タイプ2の人は、相手から何か不愉快なことをされても、「いいよ、私のことは気にしないで」、「あなたがよければ、私はそれでいいから」と返すクセがある。だが、この相手に対する好意の言葉こそが、怒りの表現になるというのである。

 先日紹介した『どうしても「許せない」人』には、「好意的サディズム」という言葉が登場する。例えば、母親が子どもを思うあまりに、「母さんのことはいいのよ、あなたさえ幸せであれば」と言ったとする。表面的には優しい母親のように見えるけれども、見方を変えると「あなたの幸せは、私の犠牲の上に成り立っているのよ」というメッセージを暗に子どもに伝えていることにもなる。極端な話をすれば、子どもは「自分が幸せにならないと、お母さんは生きている価値すらない」と思い込み、何をするにしても母親が生きている証となるようなことしかできなくなるかもしれない。この母親の行為は、表向きは好意的だが、本質的には「束縛」なので、「好意的サディズム」と呼ばれるようだ。

 これと同じようなことを、タイプ2の人はやってしまう可能性がある。タイプ2の例としてメリエレンを取り上げたが、メリエレンの母親もまたタイプ2に属する人である。ある日母親は、週末は夫婦で休暇に行くから、弟と妹の世話をしてほしいとメリエレンに頼んだ。しかし、メリエレンは週末にデートや買い物の予定が入っていることを理由に、母親のお願いを断ろうとした。すると、母親はこう言った。
 あら、それならべつにいいのよ。そりゃあね、お父さんが最近、どうも体の調子がよくないっていうから、ちょっと町を離れたほうが、体のためじゃないかと思っただけなんだけどね。でも、お父さんにはちょっとくらい待ってもらったって、たいして変わりはないでしょう。それに、ホテルの割引も使えなくなっちゃうけどねえ。有効期限は今週だけなのよ。だけど、それくらいたいしたことじゃないわ。遊んでいらっしゃい。
 母親としては、メリエレンの気持ちを最大限に尊重したつもりだろうが、ここまで言われて喜んで出かけられる子どもはいないだろう。これこそまさに、「好意的サディズム」の一例である。本書では、このような婉曲的な攻撃の仕方を、心理学の言葉を用いて「受動―攻撃的行動」とも呼んでいる。

 タイプ1・2の人たちにとって、今日の記事で取り上げたテーマは非常に厄介だ。なぜなら、自分は怒りを表現するのが上手でないと思っているのに、自分があずかり知らぬところで怒りを表現してしまっているからだ。では、タイプ1・2の人たちはどうすればよいだろうか?

 まずタイプ1の人は、自分が怒りを我慢して押し黙ってしまった時、怒りを表現できなかったことを後悔するだけでなく、(相手が『どうしても「許せない」人』に登場するような、よほどの鈍感でない限り、)相手が自分の怒りを察知している可能性に思いを巡らせた方がよいだろう。しかし、相手は自分の怒りを正しく理解しているとは限らない。むしろ、間違った認識を持っている確率の方が高い。なぜなら、こちらから自分の怒りの内容を伝えていないのだから。よって、双方の誤解を解くためにも、できるだけ早く自分の怒りを相手に説明した方がよさそうだ(至極当たり前だが・・・)。

 タイプ2の人は、相手のためによかれと思って発した好意的な言葉が、実は相手に必要以上に気を遣わせているのではないか?と考えることが大切であろう。ところがこれは、タイプ2の人にとって大きなジレンマを伴う作業かもしれない。そもそもタイプ2の人は、「何か問題が起きたら、相手のせいにせず、自分に非がないかを検討するように」と教えられた人が多く、この思考パターンのせいで、自分を犠牲にし、怒りを無意識の領域に閉じ込めることを覚えてしまった人たちである。

 先日の記事「怒りを上手に表現できないと人生で割を食う―『どうしても「許せない」人』」では、思考パターンをひっくり返して、相手に非がないかを考えてもよいのでは?と述べた。にもかかわらず、再びここで、自分の好意的な言動に問題がないかをチェックしなければならないわけだ。これがジレンマを生み出す大きな要因である。

 しかし、意識せずとも好意的な言動がとれるのはタイプ2の特徴でもあり、周囲の人と良好な人間関係を構築する上での強みでもあるから、それを無理に直そうとする必要はないのかもしれない。ただ1点、好意的な発言をした後で、「本当のことを言うと、自分はこうしてほしいと思っているんだよ」という気持ちをそっと、飾らずに、素直に伝えるだけでも、サディズムは和らぐのではないだろうか?
January 28, 2012

上手に怒れない3タイプの人たちへの処方箋(2/2)―『キレないための上手な「怒り方」』

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クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro

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 (前回からの続き)

タイプ3:すぐに何でも怒る人(神経症などの精神疾患を抱えた人を除く)
シーオの例(1)
 シーオがバイト先の食料品店に行くと、店長に、今週の土曜日は丸一日出勤してもらうよと言われました。その日はみんなと湖に行くことになっていたのに・・・。(中略)当の土曜日、湖へ行くはずだったのにあきらめて出勤するとまた腹が立ち、帰ってきた友人たちから楽しかった話を聞かされると、なおさら腹が立つのでした。

 そこでシーオは勇気をふるい起こして店長の部屋へ行き、言いました。「店長、先週の土曜日、むりやり出勤させられて、あれはあんまりだと思います」ところが店長は、「ううむ。きみがそう思うのは気の毒だが、これは商売なんだ。わたしは、そのときにこうだと思ったことをやるしかないんだよ」と言うと、どこかへ電話をかけはじめるではありませんか。いまや、かえってこれまで以上に怒りがひどくなってしまいました。

(※本書では、シーオが「すぐに何でも怒る人」に分類されているが、店長からシフト変更を指示された時点で怒らなかった点では、さほどすぐに怒る人ではないようにも感じる。また、時間が経ってから店長に文句を言うのではなく、もっと早く言えば結果が違ったのでは?とも思うものの、その点については一応不問とする)
シーオの例(2)
 「母さん、(生まれたばかりの妹の)キーシャの世話だけど、週に3回はあんまりだよ。なにか他の方法はないの?放課後を好きに過ごせる日が1日もないんじゃ、いやになってしまうよ。バイトか、家の子守りか、どっちかなんだもん」
 「シーオ、つらい思いをさせてほんとうにすまないね。でもいまは、これしかないのよ。母さんだって考えてみたんだけど、これ以上ベビーシッターに払うお金はないし、父さんも母さんも、勤務時間を減らしたらやっていけないの」
 「ほんとになんとかする気があるなら、やっていけるはずだよ!ぼくがピアノをやめるってのはどう?レッスン料が浮くじゃない」
 「年度の途中でやめるなんていけないわ。自分で習いたいって言ったんでしょう?それに、先生に対しても責任ってものがあるのよ。もうしばらくがまんしてちょうだい」(※この後、2人のやり取りがまだ続くけれども、そこは省略)

 シーオはこうして話をしたあとは、ひどく腹が立ち、がっかりしてしまうのでした。問題が解決しなかったばかりでなく、まともにとり合ってもらえなかったという気がするし、自分の無力さをひしひしと感じてしまうのです。「どうしてだれもぼくのことなんか気にかけてくれないんだろう。ぼくの気持ちや都合なんて、だれも考えてくれないじゃないか」
 シーオは「すぐに何でも怒る人」の中ではまだ”おとなしい”方で、本書にはもっと怒りっぽいティナという人物が登場する。だが、ティナのケースは読むに堪えない悪口が並んでいたため省略することにした(汗)。タイプ3の人は、「自分の気持ちは、正直でありさえすれば、どんな表現をしようと構わない」、「怒りを表現すれば、他の人たちは自分の要求を聞き入れてくれる」と信じている。

 しかし言うまでもなく、現実には他人が怒っていても気にしない人やもっと別のことを優先している人、あるいは人の気持ちを大切にしているにもかかわらず言われた通りにしない人が存在するものだ。シーオの例で言えば、店長は前者に、母親は後者に該当する。こういう人たちには、怒りをストレートにぶつけても、状況が改善する見込みは低い。そこで、タイプ3の人に対して著者は、怒りの目的は自分の要求を貫き通すことだけではないことを知るべきだとアドバイスする。

 まず店長に対しては、自分の本当のニーズを再整理してみる。休みを手にすることが大事なのか?それとも、もっと敬意をもって接してもらうことの方が優先なのか?また、この件についてはどのくらい許せないと思っているのか?もっとしつこく食い下がったら、クビになるだろうか?その場合、他のバイトを探す気はあるのか?自分はそのリスクを負う気があるのか?といった具合だ。

 こうしてよく考えた結果、「もっとましな扱いを受けるためなら、クビになる危険を冒してもよい」と思うかもしれないし、「バイトを辞める気はないから、時々無茶な予定変更があるくらいは我慢しよう(その代わり、自分の方からもシフトに関する条件交渉を持ちかけてみよう)」と思うかもしれない。一旦冷静になって自分のニーズを整理することで、土曜日の出勤を命じられたことに対し反射的に怒りをぶつけるのではなく、手持ちのカードを増やすことができるというわけだ。

 また、母親に関しては、母親側のニーズや優先順位を聞き出すことが重要だ、というのが著者の見解である。母親は、幼いキーシャの世話、もっと遊びたいというシーオの気持ち、(おそらくそれほど稼ぎがない)父親との関係、ピアノの先生との関係、シーオにとってのピアノレッスンの重要性などについて、どのような優先順位をつけているのか?あるいは、他に重視していることがあるのか?この点を探っていけば、お互いの優先順位を擦り合わせ、条件交渉の余地が生じると著者は言う。

