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March 24, 2012

ルーズリーフでメモを取る上司に不信を抱くグルジア人部下の話、他―『絆の経営(DHBR2012年4月号)』

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Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 04月号 [雑誌]Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 04月号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2012-03-10

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 DHBR2012年4月号のレビュー最終回。1週間、この雑誌だけで引っ張ってしまいました(苦笑)。

「スティーブ・ジョブズ」はいらない イノベーション・カタリスト(ロジャー・L・マーティン)
 インテュイットでは、<パワーポイント>のプレゼンテーションに基づいて意思決定を下していた。そこで管理職たちは、(みずからが考えるところの)優れた製品を開発するだけでなく、上司にコンセプトを売り込むために優れたプレゼンテーション・スキルを身につける必要があった。同社では、このようなシステムの下、アイデアの良し悪しは管理職たちが判断し、これを顧客に販売していた。

 それゆえ、D4D(※「Design for Delight:顧客を感動させるデザイン」と呼ばれる同社のプログラム)の重要な役割の1つが、管理職たちの間に見られるプレゼンテーション重視の傾向を転換させることであった。(経営陣の)ハンソンとクックは、実験を通じてみずから顧客に学ぶほうがよほど効果的であると考えていた。
 アメリカのIT企業であるインテュイット社(※ちなみに、中堅・中小企業向けの会計ソフトで有名な弥生株式会社は、この会社からMBOして独立した企業である)がどのように新製品開発の方法を転換したか?を紹介した論文。一言で言ってしまえば、企画書ベースから実験ベースに移行したということに尽きる。同社では以下の3つのプログラムによって、”顧客密着型”の製品開発を実現している。
(1)ペインストーム(問題の発見)
 顧客の望むところを社内であれこれ想像するのではなく、実顧客の職場や自宅に出向き、直接話を聞き、その行動を観察する。そして、顧客の抱える「ペイン・ポイント」(悩みの種)を見出す。

(2)ソル・ジャム(問題の解決)
 あぶり出されたペイン・ポイントに対処するために、製品やサービスのソリューションのためのコンセプトを思いつく限り並べ上げ、取捨選択した上で、プロトタイピングやテストに備えてリスト化する。プロトタイピングの初期段階では、これら潜在価値の高いソリューションがインテュイットのソフトウエア開発プロセスに組み込まれた。

(3)コード・ジャム(ソース・コードの作成)
 ソル・ジャムから2週間以内に、完璧でなくともよいから顧客に渡せるようなソース・コードを書く。これにより、ペインストリームに始まり新製品に関する最初のユーザー・フィードバックに至るまで、通常4週間で足りることになる。
 個人的には、3つの取り組みはそれほど目新しいものではないという感じだった。顧客の行動を観察しながら潜在ニーズを発掘し、それを新製品へとつなげていく手法は「エスノグラフィー・マーケティング」と呼ばれており、このブログでも何度か取り上げてきた。

 顧客のことは顧客でも解らないことがある−『マーケティングこそすべて(DHBR2010年10月号)』
 P&Gが顧客(=ボス)との距離を極限まで縮めるためにやっていること―『ゲームの変革者』
 今月号はインド企業の事例がいっぱい―『ビジネスモデル 構想と決断(DHBR2011年8月号)』

 なお、論文のタイトルに「イノベーション・カタリスト」とあるものの、インテュイット社の事例は、既存の製品を改善して、既存市場におけるシェアや収益を上げていく「マーケティング」を指しているのか、顧客価値をドラスティックに再定義して、新市場や新しいビジネスモデルを創出する「イノベーション」を指しているのか判然としない。イノベーションに関しては、前述のリンクと以下のリンクで触れているように、P&Gの仕組みの方がはるかに進んでいると感じる。

 柔らかいアイデアの段階で予算をつける勇気がイノベーションのカギ―『ゲームの変革者』
 イノベーションを既存事業部門から敢えて切り離さないP&G―『ゲームの変革者』
 P&Gは”イノベーションは結果が出ればOK”という柔な評価で済まさない―『ゲームの変革者』

