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February 06, 2012

前提となる世界観はデヴィッド・ボームの「ダイアローグ」と共通な気が―『怒り(心の炎の静め方)』

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怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

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 相も変わらず「怒り」に関する書籍を読んでいるところ。これまでに紹介した加藤諦三著『どうしても「許せない」人』やクリスティン・デンテマロ他著『キレないための上手な「怒り方」』は、ひとまず相手のことは置いておいて、自分が怒りを感じた時にどう対処するか?という本だったが、今日紹介する本は、双方が怒りを感じている時にどうすればよいか?という本である。そういう意味ではより実践的な本のはずなんだけれども、この本は宗教色が強く(ブッダの教えに立脚している)、読む人を選ぶような気がした。
 内なるブッダに触れるためには、意識的な呼吸や歩行の実践をする必要があります。意識の中にある気づきの種に触れると、顕在意識にブッダが現れ、あなたの怒りを包み込みます。何も心配することなく、ブッダを生かし続けるように呼吸と歩行の実践を続けてください。そうすればすべてがうまくいきます。ブッダは怒りに気づき、受け入れ、和らげ、怒りの本質を深く見つめます。そしてブッダは理解します。この理解が変容をもたらすのです。
 うーん、私は恥ずかしながら仏教に対する理解がないので、こういう話はイメージが難しいな・・・。

 怒りの鎮め方を論じるにあたって、著者は「非二元論」と「相互共存」という2つの原則を拠り所としている。「非二元論」とは、体と心を区別しないことであり、怒りを抱えた心を大事に扱うには、まず体を大切にしなければならないという。仏教では、体と心の形成物を「ナーマルーパ(名色)」と呼ぶそうだ。心に起こることは体にも起こるという考えに基づき、呼吸や歩行、さらには食事を整えることの重要性が強調されている。

 もう1つの「相互共存」(本書を読んだ印象では、こちらの方が重要な気がした)とは、ブッダの言葉を借りれば「人は誰も孤立した存在ではない」ということであり、さらに突き詰めていくと、「私はあなたであり、あなたは私である」といった、人間同士の境界線を取り払う思想に行き着く。

 「相互共存」の原則によれば、「私の怒りは相手の怒り」であり、「私の苦しみは相手の苦しみ」となる。よって、自分が相手に怒りを伝える際には、相手が同じように抱えているであろう怒りにも耳を傾け、尊重しなければならない。端的に言えば、相手を愛さなければならない。しかしここで、「相互共存」の原則に従って、今度は逆に「相手を愛するには、まずは自分を愛する必要がある」という考え方が導かれるのである(この辺りになると、解ったような解らないような、不思議な感覚に襲われる。いや、実際にはよく解っていないのだけれど、汗)。

 「相互共存」の原則は、自分の怒りを相手に伝える際のコミュニケーションに端的に表れている。『キレないための上手な「怒り方」』などでは、効果的な怒りの表現とは、(1)怒りを感じた具体的な状況を特定し、(2)自分がどう感じたのかを率直に表現して、その上で(3)相手の行動をどう改めてほしいのか、要望をストレートに伝えることだとされる。

 これに対して本書の著者は、次の3つの言葉によって相手に怒りを伝えるのが効果的だと述べている。
(1)「私は怒っています。私は苦しんでいます」
 苦しいとき、怒っているときも、あなたの気持ちを相手に伝えなくてはなりません。これが真の愛です。できるだけ穏やかに伝えてください。声に悲しみが表れるかもしれませんが、それは構いません。とにかく相手を罰したり責めたりすることだけは言ってはいけません。「私は怒っています。苦しんでいます。あなたにそれを知ってもらう必要があるのです。」お互いを支え合うという誓いを立てた2人にとって、これは愛の言葉です。

(2)「私は最善を尽くしています」
 これは、あなたが怒りに任せて行動しているのではなく、意識的な呼吸、意識的な歩行を実践し、気づきによって怒りを受け入れようとしていることを意味します。「私は最善を尽くしています」と言うとき、あなたは自分がこれまでに何度も、誤った認識のために怒ってしまったことに気づいています。ですから今、あなたはとても慎重です。自分は相手の言動の犠牲者であると簡単に思い込むべきではないことを知っているからです。自分の中に地獄を創り出していたのは、あなた自身かもしれないのです。

(3)「助けてください」
 3つ目の言葉は自然に後に続くでしょう。これは真の愛の言葉です。相手に腹を立てているとき、「あなたなんて必要ない。私はあなたがいなくても十分やっていけるわ!」と逆のことを言いがちです。でもあなた方はお互いを支え合う誓いを立てました。苦しいとき、たとえ自分で実践の方法を知っていたとしても、相手の協力を必要とするのはとても自然なことです。
 (1)は通常の怒りの表現とほぼ共通しているが、(2)(3)には「相互共存」の思想が色濃く表れている。つまり、自分が怒りを感じた時、これは自分だけの問題ではなく、自分と相手の問題なのであり、お互いの協力による解決を望んでいると相手に訴えているわけである。

 本書を読んでいくうちに、「非二元論」と「相互共存」という2つの原則は、随分前にこのブログで取り上げた物理学者デヴィッド・ボームの『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』と共通している気がした。ボームは「ホログラフィー宇宙モデル」という二重構造の宇宙モデルを提唱し、その一方を「内臓秩序」と名づけた。内臓秩序は、我々が普段認識している世界とは異なり、物質、精神、時間、空間など、この世のあらゆるものが取り込まれ一体となっている世界だ。

 どんなに深刻な問題を抱え、心理的にズタズタに分断された人々であっても、内臓秩序の世界では分離不可能な関係を形成している。我々は、ダイアローグ(対話)を通じて内臓秩序の次元に到達し、諸々の問題を乗り越えて前進することが可能になるとボームは主張する。しかも、内臓秩序の次元に達した人々は、肉体という物理的な境界を超えて、意識のレベルでつながるという。これはまさに、本書の「非二元論」に通じるところがある。

 ただ、『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の書評でも書いたように、ボームのダイアローグ論は、「ダイアローグを根気強く続ければ、自ずと内臓秩序へ昇れる」と言っているような気がして、やや楽観的すぎる印象を受けた(単に私の理解が浅いだけだが・・・)。ディスカッションではなく、敢えてダイアローグを選択しなければならないほど深刻な問題に関わっている人々は、暴発寸前の怒りを抱えているものである(以前の記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」を参照)。その点、本書は怒りを出発点としているから、本当はボームのダイアローグ論よりも実践的なのかもしれない。しかし、冒頭で述べた通り、宗教に対する私の理解不足ゆえに、実践知に落とし込めないのが何とも歯がゆいところだ。
September 08, 2011

「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ

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 最近の企業内人材育成のトレンドを見ていると、新しいコミュニケーションの方法として、「対話(ダイアローグ)」がよく目につく。確かに、組織内にはコミュニケーション上の問題が山積している。社員に会社の戦略や方針が伝わらない、上司が意図した通りに部下が仕事をやらないなど、「上から下」のコミュニケーションの問題もあれば、逆に経営層が現場の声に耳を傾けない、部下のキャリア開発のニーズを無視して上司が仕事を割り振ってくるといった、「下から上」のコミュニケーションの問題もある。

 あるいは、顧客に対して手厚いサポートを提供するために、営業・技術部門など複数部門が緊密に連携することが必要なのに、組織が「たこつぼ化」しており協業が生まれないなど、「横同士」のコミュニケーションの問題というのも存在する。こうした組織内のコミュニケーション不全を解決するのが、「対話」というソリューションであるというのが、大方の識者・人材育成の専門家たちの一致した見解だ。

 ところが、私個人だけなのかもしれないが、この「対話」という言葉には、どうも”ソフト”なイメージがつきまとっており、そのことに疑問を感じている。なぜ「対話」をソフトな方法と感じてしまうのだろうか?と自問自答したところ、2つの理由が浮かび上がってきた。

 1つは、「対話」について書かれた書籍や記事に出てくる事例そのものが、ソフトな論調で書かれているということである。例えば、ジョセフ・ジャウォースキーの『シンクロニシティ』や、ピーター・センゲの『出現する未来』などには、「対話」を通じて集団内のメンバーが相互理解を深め、将来の望ましい姿を自らデザインし、その実現こに向けた行動を起こしていく様子が描かれている。ただ、少しひねくれた見方をすると、あまりにもあっさりと「対話」が成功したように見えてしまい、”できすぎた美談”という印象さえ抱いてしまう。紙面の都合や守秘義務の関係もあって、「対話」の内容を全て記述するのが難しいのも、そう感じさせる一因なのだろう。

ジョセフ・ジャウォースキー
英治出版
2007-10-02
おすすめ平均:
「やり方」より「あり方」が大事な理由
哲学書か、量子力学書か、宗教書か、心理学書か。でも大事なリーダーシップ論
迷える世代のバイブル
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P. センゲ
講談社
2006-05-30
おすすめ平均:
ありのままを見つめて、その場と一体になる事で思い描いた未来が現れる
壮大な考え方に触れる本です。
リーダーとしての新しいあり方。忙しい人ほど内省が求められる。
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 (※)一応、この2冊について以前に書いた書評へのリンクを掲載しておく。
 民主型リーダーシップの本としての『シンクロニシティ−未来をつくるリーダーシップ』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた−『出現する未来』

 もう1つは、国際ニュースを見ていると、紛争が起こっている地域で、首脳陣らが「双方の『対話』を通じて、建設的に解決策を模索していきたい」といった発言をよく耳にするためだと思う。つまりこの発言は、「紛争」という武力的なやり方に対する”非武力的な解決策”として、「対話」を位置づけていると解釈できるわけだ。しかし、いったん「対話」が破綻すると、再び「紛争」へと戻ってしまう例は、枚挙にいとまがない。こうした揺り戻しの動きが、「対話」という言葉のソフトなイメージを、より一層鮮明なものにしているのかもしれない。

 一般的に、「対話」の対極に位置づけられるのは、「議論(ディスカッション)」である。この2つが二律背反の関係にあるとすれば、「議論」の定義や特徴をひっくり返すことで、「対話」の全容を浮き彫りにすることができるはずだ。「議論」の特徴を思いつくままに列挙してみると、こんな感じだろうか?
議論(ディスカッション)
 (1)議論の目的(何についての意思決定を下すか?)を明確にする。
 (2)客観的な事実やデータに基づいて、考えうる選択肢を洗い出す。
 (3)明快な言葉、解釈の余地が少ない図、異論が出にくい数値など、誰にとっても理解しやすい情報を用いて、論理的に検討を進める。
 (4)利害関係者をあらかじめ明確にし、それぞれの利害を代表する人に参加してもらう。
 (5)組織内のフォーマルな関係、あるいは権力の大小が検討プロセスに影響を与える。
 (6)感情が意思決定に与える影響を最小限にとどめる。
 (7)複数の選択肢の中から、論理的な基準に基づいて、最適な選択肢を選択する。
 (1)〜(3)および(7)については、意思決定に関する本を読めば、だいたい同じようなことが書かれている(下記を参照)。(4)については、以前の記事「合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』」を参照していただきたい。(5)は、同じ内容の発言でも、部長が発言するのと若手社員が発言するのとでは、重みが全く違うことを想像していただければ解りやすいだろう。(6)に関しては、心理学の先行研究が数多く存在し、興奮や怒りといった感情が、合理的な意思決定を妨げることが明らかになっている(これも過去記事「果たして意思決定に感情は不要なのか?」を参照)。

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 では、これらの特徴を裏返すことで導かれる「対話」とは、一体どのようなものだろうか?
対話(ダイアローグ)
 (1')対話を開始するにあたり、特定の目的は設定しない。
 (2')参加者は、個人的・主観的な認識、印象、感覚、思想、嗜好なども俎上に載せる。
 (3')メタファ(暗喩)やストーリーのような解釈の余地が大きい情報、参加者の表情・態度・ボディランゲージといった非言語的な情報、さらには一見つじつまの合わない非論理的な話さえも許容される。
 (4')参加者は流動的であり、自由に出入りできる(対話のテーマによって、利害関係者が動的に変化する)。
 (5')参加者の社会的な地位やパワーは、対話の場では無関係になり、全員が対等になる。
 (6')参加者は時に感情的になり、感情に支配される。
 (7')参加者は、対話のゴールを協創する(世代間ギャップがある社員同士の相互理解を促進する、職場や組織における望ましい人間関係のあり方を明らかにする、自社の経営陣が打ち出している変革プログラムの必要性や意味を共有する、など)
 (3')(6')以外の5つについては、先ほど紹介した2冊の中でも十分に論じられている。ここで私が強調したいのは、(3')と(6')の重要性である。我々は、(一昔前の「ロジカル・シンキング」ブームもあって、)論理的に考え、論理的にかつ端的に表現するように教育されている。だが、このような表現方法をとると、往々にして微妙なニュアンスが抜け落ちるものである。そういう抜け漏れが積み重なった結果、組織のあちこちで誤解や認識のズレが生じ、コミュニケーション不全に陥るのである。

 「対話」は、「議論」が重視しない点を重視する。すなわち、「言っていることは正しいかもしれないが、どこか引っかかる部分がある」とか、「私とあなたでは仕事のやり方に対する考えが違うので、一緒に仕事をしていてもうっとうしい」といった、感情的なコミュニケーションを受け入れるのである。今月号のDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューに、ホンダの有名な「ワイガヤ」に関する記述があったので、引用しておく。
 ホンダの「ワイガヤ」も場である。プロジェクト・チームを構成する30人ものメンバーがホテルや温泉旅館に集まって三日三晩を共にする。夜は酒を飲み、大浴場に入る。議題は決まっていないが、たいていはまず上司の悪口を言い、欲求不満を共有する。酒を飲みながら、互いに言いたいことを言い始めると、けんかになることも珍しくない。口げんかばかりか、手が出ることさえある。しかし、2日目になると、メンバー間の壁がなくなり、お互いの意欲や気持ちがわかるようになってくる。相手に耳を傾け、共感しようとする。3日目には、彼らはしばしば「帰納的飛躍」を遂げる。個人的な問題を克服すると同時に、チームとして問題解決をする方法を獲得するようになるのである。

