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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
July 08, 2011
だから「楽観主義」という言葉は好きになれない―『失敗に学ぶ人 失敗で挫折する人(DHBR2011年7月号)』
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(レビューの続き。5月号のレビュー「真の楽観主義者は究極の現実主義者である―『リーダーシップ 真実の瞬間(DHBR2011年5月号)』」もご参照ください)
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ストレス耐性を強化する トラウマを糧にする法(マーティン・E・P・セリグマン)
1960年代後半、私が参加する研究チームは「学習性無力感」を発見した。(中略)ところが奇妙なことに、逃れられないショックや雑音を経験した動物や人間のうちの約3分の1は、けっして無力感に陥らなかった。彼らの何がそうさせたのだろうか。私の研究チームは、15年を超える研究の末、その答えが楽観主義であることを突き止めた。「ポジティブ心理学」の権威であるセリグマンの論文。「学習性無力感」とは、長期にわたって、ストレス回避の困難な環境に置かれた人は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという見解のことである(Wikipediaより引用)。有名な実験に「カマスの実験」があるが、まずはカマスが入った水槽の真ん中に仕切りを入れて、水槽の端から端まで移動できない状況を作る。
するとカマスは、最初のうちは仕切りに頭を何度もぶつけながら、水槽の反対側に移動しようとするものの、時間が経過するにつれて、移動を諦めるようになる。この状態で仕切りを取り除くと、カマスは自由に泳げる環境であるにもかかわらず、水槽内を移動しようとしない。これが学習性無力感である。
セリグマンは、「全ての人が学習性無力感に陥るのではなく、楽観主義的な人は学習性無力感に陥りにくい」と主張している。いかにもポジティブ心理学の教授らしい見解ではある。ところが、本号の最後の方に出てくる論文では、こんな調査結果が紹介されている。
シリアル・アントレプレナーとは起業を繰り返す起業家を言う。彼ら彼女らの勇猛果敢さと粘り強さには、だれもが感服するが、その夢に資金を提供する投資家たちにとっては、大きなリスクの元である。楽観主義的な人は、学習性無力感を避けて、幾多の失敗から不死鳥のように立ち上がることが可能かもしれない。だが一方で、その楽観主義者に振り回される債権者や株主、社員、取引先や顧客、さらには当の楽観主義者自身の家族などは、多大な損害をこうむる。
我々の調査によれば、シリアル・アントレプレナーたちは失敗から学ぶのではなく、失敗の後も以前と同様、ただ楽観的すぎる傾向がある。(「4つの知見から学ぶ 「失敗」の論点」(デニス・ユチェバシャラン他)より)
本人だけにスポットを当てれば、楽観主義は大切なのかもしれないけれども、社会全体で見た場合に、果たして楽観主義はどのくらい有益なのか?については、議論の余地があると思う。例えば、
・度重なる事業の失敗を重ねて周囲の人たちに甚大な損失を与えたが、最終的には過去の損失を上回る大規模な事業を育てた人
・小規模の事業で数回失敗した後、中規模ではあるが継続的に利益が出る事業を作り上げた人
の2人がいるとして、トータルの損益の金額が同じだとしたら、社会的にはどちらの人の方が賞賛に値するのだろうか??(まぁ、シリアル・アントレプレナーに関する研究だけを持ち出してきて、「楽観主義」の効用について批判的なことを書くと、心理学に詳しい人からは「『確証バイアス』に陥っている」とか言われそうだが・・・。ちなみに「確証バイアス」とは、自分と同じ立場の見解や主張には敏感に反応する野に対し、自分の主張に反する情報は無視しやすい傾向のことを指す)
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失敗だけでは学べない 成功も厳しく検証せよ(フランチェスカ・ジーノ、ゲイリー・P・ピサノ)
成功は、我々を実際よりも優れた意思決定者だと思い込ませる。さまざまな業界の経営幹部を対象に最近実施した簡単な調査では、あるグループのメンバーに仕事上の成功体験を思い出してもらい、別のグループには失敗経験を思い出してもらった。その後、両方のグループに一連の意思決定に関わってもらい、その作業に彼ら彼女らの自信、楽観性、リスク許容度を評価する測定法を組み入れた。成功体験を思い出すだけでも、意思決定やリスク許容度に差が出るという興味深い実験。楽天・野村名誉監督は、負け試合の後でボヤキながら敗因分析をしていたが、いつの日だったか、マー君で勝った試合の後にも、「何で勝てたのかよく研究しないとな」と発言したのを覚えている。
すると、成功を想起した経営幹部は、失敗を想起した経営幹部よりも、自己の能力に自信を持ち、将来の成功を楽観的に予測し、大きなリスクを取る傾向があることがわかった。
ノムさんがしばしば口にしていた「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉には、負けには明確な原因があるものの、勝ちには運やまぐれ(例えば、打ち損ないがヒットになった、相手ピッチャーが勝手に自滅した、たまたま浜風が吹いた、など)が絡んでいるから、「どこまで自分たちの実力で勝つことができたのか?」、「もっとうまくやれる戦術や作戦があったのではないか?」などをじっくり検証しないといけない、という意味合いが含まれているのではないだろうか?
