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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
June 09, 2011
「解釈的取り組み」をどう記述するか?という難題―『イノベーション 「曖昧さ」との対話による企業革新』
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著者が本書の中で提起している興味深い問題は、「『解釈的取り組み』の具体的な中身をどのように記述するか?」というものである。著者に限らず、すでに多くの経営学者や実務家が、「分析的取り組み」は、特にイノベーションの分野ではあまり有用ではないことに気づいている。そして、「分析的取り組み」に代わる「新しいマネジメント」がこれまでにも数多く開発されてきた。例えば、学習する組織、ネットワーク組織、クロスファンクショナル・チームなどがそうである。
しかしながら、こうした新しいコンセプトやツールは、根源的な問題を抱えているという。
この種の論述で非常に難しい問題がある。マネジメントにおける解釈的側面を洞察した文献が、「分析的思考」の用語を使って書かれているのである。たとえば、ネットワーク組織について考えてみよう。結節点が、情報通信の経路によって連結するシステムである。社会学者、ロナルド・バートは、このようなネットワークの「構造上の穴」に着目する。結節点と結節点との間で関係が断絶している状態である。これらの結節点がつながると、共通の言葉と語彙が発達することが期待できる。クレイトン・クリステンセンが長年に渡って研究テーマとしている「破壊的イノベーション」も、分析的な記述にとどまっていると著者は指摘する。
バートは、これを「裁定取引」という用語で説明している。仲介者は、一つの結節点から別の結節点に情報を送り込むことに可能性を見出すことができる。ちょうど外国為替市場のトレーダーが、ニューヨークとロンドンの交換レートの差を有利に使って売買するのと同じである。
クリステンセンの方法論は、本質的に分析的である。自律的事業単位(※クリステンセンが提唱した組織形態。既存事業から切り離された、破壊的イノベーションを担う組織のこと)の主な機能は、破壊的技術の解決策を「実施すること」である。(中略)クリステンセンが提案した方法に従ってイノベーションを推進したが、失敗に終わった事例が本書の中で1つ紹介されている。照明コントロール製品を手がけるルートロン社は、同社の標準製品とは異なる製品の開発を目的として「カーディナル・プロジェクト」を立ち上げた。プロジェクトは既存事業から切り離され、メンバーには非顧客との対話が期待されていた。ところが、
「分析的取り組み」の優れた方法は、いろいろな顧客グループを含めた広範囲の情報源から技術動向の情報を収集し、どの新しい技術が破壊的と考えられるかについて客観的基準を適用し、破壊的技術を実施するための自律的な事業単位を設定することである。これらを系統的に組織的に行う。これがクリステンセンが実質的に提案した取り組み方である。
カーディナル・プロジェクトが当初のビジョンから離れて、クリステンセンの処方による「分析的手法」を始めたところ、問題がこじれてしまった。カーディナルの経営陣は、ユニットの事業分野を拡大しようと試みた結果、独立採算制を採用した。事業の選択基準をイノベーション能力から収益性基準に変更し、他の事業部と競争するようになった。特注品をわずかに改善して、標準部品以外の注文に応じた。こうして当初あったプロジェクトの「解釈的取り組み」は消滅し、この時点で、カーディナル・プロジェクトは解体した。だが、個人的には、これらの一連の記述は、クリステンセンの本来の主張とは異なるように感じるんだね。クリステンセンは、自律的事業単位に対しては、既存事業とは異なる業績評価制度が必要だとし、特に収益に関しては寛容であるべきだと強調していた記憶がある。業績の中で厳しく見なければならないのは、むしろ売上の方なんだな(新しい顧客に新製品が受け入れられているかどうかを測る試金石になるため)。
また、先ほどの引用文の中に、「どの新しい技術が破壊的と考えられるかについて客観的基準を適用し」とあるが、クリステンセンは『イノベーションのジレンマ』などの著作の中で、破壊的技術の客観的基準など定めていなかったはず。むしろ、同じ技術であっても、企業によっては破壊的技術になったり、持続的技術になったりすると述べているぐらいだし。要するに、それこそ「解釈次第」なんだな。
著者は別の箇所で、「解釈的取り組み」によって製品コンセプトや仕様がある程度固まれば、その後は「分析的取り組み」へと移行し、安定的な生産と販売を実現し、収益が出る体制を実現しなければならないと述べている。ルートロン社の失敗は、クリステンセンの理論の欠陥に原因があるというより、ルートロン社が「解釈的取り組み」から「分析的取り組み」へと移行するタイミングを間違えた(早まった)と考えた方が、私としては納得感があるよ。
