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April 06, 2010

文科省の迷走っぷりが手に取るように解った−『ドキュメント ゆとり教育崩壊』

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小松 夏樹
中央公論新社
2002-02
おすすめ平均:
ゆとり教育をめぐる文科省の迷走
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 文部科学省は来春(2011年度)から新学習指導要領を実施し、ゆとり教育からの脱却を目指すという。2002年度改定の学習指導要領の下で実施されたゆとり教育は、わずか9年で大幅に方向転換をすることになりそうだ。

 「厚い教科書 学ぶ意欲につなげたい」(北海道新聞 2010年4月5日)
 「小学校「ゆとり」脱却 教科書ページ数42%増」(中日新聞 2010年3月31日)

 2002年度から実施された学習指導要領では、「円周率は3としてよい」だの「理科の教科書からタンポポの観察日記が消える」だのといった、学習内容の大幅なカットが論争の的となった。同書は、マスコミで報道されている以上の内容を教えてくれる。そして読めば読むほど、ゆとり教育をめぐって文科省がいかに迷走していたか、そしてそれに引きずられる形で教育現場がどれほど混乱していたかが手に取るように解る。

 同書で印象に残ったポイントを3点ほどまとめておきたいと思う。

(1)学習指導要領は「最低基準」なのか「上限基準」なのか?
 学習指導要領は、小学校、中学校、高等学校などにおいて、各教科で実際に教えられる内容とその詳細につき、学校教育法施行規則の規定を根拠に文科省が定めるものである。学習指導要領は法令ではないため、その法的拘束力については議論の余地があるが、最高裁の判例には法的拘束力を認めるものもある。だが、法的な話は別として、学習指導要領から逸脱した教育内容は基本的には許されず、現場の教師は学習指導要領に沿って授業を行うのが慣例とされているようだ。

 2002年度からの学習指導要領で学習内容の相当な割合が削減されることを知っていた現場の教師は、「ここまで減らしていいのか?」、「学力の低下にさらに拍車をかけるのではないか?」と困惑していた。ところが、ゆとり教育が実施される前年の2001年1月5日に、読売新聞が「『ゆとり教育』抜本見直し」という記事で、「文部省(当時)が『学習指導要領は最低基準であり、その範囲を超える内容を積極的に教えてもよい』という方針を打ち出した」という趣旨の記事を一面ですっぱ抜いた。

 これは「1.5ショック」と呼ばれるほどのインパクトを文部省、教育現場の双方に与えた。文部省から文部科学省への組織変更を翌日の1月6日に控えていた文部省にとっては、「『文部省』最後の日」を悠長に過ごす余裕などなくなってしまった。

 現場からは「学習指導要領を超えて教えていいとは聞いていない」という声が噴出し、文科省は学習指導要領をめぐる解釈の説明に追われることになる。紆余曲折はあったが、文科省は学習指導要領を超えた内容を授業で扱ってよいと正式に認め、学習指導要領が「最低基準」であることを強調した(もっとも、その基準を超えてどこまで教えてよいかは文科省が具体的に示すことはなく、現場の教師の裁量に委ねられることになったが…)。

 しかし、事態はこれだけでは終わらなかった。2001年4月3日に文科省は、2002年度から採用される新しい教科書の検定結果を公表した。この公表結果がまたまた混乱を招いてしまう。なぜなら、学習指導要領は「最低基準」であると言っていたのに、学習指導要領を超える記述はことごとく削減されてしまったからである。つまり、学習指導要領は「上限基準」となっていたわけだ。

 なぜこんなことになってしまったのか?ポイントは、2002年度からの学習指導要領に沿った教科書づくりおよび検定は1998年から始まっていたことにある。当然のことながら、この時点では学習指導要領はまだ「上限基準」として機能している。文科省が2001年初頭にに学習指導要領は「最低基準」だと認めても、そこから軌道修正するのはスケジュール的に無理だったのだ。

 特に、理数における「上限基準」扱いはひどかった。各社の教科書はことごとく修正を余儀なくされ、教科書出版社は「ここまで削るのか?」と落胆の色を隠せなかったという。だが、面白い(と言うと語弊があるが)ことに、「上限基準」の縛りがきつかったのは理数だけで、その他の国語、社会、英語はどちらかというとゆるゆるの検定結果だったらしい。 この年に「つくる会」の歴史教科書が初めて検定にかけられたこともあって、マスコミの注目はそちらに行ってしまっていたが、つくる会の教科書でさえ理数に比べれば大した修正箇所はなく、それ以外の出版社はほとんどフリーパス状態だったようだ。この点は同書を読んで初めて知った。

 それにしても、理数の学習指導要領だけ異常なまでに「上限基準」扱いし、その他の教科はゆるめに検定したとなると、一体当時の文科省は何を考えていたのだろうか?もっと言えば、何のために文部省から文部「科学」省になったのだろう…。教育における科学の地位を上げ、科学で世界をリードする人材を育成するために省庁改編したんじゃなかったっけ??

