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新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
August 10, 2005
知識労働者の家庭と自己啓発のためにも、労働時間の規制は必要
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労働基準法第32条2項では「使用者は、1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。」と規定されています。
工場などでの肉体労働が主流だった時代においては、使用者からの不当な労働力搾取の防止と、労働者の健康保護が目的でした。
現代は肉体労働者に代わって知識労働者が主流となりましたが、知識労働者もその労働の特質を考えれば、1日8時間労働の規制がなお有効であるということは昨日も述べました。
これに加えて、労働時間規制を維持すべき理由が2つあります。
一つは家族の機能維持のために、労働者を家庭に帰すべきであるということです。
家事や育児など、家庭における諸々の仕事を男女で分担するのが理想とされる時代です。女性が社会でさらに活躍するならばなおさらです。男女が家事を分担するためには、夫婦の双方が一定の時間家庭にいなければ話になりません。
企業は労働力だけを欲しがる強欲を抑えなければなりません。家族の安定が、その労働者の活力の源になるのです。
そしてもう一つは、知識労働者が新たな知識を習得するために学習をし、教育を受ける時間を確保する必要があるということです。
知識労働者は仕事のために新たな知識を定期的に習得する必要があります。仕事をしていれば必要な知識はすべて身に付けることができると考えている経営者もいますが、それでは不十分です。企業は学校にはなれません。企業の使命と学校の使命は決定的に異なります。
現実世界に正しく適用できる知識は体系的に獲得する必要があります。しかし、企業は知識を体系的に提供する組織ではありません。それは企業にはできません。知識を体系的に学ぶ最も効果的な場は、いつでも企業の外にあるのです。
企業は、知識労働者が企業外の学習・教育の場に踏み込むことを是認すべきです。もし社内の学習と社外の学習をバランスよく組み合わせることができたならば、彼らが外から持ってきた新しい知識で、十分に企業に報いてくれるはずです。
工場などでの肉体労働が主流だった時代においては、使用者からの不当な労働力搾取の防止と、労働者の健康保護が目的でした。
現代は肉体労働者に代わって知識労働者が主流となりましたが、知識労働者もその労働の特質を考えれば、1日8時間労働の規制がなお有効であるということは昨日も述べました。
これに加えて、労働時間規制を維持すべき理由が2つあります。
一つは家族の機能維持のために、労働者を家庭に帰すべきであるということです。
家事や育児など、家庭における諸々の仕事を男女で分担するのが理想とされる時代です。女性が社会でさらに活躍するならばなおさらです。男女が家事を分担するためには、夫婦の双方が一定の時間家庭にいなければ話になりません。
企業は労働力だけを欲しがる強欲を抑えなければなりません。家族の安定が、その労働者の活力の源になるのです。
そしてもう一つは、知識労働者が新たな知識を習得するために学習をし、教育を受ける時間を確保する必要があるということです。
知識労働者は仕事のために新たな知識を定期的に習得する必要があります。仕事をしていれば必要な知識はすべて身に付けることができると考えている経営者もいますが、それでは不十分です。企業は学校にはなれません。企業の使命と学校の使命は決定的に異なります。
現実世界に正しく適用できる知識は体系的に獲得する必要があります。しかし、企業は知識を体系的に提供する組織ではありません。それは企業にはできません。知識を体系的に学ぶ最も効果的な場は、いつでも企業の外にあるのです。
企業は、知識労働者が企業外の学習・教育の場に踏み込むことを是認すべきです。もし社内の学習と社外の学習をバランスよく組み合わせることができたならば、彼らが外から持ってきた新しい知識で、十分に企業に報いてくれるはずです。
《2012年5月16日追記》