「成功も厳しく検証せよ」という教訓は、経営者やプロジェクトマネジャーのみならず、人事担当者にとっても非常に重要だと思う。なぜなら、人事担当者がある人の昇進や採用の是非を決める際には、必ず過去の業績を判断材料にするからだ。
無名のベンチャー企業が、新しい営業担当者を採用しようとしているとしよう。応募者が大企業で高い成果を出していたからという理由で採用してしまうのは、非常に初歩的なミスである。その人の業績がよかったのは、単に大企業のブランドのおかげだったかもしれない。あるいは、周囲に優秀な営業事務スタッフがおり、顧客訪問に必要な資料はスタッフが用意してくれていたのかもしれない。
人事担当者は、成功に対するその人自身の貢献度合いを見極める必要がある。ある会社の法人営業マネジャーから聞いた話であるが、この会社はチームセリングが多く、かつ技術支援部隊など他部門の人たちとチームを組んで営業を行う。
営業担当者の評価は業績のみでは決まらず、「その営業担当者は、チームの中でどのくらいイニシアチブをとっていたか?(例えば、「チームメンバーの役割分担を明確にしていたか?」、「提案書の作成をメンバーに丸投げせず、自ら商談ストーリーを構築していたか?」、「商談スケジュールを決めて、メンバーの仕事の進捗をきめ細かくチェックしていたか?」、「商談の初期段階で、メンバーを顧客企業のキーパーソンに紹介していたか?」など)」を他のメンバーに評価してもらい、その評価と業績を組み合わせて、最終的な評価を確定しているという。
(もう1回ぐらいレビューを書くかも)
June 30, 2011
会社を退職しました
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突然の話で恐縮だが、本日6月30日をもって、会社を退職した。
入社が2006年3月だったので、5年半近く在籍したわけだが、振り返るといろいろあった。コンサルティングや研修でお世話になったお客様や、マーケティング関連で一緒に仕事をした取引先の方々からは、本当にたくさんのことを勉強させてもらった。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
翻って社内の方を思い返してみると、やっぱりベンチャーというのは難しいとしみじみ感じる。私は前職もベンチャーだったが(アビームコンサルティングの元子会社。現在はアビームコンサルティング本体に吸収されている)、親会社がしっかりしていたこともあって、創業時から事業内容や社内制度がある程度確立されていた。それに対して、今回の会社は本当に何もないところからスタートした純粋なベンチャーであった。
社内の人たちから何かプラスの意味で学んだことがあるかと問われれば、正直なところ「ほとんどない」と答えざるを得ない。逆に、反面教師的に学んだことならば、最低でも50個は挙げられる自信がある。今はそれらの教訓について詳しく書けないけれども、いつか書ける日が来ることだろう。
1つだけ重要な教訓を挙げると、「ベンチャーでは、適切な人材の採用が最重要だ」ということである。『ビジョナリー・カンパニー』の著者であるジェームズ・コリンズは、事業の方向性を決めてから人材を採用するのではなく、「まずバスに適切な人材を乗せてから、方向性を決めることが大切だ」と力説していたが、この言葉の意味がもう本当に痛いほどよく解った。
ベンチャー企業にとって、人材の採用は、製品開発や営業活動と同じくらい、あるいはそれ以上の重みがある。大企業であれば、数百人〜数千人単位で採用した中に数人から数十人ぐらい変な人材が混じっていても、リスク分散が可能である。これに対し、ベンチャーは人数が少ない分、1人の採用の失敗が命取りになりかねない。