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 本当の意味での「対話」とは、その語感がもたらすソフトなイメージとは違い、お互いに取っ組み合いの喧嘩になるほど激しいものなのである。

 例えば、あるミーティングで、終始むっすりとした態度で会議の流れを見守っている人がいたとしよう。「議論」の場であれば、「あの人はちょっと機嫌が悪そうだったけど、特に何も言わなかったから、異論なしということでOKだろう」ということで済んでしまうかもしれない。多少気の利く人であれば、「私があの人の意見を聞いて、後で君に伝えるよ」と、2人の間を仲介してくれるかもしれない。

 だが、これが「対話」の場となると、そういう態度を取る人に対して、思わずイラっときたプレゼンターが「てめぇ、何黙ってんだ?」と挑発的な言葉を発する。すると、それまでだんまりを決め込んでいた相手も、「お前の仕事のやり方が気に食わねぇんだよ!」と、顔を真っ赤にして反論する。そこからは、お互いの感情がもつれ合った、聞くに堪えない喧嘩が始まる。会議に同席しているメンバーも、どちらかの味方について、コミュニケーションをヒートアップさせる。もうほとんどプロ野球の乱闘のようなものである(そういえば、最近のプロ野球は、西武対オリックスぐらいでしか乱闘が見られなくなったが・・・)。

 あらかたお互いに言いたいことを言い合った後、実はプレゼンター(以下Aさん)とずっと黙っていた人(以下Bさん)の2人は同期で、BさんはAさんと同じぐらい高い業績を上げているのに、Aさんの方が先に出世して、大事な会議でもプレゼンを任せられるようになっていたのが不満だったと明らかになった。そこから、なぜそういう評価の差が生じたのかについて、会議に同席していたメンバーも、自分や周りの人の体験談を(時にBさんのように怒りを込めながら)語り始める。

 最初は、AさんとBさんの上司に、評価能力の差があるのかと思われた。しかし、さらに話を詰めていくと、どうやらBさんの所属部門は、経営層の中でAさんの所属部門よりも優先順位が低く見られており、その点が評価の差につながっているようだという結論に至った。また、Bさんも決してAさんの仕事ぶりや人格を否定的に見ているのではなく、むしろ優れた能力を持つライバルだと思っていること、そしてAさんも、若い頃Bさんと同じ部門にいた時期に、難しい局面で随分と助けてもらったことに感謝していることをお互いに確認し合った。

 この「対話」では、評価制度の不備や経営陣の意識の問題を変える具体策は出てきていない。しかし、会議に出ている人たちは、自分も日頃何となく感じていた問題を共有し合うことで、言葉にはしがたい一体感・連帯感を感じ、AさんとBさんは会議前よりも前向きなコミュニケーションが取れるようになった。「対話」としてはこれで十分なのである(ちなみに、以上の話は私が即興で作ったフィクションなのでご注意を)。

 多くの「対話」は(6')まで至らないか、(6')でストップしてしまう。「対話」で一番難しいのは、(6')から次に進むプロセスなのである。(6')で止まってしまうと、その場にいる全員が感情的なしこりを残したままとなり、「対話」を始める前よりもひどい状態になる。(6')のフェーズで我慢に我慢を重ね、様々な感情が渦巻くドロドロとした空間を抜け切った時に、初めて「対話」は意味を持つと思うのである。

《補足》
 余談になるが、外交の場における「対話」は、相当な困難を伴うものであろう。なぜならば、「対話」の肝である「感情的な対立」や「取っ組み合いのような喧嘩」という状況を、会議の中で作り出すことがほとんど不可能だからである。もしも、会議の途中で外交官同士が殴り合いなんかをしようものなら、即座に戦争へと発展するだろう。これは見方を変えれば、彼らの中では「対話」と「紛争」が密接しているとも言える。

 本論の中では、紛争地域で「対話」の重要性が説かれることが多く、「紛争」と「対話」が正反対に位置づけられているようだと書いた。けれども、実際には(残念なことではあるが、)「対話」と「紛争」の間に境界線はなく、むしろ「対話」の一部に「紛争」が存在すると捉えた方が適切なのかもしれない。
June 11, 2011

(補足)「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の違いのまとめ

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 最後に、「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の違いを本書から引用して、この本のレビューを終わりにしたいと思う。
分析的取り組み
 ・プロジェクトに焦点を当てる。開始点と終結点が明確である。
 ・問題解決を重視する。
 ・マネジャーは目標を決定する。
 ・マネジャーは会議を招集し、関係者間の交渉によって、見解の相違を解決し、曖昧さを取り除く。
 ・コミュニケーションは情報の正確な交換である。
 ・デザイナーは消費者の意見に耳を傾ける。
 ・手段と達成目標は明確に区別され、流行のモデルで関連づけられる。

解釈的取り組み
 ・プロセスに焦点を当てる。継続的で際限がなく、終わりもない。
 ・新しい意味の発見を重視する。
 ・マネジャーは方針を決定する。
 ・マネジャーは対話を推奨し、異なる見解を許容し、曖昧さに検討を加える。
 ・コミュニケーションは流動的で状況に応じて変化する。
 ・デザイナーは消費者の要望を知るために直観力を養う。
 ・手段と達成目標は明確に区別されない。
 最後の「手段と達成目標は明確に区別され、流行のモデルで関連づけられる」と「手段と達成目標は明確に区別されない」は若干解りにくいので、私なりに解釈を付け加えてみたい。

 「手段と達成目標は明確に区別され、流行のモデルで関連づけられる」とは、例えば「不良品率の削減」という目標に対して「シックスシグマ」という手段が採用され、「顧客生涯価値(CLV: Customer Lifetime Value)の拡大」という目標に対して「CRM(Customer Relationship Management)」のコンセプトに従った顧客DBが構築されるといった具合に、ある特定の経営目標に対して、それを直接的に実現しうる有力で明快な方法論やツールが存在することを指す。

 他方、「手段と達成目標は明確に区別されない」というのは、「達成目標は曖昧で、かつ達成目標とは必ずしも関係なさそうな手段でも許容される」という風に言い換えた方が解りやすい。例えば本書には、リーバイス社のこんな事例が登場する。
 リーバイス社は、若年層市場をさらに年齢ごとに細分化し、それぞれの市場セグメントごとに、各セグメント担当のデザイナーに調査させた。あるデザイナーは、担当する年齢層がよく出入りするクラブを訪れ、彼らが買い物をする店で自分たちも商品を購入し、子どもたちが古着のつるし棚で記録帳を見たり、古着を手に取ったりする様子を伺ったりした。
 デザイナーの目標は、「担当セグメントの顧客をよく理解すること」という非常に抽象的なものである。そして、その目標を達成する手段は、各デザイナーに任されている。しかも、デザイナーは「顧客のどういう生活シーンを観察するか?」という点について、あらかじめ計画を練っていたわけではないと考えられる。それこそ、デザイナーが思いつくままに、あるいは顧客の生活ペースに合わせて観察を続けたのではないだろうか?

 だから、ここからは想像の域を出ないが、顧客がよく読む雑誌やよく聴く音楽に触れてみたり、顧客と一緒に食事をしたりしながら、顧客の価値観や嗜好を探ろうとしたデザイナーもいただろう。あるいは、顧客の友人や恋人までも観察対象にして、その顧客が彼ら彼女らに対しどのような印象を与えたがっているのか、どういうアイデンティティを示そうとしているのかを追求したデザイナーもいたのではないだろうか?

 「顧客を理解するためにそこまでする必要があるのか?」と思えることまでやってしまうのが「解釈的取り組み」である。もっと言えば、目標達成までの道中であっちこっちに脱線したり、ぐるぐると回り道をしたりすることが許されるのが「解釈的取り組み」なのである。
June 09, 2011

「解釈的取り組み」をどう記述するか?という難題―『イノベーション 「曖昧さ」との対話による企業革新』

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 著者が本書の中で提起している興味深い問題は、「『解釈的取り組み』の具体的な中身をどのように記述するか?」というものである。著者に限らず、すでに多くの経営学者や実務家が、「分析的取り組み」は、特にイノベーションの分野ではあまり有用ではないことに気づいている。そして、「分析的取り組み」に代わる「新しいマネジメント」がこれまでにも数多く開発されてきた。例えば、学習する組織、ネットワーク組織、クロスファンクショナル・チームなどがそうである。

 しかしながら、こうした新しいコンセプトやツールは、根源的な問題を抱えているという。
 この種の論述で非常に難しい問題がある。マネジメントにおける解釈的側面を洞察した文献が、「分析的思考」の用語を使って書かれているのである。たとえば、ネットワーク組織について考えてみよう。結節点が、情報通信の経路によって連結するシステムである。社会学者、ロナルド・バートは、このようなネットワークの「構造上の穴」に着目する。結節点と結節点との間で関係が断絶している状態である。これらの結節点がつながると、共通の言葉と語彙が発達することが期待できる。

 バートは、これを「裁定取引」という用語で説明している。仲介者は、一つの結節点から別の結節点に情報を送り込むことに可能性を見出すことができる。ちょうど外国為替市場のトレーダーが、ニューヨークとロンドンの交換レートの差を有利に使って売買するのと同じである。
 クレイトン・クリステンセンが長年に渡って研究テーマとしている「破壊的イノベーション」も、分析的な記述にとどまっていると著者は指摘する。
 クリステンセンの方法論は、本質的に分析的である。自律的事業単位(※クリステンセンが提唱した組織形態。既存事業から切り離された、破壊的イノベーションを担う組織のこと)の主な機能は、破壊的技術の解決策を「実施すること」である。(中略)

 「分析的取り組み」の優れた方法は、いろいろな顧客グループを含めた広範囲の情報源から技術動向の情報を収集し、どの新しい技術が破壊的と考えられるかについて客観的基準を適用し、破壊的技術を実施するための自律的な事業単位を設定することである。これらを系統的に組織的に行う。これがクリステンセンが実質的に提案した取り組み方である。
 クリステンセンが提案した方法に従ってイノベーションを推進したが、失敗に終わった事例が本書の中で1つ紹介されている。照明コントロール製品を手がけるルートロン社は、同社の標準製品とは異なる製品の開発を目的として「カーディナル・プロジェクト」を立ち上げた。プロジェクトは既存事業から切り離され、メンバーには非顧客との対話が期待されていた。ところが、
 カーディナル・プロジェクトが当初のビジョンから離れて、クリステンセンの処方による「分析的手法」を始めたところ、問題がこじれてしまった。カーディナルの経営陣は、ユニットの事業分野を拡大しようと試みた結果、独立採算制を採用した。事業の選択基準をイノベーション能力から収益性基準に変更し、他の事業部と競争するようになった。特注品をわずかに改善して、標準部品以外の注文に応じた。こうして当初あったプロジェクトの「解釈的取り組み」は消滅し、この時点で、カーディナル・プロジェクトは解体した。
 だが、個人的には、これらの一連の記述は、クリステンセンの本来の主張とは異なるように感じるんだね。クリステンセンは、自律的事業単位に対しては、既存事業とは異なる業績評価制度が必要だとし、特に収益に関しては寛容であるべきだと強調していた記憶がある。業績の中で厳しく見なければならないのは、むしろ売上の方なんだな(新しい顧客に新製品が受け入れられているかどうかを測る試金石になるため)。

 また、先ほどの引用文の中に、「どの新しい技術が破壊的と考えられるかについて客観的基準を適用し」とあるが、クリステンセンは『イノベーションのジレンマ』などの著作の中で、破壊的技術の客観的基準など定めていなかったはず。むしろ、同じ技術であっても、企業によっては破壊的技術になったり、持続的技術になったりすると述べているぐらいだし。要するに、それこそ「解釈次第」なんだな。

 著者は別の箇所で、「解釈的取り組み」によって製品コンセプトや仕様がある程度固まれば、その後は「分析的取り組み」へと移行し、安定的な生産と販売を実現し、収益が出る体制を実現しなければならないと述べている。ルートロン社の失敗は、クリステンセンの理論の欠陥に原因があるというより、ルートロン社が「解釈的取り組み」から「分析的取り組み」へと移行するタイミングを間違えた(早まった)と考えた方が、私としては納得感があるよ。

 「解釈的取り組み」に近い内容を研究している学者として著者が名前を挙げるのは、ダグラス・ノース、ドナルド・ショーン、ピーター・センゲ、カール・ワイクなど、ごく一部の学者に限られる。それでも著者は、彼らでさえ「分析」と「解釈」を明確に峻別していないと、何とも手厳しい評価を下している。ピーター・センゲと同じような分野を研究している野中郁次郎については、
 センゲが使用する端的な用語は、野中、竹内の用語にきわめて近い。「学習する組織」という言葉は、「知識創造企業」にきわめて似ている。普通に本を読む以上に、かなり細かく読み込まないと、これらの書籍が根本的に違うことを言っていることに気づかないだろう。詳細に言うと、センゲの論評は、私たちが理解する以上の内容があり、そのことが目立っている。野中と竹内の議論はセンゲの分析的な世界観を補強するものであり、根本的に異なるもう一つの考え方に対して貢献しているわけではない。
と評されているぐらいだ。

 けれども、私が思うに、著者自身も「『解釈的取り組み』の具体的な中身をどのように記述するか?」という問題に対して、明確な解答を示すことはできていない。本書の大半は、

 ・「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」は同じ組織の中で共存しうること
 ・マネジャーは両方の取り組みに責任を負う必要があるということ

の説明に割かれている。「解釈的取り組み」のコアである「”曖昧さ”との対話」とは一体どのようなものなのか?この点については、残念ながら詳しく知ることができない。ふむー、自宅の本棚に置きっ放しになっている『U理論』や、「対話」と言えば必ず出てくる物理学者デビッド・ボームの著書を読みこんでみるとするか。
June 07, 2011

