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March 06, 2011

「その課題を解決できるのは自分だけ」という思いが使命感になる(2)―『MBB:思いのマネジメント』

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一條 和生
東洋経済新報社
2010-06-18
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 (前回の続き)

 前回は、MBBにおいてカギを握るのは「自分が何をしたいのか」、「何をすべきなのか」といった「主観」であるが、実は両者の間には決定的な違いがあって、「自分が何をしたいのか」という単なる好みや欲求だけでなく、「自分が何をすべきか」という使命感にも似た次元に至ることができなければ、真の意味で「正しい目標」は設定できない、ということを書いた。

 では、好みや興味が使命感に転じるのは一体どういう時なのだろうか?結論から言えば、それは「自分なりの課題認識がどうしようもなく強くなった時」である。我々は日々生活を送る中で、様々な戸惑いや怒り、悲しみ、失望を覚える。こうした感情は、自分自身の基軸と周囲の状況がずれていることから生じる違和感に端を発している。別の表現をすると、我々の負の感情は「問題らしきもの」を意識させるサインなのである(「感情は問題提起のサインである」を参照)。

 ただし、それらの「問題らしきもの」の全てが等しく我々にとって重要な意味を持つわけではない。私個人の話をすると、毎朝地下鉄の駅のホームを歩いていれば「人が多くてうっとうしいな」と思うし、PCが重たくなれば「作業が進まないじゃないか」と思うし、マクドナルドで楽しそうに会話をしている学生たちがいれば「うるせぇ、こっちは静かに仕事がしたいんだ!」(マックに学生が来るのは当たり前で、彼らが集まれば騒がしくなるのも当たり前だから、マックで長時間仕事をしようとしている私の方に問題があるのだが、汗)と思う。

 「じゃあ、その問題(らしきもの)を自分でどうにかしたいか?」と問われると、そこまで切羽詰っていないから、普段は我慢しているのである。しかし一方で、「問題らしきもの」の中には、自分の頭にいつまでもへばりついて離れないものも存在する。そうした問題が積み重なるにつれ、相当の時間を費やしてそれらの問題に思いを巡らすようになる。

 「これらの問題に共通することは一体何なのか?」
 「何でこんなに自分はその問題が気になるのだろうか?」
 「一見別の問題に見えるものが、実はつながっているのではないだろうか?」 

 こういったことを煎じ詰めていくと、ある瞬間に問題を貫く本質的な課題が認識できるようになる。こうしたクリティカルな課題は、何か定式的な手順によって導かれるのではなく、時に量子論的な飛躍から生まれるものだ。だからこそ「主観」なのである。

 その課題は、もとをたどれば誰か他の人たちの問題であったはずである。ところが、自分自身を毎日その問題に没頭させるうちに、やがて問題と自分を切り離して捉えることができなくなる。その結果発見された課題は、もはや他人事で片付けられるものではない。むしろ、「自分にしか解決できないものだ」、「自分が解決しなければ、他に誰が解決するというのか?」と思えるほど強烈なものになっている。ここに至って初めて、その課題を解決することが使命になると思うのである。

 私は現時点でそこまで強い使命を持っているとは到底言えないが、おぼろげながら見えている”使命らしきもの”ならばある。私が普段の生活や仕事で感じる問題らしきものの中で、特に心に引っかかるのは次のような事柄だ。

 ・クライアント企業で研修を実施させてもらうと、時にものすごい創造力を発揮して驚くような成果物を作成する受講者の方にお会いする。ところが、そういう受講者からお話を伺うと、実は現場で成果が上げられずに悩んでいるとか、目の前の事務仕事や関係者との調整作業で手一杯になっているというケースも決して少なくない。せっかくの創造力が活かされていないのは、会社にとってもその人にとっても大きな損失だと思う。

 ・メーカーは家電や携帯電話に余計な機能をつけすぎ。本当にその機能を顧客が使うと考えているのだろうか?あるいは、メーカーの社員のうち、自社の製品を心から買いたいと思っている人はどのくらいいるのだろうか?自分ではそれほど買いたくない製品を顧客に提供することがあるとしたら、それに対してどう感じるのか?そんな余計な機能の開発なんてやめてしまえば、もっと製品は安くなるし、開発の人員を他の重要な案件に振り分けることも可能になるのではないか?

 ・何でそんな仕事に人を使うの?と疑問に思うケースがしばしばある。例えば、美術館の入り口にチケット販売やチケット確認のスタッフを何人も配置するのは、全くもって理解不能(美術館側には何かしらの理由があるのかもしれないが…)。チケットなんて券売機とかを使えば自動的にさばける。スタッフには、フランスの美術館のように、来場者向けに絵画の解説をしてもらうような仕事を割り当てた方がずっと有益なのではないか?

 ・上記とは逆に、日中から暇そうにしている小売店の社員などを見ると、人的リソースの浪費に思えて仕方ない。アパレルショップなどは明らかに供給過剰である感が否めない。アパレルの店舗を全国から3分の1ぐらい減らしても、十分に需要をまかなえるんじゃないの?と、ものすごく乱暴な考えが頭をよぎることもある(3分の1に根拠はないです、汗)。余った人的リソースは、社会的にもっと有効活用する道がある気もする。

 これらの問題に共通するのは、組織の惰性で動いている人たちが多いのと、それを放置している組織が多いということである。

 「あくまでも研修は研修。現場に戻れば日々の雑多が待っているから仕方ない」
 「競合がこんな機能をつけているから、うちの新製品にはこの機能をつけよう」
 「市場調査のレポートを見ると、顧客はこの部分に不満を持っているみたいだから、次のバージョンではここの性能を強化しよう」
 「今までずっとチケットの処理は人がやってきたのだから、これからも人にやらせておけばいい」
 「新しくできるあのビルは周辺の人通りも多いから、とりあえず他社が入らないうちに出店しておこう」

 先ほどの問題を引き起こしているのは、こういった惰性的な思考である。当事者たちはそれなりに考えて仕事をしているのかもしれないけれど、どこの誰がいつの時代に作ったのかも解らない惰性というレールに沿って行動しているだけなのである。厳しい表現かもしれないが、そこには人間の意思とか主体性が見られない。

 とまぁ、青二才がエラそうなことを放言しているが、私自身の課題というのは突き詰めて考えていくと、「どうすれば組織の惰性を打ち破る努力を、組織と個人の両面に求めることができるのか?」、「どうすれば組織の中の人々を、もっと価値の高い仕事にシフトさせることができるだろうか?」ということなのである。なぜそんな課題に私が首を突っ込んでいるのか?それは、価値の高い仕事こそが人々の幸福につながると信じているからである。

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