現実的な話をすれば、「向こう3年ぐらい、最低でも直近の1年間は、何を武器に市場で戦うのか?」を大まかに構想した上で人材を採用するのが普通だろう。しかし、採用自体はコリンズの言う通り、慎重に行わなければならない。ベンチャーは慢性的に人手不足であり、対外的な知名度もないに等しい。したがって、求人への応募があったらすぐにでも採用したいという誘惑にかられる。だが、そこをぐっと我慢して、目の前にいる応募者が本当に自社にフィットする人材かどうかを見極める必要がある。
では、何を基準に採用の可否を決めるのか?それは、
(1)自社(あるいは創業者)の仕事に対する価値観に合致しているかどうか?
(2)(多少弱みがあるとしても、それを補って余りあるほどの)傑出したスキルがあるかどうか?
という2つに尽きる。逆に、「ビジョンに共感しているかどうか?」や「やる気があるかどうか?」は基準にならない。まして、「面接でたまたま意気投合したから」とか、「自分と馬が合いそうだから」という理由は論外だ。ベンチャーが欲しい人材は、「明日からすぐにでも仕事を任せられる人材」である。ビジョンに共感しているかどうかは、応募者本人の主観的な問題であり、人材の質を見極める材料にならない。また、「やる気」は本人を取り巻く環境や時期によって変動するし、会社側もやる気を(いい意味で)操作できるから、これもまた決定打にはならないのである。
菅総理が自民党の浜田和幸参院議員を総務政務官に起用した「一本釣り」が物議を醸しているが、総理が「浜田議員の復興に対する強い意気込みを買った」と発言していたのをTVで見た。要するに、総理は浜田議員の「やる気」を起用の基準にしたわけだ。しかし、ベンチャーではこの手の採用はたいてい失敗する。そして、今回の一本釣りも、浜田議員が与野党の期待に十分に応えられずに終わる可能性が高いだろう。
価値観と能力が判断基準になるのは、この2つは変動しにくいからである。さらに、能力の高さよりも価値観の合致の方が大切だと言える。能力の高さが採用の基準になる理由は自明であるにしても、価値観の合致の方が優先されるのはなぜか?それは、価値観は社内の様々な意思決定に対してダイレクトに影響を及ぼすからだ。
例えば、「商談で敗れたら、敗因をきちんと分析して反省する必要がある」という価値観を持った人と、「ベンチャーのうちは結果オーライで成果が出ればOK」という価値観を持った人が一緒に仕事をすれば、営業会議は破綻するに違いない。価値観が違いすぎると、2人の能力がどれだけ高くても、2人の人間関係はギクシャクしてしまうのである。
ベンチャーは、社内の制度やルールの整備がどうしても後回しになりがちだ。しかしながら、採用については前述の2つの基準に沿って人材を見極めるプロセスを早い段階で作るべきである。そのプロセスの構築には、製品開発や営業活動と同じくらいの時間を費やすだけの価値があると断言できる。
まだまだ書きたいことはたくさんあるのだが、それは「書ける時期が来たら」ということにしておこう。なお、7月からの私の活動については、明日このブログで発表する予定である。
入社が2006年3月だったので、5年半近く在籍したわけだが、振り返るといろいろあった。コンサルティングや研修でお世話になったお客様や、マーケティング関連で一緒に仕事をした取引先の方々からは、本当にたくさんのことを勉強させてもらった。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