保護された「公共空間」の重要性―『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 (前回からの続き)

 とはいえ、先ほどの2つの命題が間違いだったとは私は思わない。この2つの命題が広まった80年代から90年代初頭の時代背景を考慮する必要がある。この時期のアメリカでは、アメリカ製よりも日本製やドイツ製の方が好まれた。これは紛れもなく、日本製やドイツ製の方が、顧客のニーズに合致していたからだ。安くてめったに故障しない日本車は、高い金を払っているのに頻繁に故障するビッグスリーの車に悩まされていたアメリカ人にとって、願ってもない製品だったに違いない。だから、「アメリカ企業は、日本やドイツの企業のように、もっと顧客の声を聞くべきだ」という命題が導かれたと推測される。

 また、もう一方のコア・コンピタンスの命題は、アメリカ企業のコングロマリット化に対するアンチテーゼとして提示されたものであろう。事業の多角化を狙ってM&Aが盛んに行われていたが、買収後の企業価値が、しばしば買収前の2社の企業価値の合計を下回ることが研究者の間でも指摘されていた(マイケル・ポーターもM&Aに関する研究を行っており、シナジー効果のないM&Aには早くから警鐘を鳴らしていた)。

 シナジーという単語は、M&Aを正当化するのには非常に便利な言葉である。しかし、M&Aの成功確率の低さが明るみになると、その反動として、「もっと自社の足元を見つめ直し、本当の強みを見極めるべきだ」という方向に議論が傾いたと考えられる。

 だから、2つの命題は、時代背景に照らし合わせれば至極全うなものであった。さらに言えば、マーケティングなしに企業の存続は考えられないから、2つの命題は今でも十分に有効である。ただし、それはマーケティングの分野に限られた話である。生産性の向上や市場シェアの拡大だけを志向しても、いずれは限界がくる。そこからさらなる成長を実現するには、「解釈的取り組み」を通じたイノベーションを追加しなければならない。つまり、「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」の両方を同時進行させる必要がある、というわけだ。

 「分析的取り組み」が企業活動のムダを排除しようとするのとは対照的に、「解釈的取り組み」は冗長性を推奨する。部門間の交流、異なる技術間の交流、サプライヤーや外部機関との交流、非顧客との交流など、「分析的取り組み」であれば排除されるような、既存の枠組みを超えた異質・曖昧さとの交流がよしとされる。こうした冗長な活動をひっくるめて、著者は「対話」と呼んでいる。そして、「対話」を「分析的取り組み」の圧力から守るために、「公共空間」が必要だと説く。個人的には、この点が非常に興味深く感じた。

 日常業務から離れたオープンなスペースでの「対話」の重要性は、1年半ぐらい前に紹介した『ダイアローグ−対話する組織』という書籍でも指摘されている。ただし、この本では、こうしたオープンスペースがどのようなものになるのか?といった具体的な記述は見られなかった。

中原 淳
ダイヤモンド社
2009-02-27
おすすめ平均:
うーん、これは厳しい。
さらっと読んだのですが・・・
学習する組織のための対話とは
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 一方、『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』では、「公共空間」として(1)企業内の場、(2)企業間のネットワーク、(3)規制、(4)大学という4つの具体例を挙げている。(1)企業内の場とは、例えばAT&TやIBM、デュポンなどが所有していた企業内研究所を指す。(2)企業間のネットワークとは、P&Gの「コネクト・アンド・ディベロップ」のような活動を想起していただければ解りやすい(以前の記事「柔らかいアイデアの段階で予算をつける勇気がイノベーションのカギ―『ゲームの変革者』」などを参照)。

 (3)規制が「公共空間」になるという指摘が面白いのだが、これは、行政が既存の規制を企業に適用する場面ではなく、行政と企業が共同で新しい規制を構築するケースを指している。新しい規制が形成される過程では、行政・企業のメンバーが、消費者のニーズやトレンド、産業を構成する各種プレイヤーの動向、技術発展の見通しなどをめぐって、自由闊達に情報交換する。さらに、規制すべきプレイヤーは誰であって、その利害は何か?逆に、規制によって保護すべきプレイヤーは誰で、その利害は何なのか?などといった、踏み込んだ「対話」が展開されるというのである。

 本書では、パナソニックがかつて連邦政府通信委員会(FCC)の諮問委員会のメンバーから外されてしまい、国外のインフラ基盤事業において事実上競争することができなくなってしまった、という事例が取り上げられている。逆の見方をすれば、FCCが規制を形にしていく段階で、アメリカ国内のインフラ基盤事業の方向性が巧妙に固められていたというわけだ。規制策定に参加していた企業は、この方向性に沿って自社のビジネスを展開できる。他方、メンバー外の企業は、規制の中身を理解することから出発しなければならず、スタート段階でいきなり競合の後塵を拝してしまうのである。

 (4)大学とは、いわゆる産学連携のことを意味している。ここに「官」が加わって産学官連携になると、(3)と(4)がミックスした公共空間が生まれるかもしれない。

 もっとも、「公共空間」を作ればイノベーションが加速すると考えるのは甘い見通しであろう。(1)企業内の場については、そもそも企業自体が「分析的取り組み」の塊と化しているため、そこに「解釈的取り組み」の場をつけ加えることが困難になりつつある(この点は、『ダイアローグする組織』の著者である中原淳准教授も指摘していた)。

 また、(2)企業間ネットワークについては、ネットワークを構成するそれぞれのプレイヤーにも「公共空間」に対する十分な理解が求められる。「分析的取り組み」でガチガチになっている企業がネットワークに入ってきてしまったら、返って「対話」の邪魔になることは容易に想像がつく。

 となると、(3)規制や(4)大学に望みを託すのか?ということになるが、この2つはやや特殊な例だと思われる。本書で論述の対象となっている業界には、携帯電話や医療機器メーカーなど、法的な規制や大学の研究との関係が深いものが実は多い。個人的には、(3)(4)はこうした事情から導かれたと考えている。

 では、「公共空間」は空論と諦めるしかないのか?というと、それはそれでまた早急な判断であろう(議論がグルグル回って恐縮だが・・・)。(2)〜(4)は利害関係者が多くなるので、その分「公共空間」の構築には様々な困難な伴う。それに比べれば、(1)は企業単独で実施可能だ。私は、まずはこれに望みを託したい。その際には、業務や組織のデザインをがらりと変える必要がある。例えば、

 ・「解釈的取り組み」に参画するのは誰か?グーグルや3Mのように、全社員が一部の業務時間を「対話」につぎ込むことができるようにするのか?それとも、「公共空間」の名にふさわしい、既存事業部門からは隔離された部署を設立するのか?

 ・上記の変更に伴って、各社員のジョブ・スクリプション(職務定義書)はどのように変わるのか?(日本だと明確な職務定義書が存在しないが、目標管理制度[MBO]などを採用している企業であれば、期初に設定する目標の中身が従来とは変わるはず)

 ・マネジャーの役割はどうなるのか?「分析的取り組み」と「解釈的取り組み」を状況に応じて首尾よく切り替えるスイッチの役割を果たすのか?それとも、「解釈的取り組み」を専門とし、「解釈的取り組み」の成果に責任を持つマネジャーを新たに任命するのか?

 ・「解釈的取り組み」につぎ込む予算はどのように捻出するのか?また、「解釈的取り組み」から生まれる各種プロジェクトに、どうやって予算を割り振るのか?

 ・「解釈的取り組み」の成果をどのように測定するのか?また、その成果をどうやって人事考課(給与・等級)に反映させるのか?

 ・「解釈的取り組み」に必要なスキル・知識とは何か?それを現場社員やマネジャーに習得してもらうためには、どのようなトレーニングを実施すればよいか?

 などなど、幅広い問いに対し一貫性のある解を用意しなければならないだろう。

 (まだまだ続くよ)
June 06, 2011

マーケティングとイノベーションの違いの整理―『イノベーション 「曖昧さ」との対話を通じた企業革新』

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リチャード・K. レスター
生産性出版
2006-03
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 先日取り上げたC・K・プラハラードの『イノベーションの新時代』は、イノベーションというよりもOne-to-Oneマーケティングの本で肩透かしを食らってしまったのだが、この本はちゃんとイノベーションがテーマになっていた。結構骨太の内容で、読み切るのに苦労したよ。

 90年代から現在にかけて、日本やドイツの経済が低迷したのとは対照的に、アメリカ経済はそれなりに順調に成長を遂げた(途中、ネットバブル崩壊やサブプライムローン問題による混乱はあったが)。アメリカ国内では、「企業を中心とする様々なイノベーションが、成長の主たる要因である」と分析されているようだが、著者はこの点に疑問を投げかけている。果たして、本当の意味でのイノベーションが、アメリカで引き起こされていたと言えるのだろうか?そして、真のイノベーションとは一体何を指すのか?本書の争点はここにある。

 この点を論じるにあたって、著者は従来の経営学者が唱えてきた2つの命題を問題視する。1つは「顧客の声をよく聞け」というものであり、もう1つは「自社の強みに集中せよ」というものである。本書では直接述べられていないが、前者は言い換えれば外部環境重視の戦略であり、後者は内部環境重視の戦略に該当する。この2つの戦略は、長きに渡って戦略論の2本柱を形成してきた。そして、経営者やマネジャーは、双方のメリットを尊重し、両者をうまく組み合わせながら戦略を構築してきた。

 その最も華々しい成功例が、ジャック・ウェルチの率いるGEだったと著者は指摘する。経営学者はこぞってGEを研究し、世界中の企業がウェルチの経営を真似しようとしたものである。こうした産学両方の努力の甲斐もあって、「顧客の声を聞く方法」や「自社の強みに集中する方法」はかなり定式化されている。

 つまり、どういうプロセスで検討を進めるべきか?検討にあたって、どのような情報を収集すべきか?それらの情報に基づき、どのように選択肢を形成するのか?さらに、最終的な解をどうやって絞り込むのか?といった一連の方法論がある程度確立されているのである。

 このような明確な指針が定められた活動を、著者は「分析的取り組み」と呼ぶ。しかしここで重要なのは、イノベーションを引き起こすのは「分析的取り組み」ではないという点である。ピーター・ドラッカーは何十年も前に、「企業に必要なのは、マーケティングとイノベーションである」と指摘したが、この2つにはこれといった明快な定義が存在せず、しばしば混同される。

 個人的には、マーケティングとは「既存市場のパイの争奪戦」であり、イノベーションとは「既存市場の競争ルールの抜本的変化」や「全く新しい市場の創出」を意味すると理解している。別の見方をすれば、マーケティングでは競合同士の持久戦が繰り広げられ、それに耐えられなくなった企業が淘汰されるが、イノベーションでは既存プレイヤーが一気に死滅することもある。

 例を挙げると、ビール各社が毎年ビールのシェアを競い合っているのはマーケティングの世界である。これに対して、イノベーションに該当するのは、携帯電話が固定電話を一気に隅に追いやり、通信市場の構図をがらりと書き換えてしまったことや、iPadの登場によってタブレットPCという市場が生まれ、その影響がPCやアプリ市場のみならず、書籍市場にまで及んだことなどである。

 著者は、イノベーションを創出するのは「分析的取り組み」ではなく、「解釈的取り組み」であると述べている。「解釈的取り組み」では、先ほどの2つの命題とは正反対の活動が行われる。すなわち、顧客の声にはあまり耳を傾けず、さらに自社の能力を取捨選択せずに統合するのだ。

 本書では、いくつかのイノベーションについて詳細な分析が試みられている。その中の1つである携帯電話は、当初は自動車で無線を利用している営業担当者などが、無線の代替品として利用すると考えられていた。しかし、製品開発担当の技術者が、試しに様々なタイプの消費者に携帯電話を使わせてみると、全く予想外の使い方をすることに気づいた。

 技術者は、よくあるグループインタビューのように消費者にあれこれと話を聞くことはせず、敢えて消費者の行動の観察に徹した。そこから、消費者の潜在的なニーズを「解釈」していったのである。また、携帯電話は、技術的には有線(固定電話)と無線(ラジオ)が融合したものである。用途が全く異なる2つの技術が交錯することで、携帯電話は誕生したわけだ。

 ここからは私の解釈になるけれども、経営学者たちが唱えてきた2つの命題は、企業活動からムダを取り除く方向に働く。「顧客の声を聞く」ということは、「顧客が欲しいと言った製品やサービスだけを提供すればよい」ということになるし、「コア・コンピタンスに集中する」ということは、裏返せば「強みにならない能力は捨て去るべきだ」ということになる。その結果としてもたらされるのは、「企業の生産性の向上」である。そして確かに、生産性の向上は、経済成長にとってプラスに作用する。

 90年代以降のアメリカ経済の成長は、それこそ携帯電話のようなイノベーションに負う部分もあるが、大半は企業の生産性向上によってもたらされたものである、ということを著者は言いたかったのではないだろうか?実際、アメリカの経済成長の何分の1かは、ウォルマートの生産性向上によってもたらされている、という分析結果も一時期出回っていた記憶がある。

 (続く)
December 06, 2010

《MIA対談コラム》【東京大学・中原淳准教授と語る】リーダーシップの未来(最終回)

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 対談の最終回を会社のHPにアップしたのでご紹介。全文は弊社HPでどうぞ〜
東京大学 大学総合教育研究センター 准教授の中原淳先生と弊社代表取締役の松丘啓司の対談は今回が最終回です。司会は、戦略的人材マネジメント研究所代表で中央大学大学院 戦略経営研究科 客員教授の楠田祐さんにお願いしました(以下、敬称略)。

 リーダーシップの世代継承をどのように実現するか?


