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March 22, 2012

競争優位が戦略からビジョンへ移行しつつあることの再発見―『絆の経営(DHBR2012年4月号)』

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Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 04月号 [雑誌]Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 04月号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2012-03-10

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 (1つの論文のレビューだけで2本の記事を使うという贅沢ぶり。単にレビューが長いだけなのだが・・・)

組織の「接着剤」と「潤滑油」が生み出す 「集合的野心」の力(ダグラス・A・レディ、エミリー・トゥルーラブ)

 もう1つの面白い発見は、セフォラ(※LVMH傘下のコスメブランド)の事例から。LVMHは2003年に、問題を抱えていたセフォラの売却を検討したが、セフォラは新しく迎え入れたCEOの下で戦略を再構築した。新しい経営陣は典型的な市場調査も実施したものの、最終的に戦略の決定打となったのは、セフォラの創業者が築いた価値観であった。
 セフォラの場合、楽しいショッピング経験を提供することが目的ならば、他社とは異なるサービスの提供を戦略とすべきであると判断した。すなわち、いわゆる優れたサービスではなく、「自由」「感情的な絆」、そして「大胆さ」という、同社の価値観と一致するサービスである。
 よく、ビジョン、戦略、戦術、組織・・・を上から順番に並べた三角形の図が描かれて(例えば「理念・ビジョン・戦略・戦術|プログラマー社長のブログ」[ITmedia オルタナティブ・ブログ、2010年11月8日]など)、ビジョンと戦略の一貫性を取ることが重要だと言われるが、実際に戦略を策定する段階になると、ビジョンとの関連性が忘れられることがしばしばある。これは、外部環境と内部環境を客観的に分析して、そこから戦略オプションを生成し、経済的価値が最大のもの(=平たく言えば、一番儲かるもの)を選択する、というMBA的な戦略策定プロセスに起因するところが大きい。

 このプロセスに従うと、誰が分析しても結局は同じ戦略に行き着いてしまうというパラドクスが指摘されている(ヘンリー・ミンツバーグなどはその代表)。どの企業も競合他社との差別化を意図し、競合とは異なるコンサルファームの力を借りながら戦略を練ったのに、ふたを開けてみたらどこも大して変わらない戦略だった、というオチになる。

 こうしたパラドクスを回避する上で、ビジョン、その中でもとりわけ価値観が果たす役割は大きい。価値観は社員の行動を規定すると同時に、事業環境に対する社員の見方をも規定する。価値観は主観的であるがゆえに、価値観の違いが事業環境の異なる側面を浮き彫りにする。つまり、セフォラの例で言えば、「我が社が言う『自由』を求めている顧客とは具体的に誰か?」、「我が社が言う『感情的な絆』に最も敏感に反応する顧客はどこにいるか?」、「我が社が『大胆さ』という時、顧客は我が社に何を期待しているのか?」と問う時、セフォラは市場に対し、客観的な市場調査のみに頼る競合他社とは異なる見方をしていることになる。この視点の差が、他社とは異なる市場の機会を発見する可能性を秘めている。

 同じような問いを、セフォラは内部環境に対しても発することができる。すなわち、「我が社が言う『自由』、『感情的な絆』、『大胆さ』を実現するサービスとは何か?どのような場所に、どのようなレイアウトの店舗を構え、どんな製品を揃え、どのようなサービスを販売スタッフは提供し、どんなメッセージを企業として発信すべきか?」、「望ましいサービスを提供するのに必要な組織能力は備わっているか?欠けているものは何か?ギャップを埋めるためにどのような手を打つか?」という問いである。

 このような問いを通じてセフォラは、MBA的な戦略策定アプローチでは得られないような差別化戦略へと到達することが可能となるだろう。そういう意味で、以前「戦略による競争優位からビジョンによる競争優位へ?―『「チェンジ・ザ・ワールド」の経営論(DHBR2012年3月号)』」でも述べたように、競争優位の源泉が、戦略からビジョンへと移行しているように思えるのである(三角形の図に従えば、それが本来のあるべき姿なのだが)。

 ただし、ビジョンは主観的であるがゆえに、絶えざる「解釈」によって常にその意味を肉付けしていく必要がある(以前の記事「<布教>という時代は終わりました−『感じるマネジメント』」を参照)。セフォラの「自由」、「感情的な絆」、「大胆さ」という価値観は、字面だけを見れば至って普通である。そして、これは多くの企業のビジョンにも当てはまる。ビジョンの表現そのものは、得てして凡庸なものだ。ゆえに、その意味を十分に組織内で咀嚼しないまま、ビジョンとリンクした戦略を構想しようとしても、MBA的な戦略策定アプローチと同様に、何とも変わり映えのしない戦略に陥る危険性がある。