「解釈的取り組み」に近い内容を研究している学者として著者が名前を挙げるのは、ダグラス・ノース、ドナルド・ショーン、ピーター・センゲ、カール・ワイクなど、ごく一部の学者に限られる。それでも著者は、彼らでさえ「分析」と「解釈」を明確に峻別していないと、何とも手厳しい評価を下している。ピーター・センゲと同じような分野を研究している野中郁次郎については、
センゲが使用する端的な用語は、野中、竹内の用語にきわめて近い。「学習する組織」という言葉は、「知識創造企業」にきわめて似ている。普通に本を読む以上に、かなり細かく読み込まないと、これらの書籍が根本的に違うことを言っていることに気づかないだろう。詳細に言うと、センゲの論評は、私たちが理解する以上の内容があり、そのことが目立っている。野中と竹内の議論はセンゲの分析的な世界観を補強するものであり、根本的に異なるもう一つの考え方に対して貢献しているわけではない。と評されているぐらいだ。
けれども、私が思うに、著者自身も「『解釈的取り組み』の具体的な中身をどのように記述するか?」という問題に対して、明確な解答を示すことはできていない。本書の大半は、
・「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」は同じ組織の中で共存しうること
・マネジャーは両方の取り組みに責任を負う必要があるということ
の説明に割かれている。「解釈的取り組み」のコアである「”曖昧さ”との対話」とは一体どのようなものなのか?この点については、残念ながら詳しく知ることができない。ふむー、自宅の本棚に置きっ放しになっている『U理論』や、「対話」と言えば必ず出てくる物理学者デビッド・ボームの著書を読みこんでみるとするか。
June 07, 2011
保護された「公共空間」の重要性―『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』
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(前回からの続き)
とはいえ、先ほどの2つの命題が間違いだったとは私は思わない。この2つの命題が広まった80年代から90年代初頭の時代背景を考慮する必要がある。この時期のアメリカでは、アメリカ製よりも日本製やドイツ製の方が好まれた。これは紛れもなく、日本製やドイツ製の方が、顧客のニーズに合致していたからだ。安くてめったに故障しない日本車は、高い金を払っているのに頻繁に故障するビッグスリーの車に悩まされていたアメリカ人にとって、願ってもない製品だったに違いない。だから、「アメリカ企業は、日本やドイツの企業のように、もっと顧客の声を聞くべきだ」という命題が導かれたと推測される。
また、もう一方のコア・コンピタンスの命題は、アメリカ企業のコングロマリット化に対するアンチテーゼとして提示されたものであろう。事業の多角化を狙ってM&Aが盛んに行われていたが、買収後の企業価値が、しばしば買収前の2社の企業価値の合計を下回ることが研究者の間でも指摘されていた(マイケル・ポーターもM&Aに関する研究を行っており、シナジー効果のないM&Aには早くから警鐘を鳴らしていた)。
シナジーという単語は、M&Aを正当化するのには非常に便利な言葉である。しかし、M&Aの成功確率の低さが明るみになると、その反動として、「もっと自社の足元を見つめ直し、本当の強みを見極めるべきだ」という方向に議論が傾いたと考えられる。
だから、2つの命題は、時代背景に照らし合わせれば至極全うなものであった。さらに言えば、マーケティングなしに企業の存続は考えられないから、2つの命題は今でも十分に有効である。ただし、それはマーケティングの分野に限られた話である。生産性の向上や市場シェアの拡大だけを志向しても、いずれは限界がくる。そこからさらなる成長を実現するには、「解釈的取り組み」を通じたイノベーションを追加しなければならない。つまり、「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の両方を同時進行させる必要がある、というわけだ。
「分析的取り組み」が企業活動のムダを排除しようとするのとは対照的に、「解釈的取り組み」は冗長性を推奨する。部門間の交流、異なる技術間の交流、サプライヤーや外部機関との交流、非顧客との交流など、「分析的取り組み」であれば排除されるような、既存の枠組みを超えた異質・曖昧さとの交流がよしとされる。こうした冗長な活動をひっくるめて、著者は「対話」と呼んでいる。そして、「対話」を「分析的取り組み」の圧力から守るために、「公共空間」が必要だと説く。個人的には、この点が非常に興味深く感じた。
日常業務から離れたオープンなスペースでの「対話」の重要性は、1年半ぐらい前に紹介した『ダイアローグ−対話する組織』という書籍でも指摘されている。ただし、この本では、こうしたオープンスペースがどのようなものになるのか?といった具体的な記述は見られなかった。