以上に加えて、労働時間規制の必要性をもう1つ挙げるならば、それは「企業側に知識労働者の生産性向上の知恵を絞らせるため」であろう。もっとも、労働基準法は労働者の権利を守るためのものであって、企業の経済的な成果を拡大するためのものではないから、こうした目的のために法律を制定することは非現実的なわけだが・・・。
知識労働者は肉体労働者と異なり、成果の量が労働時間に比例しない。そのため、ちょっと油断すると、知識労働者は成果が出るまでいつまでもだらだらと仕事を続けてしまう(企業側も、裁量労働制の導入などによって、返ってこうした事態を助長している)。知識労働者の仕事は肉体労働と異なり、多種多様で非定型的な要素が多いため、IE(インダストリアル・エンジニアリング)のような手法で生産性を改善するのが難しい。だから、いっそのこと最初から勤務時間の枠をはめることで、強制的にその時間内で仕事を完遂するように動機づけるのである。
人間は制約を与えられると、その範囲内で何とかやりくりしようとする性質がある。例えが悪いけれども、昔テレビ朝日で放送されていた『銭形金太郎』には、極度の低収入で貧乏生活を送っている人が登場し、常識では考えられないような方法で日々の暮らしを乗り切っている様子が紹介されていた。金銭的な制約が、ユニークな生活の知恵を生み出すのである。
一部の企業は、残業禁止制度を導入して、社員の生産性向上に努めている(定時になるとオフィスの照明が消えて、強制的に帰宅させられる、など)。また、長時間労働が当たり前になっているコンサルティング業界でも、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)が似たような労働時間の規制を実施したことがあった。具体的には、プロジェクトメンバーは必ず所定の日数だけ休暇を取得することをルール化したのである。その結果、プロジェクトの生産性は以前よりも改善されたという(以前の記事「前提をあえてひっくり返してみよう(2)−『逆転の思考 ステレオタイプを排す(DHBR2010年3月号)』」を参照)。
以上に加えて、労働時間規制の必要性をもう1つ挙げるならば、それは「企業側に知識労働者の生産性向上の知恵を絞らせるため」であろう。もっとも、労働基準法は労働者の権利を守るためのものであって、企業の経済的な成果を拡大するためのものではないから、こうした目的のために法律を制定することは非現実的なわけだが・・・。
知識労働者は肉体労働者と異なり、成果の量が労働時間に比例しない。そのため、ちょっと油断すると、知識労働者は成果が出るまでいつまでもだらだらと仕事を続けてしまう(企業側も、裁量労働制の導入などによって、返ってこうした事態を助長している)。知識労働者の仕事は肉体労働と異なり、多種多様で非定型的な要素が多いため、IE(インダストリアル・エンジニアリング)のような手法で生産性を改善するのが難しい。だから、いっそのこと最初から勤務時間の枠をはめることで、強制的にその時間内で仕事を完遂するように動機づけるのである。
人間は制約を与えられると、その範囲内で何とかやりくりしようとする性質がある。例えが悪いけれども、昔テレビ朝日で放送されていた『銭形金太郎』には、極度の低収入で貧乏生活を送っている人が登場し、常識では考えられないような方法で日々の暮らしを乗り切っている様子が紹介されていた。金銭的な制約が、ユニークな生活の知恵を生み出すのである。
一部の企業は、残業禁止制度を導入して、社員の生産性向上に努めている(定時になるとオフィスの照明が消えて、強制的に帰宅させられる、など)。また、長時間労働が当たり前になっているコンサルティング業界でも、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)が似たような労働時間の規制を実施したことがあった。具体的には、プロジェクトメンバーは必ず所定の日数だけ休暇を取得することをルール化したのである。その結果、プロジェクトの生産性は以前よりも改善されたという(以前の記事「前提をあえてひっくり返してみよう(2)−『逆転の思考 ステレオタイプを排す(DHBR2010年3月号)』」を参照)。
August 09, 2005
裁量労働制の問題〜知識労働者の「裁量」は、法律が想定するよりも実は狭い
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7月下旬に裁量労働制について何度か言及しましたが、もう一度この制度について私なりの見解を書きたいと思います。