 ビジョンを社員の間で解釈し続ける活動は、非常にシンプルである。しかし、地道な努力の積み重ねを要する。ちょうど、長尾吉邦氏の『企業盛衰は「経営」で決まる―中小・中堅企業のための自立経営へのステップ』を読んでいたら、1つ興味深い事例があったので紹介したいと思う。

企業盛衰は「経営」で決まる―中小・中堅企業のための自立経営 へのステップ企業盛衰は「経営」で決まる―中小・中堅企業のための自立経営 へのステップ
長尾 吉邦

ダイヤモンド社 2009-04-17

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 千名の従業員を抱えるあるメーカーは、毎年1月に全社員(部課長を含む)にリポートの提出を義務づけている。テーマは「私が経営理念の実現で行動したこと、成果を上げたこと」。すなわち、毛鋭意理念を実現するために具体的にどうしたのか、どんな成果が上がったのか、そして、なぜそれをしようと思ったのか、などについてリポートさせているわけだ。そして、そのリポートを役員会で審議にかけるだけでなく、「優秀者委員会」を設けてそこでも審査している。(中略)

 大事なのはこの次のステップで、(優秀者委員会で)選ばれた5名は年度方針発表会で表彰されるだけでなく、1人当たり30分間、社員の前で発表しなければならない。社員に聞くと、発表のなかで一番印象に残るのはいつも「なぜ、それをしようと思ったのか(背景)」であると、口をそろえて言う。
 これは、社員が1,000人程度の中堅企業だからできるのだろうと思われるかもしれないが、大企業でも基本的にやり方は同じである。例えば、本体だけで6,000人以上の社員を擁する三井物産は、槍田松瑩前社長が「社長車座集会」という社員との対話の場を設け、社員と食事をしながら、経営の目指す方向や経営の問題意識を語り合う活動を世界中で続けていた(「IT 先進企業 : 三井物産 - 「業態変革」を旗印に社員の意識改革と経営効率化に邁進する」[Microsoftホームページ])。

 また、社員約3,000人のファミリーマートでは、毎年1回、「ファミリーマートらしさ」について考えるワークショップ「らしさDAY」が開催されている。本部や支店ごとに社員が集まり、それぞれの社員が考える理想の仕事像を共有し、製品やサービスに活かすことを目的としている。2009年からはフランチャイズ店のオーナーを対象とした「加盟店ワークショップ」も開催されているという(『日経情報ストラテジー』2012年3月号)。

日経 情報ストラテジー 2012年 03月号 [雑誌]日経 情報ストラテジー 2012年 03月号 [雑誌]
日経情報ストラテジー

日経BP社 2012-01-28

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 逆に、ビジョンが社員の腹に落ちていない企業はどうなってしまうのか?長尾氏の著書から、先ほどのメーカーとは対照的な企業の例を引用しておく。
 フルサービスのガソリンスタンドを営むK社は、毎年「洗車中心」の方針をうたっていた。ところが実際は、目標未達成の連続であった。その原因を探るべく、K社の幹部から末端社員に至るまでヒアリング調査を行ってみた。部長に「方針は?」と問うと、間髪を入れずに「洗車中心です」との答えが返ってきた。次にエリア長・店長に聞くと、やはり「洗車中心です」。社員に聞くと「洗車中心です」。そして、末端のアルバイトに聞いても「洗車中心です」。K社の方針は見事なまでに組織全体に浸透していた。

 ところが、アルバイトに対して「洗車中心という方針を実行するため、あなたは具体的に何をやっていますか?」と問いかけたところ、返ってきたのは「できるだけ気をつけています」というものでしかなかった。つまり、方針そのものは末端まで理解されているものの、行動にまでは移されていなかったのである。
 こういう企業では、ビジョンとリンクした独創的な戦略は期待できない(もっとも、それ以前の問題として、こういう状態では日々のオペレーション自体が機能しないのだが・・・だから、K社はずっと目標未達成が続いているのだろう)。
February 06, 2012

前提となる世界観はデヴィッド・ボームの「ダイアローグ」と共通な気が―『怒り(心の炎の静め方)』

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怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

