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February 17, 2009

鳥取の公立小学校はどんな平等を目指しているのか?

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 スルーするつもりでいたが、一言ぐらい何か述べておこうと思い直し、記事を起こすことにした。
 「鳥取県の公立小学校が『学級委員長』を無くしたのは、人権団体などから『委員長になれなかった子供が傷つく』『自分にはできないと劣等感が生まれる』などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。また、『差別』の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。」
「鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?」J-CASTニュース、2009年2月12日)
 「小学校でずっと学級委員長を置いてこなかった鳥取県。『リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ』との考えが教員にあり、徒競走でも順位を決めないほどだったが、この春、鳥取市の1校で約20年ぶりに学級委員長が生まれることになった。『横並びでは子どもの主体性が無くなる』という鳥取市教委は、各校に『委員長復活』を推奨している。」
「小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ」asahi.com、2009年2月8日)

中途半端な「結果の平等」
 最初タイトルだけを見た時は、学級委員というポスト自体がないのかと思ったが、どうやら他の委員と同列のポジションとして学級委員は存在し、児童が持ち回りで担当するシステムになっているらしい。いわゆる「結果の平等」を目指しているものと思われる。

 「機会の平等」とか「結果の平等」といった平等論にあまり深入りすると墓穴を掘りそうな気がするので止めておくが、素人目に見ても何とも中途半端な結果の平等だという印象がぬぐえない。なぜなら、授業のテストではちゃんと点数が出るし、体力テストなどでも個人の身体能力の差ははっきりと解る(※)。それなのに、なぜ学級委員や運動会や演劇(引用文にはないが、演劇でも主役を持ち回りで演じることになっている)に限って平等主義を貫こうとするのか?ある面では結果に差が出ることを容認しておきながら、別の面では結果を平等にするというのであれば、その線引きの根拠を明確にする必要がある。人権団体の主張を詳しく知りたいし、その主張を受け入れた教育委員会の論理も気になるところだ。

(※)鳥取県教育委員会は「全国体力テスト」について、2009年度実施分より市町村別・学校別データの開示を前提に実施すると明らかにしている。(「全国体力テスト、市町村別・学校別成績開示前提に実施:鳥取県」

結果の平等は才能を摘む
 鳥取県の教育委員会(というか、背後にいる人権団体)が実現しようとしている結果の平等が中途半端であるという点はさておき、仮に完全な結果の平等が実現されたとしても、いや結果の平等が完全であればあるほど、結果の平等は悪平等をもたらす。なぜなら、本来最も学級委員に向いているはずの児童の活躍シーンがなくなり、本来最も足が速いはずの児童が輝く瞬間は台無しにされ、本来最も主役に向いていたはずの児童の存在感が失われる。また、逆にそれほど学級委員に向いていない児童が学級委員を無理やりやらされ、それほど主役に乗り気でない児童が嫌々主役に仕立て上げられるのも、児童にとっては悲劇である。

 児童にとって、到達可能性のある結果というのは複数存在する。児童は自分の好みや向き・不向きを考えながら、どの結果が最も自分にとって実現可能性が高いかを見極めていく。周りの大人は到達度に関するフィードバックを行いながら、児童が結果にたどり着くのを支援し、時に軌道修正する。こうした相互作用によって、児童は自分の適性を発見していくのである。これは社会に出るうえで重要な訓練である。社会とは、個人の内面的な意思・能力と外部からの評価・判断とがせめぎあいながら、個人が最も力を発揮する位置を与える場である。子供は社会に出る前に、社会での振る舞いを十分に練習する必要がある。その練習場が、学校というリスクの低減された擬似社会なのである。その学校が、結果の平等という名のもとに機械的に結果を配分してしまっては、児童の主体性は抑圧されてしまう。

 結果の平等は、個人の意思とは関係なく何らかの外在的なルールによって自動的に結果を配分する。これはよくよく考えると何とも恐ろしいシステムだ。見かけ上は各個人が平等に結果を享受しているようでも、絶対不可侵の権力によって結果を配分する第三者がシステムを支配しており、個人とその第三者との間には歴然とした格差が存在しているのである。これは果たして平等な状態と言えるのだろうか?
May 29, 2007

東京都の世帯実態調査に対する毎日新聞の解釈に少し突っ込んでみる

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 気づいたら1年ぶりに投稿する記事だった!(大汗)

情報を鵜呑みにせずに、ちょっと思考を挟んでみる
 コンサルティング業務に携わる人に限らず、ビジネスマンであれば、日々さまざまな新聞記事やビジネス雑誌の特集、各種統計資料に目を通している。それらの情報は、大手マスコミが書いているから、有名な人が書いているから、公的な機関の資料だからきっと正しい、と信じたくなるものだが、その気持ちをぐっと堪えて、ちょっと疑いの目で読んでみよう。