 P&Gの仕組みで一番すごいと思ったのは、「柔らかいアイデア創成の段階でも予算がつく」という点である。通常の企業では、アイデアを生み出す段階で予算がつくなどというのは、最初から一定の予算が確保されているR&D部門を除けば、ほとんどないだろう(R&D部門と言えども、新製品につながりやすい応用研究から優先的に予算が割り当てられ、基礎研究は後回しにされることが多いと聞く)。アイデアは社員が空き時間をうまくやりくりしてまとめられ、社内の提案制度などを活用して上層部に上げられる。そして、上層部にアイデアが承認されて初めて予算がつくものだ。

 一例を挙げると、サイバーエージェントが新規事業の継続的な創出を目的として開催している「あした会議」は、まさにこうしたプロセスをたどる。新規事業の構想段階では、予算は出ない。役員、管理職、現場社員など多様なメンバーで構成される戦略立案チームは、忙しい業務時間の合間を縫って企画を考える。晴れて予算がつくのは、「あした会議」のプレゼンで経営陣のGOサインが出た企画のみである。

 ところが、今月号の巻頭コラムを読んでいたら、非常に興味深いくだりがあった。
 基礎研究に1000億円を投資する場合、大型プロジェクトに全額投資するのと、1000人に1万人ずつ配分するのとでは、どちらがイノベーションの創成に貢献するかという議論がある。この時、ノーベル賞を受賞した研究の多くが、後者のプロセスを経て成功したことが忘れられがちである。将来的な研究成果が不明という理由だけで、リスクを取らずに投資の可否を決めては、大きく開花するかもしれない千載一遇のイノベーションを摘み取ることになりかねない。
(安西祐一郎「科学技術の未来」)
 つまり、柔らかいアイデアの段階で、少額でもいいから予算をつけると、イノベーションの確率が上がるというのである。この意味でも、P&Gの仕組みは非常に高度化されていると改めて感じた。

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あなたのコラボレーション・スキルを診断する 部門横断的に巻き込み高業績を実現する力(ハーミニア・イバーラ、モルテン・T・ハンセン)

 多くの企業で部門横断的な取り組みが増えている現在、社員には高いコラボレーション・スキルが要求される。著者によると、コラボレーションに優れた人材は、(1)「コネクター」(※マルコム・グラッドウェルが『ティッピング・ポイント』の中で用いた言葉で、様々な社会と結びついている人々のこと)の役割を果たす、(2)様々な人材と関係を作る、(3)トップがコラボレーションの範を垂れる、(4)チームが泥沼の論争に陥らないために強力な影響力を発揮する、という4つの能力を持っているという。

 この4つのスキルは、「まぁ、そりゃそうだよな」という感じだし、論文をさらっと読むと、「顔が広い」つまり、部門や職位、職種、経験の枠を超えて、幅広く人々とリレーションを構築することがコラボレーションのカギであるかのような印象を受ける。しかし、よく読めば、2点ほど注意すべき点があると私は思った。1つ目の注意点は、次の引用文に出てくる。
 コネクターの重要性は、知り合いの数の多さによって説明することはできない。むしろ、普通ならば遭遇することのない人々やアイデア、資源などを結びつける能力にある。ビジネスの世界では、コネクターはコラボレーションに棹差す役割を果たす。(※太字は私がつけた)
 当たり前だけれども、重要なのは人脈の「数」ではなく「質」である。この点は、『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2012年2月号の論文「数だけが重要ではない ハイ・パフォーマーの人脈投資法」(ロブ・クロス、ロバート・トーマス)でも指摘されている(以前の記事「自分を鍛える人脈 自分をダメにする人脈―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』」を参照)。コラボレーションのポイントは、「いかに知り合いを増やすか?」という交友術めいたものではなく、「コラボレーションの目的を達成するために、どのようなタイプの人材と組む必要があるか?」を見極める眼である。

 これは単に、自分が知らない領域や、自分に足りない能力を補ってくれる人材を特定することにとどまらず、意見の偏りやリスクの過小評価を避けるために、コラボレーションに否定的な人を敢えて最初から入れることや、コラボレーションの結果として生まれた新しい施策が現場でスムーズに実行されるよう、現場の社員(特に、いわゆる「2:6:2の原則」で言うところの「6」に該当する”普通の社員”)を早い段階で巻き込むことなども含まれると私は考える。