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一方、『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』では、「公共空間」として(1)企業内の場、(2)企業間のネットワーク、(3)規制、(4)大学という4つの具体例を挙げている。(1)企業内の場とは、例えばAT&TやIBM、デュポンなどが所有していた企業内研究所を指す。(2)企業間のネットワークとは、P&Gの「コネクト・アンド・ディベロップ」のような活動を想起していただければ解りやすい(以前の記事「柔らかいアイデアの段階で予算をつける勇気がイノベーションのカギ―『ゲームの変革者』」などを参照)。
(3)規制が「公共空間」になるという指摘が面白いのだが、これは、行政が既存の規制を企業に適用する場面ではなく、行政と企業が共同で新しい規制を構築するケースを指している。新しい規制が形成される過程では、行政・企業のメンバーが、消費者のニーズやトレンド、産業を構成する各種プレイヤーの動向、技術発展の見通しなどをめぐって、自由闊達に情報交換する。さらに、規制すべきプレイヤーは誰であって、その利害は何か?逆に、規制によって保護すべきプレイヤーは誰で、その利害は何なのか?などといった、踏み込んだ「対話」が展開されるというのである。
本書では、パナソニックがかつて連邦政府通信委員会(FCC)の諮問委員会のメンバーから外されてしまい、国外のインフラ基盤事業において事実上競争することができなくなってしまった、という事例が取り上げられている。逆の見方をすれば、FCCが規制を形にしていく段階で、アメリカ国内のインフラ基盤事業の方向性が巧妙に固められていたというわけだ。規制策定に参加していた企業は、この方向性に沿って自社のビジネスを展開できる。他方、メンバー外の企業は、規制の中身を理解することから出発しなければならず、スタート段階でいきなり競合の後塵を拝してしまうのである。
(4)大学とは、いわゆる産学連携のことを意味している。ここに「官」が加わって産学官連携になると、(3)と(4)がミックスした公共空間が生まれるかもしれない。
もっとも、「公共空間」を作ればイノベーションが加速すると考えるのは甘い見通しであろう。(1)企業内の場については、そもそも企業自体が「分析的取り組み」の塊と化しているため、そこに「解釈的取り組み」の場をつけ加えることが困難になりつつある(この点は、『ダイアローグする組織』の著者である中原淳准教授も指摘していた)。
また、(2)企業間ネットワークについては、ネットワークを構成するそれぞれのプレイヤーにも「公共空間」に対する十分な理解が求められる。「分析的取り組み」でガチガチになっている企業がネットワークに入ってきてしまったら、かえって「対話」の邪魔になることは容易に想像がつく。
となると、(3)規制や(4)大学に望みを託すのか?ということになるが、この2つはやや特殊な例だと思われる。本書で論述の対象となっている業界には、携帯電話や医療機器メーカーなど、法的な規制や大学の研究との関係が深いものが実は多い。個人的には、(3)(4)はこうした事情から導かれたと考えている。
では、「公共空間」は空論と諦めるしかないのか?というと、それはそれでまた早急な判断であろう(議論がグルグル回って恐縮だが・・・)。(2)〜(4)は利害関係者が多くなるので、その分「公共空間」の構築には様々な困難な伴う。それに比べれば、(1)は企業単独で実施可能だ。私は、まずはこれに望みを託したい。その際には、業務や組織のデザインをがらりと変える必要がある。例えば、
・「解釈的取り組み」に参画するのは誰か?グーグルや3Mのように、全社員が一部の業務時間を「対話」につぎ込むことができるようにするのか?それとも、「公共空間」の名にふさわしい、既存事業部門からは隔離された部署を設立するのか?
・上記の変更に伴って、各社員のジョブ・スクリプション(職務定義書)はどのように変わるのか?(日本だと明確な職務定義書が存在しないが、目標管理制度[MBO]などを採用している企業であれば、期初に設定する目標の中身が従来とは変わるはず)
・マネジャーの役割はどうなるのか?「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」を状況に応じて首尾よく切り替えるスイッチの役割を果たすのか?それとも、「解釈的取り組み」を専門とし、「解釈的取り組み」の成果に責任を持つマネジャーを新たに任命するのか?
・「解釈的取り組み」につぎ込む予算はどのように捻出するのか?また、「解釈的取り組み」から生まれる各種プロジェクトに、どうやって予算を割り振るのか?
・「解釈的取り組み」の成果をどのように測定するのか?また、その成果をどうやって人事考課(給与・等級)に反映させるのか?
・「解釈的取り組み」に必要なスキル・知識とは何か?それを現場社員やマネジャーに習得してもらうためには、どのようなトレーニングを実施すればよいか?
