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December 28, 2010

今年読んだリーダーシップの本の中で最もしっくりきたよ(2)―『最前線のリーダーシップ』

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マーティ・リンスキー
ファーストプレス
2007-11-08
おすすめ平均:
組織を動かすための業(わざ)と心を伝える素晴らしい本
【座右】リーダーシップ、問題解決、そしていかにして生き残っていくかについての処方箋
リーダーシップを発揮するということは、危険な生き方をするということである
posted by Amazon360

 前回からの続き。この本を読んで印象に残ったことを3点ほどまとめておきたいと思う。

(1)「変革によって失うもの」に対する共感力
 適応の作業には時間がかかる。尊重している価値観と実際の行動のギャップ、つまりわれわれの生活やコミュニティのなかにある内部矛盾に立ち向かうには、喪失を受け入れる必要がある。適応の仕事はしばしば、われわれに自らのルーツへの忠誠を裏切ることを求める。
 人々が長年、あるいは何世代にもわたって抱いてきたものを捨てるように求めるのは、実際にはその人にあなた自身を追い払うように促しているのと同じことだ。リーダーはときに、人々に求める犠牲の大きさを正しく認識していないことが理由になって排除される。そうしたリーダーは、変化が非常に大きな犠牲を伴うものであることに気づいていないため、他人にとってそれがどういうことなのかを想像できないのだ。
 企業を構成するあらゆる要素には、その企業特有の価値観が反映されている。例えば、ターゲットとする顧客層、提供する製品やサービス、顧客対応のあり方、株主との関係、仕入先との取引、品質改善への取り組み、研究開発、組織構造、各部門の業務プロセスや権限・責任の範囲、活用している情報システム、意思決定の構造、予算配分のメカニズム、採用や人員配置のシステム、人材育成のプログラム、評価・報酬制度などをじっくりと観察すれば、根底には何らかの価値観が横たわっていることが解る。

 さらに、企業に価値観があるのと同様に、企業で働く社員も多種多様な価値観を持っている。もちろん、同じ組織で働く以上、企業の価値観と社員の価値観はある程度一致しているものの、微妙に異なる部分があるのも確かである(企業と個人の価値観の微妙なズレに着目して、「ビジネスパーソンのキャリア開発」という新たな研究分野を切り開いたのが、組織心理学者のエドガー・シャインだ)。

 リーダーが新しい現実に組織や個人を適応させるために、組織の構成要素や個人の働き方、活動の仕方を変える場合、それは表面的な変化を要求するだけでなく、組織や個人がもともと備えている価値観の変更を迫ることになる。

 リーダーは、複雑で多岐に渡る価値観の取捨選択と調整を通じて、組織全体のパフォーマンスが従来よりも飛躍的に増大するように導く。しかしその一方で、副作用として「組織や個人が大事にしてきた価値観の喪失」という多大な苦痛が生まれる。

 「リーダーは未来の青写真を明確に示し、ビジョンが実現されれば、今よりもずっとよい状態になれることを周囲のメンバーに訴えることが重要だ」という話をよく聞くが(私も過去にこのブログで書いたかもしれない)、これはまだ話の半分に過ぎないんだね。メンバーが比較しているのは「現状維持」と「変革後の未来」なのではなく、「変革によって失われるもの」と「変革によって得られるもの」なのである。

(※この点で、今回の民主党政権は、政治家にとっても国民にとっても大きな教訓だ。民主党は、マニフェストの実行によって、自民党政権が長期に渡って築き上げてきた日米関係などの遺産が壊されることに無頓着だったし、国民も民主党政権になることで何かが変わることばかりを期待し、何が失われるかまで考えをめぐらせることができなかった)

 だから、リーダーは変革によるメリットを示すと同時に、変革がもたらす犠牲も明示しなければならない。何かを新たに始めるということは、同時に何かを失うことでもある。そうした「喪失」に敏感になり、共感を寄せること。当たり前といえば当たり前なのだが、改めてその重要性を認識させられたなぁ。

(2)「その問題は誰の問題か?」を見極める冷静さ
 適応が求められる問題を(リーダー自身が)引き受けてしまうことは危険を伴う。そのような問題を引き受けると、あなたがその問題になる。そうなってしまうと、問題を取り除く方法は、あなたを取り除くことになってしまうのだ。
 人々は、あなたにその問題の真ん中に入って立て直すこと、立ち上がって問題を解決することを期待する。そういった期待を満たしたとき、勇気に満ちた立派な人間だと言われるだろう。しかしそれはお世辞にすぎない。彼らの自分に対する期待や依存心に挑むことのほうが、よっぽど勇気が必要なのだ。
 リーダーはあらゆる問題を解決したいという欲求に駆られるし、周囲もリーダーが最後は問題を解決してくれることを期待するものだ。しかし、そうした欲求や期待に素直に従ってしまうと、墓穴を掘る危険性があると著者は警告している。

 同書では一例として、リンドン・ジョンソン大統領の名が挙がっている。ジョンソンは、ベトナム戦争の責任を自分で全て背負い込もうとした。しかし真の問題は、敗北を認めてベトナムから撤退するのか、勝利を収めるために莫大な財務的・人的な犠牲を負い続けるのかについて、議会や世論に投げかけることであった。それをしなかったジョンソンは、反戦活動家から集中的に非難を浴びる結果になったと著者は分析している。

(※私はベトナム戦争の背景に詳しいわけではないので、この事例をうまく解釈しきれていない部分があることは正直に認めるよ。戦争を開始する意思決定は大統領が下すはずだから、戦争の続行or終結を決める責任も大統領にあるんじゃないか?という気もする。