 引用文の会話では、シーオは母親の懸念事項を聞き出すことには一応成功しているものの、その全てが同列に扱われ、結局母親にとって全部が重要であるかのような流れになっている。そのため、シーオは母親の考えを変えることはムリだとあきらめてしまうのである。

 3つのタイプをまとめると、まず何よりも重要なのは、怒りという感情は決して悪ではなく、現状を好転させるよいきっかけになることを理解し、怒りを素直に自覚することである(特にタイプ2の人)(※1)。怒りを認識できるようになったら、状況から一歩身を引いて、自分が何に対して怒っているのか、怒りの原因を明らかにする。

 怒りの原因が解っても、「怒ったら相手を傷つけるのではないか?」という恐れから、怒りをあらわにすることが憚られることもある(特にタイプ2の人)。しかし、相手を傷つけるのは怒りの感情そのものではなく、怒りの表現の仕方である。奇を衒ったりせず、「何が起きたのか?(事実)」、「それに対して自分はどう感じたのか?(感情)」、「今後、自分はどうしてほしいのか?(要求)」という3点を、素直にかつできるだけ早めに伝えることが肝要である(※2)。

 こうして適切な怒りの表現方法が身につき、以前よりも自分の要求を随分と正直に表現できるようになったとしても、その要求がいつも相手に通用するとは限らない。相手も同じように、相手なりのニーズや要求を持っているからだ。ここで、自分の言い分が通らないことにいちいち腹を立てるのではなく(いちいち腹を立てていると、タイプ3になってしまう)、相手の要求を理解する心の余裕を持たなければならない(同時に、自分のニーズももう一度よく整理してみる)。そうすれば、一方が他方を犠牲にして自分のニーズを充足させるようなゼロサムゲームを回避し、双方のニーズを可能な限り満たす方法をお互いに検討することができるようになるのだろう。(※3)


(※1)以前の記事「感情は問題提起のサインである」を参照(至る所でこの記事を使い回しているが、汗)。
(※2)皮肉が行き過ぎて上司に殺されてしまった一例がこちら。「部下にだって「上司に物申す時の流儀」ってものがある
(※3)ここまで来ると、合意形成のフェーズに入る。合意形成のプロセスに関しては、以前の記事「合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』」を参照。
January 26, 2012

上手に怒れない3タイプの人たちへの処方箋(1/2)―『キレないための上手な「怒り方」』

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クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro

花風社 2000-12

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 先日の記事「怒りを上手に表現できないと人生で割を食う―『どうしても「許せない」人』」の流れで、「怒りとのつき合い方」に関する本をついついまとめ買いしてしまったので、順番にレビューしてみようと思う。本書の著者はまず、怒りを上手にコントロールできない人をタイプ分けし、それぞれのタイプの人たちが陥っている「誤った認識」を指摘する。その上で、誤った認識を改め、怒りを上手に表現する方法を提示している。

 本書では、「怒りを上手にコントロールできない人」として3つのタイプが挙げられているが、タイプの分類は『どうしても「許せない」人』に登場する3タイプとほぼ一致する。以下、本書の内容を、個人的な見解も交えながら私なりに整理してみた。

タイプ1:怒りを表に出さず蓄積させてしまう人
スコットの例
 スコットとジュリーシャは、近ごろ、けんかをすることが増えたようです。けんかのパターンはいつも同じ。たとえば、サンドウィッチを分けっこするのをいやがるスコットをジュリーシャがからかってけんかになった晩は、こうでした。まず、スコットがむっつりと押し黙り、殻に閉じこもってしまいました。ジュリーシャは何度となくたずねます。「なにが気に入らないの?口もきかないで。どうしたっていうのよ!」スコットの答えはいつも同じ。「どうもしないさ。平気だよ」

(※ちなみに2人のけんかは、スコットが「ぼくは人の食べかけをもらうのはきらいなんだ。それくらい、もう知ってるだろ」と言ったのに対し、ジュリーシャが「なにが怖いっていうんだろ。あたしがバイキン持ってるなら、もうとっくに全部うつっちゃってるのに」と大人げなくからかったのが原因。この後も2人の押し問答が長々と続くのだが、そこは省略)

 ジュリーシャががっかりすればするほど、スコットは黙りこくるばかり。最後には、ジュリーシャは怒りとくやしさで声をかぎりにどなりちらすのですが、スコットはやはりなにも言わないのでした。
 沈黙という手段で怒りを抑制してしまう人には、2つの心理が働いていると著者は言う。1つは、「自分が本心を表してしまったら、あまりの激しさに、相手が傷ついてしまうだろう」というものである。もう1つはこれとは全く逆で、「うっかり人と言い争いなどをしたら、自分は必ず負けるに違いない」という、自分に対する自信のなさから生じる心理である。

 だが、この2つの心理はどちらも正しくない。「オレを怒らすと怖いんだぞ」と思っている(そして、それを公言している人)は、いざ本当に怒っても実はさほど怖くない(なぜなら、その人は”怒り慣れていない”から)というのはよくある話である。また、もう一方の心理についても、怒りを表現する目的は相手と言い争いをすることではないという点が理解できていない。

 スコットのようなタイプの人への処方箋は2つ。1つは、前述の思い込みを捨てて、自分が何に対して怒っているのか思い切って言葉で表現することである。その際に、皮肉を使おうとか、エレガントに表現しようと考えてはならない。「何が起きたのか?(事実)」、「それに対して自分はどう感じたのか?(感情)」、「今後、自分はどうしてほしいのか?(要求)」この3点を、飾らず素直に表現することが大切である。

 言葉にするのが難しい場合は、もう1つの処方箋を使うとよい。すなわち、自分の気持ちを整理するための時間や場所を確保することである。ただし、黙ってこれを実行すると、結局は沈黙の手段と一緒になってしまうから、相手に一言断りを入れるべきである。スコットは、「今はまだ、この件について話をするのは無理だ。近いうちに、改めて話すから。約束するよ」とジュリーシャに言えばよい、と著者は提案している。

タイプ2:怒りに気づいていない人
メリエレンの例
 メリエレンは近ごろ、リサといっしょにいても、あまり楽しくありません。最近、リサとの約束は4回のうち3回もキャンセルされてしまったし、残りの1回だって、リサは1時間以上も遅れてきたのです。理由はいちいちもっともでした。最初は病気。次は、お母さんが急に買い物に連れて行くと言いだしたから。そして3度目は、リサが何年も前から夢中だったグレッグから突然誘われたからでした。メリエレンだって、親友の恋路のじゃまはしたくありませんでした。遅刻してきたのは、家族と教会に行ったら、帰りにお父さんが、昼はみんなで外食しようと言いだしたからでした。

 リサはすてきな友だちです。去年、メリエレンが初めて男の子とデートすることになったとき、リサは3時間も前から家に来て、身じたくを手伝ってくれたのです。リサのお気に入りのセーターにメリエレンがチリソースをこぼしたときも、怒らずに「まあ、そういうこともあるわよ。それよりさ、楽しかった?」と言ってくれたほどです。

 リサはいつもそうやって親切にしてくれます。でも一方で、しょっちゅう約束を破ったり、遅れてきたりするのもほんとうでした。メリエレンは、そんなリサのことを悪く思うと、後ろめたい気分になってしまいます。それに、約束を取り消したときも、おくれてきたときも、いつもちゃんと理由があったじゃないのと思うのです。
 先日の記事でも述べた通り、私自身はタイプ1に近いので、タイプ2の人の気持ちがあまり理解できないのだけれども、私が日ごろ人間観察をしていて「そんなことをされてよく怒らないよなぁ・・・」と感じる人たちは、マクレランドの言う「親和欲求」が強い人、あるいは性格タイプ論の1つであるエニアグラムで言うところの「タイプ9(調停者)」にあたる人は、メリエレンと同じような傾向が強いように思う。

 著者によると、メリエレンのようなタイプの人は、「正当な理由が見つからない限り、腹を立てたりしてはいけない」、「時間が経てば、怒りの感情(厳密に言うと、このタイプの人はその感情を怒りだと認識していないので、「何らかの違和感」と言った方がよいだろう)は消えてしまうに違いない」という認識を持っている。こうした認識は、確かに怒りを心の中から消し去り、無意識の領域に追いやるのには役立つかもしれない。ところが、身体の方は正直なもので、頭痛や腹痛を引き起こしたり、凡ミスや遅刻が増えたり、漠然とした不安にさいなまれたりするようになるらしい(この点は『どうしても「許せない」人』でも述べられている)。

 タイプ2向けの処方箋としては、まずは「何かがおかしい、うまくいっていない」という違和感をキャッチして、「自分が本当は怒っている」ことをちゃんと認識することである。とはいえ、タイプ2の人は、ここですぐに怒りを表現してはならない。タイプ2の人はタイプ1の人以上に怒り慣れていないため、焦ると”一般的なルール”を持ち出して相手を怒ろうとしがちだ(メリエレンの場合、「時間を守るのは当然のルールでしょ?」とリサに言う、など)。ここはぐっとこらえて、自分の怒りの原因、つまり「自分は本当のところ何に対して怒っているのか?」を明らかにする必要がある。これが2つ目の処方箋である。

 メリエレンは、リサに約束を破られるとなぜ怒るのかを考えてみた。その結果、「わたしなんて大事じゃないんだっていう気がするからかな。ほかの人たちは、ちゃんと値打ちも重みもあるのに、わたしだけが虫けらみたいに小さくて、つまらないって気がしてくるのよ。それがつらいんだわ」という結論に達したそうである。ここまで来れば、タイプ1の人と同じように、相手に対して怒りを表現できるようになる。