などなど、幅広い問いに対し一貫性のある解を用意しなければならないだろう。
(まだまだ続くよ)
June 06, 2011
マーケティングとイノベーションの違いの整理―『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』
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先日取り上げたC・K・プラハラードの『イノベーションの新時代』は、イノベーションというよりもOne-to-Oneマーケティングの本で肩透かしを食らってしまったのだが、この本はちゃんとイノベーションがテーマになっていた。結構骨太の内容で、読み切るのに苦労したよ。
90年代から現在にかけて、日本やドイツの経済が低迷したのとは対照的に、アメリカ経済はそれなりに順調に成長を遂げた(途中、ネットバブル崩壊やサブプライムローン問題による混乱はあったが)。アメリカ国内では、「企業を中心とする様々なイノベーションが、成長の主たる要因である」と分析されているようだが、著者はこの点に疑問を投げかけている。果たして、本当の意味でのイノベーションが、アメリカで引き起こされていたと言えるのだろうか?そして、真のイノベーションとは一体何を指すのか?本書の争点はここにある。
この点を論じるにあたって、著者は従来の経営学者が唱えてきた2つの命題を問題視する。1つは「顧客の声をよく聞け」というものであり、もう1つは「自社の強みに集中せよ」というものである。本書では直接述べられていないが、前者は言い換えれば外部環境重視の戦略であり、後者は内部環境重視の戦略に該当する。この2つの戦略は、長きに渡って戦略論の2本柱を形成してきた。そして、経営者やマネジャーは、双方のメリットを尊重し、両者をうまく組み合わせながら戦略を構築してきた。
その最も華々しい成功例が、ジャック・ウェルチの率いるGEだったと著者は指摘する。経営学者はこぞってGEを研究し、世界中の企業がウェルチの経営を真似しようとしたものである。こうした産学両方の努力の甲斐もあって、「顧客の声を聞く方法」や「自社の強みに集中する方法」はかなり定式化されている。
つまり、どういうプロセスで検討を進めるべきか?検討にあたって、どのような情報を収集すべきか?それらの情報に基づき、どのように選択肢を形成するのか?さらに、最終的な解をどうやって絞り込むのか?といった一連の方法論がある程度確立されているのである。
このような明確な指針が定められた活動を、著者は「分析的取り組み」と呼ぶ。しかしここで重要なのは、イノベーションを引き起こすのは「分析的取り組み」ではないという点である。ピーター・ドラッカーは何十年も前に、「企業に必要なのは、マーケティングとイノベーションである」と指摘したが、この2つにはこれといった明快な定義が存在せず、しばしば混同される。
個人的には、マーケティングとは「既存市場のパイの争奪戦」であり、イノベーションとは「既存市場の競争ルールの抜本的変化」や「全く新しい市場の創出」を意味すると理解している。別の見方をすれば、マーケティングでは競合同士の持久戦が繰り広げられ、それに耐えられなくなった企業が淘汰されるが、イノベーションでは既存プレイヤーが一気に死滅することもある。
例を挙げると、ビール各社が毎年ビールのシェアを競い合っているのはマーケティングの世界である。これに対して、イノベーションに該当するのは、携帯電話が固定電話を一気に隅に追いやり、通信市場の構図をがらりと書き換えてしまったことや、iPadの登場によってタブレットPCという市場が生まれ、その影響がPCやアプリ市場のみならず、書籍市場にまで及んだことなどである。
著者は、イノベーションを創出するのは「分析的取り組み」ではなく、「解釈的取り組み」であると述べている。「解釈的取り組み」では、先ほどの2つの命題とは正反対の活動が行われる。すなわち、顧客の声にはあまり耳を傾けず、さらに自社の能力を取捨選択せずに統合するのだ。
本書では、いくつかのイノベーションについて詳細な分析が試みられている。その中の1つである携帯電話は、当初は自動車で無線を利用している営業担当者などが、無線の代替品として利用すると考えられていた。しかし、製品開発担当の技術者が、試しに様々なタイプの消費者に携帯電話を使わせてみると、全く予想外の使い方をすることに気づいた。
技術者は、よくあるグループインタビューのように消費者にあれこれと話を聞くことはせず、敢えて消費者の行動の観察に徹した。そこから、消費者の潜在的なニーズを「解釈」していったのである。また、携帯電話は、技術的には有線(固定電話)と無線(ラジオ)が融合したものである。用途が全く異なる2つの技術が交錯することで、携帯電話は誕生したわけだ。
ここからは私の解釈になるけれども、経営学者たちが唱えてきた2つの命題は、企業活動からムダを取り除く方向に働く。「顧客の声を聞く」ということは、「顧客が欲しいと言った製品やサービスだけを提供すればよい」ということになるし、「コア・コンピタンスに集中する」ということは、裏返せば「強みにならない能力は捨て去るべきだ」ということになる。その結果としてもたらされるのは、「企業の生産性の向上」である。そして確かに、生産性の向上は、経済成長にとってプラスに作用する。
90年代以降のアメリカ経済の成長は、それこそ携帯電話のようなイノベーションに負う部分もあるが、大半は企業の生産性向上によってもたらされたものである、ということを著者は言いたかったのではないだろうか?実際、アメリカの経済成長の何分の1かは、ウォルマートの生産性向上によってもたらされている、という分析結果も一時期出回っていた記憶がある。
(続く)