翻って社内の方を思い返してみると、やっぱりベンチャーというのは難しいとしみじみ感じる。私は前職もベンチャーだったが(アビームコンサルティングの元子会社。現在はアビームコンサルティング本体に吸収されている)、親会社がしっかりしていたこともあって、創業時から事業内容や社内制度がある程度確立されていた。それに対して、今回の会社は本当に何もないところからスタートした純粋なベンチャーであった。
社内の人たちから何かプラスの意味で学んだことがあるかと問われれば、正直なところ「ほとんどない」と答えざるを得ない。逆に、反面教師的に学んだことならば、最低でも50個は挙げられる自信がある。今はそれらの教訓について詳しく書けないけれども、いつか書ける日が来ることだろう。
1つだけ重要な教訓を挙げると、「ベンチャーでは、適切な人材の採用が最重要だ」ということである。『ビジョナリー・カンパニー』の著者であるジェームズ・コリンズは、事業の方向性を決めてから人材を採用するのではなく、「まずバスに適切な人材を乗せてから、方向性を決めることが大切だ」と力説していたが、この言葉の意味がもう本当に痛いほどよく解った。
ベンチャー企業にとって、人材の採用は、製品開発や営業活動と同じくらい、あるいはそれ以上の重みがある。大企業であれば、数百人〜数千人単位で採用した中に数人から数十人ぐらい変な人材が混じっていても、リスク分散が可能である。これに対し、ベンチャーは人数が少ない分、1人の採用の失敗が命取りになりかねない。
こう考える読者もいるだろう。「経営の常識ではないか、適切な人材を集めるというのは。どこが新しいというのか」と。ある意味ではたしかにそうだ。昔から説かれている経営の鉄則のひとつだ。しかし、良好から偉大に飛躍した企業には2つの際立った特徴があり、常識とは異なっている。(中略)
まずはじめに適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろし、その後にどこに行くかを決めること、これが要点である。もうひとつ、第二の要点として、偉大な企業への飛躍には、人事の決定に極端なまでの厳格さが必要なことがあげられる。
売上高の伸び率がつねに適切な人材の伸び率より高ければ、偉大な企業を築くことはできない。偉大な企業を築いてきた人たちは皆、企業が成長していくときに最大のボトルネックになるのが、市場でも技術でも競争でも製品でもないことを理解している。どの要因よりも重要な点がある。それは適切な人びとを採用し維持する能力である。個人的には、事業の方向性が本当に全くの白紙状態というのはあまり望ましくないと考える。コリンズがこの鉄則を導いたのは、ヒューレット・パッカードの創業者が、操業当初は売れるものなら何でもなりふり構わず売っていた、という事実があったからだと思われる。
現実的な話をすれば、「向こう3年ぐらい、最低でも直近の1年間は、何を武器に市場で戦うのか?」を大まかに構想した上で人材を採用するのが普通だろう。しかし、採用自体はコリンズの言う通り、慎重に行わなければならない。ベンチャーは慢性的に人手不足であり、対外的な知名度もないに等しい。したがって、求人への応募があったらすぐにでも採用したいという誘惑にかられる。だが、そこをぐっと我慢して、目の前にいる応募者が本当に自社にフィットする人材かどうかを見極める必要がある。
では、何を基準に採用の可否を決めるのか?それは、
(1)自社(あるいは創業者)の仕事に対する価値観に合致しているかどうか?
(2)(多少弱みがあるとしても、それを補って余りあるほどの)傑出したスキルがあるかどうか?