 普段から”怒り慣れている”人(これが行き過ぎると、後日タイプ3として紹介する「すぐに何でも起こる人」になってしまうが・・・)や、タイプ1のように怒りの表現は下手でも怒りは感じる人にとっては、自分がなぜ怒っているのかを考えるなどというのは、何とまどろっこしい作業なんだと思うかもしれない(タイプ1に近い私もそう思う)。ただ、タイプ2はそもそも怒りという感情自体に不慣れであり、放っておくといつも自分の気持ちを犠牲にして相手の気持ちを優先してしまう。そこで著者は、敢えて自分の感情とじっくり向き合うステップを設けているのだと思われる。

 (続く)
September 08, 2011

「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ

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 最近の企業内人材育成のトレンドを見ていると、新しいコミュニケーションの方法として、「対話(ダイアローグ)」がよく目につく。確かに、組織内にはコミュニケーション上の問題が山積している。社員に会社の戦略や方針が伝わらない、上司が意図した通りに部下が仕事をやらないなど、「上から下」のコミュニケーションの問題もあれば、逆に経営層が現場の声に耳を傾けない、部下のキャリア開発のニーズを無視して上司が仕事を割り振ってくるといった、「下から上」のコミュニケーションの問題もある。

 あるいは、顧客に対して手厚いサポートを提供するために、営業・技術部門など複数部門が緊密に連携することが必要なのに、組織が「たこつぼ化」しており協業が生まれないなど、「横同士」のコミュニケーションの問題というのも存在する。こうした組織内のコミュニケーション不全を解決するのが、「対話」というソリューションであるというのが、大方の識者・人材育成の専門家たちの一致した見解だ。

 ところが、私個人だけなのかもしれないが、この「対話」という言葉には、どうも”ソフト”なイメージがつきまとっており、そのことに疑問を感じている。なぜ「対話」をソフトな方法と感じてしまうのだろうか?と自問自答したところ、2つの理由が浮かび上がってきた。

 1つは、「対話」について書かれた書籍や記事に出てくる事例そのものが、ソフトな論調で書かれているということである。例えば、ジョセフ・ジャウォースキーの『シンクロニシティ』や、ピーター・センゲの『出現する未来』などには、「対話」を通じて集団内のメンバーが相互理解を深め、将来の望ましい姿を自らデザインし、その実現こに向けた行動を起こしていく様子が描かれている。ただ、少しひねくれた見方をすると、あまりにもあっさりと「対話」が成功したように見えてしまい、”できすぎた美談”という印象さえ抱いてしまう。紙面の都合や守秘義務の関係もあって、「対話」の内容を全て記述するのが難しいのも、そう感じさせる一因なのだろう。

ジョセフ・ジャウォースキー
英治出版
2007-10-02
おすすめ平均:
「やり方」より「あり方」が大事な理由
哲学書か、量子力学書か、宗教書か、心理学書か。でも大事なリーダーシップ論
迷える世代のバイブル
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P. センゲ
講談社
2006-05-30
おすすめ平均:
ありのままを見つめて、その場と一体になる事で思い描いた未来が現れる
壮大な考え方に触れる本です。
リーダーとしての新しいあり方。忙しい人ほど内省が求められる。
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 (※)一応、この2冊について以前に書いた書評へのリンクを掲載しておく。
 民主型リーダーシップの本としての『シンクロニシティ−未来をつくるリーダーシップ』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた−『出現する未来』

 もう1つは、国際ニュースを見ていると、紛争が起こっている地域で、首脳陣らが「双方の『対話』を通じて、建設的に解決策を模索していきたい」といった発言をよく耳にするためだと思う。つまりこの発言は、「紛争」という武力的なやり方に対する”非武力的な解決策”として、「対話」を位置づけていると解釈できるわけだ。しかし、いったん「対話」が破綻すると、再び「紛争」へと戻ってしまう例は、枚挙にいとまがない。こうした揺り戻しの動きが、「対話」という言葉のソフトなイメージを、より一層鮮明なものにしているのかもしれない。

 一般的に、「対話」の対極に位置づけられるのは、「議論(ディスカッション)」である。この2つが二律背反の関係にあるとすれば、「議論」の定義や特徴をひっくり返すことで、「対話」の全容を浮き彫りにすることができるはずだ。「議論」の特徴を思いつくままに列挙してみると、こんな感じだろうか?
議論(ディスカッション)
 (1)議論の目的(何についての意思決定を下すか?)を明確にする。
 (2)客観的な事実やデータに基づいて、考えうる選択肢を洗い出す。
 (3)明快な言葉、解釈の余地が少ない図、異論が出にくい数値など、誰にとっても理解しやすい情報を用いて、論理的に検討を進める。
 (4)利害関係者をあらかじめ明確にし、それぞれの利害を代表する人に参加してもらう。
 (5)組織内のフォーマルな関係、あるいは権力の大小が検討プロセスに影響を与える。
 (6)感情が意思決定に与える影響を最小限にとどめる。
 (7)複数の選択肢の中から、論理的な基準に基づいて、最適な選択肢を選択する。
 (1)〜(3)および(7)については、意思決定に関する本を読めば、だいたい同じようなことが書かれている(下記を参照)。(4)については、以前の記事「合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』」を参照していただきたい。(5)は、同じ内容の発言でも、部長が発言するのと若手社員が発言するのとでは、重みが全く違うことを想像していただければ解りやすいだろう。(6)に関しては、心理学の先行研究が数多く存在し、興奮や怒りといった感情が、合理的な意思決定を妨げることが明らかになっている(これも過去記事「果たして意思決定に感情は不要なのか?」を参照)。

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 では、これらの特徴を裏返すことで導かれる「対話」とは、一体どのようなものだろうか?
対話(ダイアローグ)
 (1')対話を開始するにあたり、特定の目的は設定しない。
 (2')参加者は、個人的・主観的な認識、印象、感覚、思想、嗜好なども俎上に載せる。
 (3')メタファ(暗喩)やストーリーのような解釈の余地が大きい情報、参加者の表情・態度・ボディランゲージといった非言語的な情報、さらには一見つじつまの合わない非論理的な話さえも許容される。
 (4')参加者は流動的であり、自由に出入りできる(対話のテーマによって、利害関係者が動的に変化する)。
 (5')参加者の社会的な地位やパワーは、対話の場では無関係になり、全員が対等になる。
 (6')参加者は時に感情的になり、感情に支配される。
 (7')参加者は、対話のゴールを協創する(世代間ギャップがある社員同士の相互理解を促進する、職場や組織における望ましい人間関係のあり方を明らかにする、自社の経営陣が打ち出している変革プログラムの必要性や意味を共有する、など)
 (3')(6')以外の5つについては、先ほど紹介した2冊の中でも十分に論じられている。ここで私が強調したいのは、(3')と(6')の重要性である。我々は、(一昔前の「ロジカル・シンキング」ブームもあって、)論理的に考え、論理的にかつ端的に表現するように教育されている。だが、このような表現方法をとると、往々にして微妙なニュアンスが抜け落ちるものである。そういう抜け漏れが積み重なった結果、組織のあちこちで誤解や認識のズレが生じ、コミュニケーション不全に陥るのである。

 「対話」は、「議論」が重視しない点を重視する。すなわち、「言っていることは正しいかもしれないが、どこか引っかかる部分がある」とか、「私とあなたでは仕事のやり方に対する考えが違うので、一緒に仕事をしていてもうっとうしい」といった、感情的なコミュニケーションを受け入れるのである。今月号のDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューに、ホンダの有名な「ワイガヤ」に関する記述があったので、引用しておく。
 ホンダの「ワイガヤ」も場である。プロジェクト・チームを構成する30人ものメンバーがホテルや温泉旅館に集まって三日三晩を共にする。夜は酒を飲み、大浴場に入る。議題は決まっていないが、たいていはまず上司の悪口を言い、欲求不満を共有する。酒を飲みながら、互いに言いたいことを言い始めると、けんかになることも珍しくない。口げんかばかりか、手が出ることさえある。しかし、2日目になると、メンバー間の壁がなくなり、お互いの意欲や気持ちがわかるようになってくる。相手に耳を傾け、共感しようとする。3日目には、彼らはしばしば「帰納的飛躍」を遂げる。個人的な問題を克服すると同時に、チームとして問題解決をする方法を獲得するようになるのである。

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 本当の意味での「対話」とは、その語感がもたらすソフトなイメージとは違い、お互いに取っ組み合いの喧嘩になるほど激しいものなのである。

 例えば、あるミーティングで、終始むっすりとした態度で会議の流れを見守っている人がいたとしよう。「議論」の場であれば、「あの人はちょっと機嫌が悪そうだったけど、特に何も言わなかったから、異論なしということでOKだろう」ということで済んでしまうかもしれない。多少気の利く人であれば、「私があの人の意見を聞いて、後で君に伝えるよ」と、2人の間を仲介してくれるかもしれない。

 だが、これが「対話」の場となると、そういう態度を取る人に対して、思わずイラっときたプレゼンターが「てめぇ、何黙ってんだ?」と挑発的な言葉を発する。すると、それまでだんまりを決め込んでいた相手も、「お前の仕事のやり方が気に食わねぇんだよ!」と、顔を真っ赤にして反論する。そこからは、お互いの感情がもつれ合った、聞くに堪えない喧嘩が始まる。会議に同席しているメンバーも、どちらかの味方について、コミュニケーションをヒートアップさせる。もうほとんどプロ野球の乱闘のようなものである(そういえば、最近のプロ野球は、西武対オリックスぐらいでしか乱闘が見られなくなったが・・・)。

