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September 15, 2010

「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力−『渋沢栄一「論語」の読み方』

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渋沢 栄一
三笠書房
2004-10
おすすめ平均:
渋沢さんの心、論語の心、それらが相俟って浮き彫りにされていく本
論語を理解するには、不適
論語の入門書に最適でしょう。
posted by Amazon360

 またまたこの本で1つ記事を書いてみた。「どれだけ引っ張るんだ?」という突っ込みはやめてね。 

 渋沢は何千もの企業や非営利組織の設立、運営に関わっていたから、当然のことながら様々な交渉の場に顔を出す必要があった。しかし、渋沢は今でいうアップルのジョブズみたいなタフ・ネゴシエーターというよりも、その丸顔からイメージされる通りの温厚な性格をいつも崩さなかった。どんなに厳しく難しい交渉であっても、交渉が終わって部屋から出てくる渋沢の表情はニコニコしていたと言われる。とかく交渉のテーブルでは、怒りや憎しみといった個人的な感情が交錯するものだが、渋沢はそうした感情を超えて意思決定をすることができる人物であった。

 『論語』の一番最初の文章は、
 子曰く、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋遠方より来たるあり。また楽しからずや。人知らずして慍(いきどおら)ず、また君子ならずや。(学而第一−一)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「物事を学習して日常生活の中で復習する。これは非常に嬉しいことだ。自分と同じく学問を志す友人が遠くから訪ねてくる。これは非常に楽しいことだ。他人が自分のことを評価しないからと言って怒ったりしない。これは君子として立派な態度だ」
である。渋沢は、とりわけ最後の「人知らずして慍ず、また君子ならずや」という部分を重要な教訓として、終生大事にしていたようだ。
 私は今日まで『論語』のこの教訓を肝に銘じてきた。自分の尽くすべきことを尽くしさえすれば、たとえそのことが人に知られず、世間に受け入れられようが入れられまいが、いっこうに気にせず、けっして、慍るとか立腹するとかいうことはせずにきたつもりである。
 怒りは冷静な判断を阻害し、意思決定の質を歪める方向に作用する。そのことを『論語』を通じて知っていた渋沢は、どんな局面でも努めて冷静に振舞うよう、日頃から精神を鍛えていた。いやー、本当に尊敬するなぁ。私なんかは、自分で「果たして意思決定に感情は不要なのか?」という記事を書いておきながら、どちらかというと短気な性格が未だに直らないから、まだまだ人間として未熟だ…。

 前述の通り、渋沢は怒りの感情を封印していたとはいうものの、渋沢が争いごとを好まなかったわけではない。むしろ、他人と争うことには肯定的であり、やるからには徹底的にやるという覚悟も持っている。
 私も若いときから争わねばならぬことにはずいぶん争ってきた。威望天下を圧していた大久保利通大蔵卿とも侃侃諤諤の議論を闘わしたこともある。八十の坂を越した今日でも、私の信じるところをくつがえそうとする者が現れれば、私は断乎としてその人と争うことを辞さない。私が自ら信じて正しいとするところは、いかなる場合にも、けっして他人に譲るようなことをしない。
 渋沢の考えと真っ向から対立する人物の代表格が、三菱の創始者・岩崎弥太郎である。渋沢は多数の株主から出資を募る「合本主義」を唱え、合議による経営を是としていたのに対し、岩崎は自らが資本も経営も独占するという典型的な「専制主義」の立場をとっていた。

 両者の対立が最もヒートアップしたのは、三菱の独占的な海運事業に対抗して、渋沢と井上馨らが共同運輸会社を設立した時であろう。2社は熾烈な値引き合戦を繰り広げたため、ついには双方の経営が危うくなるほどであった。共倒れを回避したい渋沢は、最終的には2社を合併することで決着させる。こうして生まれたのが、現在の日本郵船である。

 だが、渋沢がいくら争いごとで立腹しないといっても、これほどの過激な争いをいつも続けていたら、さすがに身がもたないだろう。渋沢は、基本的には臨戦態勢を見せているものの、ほどほどでやめることも心得ていたようだ。
 私の多年の経験によれば、自分と処世の流儀が全然違う人に対しては、どれほど自分の意見を述べて同意させようとしてみても、それは聞き入れられるものではなく、無駄な努力に終わる。釈迦も「縁なき衆生は度し難し」と言っている。
 では、渋沢が師と仰ぐ孔子はどうなのか?『論語』の文章を丁寧に読んでいくと、面白いことに気づかされる。
 子曰く、吾知ること有らんか、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う、空空如(くうくうじょ)たり。我れその両端を叩き而して竭(つく)せり。(子罕第九−八)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「私はあらゆることを知っているだろうか。いや、そんなことはない。卑しい男が私のもとにやって来て、真面目な態度で質問するならば、私は自分の頭を隅々まで叩いて、納得するまで答えてやるつもりだ」
 孔子も、相手が誰かを問わず、知恵を絞って真摯に教えることを基本姿勢としている。ただし、これには「相手が真面目な態度であること」という条件がついている。

 別の箇所では、孔子は次のように述べている。
 子曰わく、狂にして直ならず、侗(どう)にして愿(げん)ならず、悾悾(くうくう)として信ならずんば、吾れこれを知らず。(泰伯第八−十六)
【現代語訳】 先生がおっしゃった。「志は大きいのに正直でなく、無知なのに真面目でなく、無芸無能なのに誠実でないような人は、私でもどうしようもない」
 孔子はどんな人であっても教えを授ける、というわけではないことがこの一文からも伺える。性格に問題を抱えている人間は自分の手に負えない。孔子ですら、あっさりと切り捨てているのである。

 孔子は自らが理想とする政治の実現に尽力したが、孔子が生きた時代は春秋・戦国という動乱の世である。低俗な動機で動いている人間も少なくなかったはずだ。彼らに孔子のような高潔な考えはなじまない。よって、孔子は自分の主張が受け入れられず、しばしば諸国を転々とせざるを得なかった。

 渋沢が生きた幕末から明治も、社会構造が大きく変わったという点で春秋・戦国時代と共通している。孔子の教えに従った渋沢もまた、何度か苦い経験を味わっている。その1つが「王子製紙乗っ取り事件」だ。

 渋沢は、自らが社長を務める王子製紙の増資の件で、大株主である三井に相談をもちかけた。三井のトップである中上川彦次郎は、増資に同意する代わりに、藤山雷太を役員として派遣する約束を交わした。ところが、役員になった藤山は、社内政治を巧みに利用して渋沢をはじめとする旧経営陣を一掃してしまったのだ。

 ただ、渋沢がすごいと思うのは、「君とは馬が合わないからハイさよなら」と簡単に関係を断ち切るようなことがない点である。
 しかし、あまり早々と見切りをつけるのもよくない。縁が切れてしまえば、いかに主人に欠点を改めさせよう、友人の欠点を矯正してやろうと思っていても、不可能である。絶交してしまったりするよりも、その関係を絶たぬようにしていれば、長い歳月のうちには、よい機会があって多少なりとも、アドバイスできることもあるものである。
 実際、先ほどの藤山雷太に関して言えば、大日本製糖(現大日本明治製糖)が汚職事件を起こして経営に行き詰った際に、渋沢が会社再建のキーマンとして藤山を指名しているくらいだ。かつて自分を社長の椅子から蹴り落とした人間を推薦するとは普通では到底考えられないことだが、渋沢はあくまでも個人的な感情を差し置いて藤山の能力を買ったのである。(※)

(※)中野明著『岩崎弥太郎「三菱」の企業論−ニッポン株式会社の原点』(朝日新聞出版、2010年)
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