(長くなったので、ここで一旦記事を分割します)
April 02, 2010

「覚える力」と「考える力」を伸ばすためには?−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』

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櫻井 よしこ
ワック
2005-02
おすすめ平均:
ゆとり教育否定論者の本ですが、わりとリベラル
小学生の親として考えさせられることが多い
何となく語られる一般評論
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 昨日の記事「個性を伸ばす前にやるべきことがある−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』」では、教育の目的は「覚える力」と「考える力」を身につけることであり、その土台があって初めて「個性」が成り立つと述べた。それでは、教育の現場でこの2つの力を習得するためにはどうすればよいのか?同書の中から引用してまとめておこうと思う。

(1)「覚える力」
 「覚える力」を養うには、反復練習しかない。「百マス計算」に代表される陰山メソッドや、以前「良質の『準備ルーチン』は創造性を生む」という記事で触れた立命館小学校の「モジュールタイム」も、基本的な読み書きをひたすら繰り返すように設計されている。

 著者の宮川俊彦氏は、国語における反復学習の重要性について次のように主張している。
 言葉を限定し、意味を規定し、これを全員に一斉に教えて理解させる。こうして画一的に知識を注入しない限り、国民の表現と理解の一定の水準という国語の基礎領域は構築できません。私は子どもたちの作文を指導していますが、その前提としては、子どもたちに対して、考えるため、感じるため、あるいは知識の基本となる言語の意味・用法・概念・を徹底的に教え込み、繰り返し理解を促すことが基礎であり、いちばん重要なことだと考えています。
 そして、他の教科においても反復訓練は同様に重視されるべきであるとし、陰山メソッドに対しても肯定的な評価を与えている。

(2)「考える力」
 宮川俊彦氏は「学校は『日常性』を突き破る場だ」と強調している。これは、単に社会の規範やルールをそのまま学校の中に取り込むのではなく、それらを批判的な視点で学習する場を学校が提供すべきだということを意味している。
 社会がこうなのだからこうしていればいいと教えるのだったら、なぜこうしてはいけないのか、どう生きるべきなのかといった日常性を突き破る教育なんてできませんよ。学校には、社会をまるごと捉えて問題を吸収して検証してゆく、そういう原理的に物事を考えていく機能が必要なんです。

 (中略)私はよく、授業で殺人事件や子どもが関わっている事件を取り上げます。君たちはどう思うかと問題を投げかけると、ああでもない、こうでうもないと議論はどんどん深化していきます。その過程で、時代はどうで社会はこうかと彼ら自身で考える眼ができてきます。

 最後には「なぜ殺人はいけないのか」「戦争はどうなのか」という議論に到達します。そのときに「こういう決まり、法律があるから」「人を殺すのはいけない」「暴力は悪い」とか、「戦争は悲惨です」「平和は尊い」という一般論や理念、お題目教育をしていたのでは、本当の自覚や認識は生まれません。
 宮川氏は、各教科の一般的な知識や概念の暗記を推奨する一方で、社会の倫理や道徳を丸呑みにすることには否定的な態度を取っている点に注目したい。社会の倫理や道徳は、社会を構成する様々な人間の価値観や判断基準、あるいはその社会が脈々と受け継いできた文化・歴史的背景といった、あらゆる主観的要素が複雑に絡み合って形成されている。

 そうした複雑さを丸ごとそのまま体内に吸収するだけでは考える力は育たないし、社会で生き抜くパワーも身につかない。逆に、その複雑さに正面から対峙することが、規範や秩序に対する意識を醸成する。と同時に、個々人の内面にもはっきりとした感性や認識を芽生えさせる。日常性を突き破る教育の目的はそこにあるのだと私は思う。

 昨日の記事の繰り返しになるが、知性は客観性と主観性をともに備えることで初めて個性を発揮することができる。ゆとり教育に対する厳しい批判を受けて、文部科学省は教育方針を見直す方向で動き出しているようだが、教育現場の実態とは離れた次元でのイデオロギー論争に時間を費やすのではなく、教育が目指すべき人間像をもっと明確にし、その実現に向けたリアリティーのある教育のあり方を議論してほしいと願うところだ。
April 01, 2010

個性を伸ばす前にやるべきことがある−『ゆとり教育が日本を滅ぼす』

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櫻井 よしこ
ワック
2005-02
おすすめ平均:
ゆとり教育否定論者の本ですが、わりとリベラル
小学生の親として考えさせられることが多い
何となく語られる一般評論
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 かれこれ1年近く前に書いた「何でゆとり社員が生まれたかもうちょっと詳しく考えてみる必要があるな−『職場を悩ますゆとり社員の処方せん』」という記事で、ゆとり教育のことを調べようと思って買った本を完全に放置していた…。一般に「ゆとり世代」とは、2002年度(高等学校は2003年度)学習指導要領による教育を受けた世代のことを指し、この新学習指導要領を最初に受けた1987年4月2日〜1988年4月1日生まれは「ゆとり第一世代」と呼ばれる。昨年、このゆとり第一世代が初めて社会人になったことから、彼らの新人教育の模様が注目を浴びたわけだが、今年も「ゆとり第2期生」がいよいよ入社してきた。