 あらかたお互いに言いたいことを言い合った後、実はプレゼンター(以下Aさん)とずっと黙っていた人(以下Bさん)の2人は同期で、BさんはAさんと同じぐらい高い業績を上げているのに、Aさんの方が先に出世して、大事な会議でもプレゼンを任せられるようになっていたのが不満だったと明らかになった。そこから、なぜそういう評価の差が生じたのかについて、会議に同席していたメンバーも、自分や周りの人の体験談を(時にBさんのように怒りを込めながら)語り始める。

 最初は、AさんとBさんの上司に、評価能力の差があるのかと思われた。しかし、さらに話を詰めていくと、どうやらBさんの所属部門は、経営層の中でAさんの所属部門よりも優先順位が低く見られており、その点が評価の差につながっているようだという結論に至った。また、Bさんも決してAさんの仕事ぶりや人格を否定的に見ているのではなく、むしろ優れた能力を持つライバルだと思っていること、そしてAさんも、若い頃Bさんと同じ部門にいた時期に、難しい局面で随分と助けてもらったことに感謝していることをお互いに確認し合った。

 この「対話」では、評価制度の不備や経営陣の意識の問題を変える具体策は出てきていない。しかし、会議に出ている人たちは、自分も日頃何となく感じていた問題を共有し合うことで、言葉にはしがたい一体感・連帯感を感じ、AさんとBさんは会議前よりも前向きなコミュニケーションが取れるようになった。「対話」としてはこれで十分なのである(ちなみに、以上の話は私が即興で作ったフィクションなのでご注意を)。

 多くの「対話」は(6')まで至らないか、(6')でストップしてしまう。「対話」で一番難しいのは、(6')から次に進むプロセスなのである。(6')で止まってしまうと、その場にいる全員が感情的なしこりを残したままとなり、「対話」を始める前よりもひどい状態になる。(6')のフェーズで我慢に我慢を重ね、様々な感情が渦巻くドロドロとした空間を抜け切った時に、初めて「対話」は意味を持つと思うのである。

《補足》
 余談になるが、外交の場における「対話」は、相当な困難を伴うものであろう。なぜならば、「対話」の肝である「感情的な対立」や「取っ組み合いのような喧嘩」という状況を、会議の中で作り出すことがほとんど不可能だからである。もしも、会議の途中で外交官同士が殴り合いなんかをしようものなら、即座に戦争へと発展するだろう。これは見方を変えれば、彼らの中では「対話」と「紛争」が密接しているとも言える。

 本論の中では、紛争地域で「対話」の重要性が説かれることが多く、「紛争」と「対話」が正反対に位置づけられているようだと書いた。けれども、実際には(残念なことではあるが、)「対話」と「紛争」の間に境界線はなく、むしろ「対話」の一部に「紛争」が存在すると捉えた方が適切なのかもしれない。
June 29, 2011

「業務プロセスがイノベーションの原動力」というのは別の意味で一理あり―『イノベーションの新時代』

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M・S・クリシュナン、C・K・プラハラード
日本経済新聞出版社
2009-06-11
おすすめ平均:
「個客経験の共創」と「グローバル資源の利用」の価値創造戦略
主張に新規性なし
肩すかし
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 1ヶ月ほど前に紹介した本をまた取り出して記事を書いてみる(しつこい(笑))。本書はゲイリー・ハメルとの共著『コア・コンピタンス経営』で知られるC・K・プラハラードの著書であるが、本書のポイントは「イノベーションの源泉が”業務プロセス”にある」という点である。
 通例には反するが、本書では、戦略、業務、ビジネスモデルなどを切り口としたイノベーションの分類は重視しない。ここでもまた、イノベーションの基本原則−個客経験の協創とグローバル資源の利用−をめぐる議論と同じく、イノベーションのおもな原動力に注目したい。業務プロセスは、組織にとっていわば血流のようなものである。イノベーションにはさまざまな形があるが、たとえ形は違ったとしても、イノベーションを生み出す気風は共通の土台に支えられている。それが、融通の利く、磨き上げられた業務プロセスである。
 ただ、本書を読む限り、「業務プロセスはイノベーションを着実に実行するために必要である」、言い換えれば、「新しい戦略が画餅に終わらないようにするために、新しい戦略に適合した業務プロセスを構築しなければならない」という、至極当たり前のことを言っているだけのように感じる。

 しかし、私が思うに、業務プロセスがイノベーションの源泉になるというのは、別の意味で真実である。なぜなら、イノベーションは「例外」から生まれることが多いからだ。そして、例外を判断する基準となるのが、標準的な業務プロセスなのである。

 ここでいう業務プロセスとは、製品やサービスを製造・販売するプロセスに加えて、その製品やサービスが提供している経験価値や、その経験価値を享受するターゲット顧客、さらにはプロセスを支える組織構造やITインフラ、社員の人数やスキル、人事異動のルールや評価制度、予算管理の仕組み、ナレッジやノウハウ、意思決定の構造、その他諸々の社内ルールまでを含めた、統合されたシステムであると捉えていただきたい。

 マネジメントの定石としては、まずはターゲット顧客とその顧客に提供したい価値を定義し、その価値が具現化された製品やサービスを企画する。次に、その製品やサービスを最も効果的、効率的に生産・販売できるプロセスを構築する。そして、プロセスが円滑に運用されるよう、ヒト、モノ、カネ、情報、知識といった経営資源を、どのプロセスにどの程度投入するかをルール化していく。こうしたルールが、組織構造や予算配分の方法、人事制度などといった社内の様々な仕組みに反映されていく。これらの多様な要素が一貫した形でがっちりと組み合っていれば、企業は高い競争力を手に入れることができる。

 だが、この統合されたシステムに矛盾をきたすような「例外」が、日常業務の中ではしばしば起こる。例えば、「想定外の顧客に製品がよく売れる」とか、「全く眼中になかった販売チャネルから、わが社の製品を扱いたいとの依頼が来る」といった具合である。こうした例外こそが、イノベーションの源泉になると思うのである。

 ドラッカーはイノベーションの「7つの機会」を整理しているが、最も頻度が高く、かつ最も成功の可能性が大きい機会として「予期せぬ成功」を挙げている。実際に、「予期せぬ成功」がイノベーションにつながった事例が、ドラッカーの著書『イノベーションと起業家精神』の中でいくつか紹介されている。その中から1つだけ引用しておこう。

P.F.ドラッカー
ダイヤモンド社
2007-03-09
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 動物用医薬品業界において、世界の主導的な地位を占めているスイスの医薬品メーカーがある。しかし、扱っている動物用医薬品のうち、自ら開発したものは1つもない。それらの医薬品を開発したメーカーが、動物用医薬品市場に進出することを嫌ってくれたために扱えるようになったにすぎない。

 抗生物質を中心とするそれらの医薬品は、もともと人間用に開発したものだった。したがって、獣医たちが注文を寄こしたとき、開発したメーカーは喜びはしなかったし、ときには売ることさえ拒否した。当然、動物用に調合を変えたり、包装を変えるようなことはしなかった。(中略)

 人間用の医薬品は、世界中で激しい価格競争にさらされ、しかも行政による厳しい規制を受けるようになった。その結果、今日では、動物用医薬品が医薬品業界で最も利益率のよい分野になった。だが、その利益を享受しているのは、それらの医薬品を開発したメーカーではない。
 開発メーカーの業務プロセスは、人間用医薬品の開発・製造・販売に適したものになっていたことだろう。仮に獣医に向けて販売することになれば、調合や包装のプロセスも変えなければならないし、マーケティングも人間用医薬品と動物用医薬品の両方について実施する必要が出てくる。さらに販売チャネルについても、人間用と動物用が入り混じった複雑なものになるだろうし、自社の営業担当者には、獣医用医薬品の知識を新たに叩き込まなければならない。

 開発メーカーは、長年にわたって統合的なシステムを構築してきた。それを変更する作業があまりにも厄介に感じられたため、動物用医薬品という新しい市場の魅力が見えなくなってしまったのであろう。だから、獣医からの注文という例外に出くわしても、それをイノベーションの機会ではなく、単なる厄介な問題として片付けてしまったと推測される。逆に、例外をイノベーションの機会と捉えたのが、スイスの医薬品メーカーであったわけだ。

 「例外」は、毎日いろんな顧客に接し、細かいプロセスをいくつも遂行している現場の人間の方が気づきやすいかもしれない。こうした例外から新しいビジネスを作り出していく人材が現場付近に溢れている企業こそが、イノベーションに強い企業となるであろう。NRIラーニングネットワークの亀井敏郎氏は、こうした人材を一般的な経営職(CXO)や管理職と区別して「経営職ミドル」と呼び、その役割を次のように説明している。

亀井 敏郎
ファーストプレス
2005-10-07
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 (経営職ミドルは、)顧客の立場で問題を発見し、収益が上がる形でその解決策を提供しなくてはならない。これはビジネスプロセスの設計の問題であり、収益性の観点から業務の流れをつくりあげることだ。それには自社の強みや弱み、経営資源の特性などが関連してくるため、自社のことをよく知らなければできないのである。
 顧客と自社の間に新しい業務の流れをつくり出す一方で、顧客接点となる現場では、組織としてのマネジメントも求められる。顧客の立場を重視した業務を円滑に進めていくためには、担当するメンバーの配置や指揮・命令系統の整備、さらには個々のモチベーションの維持・向上が必要になるからだ。これは経営のミニチュア版であり、「現場の会社化」という考え方である。
 経営職ミドルは、自社が本来想定してた顧客ニーズと、それに合致すると思って用意した製品・サービスが、目の前にいる顧客にはうまくマッチしない場合でも、社内の資源(時には社外の資源も)をうまく組み合わせて最適なソリューションを提供する。この場合、往々にして標準的な業務プロセスとは違ったプロセスが構築される。経営職ミドルの1つ1つの解決策だけを見ればさほどインパクトはないかもしれない。ところが、複数の経営職ミドルが似たような新しいソリューションを提供するようになれば、それはイノベーションへとつながっていくだろう。