中原:職場の中のリーダーシップって、ある時はこの人がリーダーになって、ある時はリーダーだった人がフォロワーだったりして、それが交互に行われるのが常態じゃないですか。常に誰かが引っ張っていく、常に誰かがフォローしていくというよりは、相互にリーダーとフォロワーを担い合いながら動いているというのが現状だとする場合に、やっぱり一人だけ誘導してもし方がないという気がします。

松丘:それに加えて、実際のところ、企業の中でリーダーとして本当にリーダーシップを発揮できる人材を作るには10年かかると思います。なので、まずは中堅のリーダークラス、30代のリーダークラスを育成するために、新人が入った時からどうやって育成するのかという10年計画れを持たないといけないと思います。

楠田:長期計画ですね。

松丘:さらにそこから先、経営幹部に行くところまで、どうやって育成するのか。育成の仕方は違ってきますけれども、そこまで必要になると思います。

中原:そうですね。それを受けた人がまた少し偉くなって、また変えていくくらいの感じですね。そういう意味でいうと、それはまたリーダーシップの世代継承性が問題で、ある一定の期間だけだと、あまり効果がないように思います。

楠田:これはやっぱり、リーダーがリーダーを育てるということですか?

中原:組織の中ではやっぱりそうなると思います。たとえば、ある人がリーダーシップを発揮する機会を与えられた時に、より上の人がコメントやアドバイスを与えられる環境にあるのか、というのが重要です。だとするならば、上の人はリーダーであるべきだと思います。だって、この上司はリーダーシップを発揮してないなぁという人に、お前リーダーシップ開発しろと言われても腹が立ちませんか?あなたに言われたくないって。

楠田:順序が逆ですね。

中原:だからリーダーは常に、本人が望むとも望まないとにも関わらず、観察されているということです。その場合、下の人が受けたリーダーシップの研修と、上の人を観察した時に見えてくる人物像があまりに違ってくると、一気に嘘くさくなると思うんです。

 多分、うまくいっている組織はそこがあまりブレてないというか、上の人が発揮しているリーダーシップの姿も、自分がリーダーシップの研修や開発の機会に、こういう風に変わろうと言われている像もあまり違わないのだと思います。

楠田:さっき言っていた、上の人からリーダーシップ開発をやるというのはやっぱり絶対に重要で、下の人たちがああいうリーダーになりたいと思っていれば、無意識にその人も学んでいける。

松丘:ああいうリーダーになりたいと思っても、なかなか、そのとおりにはなれないと思いますが、そのとおりにはなれなくてもいいけれど、自分ならどうやってみようと考えることが重要だと思います。

中原:上の人がやるのは経営の話そのものでもいいわけですよね。役員の人たちが一定期間、集まってこれと同じことを、リーダーシップの開発という名前じゃなくてもいいからやった方がいいのでしょうね。

松丘:名前は、経営ワークショップでも何でもいいと思います。

中原:それで、その中でやられている内容というのが、下の人の研修内容と連携してくると、結構、シナジーがあるかもしれないですよね。

松丘:要するに、その組織内のコミュニケーションというのは、結局、企業の場合は経営層がそれを決めていると思うんですね。どういうコミュニケーションはよしとするとか。どっちの方向に向けてコミュニケーションするとかいうのは最終的には経営層が決めるので、そこが変わらないと、ミドルから変えていくというだけでは、やっぱり苦しいですよね。どっちみち、こういう内容は、役員層とか、部長以上にとっては、研修があろうがなかろうが考えないといけないことだと思います。

 続きはこちら>>【東京大学・中原淳准教授と語る】リーダーシップの未来(最終回)
November 24, 2010

「よかれと思ってやったのに・・・」というマネジメントのパラドクス集(その8〜10)

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 残りの3つは、うちの会社の講師が以前HPに掲載したコラムからの抜粋で大変恐縮なのだが、メルマガでは結構反響が大きかったのでこの機会に紹介しておこうと思う。

(8)明確な目標を打ち出すと、メンバーがモチベーションを低下させる
 あなたは、ある企業の事業部門のリーダーだとする。これまで、部門全体の売上目標は設定してきたが、個人別の目標はつくっていなかった。そこで今年度は、個人別に明確な売上目標をもたせることにした。もちろん、メンバーひとりひとりがやる気と責任をもって目標達成にまい進することを期待してのことである。あなたは、各人ごとの実績をもとに、公平に目標数値を配分した。

 しかし、期待はあっさりと裏切られた。部門全体に急速に冷ややかな雰囲気が広がったのである。ある中核メンバーは「こんな目標無理にきまっている」と公言してはばからない。別のメンバーは他人と自分の目標を比べて「なぜ、彼より自分の方が大きな目標を背負わなければならないのか?」と、詰め寄ってきた。言葉をつくして理由を説明しても「彼は楽をしている。不公平だ」の一点張りで納得しない。結局、前向きな態度を示したメンバーは、ごく一部にとどまった。
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(9)コミュニケーションを取るほど、対立が深まる
 2人の担当者が、ある案件について激しく対立していた。一方の担当者は「利益の薄い案件であり、コスト対効果を考えて撤退するべきだ」と主張していた。もう一方は「顧客開拓やノウハウ蓄積のために是非とも進めるべきだ」と言い張り、両者とも譲らない。それぞれを支持するメンバーが口を出し始め、もはや個人の対立にとどまらず、チームを二分しかねない状況になっている。

 そこで、マネージャーであるあなたは仲裁に入ることにする。あなたが「こっちだ」と判断を下してしまえば話は簡単だが、そうはしたくなかった。「腹を割って話せば分かりあえる」というモットーを持つあなたは、あくまで話し合いによって当事者に落とし所を見いださせたいと思ったのだ。そこで、2人を呼びミーティングを持った。

 しかし...、ことは意外な方向に進んでしまう。「じっくり話し合おう。そして我々にとってベストの結論を納得して出そう。」こう切り出したまでは良かったが、2人の担当者の意見はぶつかり合ったまま、わずかな接点すら見つからない。たまりかねたあなたが、「もっと相手の意見もよく聞こうよ。」と口を差し挟むと、「いったいどっちの味方なんですか!」と罵られ、口をつぐんでしまう。結局、3人のミーティングは、より深まった対立と徒労感を残して終了した。そして、行き場をなくした不満の矛先はあなたに向かってきた。「優柔不断なマネージャー」との陰口が急速に広まってきたのだ。
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(10)思いやりのあるアドバイスが、チャンスを奪う
 某ソフトウェア企業の若手のAさんは、イベントに出展して販路を広げるという企画を練っていた。ところが、営業会議に提案しようと勇んで先輩のBさんに話すと、「悪いことは言わないから止めておけ」と、あっさり却下されてしまったのだ。

 「なぜですか?」と食い下がると、「数年前にイベント出展をやったが、お客さんの集まりが悪くうまく行かなかった」という返答がかえってきた。さらにB先輩いわく、「部長も『ウチの製品はイベントでの派手な打ち出しには向かない』と言ってたんだ」とのこと。
企画に自信をもっていたAさんは不服だったが、経験のある先輩の忠告なので、しぶしぶ従うことにしたのである...。

 結果的に、Aさんは組織の中での無用なつまづきを避けられたと言える。もし先輩に相談せずに営業会議に提案したら、「見当違いなことを言うな」などと部長から責められた可能性も高いからだ。Aさんは、会議の場で非難され意気消沈するというダメージを避けながら、この企業の過去の経験を学び、一歩組織に適応したのである。
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July 19, 2010

合意形成の実践的手引書だね−『コンセンサス・ビルディング入門』

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ローレンス・E.サスカインド
有斐閣
2008-04-11
おすすめ平均:
具体的、実践的、体系的
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 何度かダイアローグのプロセスについて取り上げてきたが、何となく表面的なプロセスをなぞっているだけで、ダイアローグがどのように変化を創出するのかについてはほとんど書けていない気がしていた。例えて言うならば、自動車の部品構造については説明したが、それらの部品がどのように作用し合って動力を生み出しているのかについては言及していないような感じだった。

<過去のダイアローグに関する記事>
 ダイアローグの4プロセスを整理してみた−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(1)−『出現する未来』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(2)−『出現する未来』

 そこで、「もっと実務的な観点からダイアローグを扱った本はないか?」と探してたどり着いたのがこの本。タイトルに「コンセンサス・ビルディング(合意形成)」という言葉が使われ、取り上げられているケースも「公共政策」に関するものではあるが、ダイアローグの理解を深める上では十分に有益な本であった。

 「合意形成」というと、全員が納得するような意思決定を指しているようなイメージがあり、「そんなのは非現実的だ」と言いたくなるのだが、同書ではこの出発点をうまく変えている。つまり、合意形成とは「ほぼ全員の同意」であり、「合意しないよりは合意した方が各ステークホルダーにとって利益となる状態」を作り出すことだとしている。これはかなり実務的な定義だ。

 訳者の補論には、「同床異夢」という言葉が出てくる。お互いの利害(=夢)が一致する必要はないが、相互に共存できる状態を目指すのが合意形成であるという。そうか!デビッド・ボームが『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の中で、「お互いの『見解』を合致させることは必ずしも必要ではなく、『意味』を共有することが重要である」と述べたのは、こういう意図だったのかもしれない。

 「合意しないよりは合意した方が各ステークホルダーにとって利益となる状態」は、それぞれのステークホルダーが持っている複雑な「利害」を、様々な「取引」を通じて調整することで達成されるという。取引の際の具体的なやりとりも、架空のケースを用いながら丁寧に記述されているのが読者にとっては嬉しい。その意味でも、同書はダイアローグの「動力」にまで踏み込んだ良書であると思う(欲を言えば、例示にとどまらず、利害の取引方法についてもっと一般化された解説があるとよかったが…)。

 かといって、同書では合意形成の「プロセス」が軽視されているわけではない。むしろ、属人的で個別対応になりがちな合意形成に、割と厳格なプロセスを導入しようとしている(※)。例えば、合意形成を行うメンバーを選定するにあたって、「紛争処理アセスメント」という手続きを踏み、利害関係のある組織・団体と彼らの利害をモレなく洗い出し、各ステークホルダーの利害を的確に代表するメンバーを選出することを勧めている。

 また、合意内容を文書にまとめた後、メンバーが文書を所属元の組織・団体に持ち帰って承認を得る(=単にOKをもらうのではなく、文書に印鑑をもらう)ことの重要性を説いている(もちろん、所属元から異論が出れば、メンバーはそれを合意形成の場にフィードバックし、合意内容を修正する)。

 そして、最終的な合意文書に対しては、各ステークホルダーの承認に加え、合意形成に参画したそれぞれのメンバーも個人として承認を下すことを求めている。当たり前といえば当たり前のことだが、後から合意内容を不合理な理由でひっくり返されないためにも、こういう手続はとても大事だ。

 日本にはもともと根回し文化があり、欧米人に比べれば合意形成には慣れている方だと思う。ちょっと話が脱線するが、城山三郎の小説『雄気堂々』(下)には、大隈重信が「八百万の神達、神計りに計らいたまえ」という言葉を引き合いに出して、様々な能力を持った人々をかき集め、ありとあらゆる角度から議論を行って、新しい国家の仕組みを作り上げていく様子が描かれている。

城山 三郎
新潮社
1976-05
おすすめ平均:
城山歴史小説の隠れた佳作
日本初の財界人
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 企業経営でも政治でも、根回しは意思決定を左右する重要な要素である。だから、本書を読む人の中には、「日本人にとっては当たり前の内容ではないか?」と感じる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、全ての根回しがうまく機能しているわけではない。前述した通り、往々にして非公式に行われる根回しは属人的で場当たり的である。特定のステークホルダーを意図的に外して、利害が近い者同士で合意形成を進め、既成事実を作ってしまうというケースも多々見られる。

 訳者の補論では、日本の公共政策における合意形成の現状が記述されている。これを読むと、日本でも合意形成が必ずしもうまくいっているとは言えないことが解る。一つには先ほど述べたステークホルダーの選出に関する問題があるが、もう1つの問題として、「形式的なプロセスを重視しすぎている」という点も指摘されている。

 「手続が公正ならば、その結果も公正である」という手続き的正義を支持する行政側は、合意内容の「正統性」を担保するために、プロセスを厳格にしようとする。しかし、この形式主義が、合意形成の本来のメリットである「柔軟な利害調整」を妨げているのである。

 私は民間に身を置く立場なので、企業やNPOなどで役に立つダイアローグ、合意形成の方法を構築したいと思っているのだが、日本の行政と同じ轍を踏まないよう気をつけなければ、と気を引き締め直したところだ。

(※)日本ではあまり馴染みがない(私も恥ずかしながら知らなかった)のだが、アメリカには多数決原理に基づいて意思決定を効率的に進めるための「ロバート議事規則」という詳細なルールブックが存在する。

 しかし、あまりにルールが細かく定められているために、意思決定が形式主義に陥りやすいという欠点がある。著者のローレンス・E.サスカインドも、「ロバート議事規則」の反省を十分に踏まえ、合意形成に形式的なプロセスを導入することには慎重になっていることがうかがえる。
July 04, 2010

ピーター・センゲのU理論に残された問題(補足)−『出現する未来』

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P. センゲ
講談社
2006-05-30
おすすめ平均:
ありのままを見つめて、その場と一体になる事で思い描いた未来が現れる
壮大な考え方に触れる本です。
リーダーとしての新しいあり方。忙しい人ほど内省が求められる。
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 2回に渡り、ピーター・センゲの「Uプロセス」を自分なりに8つのプロセスに分けて説明してみた。
 「ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(1)−『出現する未来』
 「ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(2)−『出現する未来』

 まぁ、細分化してみても「何となく解る」の域を出ることはできず、「我々が直面している問題(それこそ普天間問題などの政治の問題とか、我々が仕事上抱えている深刻な社内分裂や成長危機の問題など)に適用するためにはどうすればよいか?」という問いには十分答えられるところまで私の理解が追いついていない。「実用的でない知識は知識ではない」(ピーター・ドラッカーも同じようなことを述べていた)が信条の私にとって、これは本当に歯がゆいことだ。

 ただ、2本の記事を書きながら1つだけはっきりと解ったことは、従来の問題解決とU理論の違いの根底には、「問題と自分を切り離すか、問題を自分自身と一体のものと見るか」という前提の違いがある、ということである。そして、U理論においては、従来の問題解決ではほとんど導かれることのないソリューション、つまり「自らが変わること」というソリューションがまず第一に導かれる点で決定的に異なるのだ。

 前者では、「外部の問題を客観的に観察する自分という主体」という具合に、主客が分離している。ここで導かれる解決策は、例えば「組織を再構築する」、「評価制度を変える」、「製品開発プロセスにてこ入れする」、「ITインフラを刷新する」、「重要プロジェクトの取捨選択を行う」、「人材の入替を行う」、「給与をカットする」といったような「外科手術」のようなソリューションが中心であり、「問題を観察している自分自身」にメスが入ることは少ない。

 もちろん、経営陣が社内に変革を浸透させるために、「トップの率先垂範」が不可欠であることはよく理解されている。だが、第一義的に導かれる物理的なソリューションを正当化する補完的手段として、「トップが範を垂れる」という行為に出ているとも解釈できる。

 これに対して、U理論では、最初に「自分自身が変わること」が求められる。そして、メンバーが皆自己変革を行った末に、新しい未来が出現する。その未来を実現するための方策は、その後で検討するという流れになる。従来の問題解決とは順番が逆になっているのがお解りいただけるだろうか?