 もう1つの注意点は、次の引用文に潜んでいる。
 チームの活気が失われないように、コラボレーション・リーダーは定期的に新しい人材を招き入れる。コラボレーションをより活性化させる具体的な方法として、Y世代(70年代中頃から2000年代初期の生まれで、オンラインで知識や意見を共有しながら成長してきた人たち)の社員を採用することが挙げられる。実際、リーダー企業の多くが、Y世代のアイデアや視点を活用する技術を活用している。(※同じく、太字は私がつけた)
 確か、GEがeビジネスへの参入を検討した際、当時のジャック・ウェルチCEOはITのことが全く解らなかったので、ITに詳しい20代社員を自分のメンターに指名して、メンターからITのことを学びながらeビジネスを構想したという話を聞いたことがある。チームに新しい視点を取り入れるためには、チームの新陳代謝を促すとよいとしばしば言われる。ところが、そのペースが速すぎると、メンバー間の信頼関係が十分に構築されず、アイデア創出云々かんぬん以前の問題として、日常業務において重大なミスを犯しやすくなると指摘する論者もいる。

 『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2009年9月号の論文「心理学の調査が教える チームワークの嘘」(J・リチャード・ハックマン)によると、アメリカ国家運輸安全委員会(NTSB:National Transportation Safety Board)のNTSBのデータベースに登録されている飛行機事故の73%が、乗務員たちが初顔合わせした日に発生しているそうだ(過去の記事「何でもコラボすりゃいいってもんじゃないんだよ(後半)−『信頼学(DHBR2009年9月号)』」を参照)。

 もっとも、ハックマンもチームメンバーの固定化をよしとしているわけではない。ハックマンが言及しているR&Dチームに関する研究によると、創造性と新しい視点を失わないために、新しい人材を投入することの有効性が示されているという。ただし、その投入ペースは「3〜4年ごとに1人という緩やかなペースである」という。先ほどの引用文で私が太字にしたように、新しい人材は「定期的に」投入しなければならない。このペースを見極めることも、コラボレーション・スキルの重要な一部をなしているように思える。

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現場の自発的関与を促す6つの原則 「依存し合う」経営(ハラランボス・A・ブラフチコス)

 著者が長年に渡り同族企業で経営に携わった経験や、その後のコンサルティングなどから得た、マネジャーが守るべき6つの教訓を紹介した論文。その6つとは、(1)謙虚になる、(2)真摯に耳を傾け、それを部下に知らせる、(3)反対意見を歓迎する、(4)議題の数を絞る、(5)すべて自分で答えを出そうとしない、(6)自分で意思決定することに固執しない、である。著者自身も認めているように、「私が示す教訓は、理論的にはありふれているかもしれない」。ところが、著者が「真の価値は常に細部に宿るものである」と述べているように、よく読むと非常に興味深い箇所があったので、2つほど引用したいと思う。
 私はかつて、グルジアの製粉工場の再建に携わったことがある。私は現地のマネジャーたちを意思決定に巻き込もうと努めたが、彼らは私が提案した変革に抵抗を示していた。そこで、最も不満を持っていたマネジャーの1人と、話し合いの場を持った。自分の提案に私が耳を傾けようとしていないと、彼は主張した。

 「でも、私はすべての会議の細かなメモを取ってきました。あなたもご存知でしょう」と、私は告げた。「たしかにあなたが書き留めているのは見ましたが、ルーズリーフを使っていたので、後できっと捨ててしまうでしょう。私たちの意見を真剣に受け止めているなら、私が使っているような綴じノートを使うはずです」と、彼は答えた。
 この部下は、ノートの形式で「私の上司は本当に自分の話を聞いているのか?」を判断しているのが印象的であり、意外でもあった。「部下は自分が意識している以上に、自分のことを隅々までよく見ている」ことをマネジャーは知っておいた方がいいのかもしれない。