 経営職ミドルがイノベーションを創出できるのは、突出した才能のおかげとは限らない。自社が用意した標準プロセスがあるからこそ、経営職ミドルは「例外」を発見できると考えられる。この意味で、業務プロセスはイノベーションの源泉と言えるのである。

 多くの企業は標準プロセスを用意した上で、プロセスの成果を図るための指標を設定し、目標値を定めている。そして、いわゆる「進捗会議」を開いて各指標の値をモニタリングし、目標に届かなかった場合は、その原因を分析する。ところが、標準プロセスに該当しない「例外」を会議の材料にして、

 「その例外は自社にとって何を意味するのか?」
 「本当に単なる例外として片付けていいのか?」
 「実は、自社が見過ごしていた新しいビジネスチャンスがあるのではないか?」
 「その例外に目をつけている他の企業はいないのか?」
 「いるとすれば、その企業はどのような対応策をとっているだろうか?」

などといった論点について対話を繰り広げている企業はまだまだ少ないのではないだろうか?(このような対話の場については、「進捗会議」のような適切な語句が見当たらないことからも解る)逆に、そういう対話ができる企業は、イノベーションの機会を他社よりも上手に発見するに違いない。
June 11, 2011

(補足)「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の違いのまとめ

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 最後に、「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の違いを本書から引用して、この本のレビューを終わりにしたいと思う。
分析的取り組み
 ・プロジェクトに焦点を当てる。開始点と終結点が明確である。
 ・問題解決を重視する。
 ・マネジャーは目標を決定する。
 ・マネジャーは会議を招集し、関係者間の交渉によって、見解の相違を解決し、曖昧さを取り除く。
 ・コミュニケーションは情報の正確な交換である。
 ・デザイナーは消費者の意見に耳を傾ける。
 ・手段と達成目標は明確に区別され、流行のモデルで関連づけられる。

解釈的取り組み
 ・プロセスに焦点を当てる。継続的で際限がなく、終わりもない。
 ・新しい意味の発見を重視する。
 ・マネジャーは方針を決定する。
 ・マネジャーは対話を推奨し、異なる見解を許容し、曖昧さに検討を加える。
 ・コミュニケーションは流動的で状況に応じて変化する。
 ・デザイナーは消費者の要望を知るために直観力を養う。
 ・手段と達成目標は明確に区別されない。
 最後の「手段と達成目標は明確に区別され、流行のモデルで関連づけられる」と「手段と達成目標は明確に区別されない」は若干解りにくいので、私なりに解釈を付け加えてみたい。

 「手段と達成目標は明確に区別され、流行のモデルで関連づけられる」とは、例えば「不良品率の削減」という目標に対して「シックスシグマ」という手段が採用され、「顧客生涯価値(CLV: Customer Lifetime Value)の拡大」という目標に対して「CRM(Customer Relationship Management)」のコンセプトに従った顧客DBが構築されるといった具合に、ある特定の経営目標に対して、それを直接的に実現しうる有力で明快な方法論やツールが存在することを指す。

 他方、「手段と達成目標は明確に区別されない」というのは、「達成目標は曖昧で、かつ達成目標とは必ずしも関係なさそうな手段でも許容される」という風に言い換えた方が解りやすい。例えば本書には、リーバイス社のこんな事例が登場する。
 リーバイス社は、若年層市場をさらに年齢ごとに細分化し、それぞれの市場セグメントごとに、各セグメント担当のデザイナーに調査させた。あるデザイナーは、担当する年齢層がよく出入りするクラブを訪れ、彼らが買い物をする店で自分たちも商品を購入し、子どもたちが古着のつるし棚で記録帳を見たり、古着を手に取ったりする様子を伺ったりした。
 デザイナーの目標は、「担当セグメントの顧客をよく理解すること」という非常に抽象的なものである。そして、その目標を達成する手段は、各デザイナーに任されている。しかも、デザイナーは「顧客のどういう生活シーンを観察するか?」という点について、あらかじめ計画を練っていたわけではないと考えられる。それこそ、デザイナーが思いつくままに、あるいは顧客の生活ペースに合わせて観察を続けたのではないだろうか?

 だから、ここからは想像の域を出ないが、顧客がよく読む雑誌やよく聴く音楽に触れてみたり、顧客と一緒に食事をしたりしながら、顧客の価値観や嗜好を探ろうとしたデザイナーもいただろう。あるいは、顧客の友人や恋人までも観察対象にして、その顧客が彼ら彼女らに対しどのような印象を与えたがっているのか、どういうアイデンティティを示そうとしているのかを追求したデザイナーもいたのではないだろうか?

 「顧客を理解するためにそこまでする必要があるのか?」と思えることまでやってしまうのが「解釈的取り組み」である。もっと言えば、目標達成までの道中であっちこっちに脱線したり、ぐるぐると回り道をしたりすることが許されるのが「解釈的取り組み」なのである。
June 09, 2011

「解釈的取り組み」をどう記述するか?という難題―『イノベーション 「曖昧さ」との対話による企業革新』

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 著者が本書の中で提起している興味深い問題は、「『解釈的取り組み』の具体的な中身をどのように記述するか?」というものである。著者に限らず、すでに多くの経営学者や実務家が、「分析的取り組み」は、特にイノベーションの分野ではあまり有用ではないことに気づいている。そして、「分析的取り組み」に代わる「新しいマネジメント」がこれまでにも数多く開発されてきた。例えば、学習する組織、ネットワーク組織、クロスファンクショナル・チームなどがそうである。

 しかしながら、こうした新しいコンセプトやツールは、根源的な問題を抱えているという。
 この種の論述で非常に難しい問題がある。マネジメントにおける解釈的側面を洞察した文献が、「分析的思考」の用語を使って書かれているのである。たとえば、ネットワーク組織について考えてみよう。結節点が、情報通信の経路によって連結するシステムである。社会学者、ロナルド・バートは、このようなネットワークの「構造上の穴」に着目する。結節点と結節点との間で関係が断絶している状態である。これらの結節点がつながると、共通の言葉と語彙が発達することが期待できる。

 バートは、これを「裁定取引」という用語で説明している。仲介者は、一つの結節点から別の結節点に情報を送り込むことに可能性を見出すことができる。ちょうど外国為替市場のトレーダーが、ニューヨークとロンドンの交換レートの差を有利に使って売買するのと同じである。
 クレイトン・クリステンセンが長年に渡って研究テーマとしている「破壊的イノベーション」も、分析的な記述にとどまっていると著者は指摘する。
 クリステンセンの方法論は、本質的に分析的である。自律的事業単位(※クリステンセンが提唱した組織形態。既存事業から切り離された、破壊的イノベーションを担う組織のこと)の主な機能は、破壊的技術の解決策を「実施すること」である。(中略)

 「分析的取り組み」の優れた方法は、いろいろな顧客グループを含めた広範囲の情報源から技術動向の情報を収集し、どの新しい技術が破壊的と考えられるかについて客観的基準を適用し、破壊的技術を実施するための自律的な事業単位を設定することである。これらを系統的に組織的に行う。これがクリステンセンが実質的に提案した取り組み方である。
 クリステンセンが提案した方法に従ってイノベーションを推進したが、失敗に終わった事例が本書の中で1つ紹介されている。照明コントロール製品を手がけるルートロン社は、同社の標準製品とは異なる製品の開発を目的として「カーディナル・プロジェクト」を立ち上げた。プロジェクトは既存事業から切り離され、メンバーには非顧客との対話が期待されていた。ところが、
 カーディナル・プロジェクトが当初のビジョンから離れて、クリステンセンの処方による「分析的手法」を始めたところ、問題がこじれてしまった。カーディナルの経営陣は、ユニットの事業分野を拡大しようと試みた結果、独立採算制を採用した。事業の選択基準をイノベーション能力から収益性基準に変更し、他の事業部と競争するようになった。特注品をわずかに改善して、標準部品以外の注文に応じた。こうして当初あったプロジェクトの「解釈的取り組み」は消滅し、この時点で、カーディナル・プロジェクトは解体した。
 だが、個人的には、これらの一連の記述は、クリステンセンの本来の主張とは異なるように感じるんだね。クリステンセンは、自律的事業単位に対しては、既存事業とは異なる業績評価制度が必要だとし、特に収益に関しては寛容であるべきだと強調していた記憶がある。業績の中で厳しく見なければならないのは、むしろ売上の方なんだな(新しい顧客に新製品が受け入れられているかどうかを測る試金石になるため)。

 また、先ほどの引用文の中に、「どの新しい技術が破壊的と考えられるかについて客観的基準を適用し」とあるが、クリステンセンは『イノベーションのジレンマ』などの著作の中で、破壊的技術の客観的基準など定めていなかったはず。むしろ、同じ技術であっても、企業によっては破壊的技術になったり、持続的技術になったりすると述べているぐらいだし。要するに、それこそ「解釈次第」なんだな。

 著者は別の箇所で、「解釈的取り組み」によって製品コンセプトや仕様がある程度固まれば、その後は「分析的取り組み」へと移行し、安定的な生産と販売を実現し、収益が出る体制を実現しなければならないと述べている。ルートロン社の失敗は、クリステンセンの理論の欠陥に原因があるというより、ルートロン社が「解釈的取り組み」から「分析的取り組み」へと移行するタイミングを間違えた(早まった)と考えた方が、私としては納得感があるよ。