 もっとも、U理論にも個人的に疑問を投げかけたい点、よく理解できない点はたくさんある。例えば、

 ・メンバー個々人の価値観の良し悪しは判断されないのか?捻じ曲げられた価値観、社会的通念に照らして許容されない価値観がある場合はどうするのか?
 ・自分の価値観から使命のレベルへとジャンプアップするには、自分に対してどのような問いを投げかければよいのか?
 ・メンバーそれぞれの価値観が相反する場合、どうやってそれらを統合する使命、目的、ビジョンを導き出すのか?
 ・もし、宇宙という統一された秩序に向かって、「自然に未来が出現する」のであれば、メンバーが誰であっても、どんな問題を扱っても、究極的には同じ結論に達するのではないか?果たしてそれは現実的と言えるのか?
 ・もし、宇宙という統一された秩序に向かって、「自然に未来が出現する」のであれば、一度U理論のプロセスを通過すれば万事が解決することを意味するのか?将来的に新たな別の問題が発生するならば、それはU理論の欠陥なのか、人間の能力の限界なのか、一体どちらなのか?

 などなど、この本を読んだだけでは解らないことはたくさんある。

 おそらく、どんなに実例や解説をたくさん読んだところで、U理論やダイアローグは習得できないのかもしれない。こればかりは自らが実際に体験し、後から振り返って「どの出来事がどのプロセスに該当していたのか?」を内省してみないことには、学習不可能なのだと思う。
July 02, 2010

ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(2)−『出現する未来』

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P. センゲ
講談社
2006-05-30
おすすめ平均:
ありのままを見つめて、その場と一体になる事で思い描いた未来が現れる
壮大な考え方に触れる本です。
リーダーとしての新しいあり方。忙しい人ほど内省が求められる。
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 (前回からの続き)

(4)自分の価値観への目覚め
 自分が被っていた「かりそめの価値観」を捨て去った時、本当に自分が大切にしている(大切にすべき)価値観にめぐり会うことができる。「自分らしい価値観」がなぜ重要なのかについては、過去の記事「なぜリーダーにはリーダー固有の「価値観」が必要なのか?」で触れた。自分らしい価値観は、今まで自分が見ていた世界とは違う世界を見せてくれるレンズの役割を果たす。

 同書では、自分らしい価値観のことを「内なる知」とも呼んでいる。「内なる知」は心臓からやってくる。そして、心臓を通じて、自己は全体の統一されたイメージと深く結びつくという。同書によると、チベット仏教には「心と世界は不可分である」という考え方があるそうだ。この辺りはまさに、ボームが言うところの「内蔵秩序」との関連が明確に見て取れる。

 渋沢栄一は、一橋(徳川)慶喜や西郷隆盛との出会いなどを通じて、自分が執着していた「尊王攘夷」という価値観を捨てた。自分では重要だと思っていたが、教条的で中身がないことに気づいたのだ。代わりに、諸外国の先進的な文明をもっと積極的に学びたいという意欲が強くなっていく。そしてその思いは、偶々訪れたフランス留学のチャンスによって結実するのである。渋沢はフランスの先進的な経済の仕組み、社会制度、政治、公共インフラ、生活習慣などをくまなく記録し、日本に持ち帰った。

 「『内なる知』が全体の統一されたイメージと深く結びつく」という点については、共著者であるC・オットー・シャーマ自身が生家を火事で失った時の体験談が理解を助けてくれる。
 その瞬間、時間が完全に止まった。そして僕は、肉体から離れて上の方に引っ張られ、全体の光景をそこから眺め始めたんだ。意識が広がり、これ以上ないほど明晰になった。ほんとうの自分は、焼け跡でくすぶっている夥しいモノとは繋がっているわけではない。突如として悟ったんだ。ほんとうの自分は、それでも生きている。今まで以上に、生気が漲り、明晰になり、今という瞬間に存在していた。その時はっきりとわかった。長年愛着を感じていたものは、自分では気づいていなかったが、じつは重荷になっていたのだと。何もかも失くしたその瞬間、突如として解き放たれ、別の自分に出会える気がした。その自分が僕を未来に−僕の未来に連れて行ってくれた。自分が生きることで実現する世界へと連れて行ってくれたんだ。
(5)自分の使命の発見
 自分が本当に大切にしたい価値観=「内なる知」に気づいた後は、それをさらに高次のレベルに昇華させる段階へと移る。著者は、スタンフォード大学のマイケル・レイの言葉を紹介している。
 マイケル・レイは、自己の感覚の転換こそ、創造的活動の核心だと考えている。学生を創造性の深い源(ソース)に繋げるのに、手がかりとなる質問がふたつあるという。「自己とは何か」、「自分の使命とは何か」である。レイは言う。「ここで言う自己とは、高次の自己であり、内にある神性であり、未来の最高の可能性のことである。そして、『自分の使命とは何か』という問いで、自分の存在意義、生きる意味を聞いているのである」
 非常に逆説的だが、自分の使命を悟るためには、「自己を手放す」必要があると著者は指摘する。
 己を手放す能力を磨くことで、出現するものに心が開かれ、仏教や瞑想でいう「無執着」が身につく。仏教では、微妙な心の執着を表すサンスクリット語がふたつある。「ヴィタルカ」と「ヴィチャーラ」である。「ヴィタルカ」は、「求めている状態」で、自分が実現しようとすることに執着している。「ヴィチャーラ」は、「見ている」状態で、自ら何かを実現しようとするわけではないが、望む結果に執着している。どちらの状態でも、心の執着によって、いま目の前で起きていることの別の面が見えなくなったり、抵抗したりする。「ヴィタルカ」や「ヴィチャーラ」の罠を克服するには、たえず、己を手放すことが必要なのである。
 さらに、自己を手放すことによって、他者との関係も変わるという。この状態は、オートポイエーシス理論を提唱した認知科学者フランシスコ・ヴァレラの言葉を借りて次のように表現される。
 「自己が主体であるという感覚が脆くなるほど、共感性が増し・・・他者を受け入れ、気遣う余裕が生まれる」。自己が中心から遠ざかると、「他者が近くなる。連帯感、共感、慈しみ、愛−共にいることのあらゆる感情が、自分が周辺に退いた時に現れる。私にとって、今この瞬間が宇宙からの大切な贈り物だと感じられる。頑ななわけでもなく、内にこもっているわけでもなく、中心にいるわけでもなく、本来の姿になれる。・・・あなたがいて私がいる。私だけではない。われわれのなかに『私たち』がある」。
 この段階に至ると、主体と客体、自己と他者という二元論的な区別は全て意味を失い、「全体が部分となり、部分が全体となる」という、ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」で描かれた世界が出現する。自己の使命は、自ら能動的に発見するというよりも(それだと、自己を手放したことにならず、執着の罠にはまっていることになる)、「時間と空間を超越した全体が自然と教えてくれる」と言った方がよさそうだ。

(6)目的の結晶化
 ここからは、U理論の底から右上へと這い上がる段階に入る。私個人の印象としては、(5)まではかなり理解するのが難しいが、(6)からは比較的我々になじみのある変革アプローチとなっている。

 目的の結晶化とは、別の表現を使えばビジョンの明確化である(過去の記事「ビジョンを構成する要素とは一体何なのだろうか?」ではビジョンの一要素として目的を位置づけたが、同書では「目的」と「ビジョン」が特に区別されているわけではなさそうだ)。ここで重要なのは、「個人の意思の力」である。プロセス(5)までで、私が自己の「内なる知」に気づき、「使命」を悟ったのと同じように、他のメンバーもまた「内なる知」と「使命」を発見している。しかも、私と他者は別々の存在ではなく、一体不可分の関係となっている。

 あとは、各々の使命を結びつけて結晶化し、意思という名の情熱を注ぎ込めば、ビジョンは自然と生まれる。細かいことだが、ビジョンは「作る」のではなく、「生まれる」のである。ビジョンは個人の意思から出発しているが、熱意に満ちたビジョンは個人のレベルを超越して多くの人々を惹きつける力がある。

(7)小宇宙(プロトタイプ)の形成
 いっぺんに変革を実現するのは難しい。まずはビジョンに賛同する少数のメンバーから順番にスタートするのが現実的だ。この時点での少数のメンバーが「小宇宙」である。最後のプロセスで完成する新しい未来=統合された宇宙の縮小版ということで、「小宇宙」という呼び方をしていると思われる。小宇宙は新しい未来の実験版(プロトタイプ)でもあり、ここでは様々な新しいアイデアが試される。

 この考え方は、ジョン・コッターの「変革の8プロセス」とも共通する点がある。コッターの変革型リーダーシップでも、初期の段階で少数のメンバーから構成されるチームを作り、そこで新しいビジョンや戦略を練る。そして、それらを少しずつ全社に浸透させていくアプローチをとる。

 ただし、変革型リーダーシップとU理論の大きな違いは、前者においては初期のチームが経営層に近い場所で形成され、トップダウンで変革が進められるのに対し、後者は草の根的に小宇宙が数多く自生する点にある。特に、若者や女性といった、どちらかというと従来のマネジメントではマイノリティ扱いを受けていた人々がビジョンの推進役になることが多いと同書では述べられている。

(8)新しい世界の出現
 草の根的に自生した多数の小宇宙は、変革への懐疑派や反対派、変革に無関心な中間層の取り込みを図る。彼らとのダイアローグを通じて、彼ら自身にも(1)から(6)のプロセスを体感してもらい、小宇宙のメンバーになってもらう。こうした地道な活動の果てに、拡大した小宇宙同士がつながり合って、新しい未来が出現するのである。

 デビッド・ボームのダイアローグを4つのプロセスで整理するのも疲れたが、U理論の説明はさらに骨の折れる作業だった(汗)。次回は、U理論が抱えていると思われる問題点を整理して、同書のレビューの最終回にしたいと思う。
July 01, 2010

ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(1)−『出現する未来』

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P. センゲ
講談社
2006-05-30
おすすめ平均:
ありのままを見つめて、その場と一体になる事で思い描いた未来が現れる
壮大な考え方に触れる本です。
リーダーとしての新しいあり方。忙しい人ほど内省が求められる。
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 数年前に書店で初めて見た時は、「何と胡散臭いタイトルの本なんだろう?ピーター・センゲはせっかく『最強組織の法則』で有名になったのに、どこかで歯車が狂ったのか?」と思ったものだが、狂っていたのは私の思考の方だった。デビッド・ボームの『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』、ジョセフ・ジャウォースキーの『シンクロニシティ』とこの本はかなり密接に関連している(ジャウォースキー自身も『出現する未来』の共著者)。『シンクロニシティ』のあとがきの中で、金井先生が次のように述べていることが契機となり、この本をちゃんと読むことを決心した。
 ジャウォースキーの行動パターンを見ていると、米国の心理学のリチャード・シャームなら「自己原因性」、わが国の経営者で養蜂家の佐藤満さんなら、「原因自分論」という面も伴いつつ、偶然の連鎖を生み出しているように思える。本書で強いコミットメントを強調していることからも、共時性だからといって、百パーセント偶然ではないのだ。著者(=ジャウォースキー)自身は、このあたりを現在では、Uプロセス理論にまで高めている。
 『出現する未来』は、この「Uプロセス理論」を解説した本である。ベースには、最近何度もこのブログに登場する、デビッド・ボームのホログラフィー宇宙モデルの仮説が横たわっている。Uプロセスとは、変革を起こすリーダーシップのプロセスとも言えるが、同書では次の3ステップから成り立つと説明されている。

ピーター・センゲらのU理論

(1)センシング(Sensing)
 「ひたすら見る」−世界と一体になる

(2)プレゼンシング(Presensing)
 「後ろに下がって内省する」−内なる知が浮かび上がるようにする

(3)リアライジング(Realizing)
 「流れるように自然に素早く動く」
 しかし、これだとあまりにも抽象的すぎて何のこっちゃ解らんので(汗)、同書で紹介されている実例やそれに対するセンゲらの解説を基に、U理論のプロセスをさらに8つの細かいプロセスに分けてみることにした。

U理論のさらに具体的なプロセス(メモ書き)

(1)現実の直視
 月並みな表現ではあるが、変革は現実の直視からスタートする。しかし、現実をありのままに見ることは、簡単なようで非常に難しい。我々には無意識のうちに自分が好む情報を取捨選択する傾向がある。ある心理学の実験で、死刑賛成派と反対派それぞれに、死刑に賛成する論文と反対する論文を同じ数だけ読ませた。すると、死刑賛成派はますます賛成の立場を強くし、同じように死刑反対派はますます反対の立場を強くしたという。同書でも次のように述べられている。
 人は、目に見えるものを直接的で間違いのないものだと考える。目の前にあるテーブルや本、言葉や文章。だが、そこには、つねに「見えているもの」以上の何かがある。(中略)何かを目にする瞬間、ほんの少し立ち止まれば、行動と経験、過去と現在が溶け合う交響曲がその裏にあることに気づき、それを味わうことができる。だが、ふだんは、交響曲のうち、ひとつかふたつの音しか聞いていない。そして、それは、いちばん耳に馴染んだ音なのだ。
 思い込みや前提、ステレオタイプを捨てて、真っ白なマインドで現実世界をじっくりと観察する。五感で感じたものに対し即座に判断を加えるのではなく、ただひたすら観察を続ける。これが第一段階である。