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 相も変わらず「怒り」に関する書籍を読んでいるところ。これまでに紹介した加藤諦三著『どうしても「許せない」人』やクリスティン・デンテマロ他著『キレないための上手な「怒り方」』は、ひとまず相手のことは置いておいて、自分が怒りを感じた時にどう対処するか?という本だったが、今日紹介する本は、双方が怒りを感じている時にどうすればよいか?という本である。そういう意味ではより実践的な本のはずなんだけれども、この本は宗教色が強く(ブッダの教えに立脚している)、読む人を選ぶような気がした。
 内なるブッダに触れるためには、意識的な呼吸や歩行の実践をする必要があります。意識の中にある気づきの種に触れると、顕在意識にブッダが現れ、あなたの怒りを包み込みます。何も心配することなく、ブッダを生かし続けるように呼吸と歩行の実践を続けてください。そうすればすべてがうまくいきます。ブッダは怒りに気づき、受け入れ、和らげ、怒りの本質を深く見つめます。そしてブッダは理解します。この理解が変容をもたらすのです。
 うーん、私は恥ずかしながら仏教に対する理解がないので、こういう話はイメージが難しいな・・・。

 怒りの鎮め方を論じるにあたって、著者は「非二元論」と「相互共存」という2つの原則を拠り所としている。「非二元論」とは、体と心を区別しないことであり、怒りを抱えた心を大事に扱うには、まず体を大切にしなければならないという。仏教では、体と心の形成物を「ナーマルーパ(名色)」と呼ぶそうだ。心に起こることは体にも起こるという考えに基づき、呼吸や歩行、さらには食事を整えることの重要性が強調されている。

 もう1つの「相互共存」(本書を読んだ印象では、こちらの方が重要な気がした)とは、ブッダの言葉を借りれば「人は誰も孤立した存在ではない」ということであり、さらに突き詰めていくと、「私はあなたであり、あなたは私である」といった、人間同士の境界線を取り払う思想に行き着く。

 「相互共存」の原則によれば、「私の怒りは相手の怒り」であり、「私の苦しみは相手の苦しみ」となる。よって、自分が相手に怒りを伝える際には、相手が同じように抱えているであろう怒りにも耳を傾け、尊重しなければならない。端的に言えば、相手を愛さなければならない。しかしここで、「相互共存」の原則に従って、今度は逆に「相手を愛するには、まずは自分を愛する必要がある」という考え方が導かれるのである(この辺りになると、解ったような解らないような、不思議な感覚に襲われる。いや、実際にはよく解っていないのだけれど、汗)。

 「相互共存」の原則は、自分の怒りを相手に伝える際のコミュニケーションに端的に表れている。『キレないための上手な「怒り方」』などでは、効果的な怒りの表現とは、(1)怒りを感じた具体的な状況を特定し、(2)自分がどう感じたのかを率直に表現して、その上で(3)相手の行動をどう改めてほしいのか、要望をストレートに伝えることだとされる。

 これに対して本書の著者は、次の3つの言葉によって相手に怒りを伝えるのが効果的だと述べている。
(1)「私は怒っています。私は苦しんでいます」
 苦しいとき、怒っているときも、あなたの気持ちを相手に伝えなくてはなりません。これが真の愛です。できるだけ穏やかに伝えてください。声に悲しみが表れるかもしれませんが、それは構いません。とにかく相手を罰したり責めたりすることだけは言ってはいけません。「私は怒っています。苦しんでいます。あなたにそれを知ってもらう必要があるのです。」お互いを支え合うという誓いを立てた2人にとって、これは愛の言葉です。

(2)「私は最善を尽くしています」
 これは、あなたが怒りに任せて行動しているのではなく、意識的な呼吸、意識的な歩行を実践し、気づきによって怒りを受け入れようとしていることを意味します。「私は最善を尽くしています」と言うとき、あなたは自分がこれまでに何度も、誤った認識のために怒ってしまったことに気づいています。ですから今、あなたはとても慎重です。自分は相手の言動の犠牲者であると簡単に思い込むべきではないことを知っているからです。自分の中に地獄を創り出していたのは、あなた自身かもしれないのです。

(3)「助けてください」
 3つ目の言葉は自然に後に続くでしょう。これは真の愛の言葉です。相手に腹を立てているとき、「あなたなんて必要ない。私はあなたがいなくても十分やっていけるわ!」と逆のことを言いがちです。でもあなた方はお互いを支え合う誓いを立てました。苦しいとき、たとえ自分で実践の方法を知っていたとしても、相手の協力を必要とするのはとても自然なことです。
 (1)は通常の怒りの表現とほぼ共通しているが、(2)(3)には「相互共存」の思想が色濃く表れている。つまり、自分が怒りを感じた時、これは自分だけの問題ではなく、自分と相手の問題なのであり、お互いの協力による解決を望んでいると相手に訴えているわけである。