裁量労働制には、システムコンサルタント、プロデューサー、公認会計士、弁護士、建築士などの専門的業務を対象とした「専門業務型裁量労働制」と、経営企画担当部署や財務・経理担当部署など「事業運営上の重要な決定が行われる事業場」において行われる業務を対象とした「企画業務型裁量労働制」の2種類があります。
いずれの業務も、「当該業務の性質上これを適切に遂行するにはその遂行の方法を大幅に労働者の裁量にゆだねる必要があるため、当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をすることが困難な業務/指示をしない業務」であるという点で共通しています。
裁量労働制はいわゆるホワイトカラーの業務形態に即した労働時間規制であるといわれています。労働時間に比例して生産量が増大する肉体労働と異なり、ホワイトカラーの仕事の成果は時間に比例するとは限りません。
これまでの労働法は、賃金は労働者が使用者に提供する労働時間に対する対価であると考えてきました。肉体労働が主流であった時代であれば、使用者は労働者が提供する労働時間の合計から得られる生産量を予測することができたので、こうした賃金の考え方は経営合理性にも適うものでした。(日本の労働基準法が制定された昭和20年代には、1日8時間労働の規定や、割増賃金の規定は、肉体労働に従事しない者には逆に適用すべきではないとの主張も見られました。)
しかしながら、ホワイトカラーの成果は時間で測ることができません。長時間をかけてもわずかな成果しか上げられないこともあります。もし、労働時間に対して賃金を払い続けるならば、使用者はコスト増大と生産性の低下というリスクを負担することになります。
そのため、使用者としては経営の合理性を確保するため、労働時間ではなく、仕事の成果に対して賃金を支払いたいと考えるようになりました。現在の裁量労働制はこのような使用者の希望を担保するための制度なのです。労働者には大幅な裁量を与えるというのは、成果給を正当化するために使用者が労働者に与えたアメであると考えられます。
少なくとも使用者にとっては利点の多い制度であるため、導入を検討している企業も少なくないようです。
しかし、本来であれば、裁量労働制を適用することができる業務はごくごく一部に過ぎないはずなのです。
知識労働者(ここからはこの言葉を使わせてもらいます。ホワイトカラーは知識を適用して仕事を行う知識労働者です。ホワイトカラーというとどうしても階級という社会的身分を想像してしまうので、私はあまり使いたくありません。)の特質については以前に言及したことがあります。
知識労働の生産管理は製造現場の生産管理に比べて不十分
知識労働者の大半はチームで仕事をします。チーム内ではそれぞれ知識労働者の役割が明確にされ、それぞれが専門とする分野に携わることになります。しかし、彼らは完全に独立したアクターとして行動するわけではありません。チームである以上、仕事は相互依存の関係にあるのです。
細部の仕事については時間配分や仕事の方法を知識労働者個人で決定することも可能です。しかし、全体の業務に関しては、チームのルール、方針、方法に従わなければなりません。そこには、裁量労働制が要件とするような、個々のメンバーの裁量は認められません。
チームである以上、チームや他の知識労働者に時間的その他諸々の点で制約を受けるという事態も十分に想定されます。これは、肉体労働の時代となんら変わりありません。賃金は労働時間に対して支払うという考え方は現代でも十分に通用します。
裁量労働制が適用されるのは、仕事が非常に少人数で完結する場合でしかありえません。法律が規定する特定の業務に従事する知識労働者のうちでもほんの一握りしか該当しないでしょう。(奇跡的に仕事フリークが集まったチームならば別でしょうが…)
裁量労働制を採用するためには、所轄の労働基準監督署への届出が必要ですが、監督署では、本当に労働者に大幅な裁量が認められているかどうかといった業務の実態まで調べることはありません。届出にある業務が法律に列挙されているものに該当するかどうかの形式的な審査しかしていないのが現状です。
現在、裁量労働制の適用範囲を拡大しようとする動きがある(もちろん使用者側からですが)ようですが、闇雲な拡大運動は、知識労働者の労働に対する経営陣の理解不足を露呈するだけのような気がします。
時間に見合った成果が上がっていないときに、経営者が「もっと長時間働け」というシグナルを発するのは誤りとは言えないが、適切ではありません。