(2)矛盾との対峙
 現実の直視は新鮮な驚きや感動を与えてくれる一方で、今までの自分の理解を超えた事実の発見をもたらす。そのような事実を目の当たりにすると、我々は「何となくおかしい」、「うまく咀嚼できずむず痒い」という違和感を覚える。あるいは、「これはおかしいのではないか」、「こんなことは馬鹿げている」という攻撃的で怒りに満ちた感情が湧き上がってくる。

 だが、以前の記事「感情は問題提起のサインである」でも書いたように、こうした感情の変化は、我々が何らかの問題に直面していることを知らせてくれる重要な合図である。もちろん、決して気持ちのいいことではない。だからといって、マイナスの感情を抑え込むように反射的な態度で臨むと、解決方法を誤ってしまう(曹操に敗れた袁紹のように)。大切なことは、感情の変動に敏感になること、そして、この後に続く問題解決と変革のプロセスに向けた心の準備を入念に行うことである。

(3)与えられた価値観の引き剥がし
 表面的に矛盾する出来事の深層には、人々の異なる価値観が存在する。人が何らかの矛盾を感じる時というのは、自分の価値観が別(他者)の価値観によって試されている瞬間でもある。我々は、矛盾との対峙をきっかけに、自らの価値観の見直しをスタートさせる。

 価値観は人間のアイデンティティと深く結びついた非常に重要な要素である。しかし、よく見ていくと、a)自分自身が経験の中で体得したものと、b)周囲の人間や組織から知らず知らずのうちに刷り込まれたものの2種類が混在している。多くの人は、普段の生活の中でこの2種類の区別を意識することはまずない。現実の矛盾が個人の価値観に厳しい試練を迫る時、人は初めて2種類の価値観を峻別して考えるようになる。

 「日本資本主義の父」と呼ばれた大実業家・渋沢栄一も、若い頃は幕末の世の中を支配していた尊王攘夷の空気の影響で、攘夷に傾いていた。横浜焼き討ちを計画するなど、後の穏やかな性格からは想像できない過激な行動も行っている。ところが、攘夷の考えに支配された渋沢の価値観は、様々な矛盾と対峙する中で大きく揺らぐこととなる。

 渋沢が仕官した一橋家では、慶喜(後の徳川慶喜)が写真の趣味にはまっているのを見かける。幕府が外国から攻められるかもしれないという大事な時に、慶喜は外国文化に感化されつつあったのだ。さらに、攘夷思想の持ち主であったはずの西郷隆盛は、当時の日本人にはまだ食べる習慣がなかった豚肉料理で渋沢をもてなした。西洋人と同じ物を食べなければ西洋人には勝てない、というのが西郷の言い分らしい。純粋な攘夷派の人間であれば、西郷を常軌を逸した人物と看做しただろう。

 一方で、教条的に尊皇攘夷を掲げて反旗を翻した連中は、次々と死んで行った。しかも、本来なら彼らをかくまってしかるべき慶喜ですら、彼らを弾圧したのだ。こうした動乱の中で、渋沢は完全に拠りどころとなる価値観を見失ってしまったのである。

 自分が大切だと思っていたはずの価値観を引き剥がされるのは、矛盾を発見すること以上に不快な経験である。「ネットワーク経済論」を生み出した経済学者のブライアン・アーサーは、ある中国人の道教の先生と出会った際、研究者としての人生の価値観がひっくり返るくらいの言葉をぶつけられ、激高した。しかし、アーサーは即座に香港に引っ越して、道教の先生に弟子入りしたという。
 アーサーは、思考の流れが遮られたその瞬間、自分にとて大きな意味をもつことになる旅、見るとはどういうことかを学ぶ旅の始まりを感じ取った。旅に乗り出し、旅を続けるには必要なものがある。当たり前だと思っているものの見方や世界観が崩れる「深い混迷」の瞬間を、幾度となく受け入れようとする意思である。
 ((4)以降は次回の記事で)
June 15, 2010

民主型リーダーシップの本としての『シンクロニシティ−未来をつくるリーダーシップ』

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ジョセフ・ジャウォースキー
英治出版
2007-10-02
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「やり方」より「あり方」が大事な理由
哲学書か、量子力学書か、宗教書か、心理学書か。でも大事なリーダーシップ論
迷える世代のバイブル
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 (昨日の続き)

(2)リーダーシップの本として
 それでは、ジャウォースキーが目指したリーダーシップとは何だったのか?残念ながら、本書にはALFの詳細な活動内容については書かれていない。だが、当時のアメリカの新聞雑誌が問題視していたのは、「多くの人が地域社会や国家への奉仕から遠ざかる」という現象であり、「自分のことにばかり夢中になっている」国民のありさまであった。つまり、極端に個人主義が強くなり、全体とのつながりが希薄化していたということである。

 リーダーシップは個人の目を地域社会や国家に向けさせ、分断化されたパーツを統合された全体性の次元へと高めるために機能しなければならない。勘のいい人ならここで気づくだろう。そう、ボームの「内蔵秩序」の概念がリーダーシップ再生のカギを握っているのである。
 「実際、きみ(※ボームがジャウォースキーを指して「きみ」と呼んでいる)という人間そのものが人類の全体だ。そしてそれこそが、内蔵秩序の概念であり、あらゆるものはあらゆるものの中に含まれるということなんだ。すべての過去がとても巧妙にわれわれ一人ひとりのなかに含まれている。もし自分自身のなかに深く手を伸ばすなら、人類の本質に到達することになる。そして、意識の根源的な深みへと−人類の全体にとって共通であり、人類の全体がそのなかに含まれる、意識の根源的な深みへと導かれることになる。(中略)われわれはみなつながっている。もしそのことを教えることができるなら、そして人々が理解できるなら、われわれは新しい意識を持つことになるだろう。」
 古典的なリーダーシップである「状況適応型リーダーシップ」は、もっぱら上司と部下の関係を扱っていた。この理論では、タスクの難易度や部下の習熟度などのパラメータによって、適切なリーダーシップスタイルが規定されるとされた。

 ここ20年ぐらいは、ジョン・コッターに代表されるような「変革型リーダーシップ」が注目を集めるようになった。変革型リーダーシップでは、強力なパワーを持つ特定の人が大胆なビジョンを掲げ、トップダウンでそれを実現させるイメージが強い。

 これらに対して、ボームの考えを下地としてジャウォースキーらがALFで目指した新しいリーダーシップは、「民主型リーダーシップ」と呼べるだろう(本書の中でこの名称が使われているわけではなく、私が勝手にそう名づけた)。民主型リーダーシップは次のような特徴を持つと私は理解している。
 
 ・複数のリーダーが存在する。しかも、どのリーダーも傑出した才能を持つことは求められておらず、ごくごく平凡な人間の集まりである。
 ・それぞれのリーダーは、各々の内なる声(=自分らしい価値観)に耳を傾ける。
 ・誰もが皆同じ全体に属しているという前提に立つ(「内蔵秩序」の考え方に基づく)。
 ・そのため、一見無関係に見える課題は相互にリンクしており、相互連鎖的に解決を図ることができる。
 ・リーダーたちが意識の根源的な深みのレベルに到達することができれば、未来は自ずと出現する。
 ・未来は、リーダーたちの意思によって創造することができる。
 ・リーダーたちの強い意思は、「シンクロニシティ」を呼び込む(フランスの生物学者、ルイ・パスツールの言葉を借りれば、「偶然は、準備のない者に微笑まない」)。

 もちろん、ここで述べた「民主型リーダーシップ」の整理はまだまだ甘いと自分でも自覚している。以前の記事「ダイアローグの4プロセスを整理してみた−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』」でも、自分で書きながら音を上げそうになったぐらいだ。

 民主型リーダーシップを、「どうせ欧米のリーダーシップだから、日本には合わないだろう」と決めつけることは許されない。なぜなら、この新しいリーダーシップの根底にあるのは、実は東洋思想(とりわけ仏教)だからだ。後年のボームは東洋思想に深く傾倒していた。ならば、我々日本人こそが、新しいリーダーシップの「あり方」を先頭に立って探求する義務があると思うのである。
June 07, 2010

ダイアローグの4プロセスを整理してみた−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』

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デヴィッド・ボーム
英治出版
2007-10-02
おすすめ平均:
私にとっては、読むのがしんどかったです。
傾聴する対話を通じて創造する
内容が難しかった。(自分の知的レベルが低いのかも)
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 前回の記事「『思考』によって分断された世界を『対話』を通じて調和する−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』」では、我々の「思考」そのものが社会を分断し、あらゆる「問題」を引き起こしていること、そしてバラバラになった世界観を1つにつなげ、我々の意識を「内蔵秩序」の段階へと引き上げるためにダイアローグ(対話)が必要であることを見てきた。今回はダイアローグの具体的なプロセスを整理してみる。

 ダイアローグについては同書の第2章に詳しく書かれているが、「学習する組織」で知られるピーター・センゲの著書において「ダイアローグの4ステップ」という形できれいにまとめられているので、そちらの文章を引用したいと思う。

ピーター・センゲ
日本経済新聞社
2003-09-19
おすすめ平均:
組織論
実践の一歩手前
複雑怪奇な集合体の”ツボ”に、大きなハリを5本
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フェーズ1.「器」の不安定
 前回の記事でも述べたように、ダイアローグは特に決まったテーマも課題も設定せずに始まる。「器」の中には、様々な価値観を持ったメンバーが集まっている。メンバーはお互いがどのような人物で、どのような考え方の持ち主なのかを見定めようとする。まずこの段階で、ダイアローグは最初の転機に直面する。
 メンバーは次第に、自分がひとつの選択肢をもっていることに気づくようになる。つまり、進んで自分の考えを心の中で”目の前に吊り下げて”おく(保留する)ことができるようになる。それは、自分の意見も含めたあらゆる見方にまとわりついている「こういうものだ」という思い込みを緩めることである。

 メンバーは、自分たちが習慣的に行ってきたこと、その行動のもとになっている「仮説」を客観的に観察できるようになる。また、対立も含めて、「場」の中で起こるすべての状況を生み出している「思いと感情のプロセス」に対しても疑問をもてるようになる。そして、器の中の拡散や混乱や不安定さに対して「なぜこうなったのか見てみよう」という言葉が、グループをダイアログ(※センゲの本では「ダイアログ」と表記されている)へと導いていくのである。
 メンバーは、表面的な言動の裏に隠された真の「自分」を皆の前にさらけ出し、お互いが皆「異なる存在」であることを認識する。そして、その違いをじっくりと眺めることが第一のステップとなる。

フェーズ2.「器」の中の不安定
 混沌を受け入れることを選択したグループは、「見解の保留」とそれぞれの見方についての話し合いとの間を行ったり来たりするようになる。メンバーはこの段階でフラストレーションを感じるかもしれないが、それは多くの場合、自分たちの心の中にあるバラバラで不整合なものが見えてくるからである。
 お互いの存在を受容すればするほど、お互いの違いが際立って見えるようになる。これは耐え難い苦痛である。我々の思考は、矛盾するものや相反するものを何とかつなぎ合わせて、論理的に理解可能な形に仕立て上げようとするクセがある。ダイアローグの第2フェーズは、明らかに人間の性向に反している。このような状態が続くと、やがて「保留の危機」が訪れる。
 (メンバー内から)極端な意見が出てきて、防御の反応が現れる。このような”熱”や不安定さは苦しいものに感じられるが、それはまさに起こるべくして起きていることであり、それまで隠されていた心の中の矛盾が現れてきたのである。
フェーズ3.「器」の中での探求
 「保留の危機」のままで立ち止まっていては、グループは崩壊し、メンバーは喧嘩別れで終わってしまう。感情の赴くままに発言したり、反射的に不機嫌な態度をとったりするのではなく、ここは一呼吸置いて、「今のこのチーム状態は何を意味しているのか?」と内省する必要がある。すると、ダイアローグは新しい局面へと突入する。
 メンバーは冷静な状態で、一緒に探求を行うようになる。また、対話がグループ全員に影響を及ぼすことに敏感になり、しばしば新しい見方も生まれてくる。

 このフェーズは、遊びや深い洞察に満ちたものにもなりうると同時に、もうひとつの転機につながっていく。メンバーはだんだんと自分が孤立していることを意識するようになる。そのような感覚は、使ったことがない頭や感覚を使うことによって起こる筋肉痛のような苦痛を伴うものである。
 「筋肉痛」という表現はイメージが沸きやすい。フェーズ3は、各々のメンバーが今まで抱いていた価値観に、新たな考え方が上書きされる段階である。今まで感じたことも考えたこともない新しい仮説が、精神の中にすっと入り込んでくる。使い慣れない仮説に最初は戸惑い、精神が筋肉痛を起こすという訳だ。

 だが、この段階ではメンバーは一体になりかけているようで、未だ孤独な存在にとどまっている。メンバーが意識のレベルで内蔵秩序という統一された全体性にたどり着くためには、もう少し探求を続けなければならない。

フェーズ4.「器」の中での創造
 ここで生まれる理解はとてもデリケートで、なかなか言葉にしにくく、メンバーは沈黙に陥ることもある。しかし、それは空虚なものではなく、ひじょうに充実した豊かな沈黙になるだろう。

 言葉に言い表すことができなくなる一方で、言葉が生まれてくる可能性もある。単に意味を示すだけの言葉の代わりに、意味そのものを実感できる言葉が語られるようになるのである。

 私(※共著者であるウィリアム・アイザックス)それを、”意味が一緒に流れる”という意味で「メタローグ」と呼んでいる。会話の内容ではなく、話し合いをしているグループ自体が意味をもつようになる。このようなやりとりによって、参加者は今までにない能力や創造性を発揮することが可能になる。

 それにしても、ダイアローグについて3回に渡って記事を書いてきた私の精神も筋肉痛を起こしそうだ。解るようで解らないもどかしさ。平易なようで抽象的な内容。ディスカッションに慣れすぎた我々にとって、ダイアローグとは非常にとらえどころのない概念である。これまで述べてきたような感覚は、ダイアローグを実際にやってみないと、きっと永遠に感じ取れないのかもしれない。

 個人的にはフェーズ2までは何となく解る。だが、フェーズ3からが難しい。なぜ、分断化されたメンバーが探求を続けると、新たな考え方に到達することができるのか?その考え方は一体どこから生まれてくるのか?内蔵秩序が自然と教えてくれるとでもいうのか?