 ただ一方で、著者が言いたいのは、戦争に伴う財政支出の規模や財源の捻出方法、さらには犠牲者の数を最小限にとどめる方策といった個別具体的な事案については、議会や軍が責任を負うべきであり、大統領がそこまで首を深く突っ込むべきではなかった、ということだったようにも思える。著者は大統領に対して、「東側諸国との関係をどうするのか?」という大局的な視点で問題を提起することを望んでいたのかもしれない)

 ジョンソンの事例はやや極端かもしれないけれど、企業の世界でも似たようなことは頻繁に起きる。リーダーに対する周囲の依存度が高いと、本来はリーダーがやらなくてもいいような些細な問題までリーダーのもとに持ち込まれる。リーダーはよかれと思って彼らの問題を肩代わりするが、それは同時にメンバーの成長機会を奪うことにもなる。

 さらに、リーダーも万能な人間ではないから、小さな問題であっても時にうまく解決できないこともあるだろう。すると周囲は、「リーダーのくせに、あんな小さな問題で失敗した」と冷淡な視線を向けるようになる。リーダーに対する期待の大きさと、リーダーが取り組んでいた問題のレベルの低さのギャップが大きければ大きいほど、こうした批判は強くなる。そして、リーダーは周囲の支持を失い、失脚するのである。

 リーダーは、「全ての問題を解決できる英雄になりたい」という欲求とおさらばしなければならない。リーダーは全ての問題を自分で解決する必要はない。「その問題の『所有者』は誰なのか?」を冷静に考え、自分が出る幕でないと感じたら、問題の当事者に作業を投げ返すぐらいでちょうどいいんだね。

(3)個人攻撃による「問題のすり替え」に騙されない用心深さ
 個人攻撃もまた、人の変化に向けた取り組みを葬り去るために長年使われてきた方法である。どんな形の攻撃であれ、もし攻撃を加えられた人間の会話の内容が、いま取り組んでいる問題から性格や仕事のやり方、あるいは攻撃の内容そのものに変わったのならば、その問題を議題から消し去ることに成功したといえる。
 人は、自分が間違った形で論じられたり、だれか別の人間の問題を体現する立場としてのレッテルを貼られたりすれば、議論に飛び込んでいきたくなる。しかし、自分自身について説明しようと奮闘すると、他人の問題を自分自身の問題に変えてしまうことになる。
 これは政治の世界では常套手段だもんね。同書では、ジョージ・W・ブッシュ大統領がたまたま漏らした偏見的な発言がマスコミに伝わって、大統領としての資質を問われる事態になった事例などが紹介されている。

 つい先日の記事「他人からのアドバイスにはどのくらい耳を傾ければいいんだろうか?―『リーダーへの旅路』」で、「リーダー個人の資質や性格、行動に関するフィードバックには真摯に耳を傾けた方がいい」と書いたけれど、これはまだ内容としては不十分だったなぁ(汗)。

 もちろん、ここで私自身の主張を撤回するつもりはない。「あなたは部下とのコミュニケーションが足りていない」、「あなたは部下に対する要求水準が高すぎる」、「あなたの方針が頻繁に変わるから、社員が疲弊している」などといった直接的なフィードバックには、十分すぎるほどの意味がある。実際、同書にも外部コンサルタントからのフィードバックによって自らの行動規範を変えたCEOの例が紹介されている。

 先日の私の記事に欠けていたのは、こうした直接的なフィードバックの重みは、リーダーとフィードバックをする人の間の「リレーションの深さ」によってかなり変わってくるという点だ。リレーションが深い場合は、2人のこれまでの関係をリスクにさらした上で敢えて批判しているわけだから、その内容には相当の重みがある(配偶者からの批判は、誰からのフィードバックよりも心に突き刺さるものだ)。

 これに対して双方の関係が浅い場合、フィードバックする人が批判によって失うものは少ないから、好き勝手にリーダーを批判することもできる。その典型例が、政治家とマスコミ(世論)の関係である。本来的には、マスコミは政治家の活動を監視・牽制する役割を担っているはずなのだが、最近はどうも「紙面や放送時間の枠を簡単に埋められる、そんなに難しくない話題」ばかりを探している気がしてならない。その結果、どうでもいい失態を大げさに取り上げて政治家を批判する傾向が強くなっている。政治家の方も、マスコミのどうでもいい批判に過剰反応するものだから、政治がちっとも進展しない。

 「尖閣諸島」と「政治とカネ」を同列に並べ立てて、「どちらもうまく対処できない菅首相は、意思決定能力が欠けている」などとマスコミが批判するのは、お門違いもはなはだしい話だ。「政治とカネ」の問題は小沢氏個人の問題であり、それを民主党全体の問題のように拡大解釈しててんやわんやになっているようでは、菅首相はマスコミの策略に完全にはまっているとしか言いようがない。この2つに限って言えば、「尖閣諸島」の方が国益に関わる点でよっぽど重要である。その問題に取り組むための貴重な時間を、マスコミの謀略によってそぎ落とされているのである。

 首相の役割は、マスコミが問題だと騒ぎ立てるもの(=それが真の意味で問題であるとは限らない)にいちいち回答することではなく、日本の将来を考えた場合に優先的に取り組むべき課題の順番を明示することであろう。そしてそれらの課題を着実に実行する時間を確保するには、リーダー本来の役割とは関係のない、的外れな個人攻撃を華麗にスルーする術を身につけることも大事なんだね。

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