 「解釈的取り組み」に近い内容を研究している学者として著者が名前を挙げるのは、ダグラス・ノース、ドナルド・ショーン、ピーター・センゲ、カール・ワイクなど、ごく一部の学者に限られる。それでも著者は、彼らでさえ「分析」と「解釈」を明確に峻別していないと、何とも手厳しい評価を下している。ピーター・センゲと同じような分野を研究している野中郁次郎については、
 センゲが使用する端的な用語は、野中、竹内の用語にきわめて近い。「学習する組織」という言葉は、「知識創造企業」にきわめて似ている。普通に本を読む以上に、かなり細かく読み込まないと、これらの書籍が根本的に違うことを言っていることに気づかないだろう。詳細に言うと、センゲの論評は、私たちが理解する以上の内容があり、そのことが目立っている。野中と竹内の議論はセンゲの分析的な世界観を補強するものであり、根本的に異なるもう一つの考え方に対して貢献しているわけではない。
と評されているぐらいだ。

 けれども、私が思うに、著者自身も「『解釈的取り組み』の具体的な中身をどのように記述するか?」という問題に対して、明確な解答を示すことはできていない。本書の大半は、

 ・「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」は同じ組織の中で共存しうること
 ・マネジャーは両方の取り組みに責任を負う必要があるということ

の説明に割かれている。「解釈的取り組み」のコアである「”曖昧さ”との対話」とは一体どのようなものなのか?この点については、残念ながら詳しく知ることができない。ふむー、自宅の本棚に置きっ放しになっている『U理論』や、「対話」と言えば必ず出てくる物理学者デビッド・ボームの著書を読みこんでみるとするか。
June 07, 2011

保護された「公共空間」の重要性―『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 (前回からの続き)

 とはいえ、先ほどの2つの命題が間違いだったとは私は思わない。この2つの命題が広まった80年代から90年代初頭の時代背景を考慮する必要がある。この時期のアメリカでは、アメリカ製よりも日本製やドイツ製の方が好まれた。これは紛れもなく、日本製やドイツ製の方が、顧客のニーズに合致していたからだ。安くてめったに故障しない日本車は、高い金を払っているのに頻繁に故障するビッグスリーの車に悩まされていたアメリカ人にとって、願ってもない製品だったに違いない。だから、「アメリカ企業は、日本やドイツの企業のように、もっと顧客の声を聞くべきだ」という命題が導かれたと推測される。

 また、もう一方のコア・コンピタンスの命題は、アメリカ企業のコングロマリット化に対するアンチテーゼとして提示されたものであろう。事業の多角化を狙ってM&Aが盛んに行われていたが、買収後の企業価値が、しばしば買収前の2社の企業価値の合計を下回ることが研究者の間でも指摘されていた(マイケル・ポーターもM&Aに関する研究を行っており、シナジー効果のないM&Aには早くから警鐘を鳴らしていた)。

 シナジーという単語は、M&Aを正当化するのには非常に便利な言葉である。しかし、M&Aの成功確率の低さが明るみになると、その反動として、「もっと自社の足元を見つめ直し、本当の強みを見極めるべきだ」という方向に議論が傾いたと考えられる。

 だから、2つの命題は、時代背景に照らし合わせれば至極全うなものであった。さらに言えば、マーケティングなしに企業の存続は考えられないから、2つの命題は今でも十分に有効である。ただし、それはマーケティングの分野に限られた話である。生産性の向上や市場シェアの拡大だけを志向しても、いずれは限界がくる。そこからさらなる成長を実現するには、「解釈的取り組み」を通じたイノベーションを追加しなければならない。つまり、「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の両方を同時進行させる必要がある、というわけだ。

 「分析的取り組み」が企業活動のムダを排除しようとするのとは対照的に、「解釈的取り組み」は冗長性を推奨する。部門間の交流、異なる技術間の交流、サプライヤーや外部機関との交流、非顧客との交流など、「分析的取り組み」であれば排除されるような、既存の枠組みを超えた異質・曖昧さとの交流がよしとされる。こうした冗長な活動をひっくるめて、著者は「対話」と呼んでいる。そして、「対話」を「分析的取り組み」の圧力から守るために、「公共空間」が必要だと説く。個人的には、この点が非常に興味深く感じた。

 日常業務から離れたオープンなスペースでの「対話」の重要性は、1年半ぐらい前に紹介した『ダイアローグ−対話する組織』という書籍でも指摘されている。ただし、この本では、こうしたオープンスペースがどのようなものになるのか?といった具体的な記述は見られなかった。

中原 淳
ダイヤモンド社
2009-02-27
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うーん、これは厳しい。
さらっと読んだのですが・・・
学習する組織のための対話とは
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 一方、『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』では、「公共空間」として(1)企業内の場、(2)企業間のネットワーク、(3)規制、(4)大学という4つの具体例を挙げている。(1)企業内の場とは、例えばAT&TやIBM、デュポンなどが所有していた企業内研究所を指す。(2)企業間のネットワークとは、P&Gの「コネクト・アンド・ディベロップ」のような活動を想起していただければ解りやすい(以前の記事「柔らかいアイデアの段階で予算をつける勇気がイノベーションのカギ―『ゲームの変革者』」などを参照)。

 (3)規制が「公共空間」になるという指摘が面白いのだが、これは、行政が既存の規制を企業に適用する場面ではなく、行政と企業が共同で新しい規制を構築するケースを指している。新しい規制が形成される過程では、行政・企業のメンバーが、消費者のニーズやトレンド、産業を構成する各種プレイヤーの動向、技術発展の見通しなどをめぐって、自由闊達に情報交換する。さらに、規制すべきプレイヤーは誰であって、その利害は何か?逆に、規制によって保護すべきプレイヤーは誰で、その利害は何なのか?などといった、踏み込んだ「対話」が展開されるというのである。

 本書では、パナソニックがかつて連邦政府通信委員会(FCC)の諮問委員会のメンバーから外されてしまい、国外のインフラ基盤事業において事実上競争することができなくなってしまった、という事例が取り上げられている。逆の見方をすれば、FCCが規制を形にしていく段階で、アメリカ国内のインフラ基盤事業の方向性が巧妙に固められていたというわけだ。規制策定に参加していた企業は、この方向性に沿って自社のビジネスを展開できる。他方、メンバー外の企業は、規制の中身を理解することから出発しなければならず、スタート段階でいきなり競合の後塵を拝してしまうのである。

 (4)大学とは、いわゆる産学連携のことを意味している。ここに「官」が加わって産学官連携になると、(3)と(4)がミックスした公共空間が生まれるかもしれない。

 もっとも、「公共空間」を作ればイノベーションが加速すると考えるのは甘い見通しであろう。(1)企業内の場については、そもそも企業自体が「分析的取り組み」の塊と化しているため、そこに「解釈的取り組み」の場をつけ加えることが困難になりつつある(この点は、『ダイアローグする組織』の著者である中原淳准教授も指摘していた)。

 また、(2)企業間ネットワークについては、ネットワークを構成するそれぞれのプレイヤーにも「公共空間」に対する十分な理解が求められる。「分析的取り組み」でガチガチになっている企業がネットワークに入ってきてしまったら、返って「対話」の邪魔になることは容易に想像がつく。

 となると、(3)規制や(4)大学に望みを託すのか?ということになるが、この2つはやや特殊な例だと思われる。本書で論述の対象となっている業界には、携帯電話や医療機器メーカーなど、法的な規制や大学の研究との関係が深いものが実は多い。個人的には、(3)(4)はこうした事情から導かれたと考えている。

 では、「公共空間」は空論と諦めるしかないのか?というと、それはそれでまた早急な判断であろう(議論がグルグル回って恐縮だが・・・)。(2)〜(4)は利害関係者が多くなるので、その分「公共空間」の構築には様々な困難な伴う。それに比べれば、(1)は企業単独で実施可能だ。私は、まずはこれに望みを託したい。その際には、業務や組織のデザインをがらりと変える必要がある。例えば、

 ・「解釈的取り組み」に参画するのは誰か?グーグルや3Mのように、全社員が一部の業務時間を「対話」につぎ込むことができるようにするのか?それとも、「公共空間」の名にふさわしい、既存事業部門からは隔離された部署を設立するのか?

 ・上記の変更に伴って、各社員のジョブ・スクリプション(職務定義書)はどのように変わるのか?(日本だと明確な職務定義書が存在しないが、目標管理制度[MBO]などを採用している企業であれば、期初に設定する目標の中身が従来とは変わるはず)

 ・マネジャーの役割はどうなるのか?「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」を状況に応じて首尾よく切り替えるスイッチの役割を果たすのか?それとも、「解釈的取り組み」を専門とし、「解釈的取り組み」の成果に責任を持つマネジャーを新たに任命するのか?

 ・「解釈的取り組み」につぎ込む予算はどのように捻出するのか?また、「解釈的取り組み」から生まれる各種プロジェクトに、どうやって予算を割り振るのか?

 ・「解釈的取り組み」の成果をどのように測定するのか?また、その成果をどうやって人事考課(給与・等級)に反映させるのか?

 ・「解釈的取り組み」に必要なスキル・知識とは何か?それを現場社員やマネジャーに習得してもらうためには、どのようなトレーニングを実施すればよいか?