 もう1つは、共産圏の企業とビジネスをする際の教訓。文化的背景の違いを理解することの重要性を教えてくれる事例であった。
 私が以前、アメリカの大手配送会社から受けた依頼は、ベラルーシの現地スタッフからフィードバックがないという問題を解決することだった。同地域を担当していたフィンランド人マネジャーのペッカは、「どんなに働きかけても、反論はおろか提案すらしてくれません」と、こぼしていた。
 ペッカは、会議で現地スタッフを集めて意見を求めても、誰一人としてうんともすんとも言わないことに不満を感じていた。そこで著者が直接現地に赴き、現場のリーダー格とおぼしき社員と個別に話をしたところ、実に具体的な業務改善案を語ってくれたという。
 3世代も続いた独裁的な共産主義のせいで、だれもすすんで意見を言わなくなったこと、ましてや、上司に反論することなど、個人的に意見を求められない限りありえないことを、私はペッカに説明した。そこで、ペッカは個別に助言を求めることにした。数ヶ月もすると、部下が反対意見を述べるようになったという報告があった。
February 09, 2012

怒りっぽい人が心臓発作に至る過程がリアルで怖かった―『怒りのセルフコントロール』

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怒りのセルフコントロール怒りのセルフコントロール
レッドフォード ウィリアムズ ヴァージニア ウィリアムズ Redford Williams

創元社 1995-05

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 タイトルの通り、本書では怒りをコントロールするための17の方法が紹介されている。著者の2人は名前を見ると解るように夫婦であり、かつ2人とも研究者である。夫のレッドフォードは性格と健康の関係を専門とする医学者、妻のヴァージニアは第1次世界大戦に関する著書などがある歴史学者だそうだ。本書は基本的に夫の研究に基づいているが、面白いことに17のメソッドの中には、夫婦間の危機がきっかけで編み出され、実際に2人で試行されたものも含まれているという。

 アメリカの心臓病学者であるマイヤー・フリードマンとレイ・ローゼンマンは『タイプA―性格と心臓病』の中で、狭心症や心筋梗塞などの心臓疾患になりやすい性格傾向を明らかにし、それをタイプA行動パターンと名づけた。タイプAは、緊張、性急さ、競争心、敵対心などを特徴とする人々である。レッドフォードはタイプAと疾患の関係に関する研究をさらに続け、その結果、タイプAの特徴のうち健康に影響するのはただ一つ、「敵対性」だけであるという結論に達したという。