という2つに尽きる。逆に、「ビジョンに共感しているかどうか?」や「やる気があるかどうか?」は基準にならない。まして、「面接でたまたま意気投合したから」とか、「自分と馬が合いそうだから」という理由は論外だ。ベンチャーが欲しい人材は、「明日からすぐにでも仕事を任せられる人材」である。ビジョンに共感しているかどうかは、応募者本人の主観的な問題であり、人材の質を見極める材料にならない。また、「やる気」は本人を取り巻く環境や時期によって変動するし、会社側もやる気を(いい意味で)操作できるから、これもまた決定打にはならないのである。
菅総理が自民党の浜田和幸参院議員を総務政務官に起用した「一本釣り」が物議を醸しているが、総理が「浜田議員の復興に対する強い意気込みを買った」と発言していたのをTVで見た。要するに、総理は浜田議員の「やる気」を起用の基準にしたわけだ。しかし、ベンチャーではこの手の採用はたいてい失敗する。そして、今回の一本釣りも、浜田議員が与野党の期待に十分に応えられずに終わる可能性が高いだろう。
価値観と能力が判断基準になるのは、この2つは変動しにくいからである。さらに、能力の高さよりも価値観の合致の方が大切だと言える。能力の高さが採用の基準になる理由は自明であるにしても、価値観の合致の方が優先されるのはなぜか?それは、価値観は社内の様々な意思決定に対してダイレクトに影響を及ぼすからだ。
例えば、「商談で敗れたら、敗因をきちんと分析して反省する必要がある」という価値観を持った人と、「ベンチャーのうちは結果オーライで成果が出ればOK」という価値観を持った人が一緒に仕事をすれば、営業会議は破綻するに違いない。価値観が違いすぎると、2人の能力がどれだけ高くても、2人の人間関係はギクシャクしてしまうのである。
ベンチャーは、社内の制度やルールの整備がどうしても後回しになりがちだ。しかしながら、採用については前述の2つの基準に沿って人材を見極めるプロセスを早い段階で作るべきである。そのプロセスの構築には、製品開発や営業活動と同じくらいの時間を費やすだけの価値があると断言できる。
まだまだ書きたいことはたくさんあるのだが、それは「書ける時期が来たら」ということにしておこう。なお、7月からの私の活動については、明日このブログで発表する予定である。
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May 20, 2011
「人材の柔軟な配置変更」の実現に向けてクリアすべき課題(1)―『イノベーションの新時代』
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M・S・クリシュナン、C・K・プラハラード 日本経済新聞出版社 2009-06-11 おすすめ平均: 「個客経験の共創」と「グローバル資源の利用」の価値創造戦略 主張に新規性なし 肩すかし |
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(前回からの続き)
そんなに中身のある本ではないんだけれども、書き始めたら何だかんだでいろいろと書きたいことが出てきて、同じ本で何日も引っ張ってしまうんだな・・・どうやら、自分の考えを短くまとめられないのが私の悪いクセみたい(苦笑)。
既存事業において、既存の製品・サービスに多少の改良を加え、安定的な成長を目指す場合は、誰がどういう仕事をすればよいのか、各人の仕事の進捗やクオリティを誰がどのタイミングでチェックすればいいのかが比較的明確である。こういうケースでは、従来型の階層型組織の方が適している。
一方で、イノベーションのように、既存の枠組みの破壊に挑戦する場合は、組織や階層の違いを超えて適材を結集させる必要性が出てくる。部門の違いを超えるという意味では、日産がかつて導入した「クロスファンクショナルチーム」のようなものが今では一般的になっているとはいえ、階層の違いを超えたところまで踏み込んでいる企業はなかなかない。
階層の違いを超えるとは、極端なことを言えば、日常業務では上司と部下の関係にある管理職のAさんと若手のBさんが、プロジェクトの中ではBさんがAさんの上司になる、というようなことだ。例えばこんなケースを想定してみる。AさんとBさんが所属する部門は、すでに成熟した技術をベースにした既存製品のバージョンアップが主たるミッションである。Aさんは製品開発の初期メンバーであり、功績が評価されて管理職に昇進した。
一方、若手のBさんは成熟技術にも詳しいが、社内外の研究会に積極的に顔を出すなど人脈作りに熱心であり、最新技術にもかなり精通している。このたび、会社ではその最新技術を活かした新製品を開発するプロジェクトが立ち上がり、AさんとBさんがメンバーとして選出された。こういうケースだと、BさんがAさんの上司になった方が適切かもしれないのである。ここまでやっている例は、インテルぐらいしか私は知らない(単に私の調査不足でもあるんだけど・・・)(※1)
以上のような「部門や職位を超えた人材の柔軟な配置転換」は、理屈では解るものの、本気でやろうとするといくつかの困難な課題に直面する。その1つが、先日取り上げた「(1)人材データベースの構築」だが、それ以外にも思いつく課題を挙げてみたいと思う。
(2)通常の部門とプロジェクトの両方で働く社員の評価と給与をどうするか?