 などなど、幅広い問いに対し一貫性のある解を用意しなければならないだろう。

 (まだまだ続くよ)
June 06, 2011

マーケティングとイノベーションの違いの整理―『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 先日取り上げたC・K・プラハラードの『イノベーションの新時代』は、イノベーションというよりもOne-to-Oneマーケティングの本で肩透かしを食らってしまったのだが、この本はちゃんとイノベーションがテーマになっていた。結構骨太の内容で、読み切るのに苦労したよ。

 90年代から現在にかけて、日本やドイツの経済が低迷したのとは対照的に、アメリカ経済はそれなりに順調に成長を遂げた(途中、ネットバブル崩壊やサブプライムローン問題による混乱はあったが)。アメリカ国内では、「企業を中心とする様々なイノベーションが、成長の主たる要因である」と分析されているようだが、著者はこの点に疑問を投げかけている。果たして、本当の意味でのイノベーションが、アメリカで引き起こされていたと言えるのだろうか?そして、真のイノベーションとは一体何を指すのか?本書の争点はここにある。

 この点を論じるにあたって、著者は従来の経営学者が唱えてきた2つの命題を問題視する。1つは「顧客の声をよく聞け」というものであり、もう1つは「自社の強みに集中せよ」というものである。本書では直接述べられていないが、前者は言い換えれば外部環境重視の戦略であり、後者は内部環境重視の戦略に該当する。この2つの戦略は、長きに渡って戦略論の2本柱を形成してきた。そして、経営者やマネジャーは、双方のメリットを尊重し、両者をうまく組み合わせながら戦略を構築してきた。

 その最も華々しい成功例が、ジャック・ウェルチの率いるGEだったと著者は指摘する。経営学者はこぞってGEを研究し、世界中の企業がウェルチの経営を真似しようとしたものである。こうした産学両方の努力の甲斐もあって、「顧客の声を聞く方法」や「自社の強みに集中する方法」はかなり定式化されている。

 つまり、どういうプロセスで検討を進めるべきか?検討にあたって、どのような情報を収集すべきか?それらの情報に基づき、どのように選択肢を形成するのか?さらに、最終的な解をどうやって絞り込むのか?といった一連の方法論がある程度確立されているのである。

 このような明確な指針が定められた活動を、著者は「分析的取り組み」と呼ぶ。しかしここで重要なのは、イノベーションを引き起こすのは「分析的取り組み」ではないという点である。ピーター・ドラッカーは何十年も前に、「企業に必要なのは、マーケティングとイノベーションである」と指摘したが、この2つにはこれといった明快な定義が存在せず、しばしば混同される。

 個人的には、マーケティングとは「既存市場のパイの争奪戦」であり、イノベーションとは「既存市場の競争ルールの抜本的変化」や「全く新しい市場の創出」を意味すると理解している。別の見方をすれば、マーケティングでは競合同士の持久戦が繰り広げられ、それに耐えられなくなった企業が淘汰されるが、イノベーションでは既存プレイヤーが一気に死滅することもある。

 例を挙げると、ビール各社が毎年ビールのシェアを競い合っているのはマーケティングの世界である。これに対して、イノベーションに該当するのは、携帯電話が固定電話を一気に隅に追いやり、通信市場の構図をがらりと書き換えてしまったことや、iPadの登場によってタブレットPCという市場が生まれ、その影響がPCやアプリ市場のみならず、書籍市場にまで及んだことなどである。

 著者は、イノベーションを創出するのは「分析的取り組み」ではなく、「解釈的取り組み」であると述べている。「解釈的取り組み」では、先ほどの2つの命題とは正反対の活動が行われる。すなわち、顧客の声にはあまり耳を傾けず、さらに自社の能力を取捨選択せずに統合するのだ。

 本書では、いくつかのイノベーションについて詳細な分析が試みられている。その中の1つである携帯電話は、当初は自動車で無線を利用している営業担当者などが、無線の代替品として利用すると考えられていた。しかし、製品開発担当の技術者が、試しに様々なタイプの消費者に携帯電話を使わせてみると、全く予想外の使い方をすることに気づいた。

 技術者は、よくあるグループインタビューのように消費者にあれこれと話を聞くことはせず、敢えて消費者の行動の観察に徹した。そこから、消費者の潜在的なニーズを「解釈」していったのである。また、携帯電話は、技術的には有線(固定電話)と無線(ラジオ)が融合したものである。用途が全く異なる2つの技術が交錯することで、携帯電話は誕生したわけだ。

 ここからは私の解釈になるけれども、経営学者たちが唱えてきた2つの命題は、企業活動からムダを取り除く方向に働く。「顧客の声を聞く」ということは、「顧客が欲しいと言った製品やサービスだけを提供すればよい」ということになるし、「コア・コンピタンスに集中する」ということは、裏返せば「強みにならない能力は捨て去るべきだ」ということになる。その結果としてもたらされるのは、「企業の生産性の向上」である。そして確かに、生産性の向上は、経済成長にとってプラスに作用する。

 90年代以降のアメリカ経済の成長は、それこそ携帯電話のようなイノベーションに負う部分もあるが、大半は企業の生産性向上によってもたらされたものである、ということを著者は言いたかったのではないだろうか?実際、アメリカの経済成長の何分の1かは、ウォルマートの生産性向上によってもたらされている、という分析結果も一時期出回っていた記憶がある。

 (続く)
June 07, 2010

ダイアローグの4プロセスを整理してみた−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』

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デヴィッド・ボーム
英治出版
2007-10-02
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私にとっては、読むのがしんどかったです。
傾聴する対話を通じて創造する
内容が難しかった。(自分の知的レベルが低いのかも)
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 前回の記事「『思考』によって分断された世界を『対話』を通じて調和する−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』」では、我々の「思考」そのものが社会を分断し、あらゆる「問題」を引き起こしていること、そしてバラバラになった世界観を1つにつなげ、我々の意識を「内蔵秩序」の段階へと引き上げるためにダイアローグ(対話)が必要であることを見てきた。今回はダイアローグの具体的なプロセスを整理してみる。

 ダイアローグについては同書の第2章に詳しく書かれているが、「学習する組織」で知られるピーター・センゲの著書において「ダイアローグの4ステップ」という形できれいにまとめられているので、そちらの文章を引用したいと思う。

ピーター・センゲ
日本経済新聞社
2003-09-19
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組織論
実践の一歩手前
複雑怪奇な集合体の”ツボ”に、大きなハリを5本
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フェーズ1.「器」の不安定
 前回の記事でも述べたように、ダイアローグは特に決まったテーマも課題も設定せずに始まる。「器」の中には、様々な価値観を持ったメンバーが集まっている。メンバーはお互いがどのような人物で、どのような考え方の持ち主なのかを見定めようとする。まずこの段階で、ダイアローグは最初の転機に直面する。
 メンバーは次第に、自分がひとつの選択肢をもっていることに気づくようになる。つまり、進んで自分の考えを心の中で”目の前に吊り下げて”おく(保留する)ことができるようになる。それは、自分の意見も含めたあらゆる見方にまとわりついている「こういうものだ」という思い込みを緩めることである。

 メンバーは、自分たちが習慣的に行ってきたこと、その行動のもとになっている「仮説」を客観的に観察できるようになる。また、対立も含めて、「場」の中で起こるすべての状況を生み出している「思いと感情のプロセス」に対しても疑問をもてるようになる。そして、器の中の拡散や混乱や不安定さに対して「なぜこうなったのか見てみよう」という言葉が、グループをダイアログ(※センゲの本では「ダイアログ」と表記されている)へと導いていくのである。
 メンバーは、表面的な言動の裏に隠された真の「自分」を皆の前にさらけ出し、お互いが皆「異なる存在」であることを認識する。そして、その違いをじっくりと眺めることが第一のステップとなる。

フェーズ2.「器」の中の不安定
 混沌を受け入れることを選択したグループは、「見解の保留」とそれぞれの見方についての話し合いとの間を行ったり来たりするようになる。メンバーはこの段階でフラストレーションを感じるかもしれないが、それは多くの場合、自分たちの心の中にあるバラバラで不整合なものが見えてくるからである。
 お互いの存在を受容すればするほど、お互いの違いが際立って見えるようになる。これは耐え難い苦痛である。我々の思考は、矛盾するものや相反するものを何とかつなぎ合わせて、論理的に理解可能な形に仕立て上げようとするクセがある。ダイアローグの第2フェーズは、明らかに人間の性向に反している。このような状態が続くと、やがて「保留の危機」が訪れる。
 (メンバー内から)極端な意見が出てきて、防御の反応が現れる。このような”熱”や不安定さは苦しいものに感じられるが、それはまさに起こるべくして起きていることであり、それまで隠されていた心の中の矛盾が現れてきたのである。
フェーズ3.「器」の中での探求
 「保留の危機」のままで立ち止まっていては、グループは崩壊し、メンバーは喧嘩別れで終わってしまう。感情の赴くままに発言したり、反射的に不機嫌な態度をとったりするのではなく、ここは一呼吸置いて、「今のこのチーム状態は何を意味しているのか?」と内省する必要がある。すると、ダイアローグは新しい局面へと突入する。
 メンバーは冷静な状態で、一緒に探求を行うようになる。また、対話がグループ全員に影響を及ぼすことに敏感になり、しばしば新しい見方も生まれてくる。

 このフェーズは、遊びや深い洞察に満ちたものにもなりうると同時に、もうひとつの転機につながっていく。メンバーはだんだんと自分が孤立していることを意識するようになる。そのような感覚は、使ったことがない頭や感覚を使うことによって起こる筋肉痛のような苦痛を伴うものである。
 「筋肉痛」という表現はイメージが沸きやすい。フェーズ3は、各々のメンバーが今まで抱いていた価値観に、新たな考え方が上書きされる段階である。今まで感じたことも考えたこともない新しい仮説が、精神の中にすっと入り込んでくる。使い慣れない仮説に最初は戸惑い、精神が筋肉痛を起こすという訳だ。