 その「敵対性」がなぜ心臓疾患につながるのか?そのシナリオが非常に具体的で、読んでいてちょっと怖くなったよ(汗)(『キレないための上手な「怒り方」』にも似たような話が登場するけれど、本書の方がずっとリアル)。簡単にそのシナリオをまとめてみた。
 ・怒りを感じると視床下部が刺激され、神経細胞が副腎にシグナルを送って、アドレナリンとコルチゾールを血中に大量に分泌させる。
 ・アドレナリンは身体を戦闘モードに切り替えるべく、動脈を拡張させて心臓と筋肉に血液を送り込む。
 ・視床下部は交感神経を刺激して、皮膚や腎臓、腸に血液を送る動脈を収縮させる(戦闘モードの時は、食べ物を消化している場合ではないため)。
 ・コルチゾールには、アドレナリンの効果を増幅させる働きがある。さらに視床下部は、副交感神経系の働きを抑制し、これによってアドレナリンの効果を持続させる。
 ・アドレナリン&コルチゾールのタッグで血圧が上昇したことにより、冠状動脈の内膜にある内皮細胞が侵食される。すると、血小板がその傷を治そうと集まってくる。
 ・血小板が分泌する化学物質は、冠状動脈壁の筋肉細胞を動脈内面に移動させ、動脈内で肥大、増殖させる。
 ・血中の細胞群であるマクロファージが冠状動脈の損傷箇所に集まり、傷ついた組織や残骸を飲み込んでいく。
 ・アドレナリンは脂肪細胞にも働きかけ、戦闘に使用するエネルギーを供給するために、脂肪を運動エネルギーに変換する。
 ・しかし、本当に戦闘をするわけではないからエネルギーは過剰となり、余ったエネルギーは肝臓でコレステロールに変えられ、血中に放出される。
 ・血中のコレステロールは、冠状動脈の損傷箇所に溜まっている血小板やマクロファージに吸収されて、泡沫細胞となる。
 ・コレステロールが詰まった泡沫細胞は、怒りを感じるたびに上記のようなプロセスを繰り返して肥大し、冠状動脈を圧迫する。
 ・ある日冠状動脈が完全にふさがれてしまい、心筋梗塞に至る(怖ぇ〜)。
 17のメソッドの詳細はここでは紹介しないが、2人の著者は基本的に、「怒りの大半は大したことではない」という前提に立っているようだ。まず、「敵対性ログ」という方法で、日常生活の中で怒りを感じた出来事を、どんなに些細なことも含めて1つ1つ記録していく。次に、それらの出来事を以下の3つの基準で評価し、本当に重要な怒りのみを絞り込んでいく。
(1)こだわり続ける価値があるほど重要な問題か?
(2)(筆者補記:自分が怒りを感じる)正当な理由はあるか?
(3)(筆者補記:怒りを引き起こした事象に対して)効果的に対処できるか?
 大雑把に言ってしまえば、この3つを全て満たすものだけが真に対応すべき怒りであって、それ以外は早く忘れるか、考えを切り替えるか、相手を許す(!)などした方が、自分の健康のためでもあり、人間関係を円滑にする秘訣だというのが著者の主張である。17のメソッドの9割以上は、「怒りの大半は大したことではない」と思えるようになるためのものだ(それでもまだ怒るだけの正当な理由があり、何かしらの対処法が取れそうな場合は、「主張法」と呼ばれるメソッドを使う。ただし、そのようなケースに有効なメソッドとして著者が挙げているのは、この「主張法」ただ1つだけである)。

 とはいえ、敵対性が強い人=怒りっぽい人(私もそのうちの1人)にとって、(1)(3)はまだ何とかなるかもしれないけれど、(2)が最大の障害になりそうだな。怒っている人は、自分が正しいと思って怒っているのだから、その理由を自分で疑うことは非常に難しいんだよね・・・そんな時には、相手の思考回路にも思いをめぐらせ、相手にも何かしらの事情があるのでは?相手にもそれなりの合理的な理由があるのでは?(こちらから見れば正当な理由に見えなくとも)などと考えるだけでも、怒りが緩和されると著者は述べている。うーん、これは訓練次第だな。

 逆に、前述の3つの基準を満たす重大な怒りは、どのような意味を持つのだろうか?前向きにとらえれば、それはきっと、人生の目的や使命を示唆する怒りなのではないだろうか?(過去の記事「「その課題を解決できるのは自分だけ」という思いが使命感になる―『MBB:思いのマネジメント』(1)(2)」を参照)。

 ものすごく解りやすい例で言うと、マーティン・ルーサー・キングは黒人差別に対して、マハトマ・ガンディーはイギリスの支配に対する大きな怒りを抱いていた。坂本龍馬を始めとする幕末の藩士たちは、旧態依然とした江戸幕府への大きな怒りを、倒幕と開国へのエネルギーへと変換した。

 その倒幕によって生まれた明治政府に対しても、過度な欧化主義によって日本人のアイデンティティが失われることを危惧したジャーナリストたち(陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂など)が、国粋主義の名の下に一生をかけて対抗し続けた。現代に目を向ければ、スティーブ・ジョブズはマイクロソフトへの大きな怒りを感じながら(晩年は、長年の盟友であったグーグルに対しても大きな怒りを向けながら)、アップルを経営した(残念ながら、ジョブズは早世だったが)。大きな怒りはストレスも並大抵ではないものの、「自分の人生の目的が見つかった!!」といった気持ちで、むしろ喜ぶぐらいの方がいいのかもしれない。

 松下幸之助の『指導者の条件』には、西ドイツの首相だったコンラート・アデナウアーの逸話が紹介されている。アデナウアーがアメリカのアイゼンハワー大統領に会った時、人生において重要な3つのことを話したという。1つ目は「人生というものは70歳にして初めて解るものである。だから70歳にならないうちは、本当は人生について語る資格がない」ということ。2つ目は「いくら年をとっても老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということ。そして3つ目が興味深いのだが、「怒りを持たなくてはいけない」というのである。

