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   新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
August 30, 2010

優れた古典は深遠な議論への入り口である−『リーダーになる』

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ウォレン・ベニス
海と月社
2008-06-24
おすすめ平均:
すでにリーダーの人が読めば価値は上がる本
最高でした!!
リーダーのための哲学書!
posted by Amazon360

 リーダーシップの古典を何冊か挙げよと言われたら、ウォーレン・ベニスのこの本は間違いなくその1冊に入っていることだろう。ベニスが指摘した「情熱、誠実さ、信頼、好奇心、勇気」などのリーダーの資質や、「リーダーは自分の価値観に従って行動する」といったリーダーの行動パターンは、現在のリーダーシップ研究にも受け継がれている。その意味で、現代のリーダーシップ論の基礎とも言える古典である。

 だが、改めてじっくり読んでみると、いくつか疑問が湧いてくる。論理の飛躍や不十分な説明が含まれるのは古典であるがゆえに仕方がないことだとも言えるが、逆にそうした批判を乗り越えて今なお多くの人々に読まれ、様々な議論を呼び起こしていることこそが、本当の意味での古典の条件なのかもしれない。今回の書評では、私が感じた疑問を4つほど指摘してみたいと思う。

(1)リーダー自身の価値観が正しいかどうかはどうやって判断するか?
 あらゆる組織のマネジメントには、その組織が長年にわたって脈々と受け継ぎ、蓄積してきた価値観が色濃く反映される。ところが、時代の移り変わりとともに、それらの価値観はやがて機能しなくなる。社員が皆、旧来的な価値観に染まりきっていると、組織の価値観を変えることは難しい。

 しかし、組織の価値観とは異なる自分なりの価値観を持っている社員が一部でも存在すると、組織の価値観をひっくり返せる可能性が出てくる。組織の価値観を新しい時代に適合したものに書き換えることこそがリーダーシップの役割であり、価値観の転換には、リーダー自身の固有の価値観が重要な役割を果たす。ベニスはやや過激な表現を使いながら、次のように述べている。
 リーダーは自分の哲学を組織に押しつけ(この言葉のもっともよい意味でだ)、組織文化をつくりあげる。あるいは、つくり変える。組織はリーダーの哲学に従って行動し、そのミッションを遂行する。やがて組織文化はひとり歩きを始め、「結果」ではなく「原因」になる。
 例えば、トヨタの大野耐一は、日本の自動車メーカーがどこもアメリカの大量生産モデルを真似していた時期に、日米の市場の違いに目をつけて多品種少量生産ができるラインを完成させることを決意する。大野はまず自分が担当していたラインから着手し、自分の出世とともに改善対象のラインを徐々に拡大していく(全社的な活動に展開されるまでには、実に約20年かかっている)。これが、カンバンに代表されるトヨタ生産方式となって結実し、現在のトヨタに受け継がれているのである。

 だが、リーダー自身の価値観が「正しいかどうか」はどのように判断すればよいのだろうか?ベニスもこの点については論じていない。かつてヒトラーやスターリンは、当時の主流であった自由主義や資本主義に異を唱え、全体主義や共産主義によってドイツやソ連を統治した。ドイツやソ連の国民全てが全体主義や共産主義に従ったわけではないが、熱狂的な支持を得たのは事実である。にもかかわらず、全体主義と共産主義は自由主義と資本主義に勝利することができなかった。

 たいていのリーダーシップ研究では成功したリーダーが取り上げられるため、リーダーの価値観は正しいものと自動的にみなされている。だが、一方でリーダーの価値観が誤っていたためにリーダーシップの暴走を許したケースも少なくはない。リーダーの価値観の是非を判断する方法を明らかにすることは、リーダーシップが凶器として悪用されるのを防ぐのに役に立つと思うのである。(※1)

(2)リーダー個人の価値観が公共の利益に昇華されるプロセスをどう説明するか?
 ベニスの問題意識は、アメリカにおける個人主義の蔓延にある。個人中心的な考え方があまりにも広がりすぎて、アメリカ人が社会全体の利益を考えなくなったとベニスは警鐘を鳴らしている。
 建国の父たちは、合衆国憲法の基礎に「公共の美徳」をすえた。ジェームズ・マディスンはこう書いている。「公共の利益・・・人々の真の財産・・・それこそ、我々が追求すべき究極の目標だ」。だg、1920年代前半に時の大統領カルヴィン・クーリッジが「ビジネスこそ、アメリカのビジネスである」と述べたとき、この意見に反対する声はほとんどあがらなかった。

 今では、公共の美徳より特定の集団の利益が優先されるようになり、最近では個人の関心事が最重要事項になることも多い。この国は、ロバート・ベラーらが著書『心の習慣』の中で表現した「癒しを求める、自由放任の文化・・・生活の一部分を完結した箱庭のような世界に変えるために、必死に努力することを求める文化」へと移行していった。
 ベニスは、リーダーが自分なりの価値観を基にして、「公共の美徳」を回復することを期待している。だが、リーダーの個人的な価値観が公共の利益に昇華されるプロセスは必ずしも明確にはされていない。