従来の階層型組織と部門横断的なプロジェクトが混在する組織を野中郁次郎教授は「ハイパーテキスト型組織」と呼んでいるが(※2)、この組織では、普段は特定の部門に所属しながら、ある時期はプロジェクトにも在籍するという社員が増えていく。
しかも、例えばPさんという社員がいて、日常業務では主任クラスでXさんが直属の上司なのだが、プロジェクトでは課長クラスの権限と責任を与えられ、プロジェクトマネジャーであるYさんと、プロジェクトオーナーである役員のZさんがレポートラインになる、といった複雑な構図も十分に考えられる。こういうケースでは、Pさんの評価や給与はどうなるのだろうか?
評価に関しては、少なくともレポートラインが明確になっていれば問題は軽減される。先ほどの例で言うと、X、Y、Zの3人がPさんを評価することになる。もっとも、評価プロセスがかなり複雑になるので、運用方法はよく検討しなければならない。
より大きな問題なのは、Pさんの給与であろう。基本的には主任クラスの給与が支払われるが、プロジェクト期間中は課長クラスの給与に上がり、プロジェクトが終わると主任クラスの給与に戻る、ということが果たして受け入れられるだろうか?一時的に給与が上がる分にはさほど波紋を呼ばないだろうけれども、前述のAさんのように、プロジェクト期間中は役職が下がる場合は、給与を下げてもいいのだろうか?
市場原理を極限まで貫く人であれば、人材の価値はその時の仕事によって決まるから、給与が上下するのは当然だと主張するだろう。ただ、基本給に関しては、頻繁に上下させると、強い反対を食らうに違いない(私も市場原理を支持する側の人間ではあるけれども、基本給の頻繁な変更はやはり心理的抵抗がある)。というのも、基本給は社員の生活保障の意味合いもあり、基本給の変動(特に減少)は社員の生活に支障をきたす可能性があるからだ(基本給が下がって社員のモチベーションが下がれば、会社での成果にも影響する)。
この問題に対してスパッと解を提示することができなくて申し訳ないのだけれども、1つのアイデアとしては、
・基本給は日常業務における役職や能力で決定する。
・プロジェクトの報酬については、プロジェクトにおける役職や期待能力に応じて、別途「プロジェクト手当」などの名目でプロジェクト期間中だけ基本給に加算するか、プロジェクト終了後の賞与で調整する。
という方向性がありうるのではないだろうか?もちろん、これは本当にざっくりとしたアイデアであって、細かい論点を挙げればキリがない。毎年一定期間は日常業務に加えてプロジェクトに参画している社員であれば、この方向性である程度は公正に給与を決定できるかもしれない。
しかし、例えばある社員が、2009年はほとんどプロジェクトにかかりっきりで、日常業務は他のメンバーに任せていたのに対し、2010年は全くプロジェクトがなく日常業務に専念していたとする。するとこの社員は、2009年は日常業務をやっていないにも関わらず、基本給とプロジェクトの報酬を両方受け取ることになるため、給与の総額が跳ね上がる。ところが、2010年は日常業務しかやっていないので、今度は一気に給与の総額が下がってしまう。この点をどう調整するか?といった問題はあるだろう。
(すみません、やっぱりまだまだ続きます)
(※1)以前の記事「これからの人事制度は「上を下への人事異動」が必要になる?」、および「戦時には戦時の人事制度ってものが必要だ」を参照。
(※2)野中郁次郎、竹内広高、梅本勝博著『知識創造企業』(東洋経済新報社、1996年)