 本書を読んでいくうちに、「非二元論」と「相互共存」という2つの原則は、随分前にこのブログで取り上げた物理学者デヴィッド・ボームの『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』と共通している気がした。ボームは「ホログラフィー宇宙モデル」という二重構造の宇宙モデルを提唱し、その一方を「内臓秩序」と名づけた。内臓秩序は、我々が普段認識している世界とは異なり、物質、精神、時間、空間など、この世のあらゆるものが取り込まれ一体となっている世界だ。

 どんなに深刻な問題を抱え、心理的にズタズタに分断された人々であっても、内臓秩序の世界では分離不可能な関係を形成している。我々は、ダイアローグ(対話)を通じて内臓秩序の次元に到達し、諸々の問題を乗り越えて前進することが可能になるとボームは主張する。しかも、内臓秩序の次元に達した人々は、肉体という物理的な境界を超えて、意識のレベルでつながるという。これはまさに、本書の「非二元論」に通じるところがある。

 ただ、『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の書評でも書いたように、ボームのダイアローグ論は、「ダイアローグを根気強く続ければ、自ずと内臓秩序へ昇れる」と言っているような気がして、やや楽観的すぎる印象を受けた(単に私の理解が浅いだけだが・・・)。ディスカッションではなく、敢えてダイアローグを選択しなければならないほど深刻な問題に関わっている人々は、暴発寸前の怒りを抱えているものである(以前の記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」を参照)。その点、本書は怒りを出発点としているから、本当はボームのダイアローグ論よりも実践的なのかもしれない。しかし、冒頭で述べた通り、宗教に対する私の理解不足ゆえに、実践知に落とし込めないのが何とも歯がゆいところだ。
January 29, 2012

「好意的サディスト」という優しい顔をした攻撃者に注意―『キレないための上手な「怒り方」』

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キレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたにキレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたに
クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro

花風社 2000-12

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 先日までの記事「『キレないための上手な「怒り方」』(1)(2)」で、上手に怒ることができない3タイプの人を紹介したわけだが、このうちタイプ1「怒りを表に出さず蓄積させてしまう人」とタイプ2「怒りに気づいていない人」は、本人が怒りを表現している自覚がないにもかかわらず、実際には相手に対して強烈な怒りをぶつけていることがある、という著者の指摘にハッとさせられた。

 タイプ1「怒りを表に出さず蓄積させてしまう人」がしばしばとる「沈黙」という手段は、それだけで十分な怒りの表現になる。スコットとジュリーシャの例で言えば、口げんかの末にだんまりを決め込んでしまうスコットは、自分が怒っている理由の解読作業を全てジュリーシャに丸投げしている。スコットは「僕のことが本当に好きなら、僕が何を考えているかぐらい、言わなくても解るはずだろう?」と何気なく口にした後黙り込んでしまうけれど、別の見方をすれば「つき合っている僕の気持ちも解らないなんて、君は愚かだ」と怒っているに等しい(ジュリーシャはそう解釈するかもしれない)。

 もちろん、沈黙を通じて怒りを表していることを本人が自覚している場合もある。一例を挙げると、逮捕理由に不満がある被疑者は、黙秘によって取調官に対し怒りを伝えようとするだろう。また、私の中学校の時の理科の先生は、この手の怒りの表現が得意だった。我々生徒が私語でざわざわしていると、先生は話すのをパタッとやめてしまい、板書だけで授業を進めるのである。終業のチャイムが鳴るまで、教室に響くのはチョークと黒板消しの音のみ。これは非常に怖かった。

 こういうケースであれば、沈黙によって怒りを訴えていることが明白だし、相手も怒りの理由を比較的容易に理解することができる(理科の先生は、生徒の私語で授業が思うように進められないことに怒っている)。スコットの例で重要なのは、怒りが上手に表現できずに押し黙ってしまう人が、意に反して無意識のうちに怒りを表現し、相手に攻撃を加えることがあるという点である(スコットは本当に「ジュリーシャが愚かだ」と言いたかったわけではないはずだ)。

 本人は殻に閉じこもって、「何で自分の気持ちを解ってくれないんだろう」と被害者意識を持っている。しかし一方で、沈黙という武器を振りかざす加害者でもあるのだ。さらに悪いことに、本人には加害者意識がないし、怒りの理由を相手にちゃんと伝えていないから、相手との認識ギャップが大きくなり、問題をこじらせる危険性をはらんでいる。