 厳密に言うと、部分的には「欲求」と「志」の違いとして説明されているようにも感じる。ベニスは、欲求とは「自分の存在を証明すること」、志とは「自分自身を表現すること」と定義する。前者は地位や権力に対する欲求であり、後者はマズローの言う自己実現欲求に該当する。ベニスは、欲求だけではリーダーシップを発揮できず、志が必要であると述べている。しかし一方で、欲求自体を悪だと否定しているわけではない。志と欲求が適切に結びつくことが重要であるとベニスは言うのである。

 では、果たして欲求はいつどのようなタイミングで、何をきっかけに、どのようにして志と結びつくのか?この点を浮き彫りにしていくと、リーダーの個人的な価値観が公共の利益に昇華されるプロセスを紐解くヒントが得られるように思える。(※2)

(3)リベラルアーツは未来を見通すのにどう役立つのか?
 リーダーが未来を変える、あるいは未来を創り出すためには、リーダーが自分の価値観を発見する内省のプロセスも大切だが、一方で自らを取り巻く環境にも目を向けなければならない。リーダーは外部環境の洞察を通じて、望ましい未来の姿を明らかにしていく。

 しかしながら、日に日に複雑さを増す現在の時代環境においては、未来は簡単に見通せるものではない。そこでベニスは、未来を描くのに「リベラルアーツ(一般教養)」が役に立つと主張する。ベニスはリベラルアーツの効用について、ロジャー・スミス(GM元会長兼CEO)の次の言葉を紹介している。
 リベラルアーツを学ぶことは、あいまいさを受け入れ、混沌から秩序を引き出す方法を学ぶことだ。もっとも優先されるのは知的な誠実さであり、論証のプロセスはそこからみちびかれる結論と同じくらい重視される。

 リベラルアーツを学んだ人は、わき道にそれてものを考えたり、学際的に考えたりする習慣を持っている。それは彼らが文学、社会制度、化学作用、言語といったものをさまざまな側面からとらえる方法を学んできたからだ。
 日本ではリベラルアーツ(一般教養)というと、専門課程に進むために仕方なく取らなければならない単位のように捉えられている節があるが、近代西洋の大学ではリベラルアーツが非常に重視されていたという。ところが、その西洋の大学でも、最近は一般教養よりもすぐに収入につながる専門課程の方が学生に好まれるようになっているらしい。

 リベラルアーツは長い歴史の中で人類が培ってきた叡智の集合体であり、それを学ぶことには確かに意義がある。キルケゴールの言葉「人生は前向きに進むしかないが、後ろ向きにしか理解できない」の通り、優れたリーダーは歴史から学ぶ(経営者には歴史に精通した人が多いのもそのためかもしれない)。しかし、リーダーシップを発揮すべき局面において、リベラルアーツがどのように活用されたのかについてはベニスは言及していない。リベラルアーツの具体的な活用法は、もっと掘り下げて追求すべき論点だろう。

(4)リーダーシップの研究は、リーダーへのインタビューだけで足るのか?
 これはリーダーシップの研究方法に関するものであるが、ベニスのこの本も含め、多くのリーダーシップ研究はリーダー自身に対するインタビューを通じて行われている。しかし、
 ある意味で、リーダーシップは美に似ている。それが何かを定義することは難しいが、目の前にあれば絶対に見間違うことはない。
とベニス自身が述べているように、もしもリーダーシップが「客観的」に発見できるものであるならば、リーダー本人へのインタビューだけではその研究は「主観的」だと言わざるを得ないのではないだろうか?

 優れた芸術作品がなぜ美しいかを説明しようと思ったら、それが一般の人々にどう見えるかを探索するはずだ。もちろん、作者の意図や真意を探るために、作者自身にインタビューすることもあるだろう。だが、それはあくまでも補足材料であり、それだけでは「美」を説明したことにはならない。同様に、リーダーシップ研究も、リーダー自身だけのインタビューではなく、フォロワーから見たリーダー像にもっと切り込んでいく必要があると思うのである。

(※1)以前の記事「なぜリーダーにはリーダー固有の『価値観』が必要なのか?」で、リーダーの固有の価値観の重要性についてまとめてみたが、この記事でも「リーダー自身の価値観の是非をどう判断するか」までは書くことができなかった。

(※2)以前の記事「マネジメントとリーダーシップの違いを自分なりにまとめてみた」の中でも、「リーダーは自身の個人的な価値観を、組織・社会全体の利益に適うように昇華させる」という旨の表現を使っているが、それが一体どのように実現されるのかまではまとめられなかった。
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