 例えば次のような記事。
「東京都が5年ごとに実施する『福祉保健基礎調査』で、年収が500万円未満の世帯が昨年度、初めて5割を超え、81年度の調査開始以来、過去最多となったことが分かった。300万円未満の世帯も全体の3割近くで前回調査より約10ポイント増加していた。雇用機会や賃金で地方より恵まれている首都・東京でも低所得層の増加が顕著になっている実態が浮かんだ。

 調査は昨年11〜12月、無作為に選んだ都内の計6000世帯を対象に実施、3775世帯から回答を得た(回答率63%)。

 それによると、年収500万円未満の世帯は51%で、前回調査(01年)より13ポイント増えた。また、300万円未満の世帯も27%に達し、前回より9.3ポイント増加。2000万円以上は1.6%で前回より1.7ポイント減少、1000万円以上2000万円未満は11.5%で3.2ポイント減るなど、高所得者層は減少傾向だった。

 また、収入源については、28%の世帯が『年金や生活保護』を挙げ、『仕事をしている人がいない』世帯も過去最高の22%に達するなど、厳しい生活実態が垣間見える。」
(2007年5月16日 毎日新聞 ※毎日新聞そのものを批判するつもりは毛頭ありません・・・)

低所得層が増えたのは何故だろう?
 大都市・東京でも、雇用機会や賃金に恵まれず、厳しい生活を送っている人が増えているとでも言いたげな記事である。おそらく「カクサシャカイ」とか「ショトクノニキョクカ」とか、その辺のことを意識した論調にしたかったのだろうが、んー、よく考えてみよう。本当にそこまで言えるだろうか?

 記事の基になった「福祉保健基礎調査」の中身を見てみよう。(http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kikaku/news/presskikaku070412.html)。65歳以上の高齢者のみの世帯の割合が、前回調査の16.6%から21.7%と、5.1%増えている。高齢者の収入源はもっぱら年金。もちろん、定年後再就職する人や、定年後に起業する人も最近は話題になっており、年金以外にそれなりの収入を得ている高齢者もいるかもしれない。しかし、わずか数年でそういった高齢者が爆発的に増えたとは考えにくい。やはり、高齢者の圧倒的大多数は年金暮らしであろう。

 年金の受給額はどのくらいなのだろうか。社会保険庁によると、20年以上厚生年金に加入していた人の平均的な厚生年金受給額は、基礎年金も含めて月16万9000円(さすがにここは社保庁も大きく外していないはずだ)。仮に夫婦がともに厚生年金を受給していれば、年間約400万円の計算になる。しかし、女性の厚生年金加入期間は男性よりも短いのが一般的だし、専業主婦であれば国民年金しか受給できないため、年間の総受給額は実際にはもっと少ないと予想される。また、国民年金しか受給していない世帯であれば、総受給額はぐっと少なくなる。

 このように考えてみると、仮に年金以外の収入があったとしても、高齢者のみの世帯の年間総収入が500万円を超える可能性は低い。よって、年収500万円未満の世帯の割合の増分13%のうち、半分弱は高齢者のみの世帯の増加によって説明ができることになる。高齢者のみの世帯ではないが、主たる収入源が年金である世帯(夫65歳、妻63歳、子供は独立、夫婦は仕事せず、みたいな世帯)も考慮すれば、説明の度合いはさらに高まる。つまり、この調査から、低所得者層の増加は雇用機会や賃金に恵まれない人が増えたためとまで言うのは無理があるのではないだろうか。

 引用記事の最後に書かれている「『仕事をしている人がいない』世帯も過去最高の22%」も、高齢者のみ世帯の増加を考えれば至極当然のことであり、そこだけ見ても何ら有効な示唆は得られない。

「福祉保健基礎調査」そのものの信憑性にも疑いあり?
 こんな記事を書いてしまった毎日新聞は勇み足だったと思うのだが、そもそも東京都福祉保険局が実施した「福祉保健基礎調査」自体が、東京都民の実態を反映していない可能性が高い。一番の問題点は、この調査が訪問面接で行われていることだ。つまり、住民基本台帳から無作為に抽出した6,000世帯に対して(ここまでは問題ない)、調査員が直接訪問し、インタビュー形式で調査を実施しているのである。

 今どき訪問面接で適切なサンプリングができるとは到底思えない。調査員が対象世帯を回るのは日中であろうが、平日ならば働いている人は家にいないし、休日でも家族がどこかに出かけてしまっていればどうしようもない。おまけに、たとえ家に誰かがいたとしても、回答を拒否されてしまえば一巻の終わりである(国勢調査で居留守や回答拒否に悩む調査員が続出した件は記憶に新しい)。実際、この調査で回答が得られた世帯の構成員9,171人の性・年齢階級と、東京都の人口ピラミッドには結構な違いが見られる。前者の方が高齢者の割合が高いのは、日中に自宅にいる確率が、仕事のない高齢者の方が若年層より高いことと無関係ではないだろう。