 この辺になってくると、もはや宗教との境目が見えなくなる。禅の世界にはこれに近い考え方がある。そもそも、「禅」という単語そのものが、「言語による表現領域を超えた思想の領域へ、瞑想をもって到達しようとする人間の努力」を意味している。座禅や瞑想は、あらゆる事象の根底にある「絶対」を悟り、自らとその「絶対」を調和させる営みである。その調和に成功した時、人は世俗的な考え方を超越した新たな存在に生まれ変わるとされる。

 宗教上の話なら「それを信じるか否か」で片付けられるが、ダイアローグは実践的なコミュニケーションである。ダイアローグを企業の経営や非営利組織の運営、政治や行政に適用するならば、もっと実践的な方法を生み出さなければ、人々に浸透させるのは難しいだろう。

 もう1つ解らないのは、何といっても最後のフェーズである。なぜ、内蔵秩序のレベルに達することで、人間は創造的になることができるのだろうか?内蔵秩序は我々に何を教えてくれるというのだろうか?探索と内省を続ければ、自ずと答えは見えてくるというのでは、何とも説得力に乏しい。

 しかも、フェーズ4においては、お互いの見解が合致する必要はないとボームは述べている。見解を合致させるのではなく、意味を共有することが重要であるというのだ。表面的な意見は食い違ったままで、深層の意味レベルにおいて共有意識を持つとは果たしてどういう状態なのだろうか?さらに、メンバー間の意味の共有が、なぜ各人の行動までを変化させられるのだろうか?

 いやはや、ダイアローグは解らないことだらけだ。でも、これが最近のリーダーシップ論のカギを握っているのだから、時間をかけてじっくりと探求していくことにしよう。
June 03, 2010

「思考」によって分断された世界を「対話」を通じて調和する−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』

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デヴィッド・ボーム
英治出版
2007-10-02
おすすめ平均:
私にとっては、読むのがしんどかったです。
傾聴する対話を通じて創造する
内容が難しかった。(自分の知的レベルが低いのかも)
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 前回の記事「これは宗教なのか?科学なのか?−『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』」ではデビッド・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」に触れ、ボームの思想的基盤を簡単に整理してみた。今回は、同書の内容に入っていきたいと思う。言い訳になってしまうが、この本は平易な文章の割にかなり難解なため、以下の記述には論理的飛躍や間違いがあるかもしれない。もしそれを見つけた方は、コメント欄やtwitter上で教えていただけるとありがたい。

 ボームはホログラフィー宇宙モデルにおける「内蔵秩序(暗在系)−顕前秩序(明在系)」(※)という区分を人間社会にも当てはめて、社会で起こる様々な問題について思索を行っている。まず衝撃的なのは、我々は通常、「思考」によって「問題」を解決しようと試みるが、ボームによれば、我々の「思考」によって「問題」が引き起こされているという点である。

 思考とは、「言葉を通じた事象の一般化」である。例えば、「犬」という言葉は、「2つの目、2つの耳、1つの口(その口の中には鋭い牙がある)、何本かのヒゲを含む顔を持ち、4本足で四つん這いになって歩き回り、尻尾を振りながら『ワン、ワン』と鳴く動物」の総称である。我々はそうした動物が世の中にたくさん存在するのを見て、彼らを表す一般名称として「犬」という言葉を与える。

 これは非常に単純な例だが、我々の思考は、社会に散らばる無数の事象から共通している部分を取り出し、それに何らかの言葉を与えることで一般化を行う。「犬」のような物理的な存在もさることながら、「国家」、「宗教」のような抽象的な観念についても同じことが言える。こうして社会は思考によって分断化されていく。

 一方で、一般化は1つの危険を伴う。それは、「例外の排除」である。思考は、社会の事象群から共通項を抽出しているようでありながら、実は共通している「ように思えるもの」を抽出しているにすぎない。抽出から漏れてしまった事象は、人間の思考アンテナには引っかからなくなる。

 ところが、こうした例外的事象も数が多くなり、あるいはインパクトが強くなってくると、既存の思考を脅かすようになる。今までの思考では捉えきれない例外が目の前に迫ってくる時、我々はそれを「問題」と感じるのである。よって、「問題」を引き起こしているのは、他ならぬ人間の「思考」なのである。現在の日本に当てはめると、年金問題や普天間基地問題、天下り問題などは、「社会保障」、「安全保障」、「官僚機構」、「公益法人」、「国家公務員」などに関する思考から発生していると言える。

 先ほどの「内蔵秩序−顕前秩序」の区分に従えば、こうした「問題」は「顕前秩序」において発生しているということになる。しかし、「問題」だらけの分断化された顕前秩序の背後には、内蔵秩序という根源的レベルにおける「調和された全体」が存在する。「問題」を解決する方法はただ1つ、我々の意識をその「内蔵秩序」へと到達させることである。その方法としてボームが提示しているのが、「ダイアローグ(対話)」というコミュニケーションなのである。

 ダイアローグの特徴は、ディスカッション(議論)と対比すると解りやすくなると思う。同書の内容を基に、両者の特徴を以下に簡単にまとめてみた。なお、ディスカッション(discussion)の"-cussion"には「壊す」という意味があり、ダイアローグ(dialogue)は「dia(〜を通じて)」+「logos(言葉)」から派生した言葉である。

ディスカッション(議論)
 ・初めに明確なゴールを設定する
 ・進行役(ディスカッション・リーダー)を置く
 ・用意された選択肢の中から取捨選択する
 ・決断を下す
 ・他人を説得する

ダイアローグ(対話)
 ・ゴールをあえて設定しない
 ・リーダーを置かない(参加者は対等)
 ・選択肢を炙り出す
 ・想定を保留する
 ・意味を共有する

 両者の決定的な違いは、ディスカッションの意義が「意思決定」にあるのに対し、ダイアローグの意義は「意味の共有」にあるという点である。ディスカッションでは参加者が互いの意見を戦わせ、最終的には誰かの意見を採用する。しかし、誰かの意見とは、結局のところその人の「思考」の産物であり、その意見を採用して他の意見を捨てるということは、世界を何らかの形で分断することにつながる。

 一方、ダイアローグでは、意見を戦わせることはしない。各々の意見の背後にある「意味」に着目する。勝ち負けを決めるゲームではなく、互いの言葉の背後にある意味がじわっと滲み出てくるのをただひたすら「待つ」プロセスと言ってもよい。最終的に意思決定をする必要もない。意味が参加者の間で「共有」されれば、ダイアローグの目的は達成される。ボームは、意味の共有こそが、人間の意識を内蔵秩序の段階へと進ませる重要な行為なのだと言う。

 ダイアローグの具体的なプロセスについては、『学習する組織』、『出現する未来』の著者であるピーター・センゲがうまく説明しているので、センゲの文章を借りながら改めて整理することにしよう。

(※)「内蔵秩序−顕前秩序」という区分も見た目は二元論のようであるが、両者を明確に分けることはできず、むしろお互いが密接に関連しているという点で、デカルト=ニュートン的世界観でいうところの二元論とは異なる。
December 28, 2009

提案書のナレッジマネジメントシステムはなぜうまくいかないか?

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 かつてナレッジマネジメントシステムが流行ったことがあって、多くの企業が社内の文書を共有するためのシステムを導入した時期があった。例えば営業部門では、各営業担当者が作成した提案書をシステムに登録し、誰もが自由に参照・活用できるようにすることで、提案のノウハウを社員に浸透させようとした。

 だが、ナレッジマネジメントシステムが想定通りの効果を挙げているかというと疑問符がつく。ベイン・アンド・カンパニーが"Management Tools and Trends"というタイトルで、様々なマネジメントツールが企業で実際にどの程度活用されているかを定期的に調査しているのだが、「ナレッジマネジメントシステムは期待されているほど成果を生み出していない」という結果になっている。

 よくある失敗例は、「そもそもシステムにナレッジが登録されない」というものである。特に営業部門においては、自分の提案書を他の営業担当者に見せるということは、ライバルに手の内を明かすようなものだから嫌がられることがある。こういう場合は、例えば提案書の登録・参照件数や、登録された提案書に対する他の営業担当者の評価も人事考課に反映させることで、ナレッジ登録へのインセンティブを与えることが効果的である。

 だが、システムに十分な数の提案書が登録されたとしても、それだけではナレッジは浸透しない。なぜならば、提案に必要なノウハウは、提案書に全て記載されるわけではないからである。例えば、

・この提案に関わったクライアント側のステークホルダーは誰だったのか?彼らはどういう立場だったのか?
・彼らの提案に対するスタンスはどうであったか?推進派なのか?懐疑派なのか?それともあまり関心がなかったのか?
・意思決定に最も影響を及ぼすステークホルダーは結局のところ誰だったのか?彼の真のニーズや購買決定基準は何だったのか?
・提案内容に懐疑的、あるいは反対していたステークホルダーにはどのように対処したのか?
・提案ストーリーはどのように構成していったのか?途中でどのような変更があったのか?
・提案ストーリーを組み立てるにあたって、クライアント内の誰にどのようなアプローチを行い、必要な情報を聞き出したのか?
・競合他社の動向や提案内容はどのように探り出したのか?競合他社との差別化要因はどのように捻り出したのか?
・その他、提案を進めるにあたってどのような障害があったのか?それをどのようにクリアしたのか?

といった内容は、提案書には記載されない。だが、勝つための提案という意味では非常に重要な要素であり、成約率を上げるための貴重なノウハウとなる。こういった要素をどうにか共有する方法を見つけ出さないことには、ナレッジマネジメントシステムはただの文書管理ボックスになってしまう。かといって何か画期的なアイデアがあるわけではなく、結局はface to faceのコミュニケーションを通じて共有するのが一番の近道ではないかと思うのである。

 提案のナレッジ共有の話ではないが、『ダイアローグ−対話する組織』には、ゼロックスのコピー機修理工たちが修理技術をどのように共有しているのかを考察したジュリアン・オールの研究内容が紹介されている。

中原 淳
ダイヤモンド社
2009-02-27
おすすめ平均:
評価が割れていることに驚き
名著です。
うーん、これは厳しい。
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 通常、コピー機修理工たちは仕事を各自のクライアント先でこなしていますが、定期的に会社に出社し、ミーティングを行います。

 そのミーティングの際、彼らは自分の経験した仕事のエピソードを「War Story=こんなスゴイ修理をしたという武勇伝」として披露するのです。つまり、コピー機を、「敵」に見立てて語り合っていました。

 「俺は、このあいだ、とんでもない敵(=コピー機の故障)と闘ったんだ!どういうふうにやっつけたかっていうと…実はな…」
 「俺がやっつけたのは、こんな敵だった。あれには、骨を折ったよ。え、どういうふうにやっつけたかって?…それはね…」

といった具合に、お互いに、自分の仕事のやり方、経験をエピソディックに語り合うのです。
 コピー機修理工たちが共有していたのは、個々人の能力に依存した特殊な「やり方」や、特定の場面にしか適応できない限定的なノウハウでした。一般には、そうしたものは「個別具体的すぎて、汎用的に利用できない」と考えられがちです。しかし、それは違ったのです。

 コピー機修理工たちは、「個別具体的すぎる経験」を語り合うことで「自分の抱えている、目の前の敵(故障)」と、「過去に耳にして、かすかに今も脳裏に残っている、他者の敵」とを関連づけ、修理を達成することができたのです。
 もちろん、成果物共有会のような形で、提案書の内容を定期的に他の営業担当者の前で発表する場を設けている企業もあることは知っている。だが、往々にして、営業担当者による一方的な説明の後に多少の質疑応答があるくらいで、ナレッジが「共有」されているとは言い難いケースが多いように感じる。先ほど列挙したような項目に関する活発なやり取りを通じて、提案書の裏に隠れた意味や営業担当者の意図を深くえぐるような対話の場こそが、ナレッジマネジメントシステムを強力に補完すると思うのである。
October 07, 2009

顧客とのダイアローグも必要になるだろうな

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 昨日の記事「ダイアローグの実践方法は読み手の宿題ということで−『ダイアローグ−対話する組織』」の延長戦。

 『ダイアローグ−対話する組織』では、タイトルから読者が期待する内容とは裏腹に、ダイアローグの具体的な方法に関する記述が意図的に避けられていることを昨日の記事で紹介した。

 この本で取り上げられなかったもう1つの論点というか、今後ダイアローグに関する知見を深めていくにあたって避けては通れないと思う論点が「顧客とのダイアローグ」だと思う。コミュニケーション不全は、組織内だけで起こっているわけではない。企業と顧客との間でも起こっている。

 「顧客のニーズ」と「自社の提供価値」がマッチするところにビジネスが生まれるというのが基本原則であるが、今の時代はこのマッチングが非常に難しくなっている。まず、顧客のニーズが以前とは比べ物にならないほど多様化している。さらに、顧客自身が自分の本当のニーズを正しく認識していないことも少なくない。一方、企業側にしても、扱う製品やサービスの増加によって、自社のコアバリューがどこにあるのかが解りづらくなっている。まして、競合他社も似たようなことをやっているとなると、自社ならではの提供価値はますますぼやけてしまう。