指導者の条件指導者の条件
松下 幸之助

PHP研究所 2006-02

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 この言葉に関して、松下幸之助は次のように分析している。
 これは、単なる個人的な感情、いわゆる私憤ではないと思う。そうでなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。(中略)第2次世界大戦でどこよりも徹底的に破壊しつくされた西ドイツを、世界一といってもよい堅実な繁栄国家にまで復興再建させたアデナウアーである。その西ドイツの首相として、これは国家国民のためにならないということに対しては、強い怒りを持ってそれにあたったのであろう。占領下にあって西ドイツが、憲法の制定も教育の改革も受け入れないという確固たる自主独立の方針をつらぬいた根底には、首相であるアデナウアーのそうした公憤があったのではないかと思う。
 アデナウアーは91歳で亡くなったので、十分長生きだったと言える。アデナウアーは、首相、しかも敗戦からの復興を目指す首相という重責を担い、大小様々の事柄に怒りを感じてもおかしくない立場にありながら、自分が本当にこだわり続けるだけの価値と正当性がある問題(=要するに、西ドイツ国家のためには許されざる問題)のみにフォーカスをあてる術を身につけていたのであろう。今度はアデナウアーの伝記でも読んでみるかな?
February 06, 2012

前提となる世界観はデヴィッド・ボームの「ダイアローグ」と共通な気が―『怒り(心の炎の静め方)』

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怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

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 相も変わらず「怒り」に関する書籍を読んでいるところ。これまでに紹介した加藤諦三著『どうしても「許せない」人』やクリスティン・デンテマロ他著『キレないための上手な「怒り方」』は、ひとまず相手のことは置いておいて、自分が怒りを感じた時にどう対処するか?という本だったが、今日紹介する本は、双方が怒りを感じている時にどうすればよいか?という本である。そういう意味ではより実践的な本のはずなんだけれども、この本は宗教色が強く(ブッダの教えに立脚している)、読む人を選ぶような気がした。
 内なるブッダに触れるためには、意識的な呼吸や歩行の実践をする必要があります。意識の中にある気づきの種に触れると、顕在意識にブッダが現れ、あなたの怒りを包み込みます。何も心配することなく、ブッダを生かし続けるように呼吸と歩行の実践を続けてください。そうすればすべてがうまくいきます。ブッダは怒りに気づき、受け入れ、和らげ、怒りの本質を深く見つめます。そしてブッダは理解します。この理解が変容をもたらすのです。
 うーん、私は恥ずかしながら仏教に対する理解がないので、こういう話はイメージが難しいな・・・。

 怒りの鎮め方を論じるにあたって、著者は「非二元論」と「相互共存」という2つの原則を拠り所としている。「非二元論」とは、体と心を区別しないことであり、怒りを抱えた心を大事に扱うには、まず体を大切にしなければならないという。仏教では、体と心の形成物を「ナーマルーパ(名色)」と呼ぶそうだ。心に起こることは体にも起こるという考えに基づき、呼吸や歩行、さらには食事を整えることの重要性が強調されている。

 もう1つの「相互共存」(本書を読んだ印象では、こちらの方が重要な気がした)とは、ブッダの言葉を借りれば「人は誰も孤立した存在ではない」ということであり、さらに突き詰めていくと、「私はあなたであり、あなたは私である」といった、人間同士の境界線を取り払う思想に行き着く。

 「相互共存」の原則によれば、「私の怒りは相手の怒り」であり、「私の苦しみは相手の苦しみ」となる。よって、自分が相手に怒りを伝える際には、相手が同じように抱えているであろう怒りにも耳を傾け、尊重しなければならない。端的に言えば、相手を愛さなければならない。しかしここで、「相互共存」の原則に従って、今度は逆に「相手を愛するには、まずは自分を愛する必要がある」という考え方が導かれるのである(この辺りになると、解ったような解らないような、不思議な感覚に襲われる。いや、実際にはよく解っていないのだけれど、汗)。