 だが、この段階ではメンバーは一体になりかけているようで、未だ孤独な存在にとどまっている。メンバーが意識のレベルで内蔵秩序という統一された全体性にたどり着くためには、もう少し探求を続けなければならない。

フェーズ4.「器」の中での創造
 ここで生まれる理解はとてもデリケートで、なかなか言葉にしにくく、メンバーは沈黙に陥ることもある。しかし、それは空虚なものではなく、ひじょうに充実した豊かな沈黙になるだろう。

 言葉に言い表すことができなくなる一方で、言葉が生まれてくる可能性もある。単に意味を示すだけの言葉の代わりに、意味そのものを実感できる言葉が語られるようになるのである。

 私(※共著者であるウィリアム・アイザックス)それを、”意味が一緒に流れる”という意味で「メタローグ」と呼んでいる。会話の内容ではなく、話し合いをしているグループ自体が意味をもつようになる。このようなやりとりによって、参加者は今までにない能力や創造性を発揮することが可能になる。

 それにしても、ダイアローグについて3回に渡って記事を書いてきた私の精神も筋肉痛を起こしそうだ。解るようで解らないもどかしさ。平易なようで抽象的な内容。ディスカッションに慣れすぎた我々にとって、ダイアローグとは非常にとらえどころのない概念である。これまで述べてきたような感覚は、ダイアローグを実際にやってみないと、きっと永遠に感じ取れないのかもしれない。

 個人的にはフェーズ2までは何となく解る。だが、フェーズ3からが難しい。なぜ、分断化されたメンバーが探求を続けると、新たな考え方に到達することができるのか?その考え方は一体どこから生まれてくるのか?内蔵秩序が自然と教えてくれるとでもいうのか?

 この辺になってくると、もはや宗教との境目が見えなくなる。禅の世界にはこれに近い考え方がある。そもそも、「禅」という単語そのものが、「言語による表現領域を超えた思想の領域へ、瞑想をもって到達しようとする人間の努力」を意味している。座禅や瞑想は、あらゆる事象の根底にある「絶対」を悟り、自らとその「絶対」を調和させる営みである。その調和に成功した時、人は世俗的な考え方を超越した新たな存在に生まれ変わるとされる。

 宗教上の話なら「それを信じるか否か」で片付けられるが、ダイアローグは実践的なコミュニケーションである。ダイアローグを企業の経営や非営利組織の運営、政治や行政に適用するならば、もっと実践的な方法を生み出さなければ、人々に浸透させるのは難しいだろう。

 もう1つ解らないのは、何といっても最後のフェーズである。なぜ、内蔵秩序のレベルに達することで、人間は創造的になることができるのだろうか?内蔵秩序は我々に何を教えてくれるというのだろうか?探索と内省を続ければ、自ずと答えは見えてくるというのでは、何とも説得力に乏しい。

 しかも、フェーズ4においては、お互いの見解が合致する必要はないとボームは述べている。見解を合致させるのではなく、意味を共有することが重要であるというのだ。表面的な意見は食い違ったままで、深層の意味レベルにおいて共有意識を持つとは果たしてどういう状態なのだろうか?さらに、メンバー間の意味の共有が、なぜ各人の行動までを変化させられるのだろうか?

 いやはや、ダイアローグは解らないことだらけだ。でも、これが最近のリーダーシップ論のカギを握っているのだから、時間をかけてじっくりと探求していくことにしよう。
June 03, 2010

「思考」によって分断された世界を「対話」を通じて調和する−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』

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デヴィッド・ボーム
英治出版
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私にとっては、読むのがしんどかったです。
傾聴する対話を通じて創造する
内容が難しかった。(自分の知的レベルが低いのかも)
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 前回の記事「これは宗教なのか?科学なのか?−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』」ではデビッド・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」に触れ、ボームの思想的基盤を簡単に整理してみた。今回は、同書の内容に入っていきたいと思う。言い訳になってしまうが、この本は平易な文章の割にかなり難解なため、以下の記述には論理的飛躍や間違いがあるかもしれない。もしそれを見つけた方は、コメント欄やtwitter上で教えていただけるとありがたい。

 ボームはホログラフィー宇宙モデルにおける「内蔵秩序(暗在系)−顕前秩序(明在系)」(※)という区分を人間社会にも当てはめて、社会で起こる様々な問題について思索を行っている。まず衝撃的なのは、我々は通常、「思考」によって「問題」を解決しようと試みるが、ボームによれば、我々の「思考」によって「問題」が引き起こされているという点である。

 思考とは、「言葉を通じた事象の一般化」である。例えば、「犬」という言葉は、「2つの目、2つの耳、1つの口(その口の中には鋭い牙がある)、何本かのヒゲを含む顔を持ち、4本足で四つん這いになって歩き回り、尻尾を振りながら『ワン、ワン』と鳴く動物」の総称である。我々はそうした動物が世の中にたくさん存在するのを見て、彼らを表す一般名称として「犬」という言葉を与える。

 これは非常に単純な例だが、我々の思考は、社会に散らばる無数の事象から共通している部分を取り出し、それに何らかの言葉を与えることで一般化を行う。「犬」のような物理的な存在もさることながら、「国家」、「宗教」のような抽象的な観念についても同じことが言える。こうして社会は思考によって分断化されていく。

 一方で、一般化は1つの危険を伴う。それは、「例外の排除」である。思考は、社会の事象群から共通項を抽出しているようでありながら、実は共通している「ように思えるもの」を抽出しているにすぎない。抽出から漏れてしまった事象は、人間の思考アンテナには引っかからなくなる。

 ところが、こうした例外的事象も数が多くなり、あるいはインパクトが強くなってくると、既存の思考を脅かすようになる。今までの思考では捉えきれない例外が目の前に迫ってくる時、我々はそれを「問題」と感じるのである。よって、「問題」を引き起こしているのは、他ならぬ人間の「思考」なのである。現在の日本に当てはめると、年金問題や普天間基地問題、天下り問題などは、「社会保障」、「安全保障」、「官僚機構」、「公益法人」、「国家公務員」などに関する思考から発生していると言える。

 先ほどの「内蔵秩序−顕前秩序」の区分に従えば、こうした「問題」は「顕前秩序」において発生しているということになる。しかし、「問題」だらけの分断化された顕前秩序の背後には、内蔵秩序という根源的レベルにおける「調和された全体」が存在する。「問題」を解決する方法はただ1つ、我々の意識をその「内蔵秩序」へと到達させることである。その方法としてボームが提示しているのが、「ダイアローグ(対話)」というコミュニケーションなのである。

 ダイアローグの特徴は、ディスカッション(議論)と対比すると解りやすくなると思う。同書の内容を基に、両者の特徴を以下に簡単にまとめてみた。なお、ディスカッション(discussion)の"-cussion"には「壊す」という意味があり、ダイアローグ(dialogue)は「dia(〜を通じて)」+「logos(言葉)」から派生した言葉である。

ディスカッション(議論)
 ・初めに明確なゴールを設定する
 ・進行役(ディスカッション・リーダー)を置く
 ・用意された選択肢の中から取捨選択する
 ・決断を下す
 ・他人を説得する

ダイアローグ(対話)
 ・ゴールをあえて設定しない
 ・リーダーを置かない(参加者は対等)
 ・選択肢を炙り出す
 ・想定を保留する
 ・意味を共有する

 両者の決定的な違いは、ディスカッションの意義が「意思決定」にあるのに対し、ダイアローグの意義は「意味の共有」にあるという点である。ディスカッションでは参加者が互いの意見を戦わせ、最終的には誰かの意見を採用する。しかし、誰かの意見とは、結局のところその人の「思考」の産物であり、その意見を採用して他の意見を捨てるということは、世界を何らかの形で分断することにつながる。

 一方、ダイアローグでは、意見を戦わせることはしない。各々の意見の背後にある「意味」に着目する。勝ち負けを決めるゲームではなく、互いの言葉の背後にある意味がじわっと滲み出てくるのをただひたすら「待つ」プロセスと言ってもよい。最終的に意思決定をする必要もない。意味が参加者の間で「共有」されれば、ダイアローグの目的は達成される。ボームは、意味の共有こそが、人間の意識を内蔵秩序の段階へと進ませる重要な行為なのだと言う。

 ダイアローグの具体的なプロセスについては、『学習する組織』、『出現する未来』の著者であるピーター・センゲがうまく説明しているので、センゲの文章を借りながら改めて整理することにしよう。

(※)「内蔵秩序−顕前秩序」という区分も見た目は二元論のようであるが、両者を明確に分けることはできず、むしろお互いが密接に関連しているという点で、デカルト=ニュートン的世界観でいうところの二元論とは異なる。
December 26, 2005

理辺良保行の名言

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 「発見がすべてではない。人間は過去の経験から産み出された答えのみでなく、問いをも未来に残すのである。人間は過去が提示してくれた答えに質問を浴びせかける。と同時に人間は自分自身の答えを批判する。そしてこれこそ、対話的存在の本質的な面である。…私たちは学習し、教える。そして教えながら、私たちは自分が出した答えが最終的なものではなく、未来のためにまだ残されているものがあると気付いているのである。」
(理辺良保行「対話的存在としての人間」−アルフォンス・デーケン、中村友太郎編『未来の人間学』)
 理辺良保行(リベラ・ホアン〔Juan M.Sanchez Rivera Peiro〕、1938〜)
 上智大学文学部教授。専門は女性学、人間学、生命情報の獲得・発現に関する総合的研究、カウンセリングと宗教。

未来の人間学未来の人間学
アルフォンス デーケン

春秋社 1993-03

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