生産性が芳しくないのは、そもそも職務の設計を誤っているか、業務のプロセスが非合理的であるか、不適切な人材を配置してしまったか、業務の遂行に必要な能力の開発が不十分であったか、社内の規則・手続その他の社内環境が業務の障害になっているか、どこかに原因があるからです。症状ではなく、原因に目を向けなければなりません。
知識労働者の仕事を誤解したまま、コスト削減という使用者側の利点だけに目が眩んで裁量労働制を導入しても、生産性向上というメリットは決して得られません。実態に合わない制度は、事態を悪化させる効果しか持たないのです。
裁量労働制には、システムコンサルタント、プロデューサー、公認会計士、弁護士、建築士などの専門的業務を対象とした「専門業務型裁量労働制」と、経営企画担当部署や財務・経理担当部署など「事業運営上の重要な決定が行われる事業場」において行われる業務を対象とした「企画業務型裁量労働制」の2種類があります。
いずれの業務も、「当該業務の性質上これを適切に遂行するにはその遂行の方法を大幅に労働者の裁量にゆだねる必要があるため、当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をすることが困難な業務/指示をしない業務」であるという点で共通しています。
裁量労働制はいわゆるホワイトカラーの業務形態に即した労働時間規制であるといわれています。労働時間に比例して生産量が増大する肉体労働と異なり、ホワイトカラーの仕事の成果は時間に比例するとは限りません。
これまでの労働法は、賃金は労働者が使用者に提供する労働時間に対する対価であると考えてきました。肉体労働が主流であった時代であれば、使用者は労働者が提供する労働時間の合計から得られる生産量を予測することができたので、こうした賃金の考え方は経営合理性にも適うものでした。(日本の労働基準法が制定された昭和20年代には、1日8時間労働の規定や、割増賃金の規定は、肉体労働に従事しない者には逆に適用すべきではないとの主張も見られました。)
しかしながら、ホワイトカラーの成果は時間で測ることができません。長時間をかけてもわずかな成果しか上げられないこともあります。もし、労働時間に対して賃金を払い続けるならば、使用者はコスト増大と生産性の低下というリスクを負担することになります。
そのため、使用者としては経営の合理性を確保するため、労働時間ではなく、仕事の成果に対して賃金を支払いたいと考えるようになりました。現在の裁量労働制はこのような使用者の希望を担保するための制度なのです。労働者には大幅な裁量を与えるというのは、成果給を正当化するために使用者が労働者に与えたアメであると考えられます。
少なくとも使用者にとっては利点の多い制度であるため、導入を検討している企業も少なくないようです。
しかし、本来であれば、裁量労働制を適用することができる業務はごくごく一部に過ぎないはずなのです。
知識労働者(ここからはこの言葉を使わせてもらいます。ホワイトカラーは知識を適用して仕事を行う知識労働者です。ホワイトカラーというとどうしても階級という社会的身分を想像してしまうので、私はあまり使いたくありません。)の特質については以前に言及したことがあります。
知識労働の生産管理は製造現場の生産管理に比べて不十分
知識労働者の大半はチームで仕事をします。チーム内ではそれぞれ知識労働者の役割が明確にされ、それぞれが専門とする分野に携わることになります。しかし、彼らは完全に独立したアクターとして行動するわけではありません。チームである以上、仕事は相互依存の関係にあるのです。
細部の仕事については時間配分や仕事の方法を知識労働者個人で決定することも可能です。しかし、全体の業務に関しては、チームのルール、方針、方法に従わなければなりません。そこには、裁量労働制が要件とするような、個々のメンバーの裁量は認められません。
チームである以上、チームや他の知識労働者に時間的その他諸々の点で制約を受けるという事態も十分に想定されます。これは、肉体労働の時代となんら変わりありません。賃金は労働時間に対して支払うという考え方は現代でも十分に通用します。
裁量労働制が適用されるのは、仕事が非常に少人数で完結する場合でしかありえません。法律が規定する特定の業務に従事する知識労働者のうちでもほんの一握りしか該当しないでしょう。(奇跡的に仕事フリークが集まったチームならば別でしょうが…)