 「相互共存」の原則は、自分の怒りを相手に伝える際のコミュニケーションに端的に表れている。『キレないための上手な「怒り方」』などでは、効果的な怒りの表現とは、(1)怒りを感じた具体的な状況を特定し、(2)自分がどう感じたのかを率直に表現して、その上で(3)相手の行動をどう改めてほしいのか、要望をストレートに伝えることだとされる。

 これに対して本書の著者は、次の3つの言葉によって相手に怒りを伝えるのが効果的だと述べている。
(1)「私は怒っています。私は苦しんでいます」
 苦しいとき、怒っているときも、あなたの気持ちを相手に伝えなくてはなりません。これが真の愛です。できるだけ穏やかに伝えてください。声に悲しみが表れるかもしれませんが、それは構いません。とにかく相手を罰したり責めたりすることだけは言ってはいけません。「私は怒っています。苦しんでいます。あなたにそれを知ってもらう必要があるのです。」お互いを支え合うという誓いを立てた2人にとって、これは愛の言葉です。

(2)「私は最善を尽くしています」
 これは、あなたが怒りに任せて行動しているのではなく、意識的な呼吸、意識的な歩行を実践し、気づきによって怒りを受け入れようとしていることを意味します。「私は最善を尽くしています」と言うとき、あなたは自分がこれまでに何度も、誤った認識のために怒ってしまったことに気づいています。ですから今、あなたはとても慎重です。自分は相手の言動の犠牲者であると簡単に思い込むべきではないことを知っているからです。自分の中に地獄を創り出していたのは、あなた自身かもしれないのです。

(3)「助けてください」
 3つ目の言葉は自然に後に続くでしょう。これは真の愛の言葉です。相手に腹を立てているとき、「あなたなんて必要ない。私はあなたがいなくても十分やっていけるわ!」と逆のことを言いがちです。でもあなた方はお互いを支え合う誓いを立てました。苦しいとき、たとえ自分で実践の方法を知っていたとしても、相手の協力を必要とするのはとても自然なことです。
 (1)は通常の怒りの表現とほぼ共通しているが、(2)(3)には「相互共存」の思想が色濃く表れている。つまり、自分が怒りを感じた時、これは自分だけの問題ではなく、自分と相手の問題なのであり、お互いの協力による解決を望んでいると相手に訴えているわけである。

 本書を読んでいくうちに、「非二元論」と「相互共存」という2つの原則は、随分前にこのブログで取り上げた物理学者デヴィッド・ボームの『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』と共通している気がした。ボームは「ホログラフィー宇宙モデル」という二重構造の宇宙モデルを提唱し、その一方を「内臓秩序」と名づけた。内臓秩序は、我々が普段認識している世界とは異なり、物質、精神、時間、空間など、この世のあらゆるものが取り込まれ一体となっている世界だ。

 どんなに深刻な問題を抱え、心理的にズタズタに分断された人々であっても、内臓秩序の世界では分離不可能な関係を形成している。我々は、ダイアローグ(対話)を通じて内臓秩序の次元に到達し、諸々の問題を乗り越えて前進することが可能になるとボームは主張する。しかも、内臓秩序の次元に達した人々は、肉体という物理的な境界を超えて、意識のレベルでつながるという。これはまさに、本書の「非二元論」に通じるところがある。

 ただ、『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の書評でも書いたように、ボームのダイアローグ論は、「ダイアローグを根気強く続ければ、自ずと内臓秩序へ昇れる」と言っているような気がして、やや楽観的すぎる印象を受けた(単に私の理解が浅いだけだが・・・)。ディスカッションではなく、敢えてダイアローグを選択しなければならないほど深刻な問題に関わっている人々は、暴発寸前の怒りを抱えているものである(以前の記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」を参照)。その点、本書は怒りを出発点としているから、本当はボームのダイアローグ論よりも実践的なのかもしれない。しかし、冒頭で述べた通り、宗教に対する私の理解不足ゆえに、実践知に落とし込めないのが何とも歯がゆいところだ。