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February 06, 2012

前提となる世界観はデヴィッド・ボームの「ダイアローグ」と共通な気が―『怒り(心の炎の静め方)』

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怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

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 相も変わらず「怒り」に関する書籍を読んでいるところ。これまでに紹介した加藤諦三著『どうしても「許せない」人』やクリスティン・デンテマロ他著『キレないための上手な「怒り方」』は、ひとまず相手のことは置いておいて、自分が怒りを感じた時にどう対処するか?という本だったが、今日紹介する本は、双方が怒りを感じている時にどうすればよいか?という本である。そういう意味ではより実践的な本のはずなんだけれども、この本は宗教色が強く(ブッダの教えに立脚している)、読む人を選ぶような気がした。
 内なるブッダに触れるためには、意識的な呼吸や歩行の実践をする必要があります。意識の中にある気づきの種に触れると、顕在意識にブッダが現れ、あなたの怒りを包み込みます。何も心配することなく、ブッダを生かし続けるように呼吸と歩行の実践を続けてください。そうすればすべてがうまくいきます。ブッダは怒りに気づき、受け入れ、和らげ、怒りの本質を深く見つめます。そしてブッダは理解します。この理解が変容をもたらすのです。
 うーん、私は恥ずかしながら仏教に対する理解がないので、こういう話はイメージが難しいな・・・。

 怒りの鎮め方を論じるにあたって、著者は「非二元論」と「相互共存」という2つの原則を拠り所としている。「非二元論」とは、体と心を区別しないことであり、怒りを抱えた心を大事に扱うには、まず体を大切にしなければならないという。仏教では、体と心の形成物を「ナーマルーパ(名色)」と呼ぶそうだ。心に起こることは体にも起こるという考えに基づき、呼吸や歩行、さらには食事を整えることの重要性が強調されている。

 もう1つの「相互共存」(本書を読んだ印象では、こちらの方が重要な気がした)とは、ブッダの言葉を借りれば「人は誰も孤立した存在ではない」ということであり、さらに突き詰めていくと、「私はあなたであり、あなたは私である」といった、人間同士の境界線を取り払う思想に行き着く。

 「相互共存」の原則によれば、「私の怒りは相手の怒り」であり、「私の苦しみは相手の苦しみ」となる。よって、自分が相手に怒りを伝える際には、相手が同じように抱えているであろう怒りにも耳を傾け、尊重しなければならない。端的に言えば、相手を愛さなければならない。しかしここで、「相互共存」の原則に従って、今度は逆に「相手を愛するには、まずは自分を愛する必要がある」という考え方が導かれるのである(この辺りになると、解ったような解らないような、不思議な感覚に襲われる。いや、実際にはよく解っていないのだけれど、汗)。

 「相互共存」の原則は、自分の怒りを相手に伝える際のコミュニケーションに端的に表れている。『キレないための上手な「怒り方」』などでは、効果的な怒りの表現とは、(1)怒りを感じた具体的な状況を特定し、(2)自分がどう感じたのかを率直に表現して、その上で(3)相手の行動をどう改めてほしいのか、要望をストレートに伝えることだとされる。

 これに対して本書の著者は、次の3つの言葉によって相手に怒りを伝えるのが効果的だと述べている。
(1)「私は怒っています。私は苦しんでいます」
 苦しいとき、怒っているときも、あなたの気持ちを相手に伝えなくてはなりません。これが真の愛です。できるだけ穏やかに伝えてください。声に悲しみが表れるかもしれませんが、それは構いません。とにかく相手を罰したり責めたりすることだけは言ってはいけません。「私は怒っています。苦しんでいます。あなたにそれを知ってもらう必要があるのです。」お互いを支え合うという誓いを立てた2人にとって、これは愛の言葉です。

(2)「私は最善を尽くしています」
 これは、あなたが怒りに任せて行動しているのではなく、意識的な呼吸、意識的な歩行を実践し、気づきによって怒りを受け入れようとしていることを意味します。「私は最善を尽くしています」と言うとき、あなたは自分がこれまでに何度も、誤った認識のために怒ってしまったことに気づいています。ですから今、あなたはとても慎重です。自分は相手の言動の犠牲者であると簡単に思い込むべきではないことを知っているからです。自分の中に地獄を創り出していたのは、あなた自身かもしれないのです。

(3)「助けてください」
 3つ目の言葉は自然に後に続くでしょう。これは真の愛の言葉です。相手に腹を立てているとき、「あなたなんて必要ない。私はあなたがいなくても十分やっていけるわ!」と逆のことを言いがちです。でもあなた方はお互いを支え合う誓いを立てました。苦しいとき、たとえ自分で実践の方法を知っていたとしても、相手の協力を必要とするのはとても自然なことです。
 (1)は通常の怒りの表現とほぼ共通しているが、(2)(3)には「相互共存」の思想が色濃く表れている。つまり、自分が怒りを感じた時、これは自分だけの問題ではなく、自分と相手の問題なのであり、お互いの協力による解決を望んでいると相手に訴えているわけである。

 本書を読んでいくうちに、「非二元論」と「相互共存」という2つの原則は、随分前にこのブログで取り上げた物理学者デヴィッド・ボームの『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』と共通している気がした。ボームは「ホログラフィー宇宙モデル」という二重構造の宇宙モデルを提唱し、その一方を「内臓秩序」と名づけた。内臓秩序は、我々が普段認識している世界とは異なり、物質、精神、時間、空間など、この世のあらゆるものが取り込まれ一体となっている世界だ。

 どんなに深刻な問題を抱え、心理的にズタズタに分断された人々であっても、内臓秩序の世界では分離不可能な関係を形成している。我々は、ダイアローグ(対話)を通じて内臓秩序の次元に到達し、諸々の問題を乗り越えて前進することが可能になるとボームは主張する。しかも、内臓秩序の次元に達した人々は、肉体という物理的な境界を超えて、意識のレベルでつながるという。これはまさに、本書の「非二元論」に通じるところがある。

 ただ、『ダイアローグ−対立から共生へ、議論から対話へ』の書評でも書いたように、ボームのダイアローグ論は、「ダイアローグを根気強く続ければ、自ずと内臓秩序へ昇れる」と言っているような気がして、やや楽観的すぎる印象を受けた(単に私の理解が浅いだけだが・・・)。ディスカッションではなく、敢えてダイアローグを選択しなければならないほど深刻な問題に関わっている人々は、暴発寸前の怒りを抱えているものである(以前の記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」を参照)。その点、本書は怒りを出発点としているから、本当はボームのダイアローグ論よりも実践的なのかもしれない。しかし、冒頭で述べた通り、宗教に対する私の理解不足ゆえに、実践知に落とし込めないのが何とも歯がゆいところだ。

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