裁量労働制を採用するためには、所轄の労働基準監督署への届出が必要ですが、監督署では、本当に労働者に大幅な裁量が認められているかどうかといった業務の実態まで調べることはありません。届出にある業務が法律に列挙されているものに該当するかどうかの形式的な審査しかしていないのが現状です。
現在、裁量労働制の適用範囲を拡大しようとする動きがある(もちろん使用者側からですが)ようですが、闇雲な拡大運動は、知識労働者の労働に対する経営陣の理解不足を露呈するだけのような気がします。
時間に見合った成果が上がっていないときに、経営者が「もっと長時間働け」というシグナルを発するのは誤りとは言えないが、適切ではありません。
生産性が芳しくないのは、そもそも職務の設計を誤っているか、業務のプロセスが非合理的であるか、不適切な人材を配置してしまったか、業務の遂行に必要な能力の開発が不十分であったか、社内の規則・手続その他の社内環境が業務の障害になっているか、どこかに原因があるからです。症状ではなく、原因に目を向けなければなりません。
知識労働者の仕事を誤解したまま、コスト削減という使用者側の利点だけに目が眩んで裁量労働制を導入しても、生産性向上というメリットは決して得られません。実態に合わない制度は、事態を悪化させる効果しか持たないのです。
July 09, 2005
知識労働者を主体とする組織社会の4つの前提
拍手してくれたら嬉しいな⇒
時々「日本の組織社会が崩壊した」と言われることがありますが、日本から組織社会は全く消えていません。むしろますます多くの人々が何らかの組織の一員として仕事をするようになっています。「日本の組織社会が崩壊した」のではなく、正確には「日本の組織社会から、かつての家族主義的、コミュニティー的要素が消え去った」のです。
日本の組織社会はこれからさらに重要になります。しかし、その性質はこれまでのものとは全く異なるものになるでしょう。
(1)これからの組織の適正規模は非常に小規模になる。
かつての組織が必要としていた資本は土地や工場、機械などの設備でした。それらの資本には、いわば規模の経済性が働きました。資本が多ければ多いほど、コストを減少させ、収穫を逓増させることができました。スケールメリットを求めて、企業はどんどん規模を拡大していったのです。
しかし、現代の組織が立脚しているのは知識という資本です。知識には規模の経済性が働きません。規模の経済性が働くためには、追加した資本が既存の資本と同一の生産活動をしなければなりません。しかし、知識集約的な労働においては、隣の知識労働者はいつも自分とは異なる分野に取り組み、異なる成果を作り出しています。それぞれの知識労働者が生み出した成果をさらに集約することによって、組織の成果を産出するのです。
求められるのは大規模な組織ではなく、深い専門性を擁した知識労働者と、彼らが容易に結束することができるだけの機敏性、小回り性、機動性を備えた組織なのです。そうした組織は自ずと小規模にならざるを得ません。具体的には、(産業によって異なりますが)数十人単位の組織になると思います。
(2)組織は限定された明確な目的のために存在し、その目的の達成に全総力を注ぎ込むことになる。
小規模の組織が専門的な労働者を抱える場合、最も優れた成果をあげようとするならば、組織の目標は限定されていなければなりません。欲を出して多少でも目的を広く設定しようとするならば、すぐに組織のキャパシティーを超えてしまいます。
そして目的を設定したならば、あとは組織の強みを生かして、目的の達成のために総力をかけて活動をすることが求められるのです。それが、知識労働者を動機づける最良の方法です。余計な回り道や停滞は、知識労働者の性格に反します。
(3)これからの組織は、規模が小さいにもかかわらず、大きな市場と数多くの強力な競合を相手に競争をしなければならなくなる。
人的規模が小さいことは、その組織が向き合っている市場の規模も小さいということを必ずしも意味しません。むしろ、知識資本にとっての脅威はあらゆるところからやってきます。組織が競争優位を保っていると思っていた知識が、明日にも陳腐化する可能性は十分にあるのです。
これからの組織が直面している市場は、かつての産業構造論が論じたような市場の定義よりも、はるかに広範囲を対象としたものでなければならないのです。戦略論で言うところのドメインの設定は、より慎重でなければなりません。
(4)知識労働者に成長の場を提供し、彼らの生きがいの獲得や自己実現を手助けすることができない組織は、労働市場において淘汰される。