 顧客も企業もいわば手探り状態なのだ。そんな状態で、お互いが「あのお客様はきっとこれを欲しがっているはずだ」、「あの会社ならこの要件を満たす製品を提供してくれるはずだ」などと勝手な思い込みをしたまま話を進めると、後々とんでもないことになるのは目に見えている。両者の距離を縮める1つの方法がダイアローグ=対話だと思うのである。

 もちろんこれは、「お互いが膝を突き合わせて十分に言葉を交わしましょう」といった単純な解決策で収まる話では決してない。ダイアローグは、dia(〜を通じて)+logos(言葉)から成り立つ単語であるから、語源どおりに意味を捉えれば「言葉を通じた対話」ということになる。だが、コミュニケーションに関して私が思い出すのは、「コミュニケーションは知覚することである」(※)というドラッカーの言葉だ。

 つまり、言葉だけのやり取りにとどまらない「全身的な体験」こそがコミュニケーションなのである。顧客と企業という関係において、すべてのことが言葉によって明らかにされるとは稀だ。前に述べたとおり、そもそもニーズや価値という実体のないものを言葉で表現すること自体が困難であるし、お互いに身内のことはあまりはっきりと相手に伝えにくいという取引上の事情も絡んでくる。ダイアローグはそうした言語上の制約を超えて、顧客のニーズと自社の提供価値を「知覚し合う」ことがゴールとなるのである。

 それは具体的にどうやるのか?という話に全然入っていけていないが、まずは問題提起ということで。

(※)ピーター・F・ドラッカー著、上田惇生他訳『すでに起こった未来』(ダイヤモンド社、1994年)
October 06, 2009

ダイアローグの実践方法は読み手の宿題ということで−『ダイアローグ−対話する組織』

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中原 淳
ダイヤモンド社
2009-02-27
おすすめ平均:
うーん、これは厳しい。
さらっと読んだのですが・・・
学習する組織のための対話とは
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 半年近く前からブログで取り上げようと思っていながら放置してしまっていた。この悪い癖はどうにかならんものかねぇ…?

 昨年、『不機嫌な職場』という本が出版され、週刊ダイヤモンドでも「不機嫌な職場」特集が組まれたように、昨今の組織では社員同士のコミュニケーション不足が指摘されることが多い。「職場での挨拶がない」から始まり、「メールでのやり取りばかりで会話がない」、「新しい取り組みを一生懸命提案したのに反応が薄い」、「飲み会や社内行事への参加を呼びかけても参加者が少ない」、「仕事で困っている人に声をかけて助けようとしない」、果ては「派遣社員やパート社員を名前で呼ばない」など、コミュニケーション不全は様々な症状となって現れている。

 こうした問題は、成果主義の導入によって目先の個人的な成果ばかりを追求するようになった結果だとか、対人関係が苦手な若手社員が増えたせいだなどと色々言われている。だが、この本を読むと、コミュニケーション不全はもっともっと根深い問題であり、「そもそもコミュニケーションとは何か?」という点まで遡って我々の認識を改める必要があることを思い知らされる。

 今年の5月に著者の中原淳先生にインタビューをしてきて、この本について話を伺ってきた。

 2006年ぐらいからいろいろな企業を訪問してヒアリングや調査をしていく中で、不思議で仕方がないことがありました。多くの企業からOJTがうまくいかなくなったとか、組織の理念が伝わらないとか、社員がキャリアを描けない、職場でのナレッジの共有がうまくいかないといった声が聞かれました。問題は、それぞれの問題に対して、それぞれの処方箋が別々に提供されていることでした。たとえば、「OJT研修」、「ウェイ・マネジメント」、「キャリアディベロップメント」、「ナレッジマネジメント」といった具合に、あたかも、それらが別々の問題であるかのように認識され、個別に対処されていることが不思議でした。

 僕の目から見れば、OJTとは、人と人が相互作用していかに知識を共有・継承できるか、ということですよね。ウェイ・マネジメントとは、曖昧な企業理念とよばれるものを、社員が相互に解釈し、職場で行動に活かせるかどうかが問われます。キャリアディベロップメントとは、他者にアドバイスやコメントをもらいながら、「自己とは何か」を意味づけていく作業だと思います。ナレッジマネジメントとは、ある組織・職場内における知識共有ですよね。知識共有の根本は、やはり他者と他者が出会うことであり、彼らがコミュニケーションすることです。

 結局のところ、僕の目からすれば、どの問題も、根本は「コミュニケーションと学び」に関することなのです。つまりは、すべてが「協調学習」の問題なのですね。それなのに、あまりそうは思われていない。全く別々のものと考えられ、それぞれに体系がつくられていて、専門家がいて(笑)、一貫性のない処方箋がとられていることが、不思議に見えました。(「ダイアローグが切り拓く組織の未来」)
 こうした問題認識に立って、組織内で今求められるコミュニケーションのあり方として「ダイアローグ」というものを提示している。

 ただし、読み進めていくと、「ダイアローグが必要だ」という割に、ダイアローグの実践方法に関する記述がないことに気づく。このことについて、中原先生はインタビューで次のように語っている。
 この本には、実は、秘密があります(笑)。「ダイアローグをどのようにやるべきか」という「ダイアローグの手続き」に関しては、ほとんど書いていないと思います。巧妙に、かつ、緻密に、そうした記述を避けました。

 ダイアローグをいかにするべきか、というものを「手続き」として決めることは簡単ですが、それを行った瞬間に形骸化・教条化がはじまります。決まり切った「ダイアローグメソッド」なる手順が登場し、それを確実に守ることが求められる。そういうメソッドから生まれるものは、おそらく、この本が提案しているものとは、全く別のものになるでしょう。だから、あえて書きませんでした。
 なるほど、ダイアローグの実践方法は読み手の宿題というわけだ。まあ、そりゃそうだな。この本でも何度も指摘されているように、ダイアローグとはコミュニケーションを通じた相互の「学習」であり、学習の結果として組織の成員がともに目指すべき新たな「未来」が創造される。組織が違えば、創造される未来も異なってしかるべきだ。にもかかわらず、一定のダイアローグメソッドが流布すれば、方法論に制約されて、どの組織の未来も似たようなものになってしまう。それはちょうど、経営戦略が他社との差別化を図るためのものであるにもかかわらず、戦略のフレームワークに従って構想を練ると、みな似たような戦略を描くというMBAのパラドックスのようだ。ダイアローグの基本原則は押さえつつも、自分の組織にとって最も適した実践方法を見つけ出す努力が求められそうである。
May 29, 2009

コミュニケーションを変革しなければ多様な人材は活かされない−「ダイバーシティ活用力養成研修」の提供開始

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 「ダイバーシティ活用度診断」に続いて「ダイバーシティ活用力養成研修」をリリースしました。研修に「ダイアローグ」を取り入れるというちょっと新しい取り組みです。

 プレスリリース本文はこちらからもご覧いただけます。
「コミュニケーションを変革しなければ多様な人材は活かされない−『ダイバーシティ活用力養成研修』の提供開始」

=====プレスリリース本文=====
 企業研修を提供するエム・アイ・アソシエイツ株式会社(本社:東京都港区、代表取締役社長:松丘啓司)は、女性の活躍推進など、企業が人材の多様性を活用する際に必要とされるコミュニケーション変革のあり方を学習する「ダイバーシティ活用力養成研修」の提供を開始しました。

■本研修は、女性の活躍推進など、ダイバーシティ推進を行う企業が、男性管理職をはじめとする社員の意識やコミュニケーションの変革を通じて、人材の多様性を活用する力を高めることを支援するものです。

■本研修では、ダイバーシティ推進がなぜ企業の経営課題であるかについて、理解を深めるとともに、多様性の活用に効果的な「ダイアローグ」(対話)というコミュニケーション方法の実践を通じて、自分自身の行動や仕事の進め方をどのように変えていく必要があるか、豊富な気づきを提供します。

■既に、弊社で提供を提供している「ダイバーシティ活用度診断」を受診いただくことによって、顧客企業ごとの現状と課題の共有を研修カリキュラムに組み入れることも可能になります。

<研修プログラムの概要>
研修プログラムの概要は、弊社ウェブサイトをご覧ください。
「ダイバーシティ活用力養成研修」(今回発表のサービス)

「ダイバーシティ活用力診断」(既に提供中のサービス)

 「ダイバーシティ活用力養成研修」には、男性管理職と女性社員が同時に参加する方法が効果的ですが、(男性)管理職のみを対象とした提供も可能です。

 なお、6月23日(火)に、弊社セミナールームにおきまして、企業の人事・人材開発のご担当者様向けの無料公開セミナーを開催することを予定しています。

無料公開セミナー
2009年6月23日(火) 14時30分-17時
「多様な組織はなぜ強いのか?−ダイバーシティ推進の本質」

<背景と趣旨>
 近年、女性の活躍推進など、ダイバーシティ推進(人材の多様性を企業の成長のために活用すること)に取り組む企業がますます増加しています。弊社はダイバーシティ推進を、一過性の流行ではなく、日本企業が今後、力強い成長を成し遂げていくうえで必須の組織能力であると捉えております。

 ビジネスの成長のためには、人材の多様な価値観や特性を活かすことが不可欠です。ところが、これまでの日本企業は、同質的組織を創ることは得意としても、異質から創造を生み出すことには、どちらかというと不慣れであったといえます。

 弊社は、組織における人材の多様性を高めること以上に、多様な人材を「活かす」能力を身につけることが本質的に重要であると考えております。このような考えから、企業が「ダイバーシティ活用力」を向上することを、事業として支援していきたいと考えております。

 組織がダイバーシティ活用力を高めるためには、旧来の同質的な価値観のもとでのコミュニケーションのあり方を見直し、多様な価値観を活かすコミュニケーション方法を身につけなければなりません。その方法は、実際に体感し、効果を理解したうえで、現場で実践することによって、はじめて獲得できるものです。

 多くの企業が、女性の活躍推進のための制度導入や女性管理職比率の拡大に取り組んでいますが、思うようには進捗していない、あるいは次の打ち手が見出せないと悩んでいる企業も少なくありません。

 ダイバーシティ推進の障害を乗り越え、効果を生み出すためには、活動の対象を女性だけではなく男性管理職をはじめとする社員に拡大し、意識変革、コミュニケーション変革にまで視野を広げることが不可欠です。本研修では、そのための意識づけを行うとともに、どのようにコミュニケーション方法を変えるべきかを実践的に体感することによって、豊富な気づきを提供します。
May 19, 2009

【東京大学・中原淳先生にインタビュー】ダイアローグが切り拓く組織の未来

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 東京大学の中原淳先生にインタビューしてきた。中原先生は教育学の立場から企業における人の学習やコミュニケーションを研究されている先生だ。最新の著書『ダイアローグ 対話する組織』を書かれた経緯や、この本に隠された秘密(?)などをいろいろと語っていただいた。

中原 淳
ダイヤモンド社
おすすめ平均:
議論と対話の違い
「学び」の本質を問いかけてくる本
人材育成と組織開発に携わる方必読の一冊!
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 インタビューより一部抜粋↓
 2009年2月に『ダイアローグ 対話する組織』という本を発表されました。この本を書くきっかけは何だったのでしょうか?

 僕は、週に数件、企業をお伺いしてヒアリングやインタビューをさせていただいています。2006年ぐらいからいろいろな企業を訪問してヒアリングや調査をしていく中で、不思議で仕方がないことがありました。多くの企業からOJTがうまくいかなくなったとか、組織の理念が伝わらないとか、社員がキャリアを描けない、職場でのナレッジの共有がうまくいかないといった声が聞かれました。問題は、それぞれの問題に対して、それぞれの処方箋が別々に提供されていることでした。たとえば、「OJT研修」、「ウェイ・マネジメント」、「キャリアディベロップメント」、「ナレッジマネジメント」といった具合に、あたかも、それらが別々の問題であるかのように認識され、個別に対処されていることが不思議でした。

 僕の目から見れば、OJTとは、人と人が相互作用していかに知識を共有・継承できるか、ということですよね。ウェイ・マネジメントとは、曖昧な企業理念とよばれるものを、社員が相互に解釈し、職場で行動に活かせるかどうかが問われます。キャリアディベロップメントとは、他者にアドバイスやコメントをもらいながら、「自己とは何か」を意味づけていく作業だと思います。ナレッジマネジメントとは、ある組織・職場内における知識共有ですよね。知識共有の根本は、やはり他者と他者が出会うことであり、彼らがコミュニケーションすることです。

 結局のところ、僕の目からすれば、どの問題も、根本は「コミュニケーションと学び」に関することなのです。つまりは、すべてが「協調学習」の問題なのですね。それなのに、あまりそうは思われていない。全く別々のものと考えられ、それぞれに体系がつくられていて、専門家がいて(笑)、一貫性のない処方箋がとられていることが、不思議に見えました。
 全文はこちらからどうぞ。
「ダイアローグが切り拓く組織の未来」
December 26, 2005

理辺良保行の名言

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 「発見がすべてではない。人間は過去の経験から産み出された答えのみでなく、問いをも未来に残すのである。人間は過去が提示してくれた答えに質問を浴びせかける。と同時に人間は自分自身の答えを批判する。そしてこれこそ、対話的存在の本質的な面である。…私たちは学習し、教える。そして教えながら、私たちは自分が出した答えが最終的なものではなく、未来のためにまだ残されているものがあると気付いているのである。」
(理辺良保行「対話的存在としての人間」−アルフォンス・デーケン、中村友太郎編『未来の人間学』)
 理辺良保行(リベラ・ホアン〔Juan M.Sanchez Rivera Peiro〕、1938〜)
 上智大学文学部教授。専門は女性学、人間学、生命情報の獲得・発現に関する総合的研究、カウンセリングと宗教。

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