 学習内容減らしは2002年よりもずっと前の1980年代から既に始まっており、広義の意味では現在の30歳前後までが「ゆとり世代」と呼ばれるそうだ。ということは、私自身もゆとり教育に片足を突っ込んでいたわけだな。そういえば、何年生からだったかは記憶が定かではないものの、週休2日制へと段階的に移行されていったことは覚えている。

 本書はジャーナリストの櫻井よしこ氏と、作文・表現教育というユニークな教育方法を実践している宮川俊彦氏の対談形式でゆとり教育を批判しているが、割とオーソドックスな内容という印象だった。ゆとり教育のここがダメだとか文部科学省のここがなっていないという各論よりも、そもそも論に立ち返って「学校とはどのような力を身につける場なのか?」ということを、教育の専門家ではないが勇気を振り絞ってまとめてみた。

学校は何を教える場か(ゆとり教育)

 要するに、「覚える力」と「考える力」、この2つを身につけるのが学校という空間である。「覚える力」とは、既に確立されている客観的な知識や技能を習得することであり、答えが限られた問題に取り組む力である。もっと噛み砕いて言えば、通常のペーパーテストが解ける力と捉えてもよい。

 これに対して「考える力」とは、答えが1つとは限らない、あるいは複数の選択肢から何らかの価値判断によって解を導かなければならないような問題に取り組む力を意味する。別の言い方をすれば、社会的な規範やルール、倫理や道徳が絡むような問題、個人の価値観や信条(ここでは宗教的な信条というよりも、「各個人が譲れないものとして持っている考え方」という意味合い)に関わるような問題である。

 何かを覚えなければ、何かを考えることはできない。これは自明のことである。例えば、地球温暖化の問題に関わるには、前提として地球温暖化が起こる科学的メカニズムや、そのメカニズムと関連する人間の経済・社会活動などに関する客観的な知識が必要となる。その上で、各国が現在どのような立場を取っているのか、各国はどのような政策を打ち出そうとしているのか、日本はどうするべきなのか、私達個人はどうするべきなのか、などといった論点について考えることになる。これらの論点は、各ステークホルダーの政治・文化的背景や倫理観、価値基準などの主観的な側面を踏まえた上で考察することが求められる。

 「覚える力」と「考える力」の両方が相まって、その人らしい価値が発揮され、成果が上がる。これこそが「個性」である。仮に皆が同じ問題に取り組んだとしても、客観的な知識や情報を相互に関連づけ、そこに個人の主観的な価値判断を加えることで、他者とは一味違う解にたどり着くことができる。

 もっとも、実際に成果を上げるのは社会人になってからで十分である。先ほどの地球温暖化の問題で言えば、子供たちが解決策を実行することにはどうしても限界がある。だが、「覚える力」と「考える力」を養う学習素材としては、学校でも十分に扱える事例である。学校教育は「覚える力」と「考える力」を訓練することが第一目的だと私は思う。

 ゆとり教育は「覚える力」と「考える力」のどちらも中途半端にしてしまったように映る。詰め込み教育の反動で学習内容が大幅にカットされたことにより、「覚える力」を鍛える機会が失われてしまった。また、「考える力」も本来それを身につけるための時間とされる「総合学習」の位置づけが曖昧なために、学校の現場でどのように扱われているのか不明である。

 「考える力」を育てる素材は、何も世の中の時事問題でなければいけないというわけではない。「クラスの皆が決められた係の仕事をきちんとこなすためにはどうすればよいか?」、「クラス対抗の運動会で勝つためにはどうすればよいか?」といった、クラス運営に関わる身近な問題でもよい。要は「社会性」に絡むことであればどんなことでも題材にできる。なぜならば、様々な価値観を持つ人が集まる社会では、必ず何らかの主観的対立に直面するからだ。

 ところが、今はこうしたクラス行事も削減される傾向にある。「覚える力」と「考える力」両方の土台が揺らいでいるのだ。それなのに、「個性が大事だ」と一丁前に叫んで、軟弱な土台の上に個性を無理やり乗せようとしている。挙句の果てには、「できないのも個性だ」などという訳の解らない主張までまかり通るようになる。もし企業が顧客に対して欠陥品を渡しておきながら、「欠陥があるのも当社の個性なんです」などと言おうものなら、どんなバッシングを受けることか?しかしながら、どうも教育の世界はビジネスとは違う論理で動いているらしい。