これはかつてなら考えられなかったことです。組織が淘汰されるのは、常に顧客の市場においてでした。顧客に優れた価値を提供することができない組織は、顧客の市場からの退出を余儀なくされました。
一方、労働市場においては、組織は労働者よりも優位性を常に保ってきました。組織が労働者を選別し続けてきたのです。失業者の大半は、組織から不要とされた人々でした。
しかし、知識労働者は組織を選別します。自らの成長を実現することができる組織を捜します。かつては「この組織では自己実現ができるか」という問いすら発することを許されなかったのですが、今ならこの問いに関する情報を手に入れることができるのです。労働市場における優劣の関係が逆転しつつあります。知識労働者が望む雇用環境を提供できない組織は、労働市場から退出を命じられるのです。
日本の組織社会はこれからさらに重要になります。しかし、その性質はこれまでのものとは全く異なるものになるでしょう。
(1)これからの組織の適正規模は非常に小規模になる。
かつての組織が必要としていた資本は土地や工場、機械などの設備でした。それらの資本には、いわば規模の経済性が働きました。資本が多ければ多いほど、コストを減少させ、収穫を逓増させることができました。スケールメリットを求めて、企業はどんどん規模を拡大していったのです。
しかし、現代の組織が立脚しているのは知識という資本です。知識には規模の経済性が働きません。規模の経済性が働くためには、追加した資本が既存の資本と同一の生産活動をしなければなりません。しかし、知識集約的な労働においては、隣の知識労働者はいつも自分とは異なる分野に取り組み、異なる成果を作り出しています。それぞれの知識労働者が生み出した成果をさらに集約することによって、組織の成果を産出するのです。
求められるのは大規模な組織ではなく、深い専門性を擁した知識労働者と、彼らが容易に結束することができるだけの機敏性、小回り性、機動性を備えた組織なのです。そうした組織は自ずと小規模にならざるを得ません。具体的には、(産業によって異なりますが)数十人単位の組織になると思います。
(2)組織は限定された明確な目的のために存在し、その目的の達成に全総力を注ぎ込むことになる。
小規模の組織が専門的な労働者を抱える場合、最も優れた成果をあげようとするならば、組織の目標は限定されていなければなりません。欲を出して多少でも目的を広く設定しようとするならば、すぐに組織のキャパシティーを超えてしまいます。
そして目的を設定したならば、あとは組織の強みを生かして、目的の達成のために総力をかけて活動をすることが求められるのです。それが、知識労働者を動機づける最良の方法です。余計な回り道や停滞は、知識労働者の性格に反します。
(3)これからの組織は、規模が小さいにもかかわらず、大きな市場と数多くの強力な競合を相手に競争をしなければならなくなる。
人的規模が小さいことは、その組織が向き合っている市場の規模も小さいということを必ずしも意味しません。むしろ、知識資本にとっての脅威はあらゆるところからやってきます。組織が競争優位を保っていると思っていた知識が、明日にも陳腐化する可能性は十分にあるのです。
これからの組織が直面している市場は、かつての産業構造論が論じたような市場の定義よりも、はるかに広範囲を対象としたものでなければならないのです。戦略論で言うところのドメインの設定は、より慎重でなければなりません。
(4)知識労働者に成長の場を提供し、彼らの生きがいの獲得や自己実現を手助けすることができない組織は、労働市場において淘汰される。
これはかつてなら考えられなかったことです。組織が淘汰されるのは、常に顧客の市場においてでした。顧客に優れた価値を提供することができない組織は、顧客の市場からの退出を余儀なくされました。
一方、労働市場においては、組織は労働者よりも優位性を常に保ってきました。組織が労働者を選別し続けてきたのです。失業者の大半は、組織から不要とされた人々でした。
しかし、知識労働者は組織を選別します。自らの成長を実現することができる組織を捜します。かつては「この組織では自己実現ができるか」という問いすら発することを許されなかったのですが、今ならこの問いに関する情報を手に入れることができるのです。労働市場における優劣の関係が逆転しつつあります。知識労働者が望む雇用環境を提供できない組織は、労働市場から退出を命じられるのです。