 沈黙が怒りを表現する武器になる、というのはまだ解りやすいものの、実はタイプ2「怒りに気づいていない人」のように、普段は全く怒らない人でも、別の手段で怒りを表現していることがある。タイプ2の人は、相手から何か不愉快なことをされても、「いいよ、私のことは気にしないで」、「あなたがよければ、私はそれでいいから」と返すクセがある。だが、この相手に対する好意の言葉こそが、怒りの表現になるというのである。

 先日紹介した『どうしても「許せない」人』には、「好意的サディズム」という言葉が登場する。例えば、母親が子どもを思うあまりに、「母さんのことはいいのよ、あなたさえ幸せであれば」と言ったとする。表面的には優しい母親のように見えるけれども、見方を変えると「あなたの幸せは、私の犠牲の上に成り立っているのよ」というメッセージを暗に子どもに伝えていることにもなる。極端な話をすれば、子どもは「自分が幸せにならないと、お母さんは生きている価値すらない」と思い込み、何をするにしても母親が生きている証となるようなことしかできなくなるかもしれない。この母親の行為は、表向きは好意的だが、本質的には「束縛」なので、「好意的サディズム」と呼ばれるようだ。

 これと同じようなことを、タイプ2の人はやってしまう可能性がある。タイプ2の例としてメリエレンを取り上げたが、メリエレンの母親もまたタイプ2に属する人である。ある日母親は、週末は夫婦で休暇に行くから、弟と妹の世話をしてほしいとメリエレンに頼んだ。しかし、メリエレンは週末にデートや買い物の予定が入っていることを理由に、母親のお願いを断ろうとした。すると、母親はこう言った。
 あら、それならべつにいいのよ。そりゃあね、お父さんが最近、どうも体の調子がよくないっていうから、ちょっと町を離れたほうが、体のためじゃないかと思っただけなんだけどね。でも、お父さんにはちょっとくらい待ってもらったって、たいして変わりはないでしょう。それに、ホテルの割引も使えなくなっちゃうけどねえ。有効期限は今週だけなのよ。だけど、それくらいたいしたことじゃないわ。遊んでいらっしゃい。
 母親としては、メリエレンの気持ちを最大限に尊重したつもりだろうが、ここまで言われて喜んで出かけられる子どもはいないだろう。これこそまさに、「好意的サディズム」の一例である。本書では、このような婉曲的な攻撃の仕方を、心理学の言葉を用いて「受動―攻撃的行動」とも呼んでいる。

 タイプ1・2の人たちにとって、今日の記事で取り上げたテーマは非常に厄介だ。なぜなら、自分は怒りを表現するのが上手でないと思っているのに、自分があずかり知らぬところで怒りを表現してしまっているからだ。では、タイプ1・2の人たちはどうすればよいだろうか?

 まずタイプ1の人は、自分が怒りを我慢して押し黙ってしまった時、怒りを表現できなかったことを後悔するだけでなく、(相手が『どうしても「許せない」人』に登場するような、よほどの鈍感でない限り、)相手が自分の怒りを察知している可能性に思いを巡らせた方がよいだろう。しかし、相手は自分の怒りを正しく理解しているとは限らない。むしろ、間違った認識を持っている確率の方が高い。なぜなら、こちらから自分の怒りの内容を伝えていないのだから。よって、双方の誤解を解くためにも、できるだけ早く自分の怒りを相手に説明した方がよさそうだ(至極当たり前だが・・・)。

 タイプ2の人は、相手のためによかれと思って発した好意的な言葉が、実は相手に必要以上に気を遣わせているのではないか?と考えることが大切であろう。ところがこれは、タイプ2の人にとって大きなジレンマを伴う作業かもしれない。そもそもタイプ2の人は、「何か問題が起きたら、相手のせいにせず、自分に非がないかを検討するように」と教えられた人が多く、この思考パターンのせいで、自分を犠牲にし、怒りを無意識の領域に閉じ込めることを覚えてしまった人たちである。

 先日の記事「怒りを上手に表現できないと人生で割を食う―『どうしても「許せない」人』」では、思考パターンをひっくり返して、相手に非がないかを考えてもよいのでは?と述べた。にもかかわらず、再びここで、自分の好意的な言動に問題がないかをチェックしなければならないわけだ。これがジレンマを生み出す大きな要因である。

 しかし、意識せずとも好意的な言動がとれるのはタイプ2の特徴でもあり、周囲の人と良好な人間関係を構築する上での強みでもあるから、それを無理に直そうとする必要はないのかもしれない。ただ1点、好意的な発言をした後で、「本当のことを言うと、自分はこうしてほしいと思っているんだよ」という気持ちをそっと、飾らずに、素直に伝えるだけでも、サディズムは和らぐのではないだろうか?