福祉保健基礎調査の回答世帯員の性・年齢階級
福祉保健基礎調査の回答世帯員の性・年齢階級


東京都の人口ピラミッド(東京都HPより)
東京都の人口ピラミッド

結論
 どんなに権威ある人や機関の記事や資料であるといっても、書いているのは所詮人間であるから間違えることもあるし、場合によっては結論ありきで文章を書いて、数字については後からうまくつじつまを合わせたり、何食わぬそぶりではぐらかしたりしているということもある。頭の体操がてら、こうした文章や数字をちょっと疑いながら読んでみると面白いかもしれない(あまり疑いすぎるのも考え物だが…)。
May 09, 2006

検察官が自白を録音・録画する

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検事取り調べ録音・録画 調書の任意性立証に限定 裁判員制度導入で試行

 平成二十一年五月までに始まる裁判員制度を見すえ、法務・検察当局は九日、検察官による容疑者の取り調べの一部で、録音・録画(可視化)を試行導入することを決めた。東京地検のほか大阪地検でも実施する方向で検討している。導入により、「自白偏重の温床」ともいわれる密室での取り調べの改善につながることも期待される。これまで録音・録画に一切応じなかった捜査当局にとって重大な方針転換となる。

 試行は裁判員制度の対象事件のうち、起訴後の公判で被告人の供述調書の任意性が争点になると予想される場合に限る。一般国民から選ばれる裁判員に分かりやすく客観的に供述調書の任意性を立証することが狙い。現行の刑事裁判では、捜査段階の供述調書と、法廷での被告人質問に食い違いが生じると、調書の任意性が争点として浮上する。法廷では警察・検察による取り調べ・調書作成の過程で暴行や脅迫などがあったかどうかについて証人尋問が繰り返され、審理が不毛に長引くことがある。録音・録画の試行は、裁判員制度の対象事件の中でも「取り調べの機能を損なわない範囲内で相当と認められる部分」に限定。検察官は経験則などから、公判で被告人の供述調書の任意性が争われると予想される事件について適用する。警察の取り調べは対象外。
(5月9日産経新聞より抜粋)

 果たしてこの記事に書かれているような成果が期待できるかどうかはやや疑問です。それは、検察官自身が自白を録音・録画するかしないかを決定するからです。

 自白の任意性が争点となるのは、自白が検察官の暴行や脅迫などによって強要されたものである可能性がある場合です。しかし、被疑者に自白を強要したケースを録音・録画しようとする検察官はいません。いくら検察官が高潔だとしても、自分にとって不利になるようなことをわざわざするはずがないのです。よって、録音・録画される自白は、任意性が争われるべき自白ではなく、ほとんど任意性が問題にならないような自白ばかりになります。

 また、自白の任意性ではなく、録音・録画の任意性という新たな争点が発生する可能性があります。すなわち、被疑者に対して、録音・録画中は任意で自白しているように喋るよう、録音・録画の前に検察官が強要したか否かを争うということです。こうなるとほとんど泥仕合のような審理になってしまい、収拾がつきません。

 問題は、検察官自身が録音・録画の決定権を握っている点にあります。自白の任意性に関して、検察官はチェックを受ける立場にあります。にもかかわらず、チェックを行うのは検察官自身なのです。「外科医と患者は同一であってはならない」という言葉がありますが、自分で自分を治すことはできません(ブラックジャックは何度か自分で自分を手術したことがあるが、天才の腕ですら手術中はびくびくと震えていた。全ての検察官がブラックジャックのように天才であるとは到底考えられない)。

 真にチェック機能を働かせるならば、検察官以外の第三者が対象となる刑事事件、自白を録音・録画すべき取り調べの状況などを決めるべきです。その第三者としては、弁護士も適格ではありません。なぜならば、弁護側は審理をいたずらに長引かせたり、混乱させたりする目的で、過剰に自白の録音・録画を要求する可能性があるからです。また、起訴されていない事件について裁判所が口出しをすることはできないので、裁判官も不適格です。そうなると、最後はやはり法律がその役割を担うしかないように思えます。


《参考URL》
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060509-00000090-kyodo-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060509-00000023-san-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060509-00000057-mai-pol

《追記》 この件についてもっと詳しい情報はないかと検察庁のHPを見てみたが、「お知らせ」のページに次長検事が短いコメントを書いているだけで詳細は解らず。今度は法務省のHPを覗いてみるものの、5月分の定例記者会見はアップされていない(5月9日時点)ため、やっぱり解らない。おまけに法務省のHPはサイト内検索ができず、検索ワードで調べられない。何と不便な…