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   新ブログ 谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士
March 31, 2010

部下にだって「上司に物申す時の流儀」ってものがある

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 「『タスクは簡潔に、コミュニケーションは密に』がリーダーシップの重要な原則」や「何でもコラボすりゃいいってもんじゃないんだよ(後半)−『信頼学(DHBR2009年9月号)』」の内容とも関連するが、人の上に立つ者は部下の意見に真摯に耳を傾け、時に厳しい批判を受け止める覚悟が必要である。しかし、上司に進言する部下にとっても、守るべき「流儀」というものがある。部下は闇雲に上司批判を繰り返せば言い訳ではない。

 またしても歴史ネタだが、三国時代の魏の君主・曹操に使えた郭嘉(かくか)と孔融(こうゆう)2人の明暗を追ってみたいと思う。2人とも、猜疑心の強い曹操に諌言することを恐れなかった臣下である。古来の中国では、君主が臣下の諌言を聞き入れることは一種の美徳とされていた。だが、郭嘉が曹操から絶大な信頼を得たのに対し、孔融は曹操に殺害されてしまう。2人の態度の違いから、「上司に物申すときの流儀4か条」をまとめてみた。

(1)表現に凝らず、ストレートに進言する
 曹操は官渡の戦い(「感情は問題提起のサインである」を参照)で袁紹を破り、袁紹の死後、その二子である袁譚(えんたん)、袁尚(えんしょう)に連勝した。この勢いで他の将軍は袁氏を滅亡させようとしたが、郭嘉は次のように進言した。

 「袁紹は、この2人を可愛がっていましたが、後継ぎを定めてはおりません。また郭図(かくと)と逢紀(ほうき)が、それぞれ彼らの謀臣となっており、その間で争いがおこれば、必ずや離れ離れになるでしょう。急に攻め立てれば、彼らは助け合います。緩めれば、争いの心を起こすでしょう。南方の荊州(けいしゅう)に向かい、劉表(りゅうひょう)を征伐するふりをして、彼らの変化を待つのが賢明といえましょう。その後攻撃すれば、一挙に平定することができます。」(※1)

 実に冷静な現状分析に基づき、理路整然と作戦を提案している。曹操はこの提案を受け入れ、荊州へと向かう。そうこうするうちに、郭嘉の予想通り、袁譚と袁尚が冀州(きしゅう)をめぐって争いを始めた。袁譚が敗れたのに乗じて曹操は冀州に乗り込み、まんまと冀州を平定することに成功したのである。

 孔融は、孔子の20世孫という名門の出身であり、孔子の教えを受け継いで儒教に基づく漢の復興を志していた。孔融はしばしば儒教の教えを借りて曹操を批判した。例えば、曹操が袁尚を破り、曹操の子・曹丕が袁熙(えんき・袁紹の次男で、袁譚の弟、袁尚の兄にあたる)の妻を略奪して自分の妻とした際、孔融は曹操にこんな手紙を宛てている。

 「周の武王は殷の紂王を討伐し、希代の悪女と名高い妲己(だっき)を周公(孔子が理想とした武王の弟)に下賜しました」(※2)

 だが、こんな事実は儒教の経典のどこにも書かれていない。実は、孔融が曹丕の行動から勝手に推測しただけなのである。つまり、孔融が遠回しに皮肉ったわけだ。こんな手の込んだ批判を曹操が快く思わなかったことは想像に難くない。

(2)批判ではなく、代案を提示する
 孔融はなまじ弁が立つために、時に行き過ぎた批判を繰り返すことがあった。飢餓と戦争が続き、穀物の消費を抑制するために曹操が禁酒令を発すると、孔融はたびたび書簡を送りつけて反対した。そこにも、曹操を侮辱する高慢な言葉を書き連ねたという(※2)。

 ところが、私が思うに、孔融はただ曹操を批判したいだけであって、何か明確な代替案を持っていたわけではない。単純に、名門のプライドにかけて自分が有能であることを曹操に示したかっただけのように思える。

 こういう「いやらしい批判家」は、どんな組織にも1人や2人はいるものだ。最近、普天間基地の移転問題で政府が揺れているが、米軍基地が日本に必要だと皆解っているにもかかわらず、「うちに来るのは嫌だ」、「県外に移転しないとダメだ」と首相を攻撃するだけで、一向に事態は進展しない。代わりの候補地探しをまともにやっている政治家がどれだけいるのか、果たして疑問だ。

 ちょっと話が逸れたが、部下から「これはダメです」と言われたら、上司は「じゃあ、どうすればいいのだ?」と聞き返したくなる。だから、進言に当たっては、自分の中で代替案をちゃんと準備しておかなければならない。郭嘉はその点を徹底していた。

 曹操は冀州を平定後、袁尚とそれを助ける烏桓(うがん・中国北部の遊牧民族)の征伐を検討し始めた。部下の多くは、劉表が劉備を使って、許(潁川郡にあった曹操の拠点)を攻めるのではないかと危惧した。曹操は、冀州平定前に、荊州にいる劉表を討伐する「ふり」を一度見せているのだから、劉表が何かしら反撃を仕掛けてくるという部下の心配にも一理あった。

 しかしながら、郭嘉は「劉表は劉備を統制するだけの才能がないので、劉備を重く用いることができません」と襲撃の可能性を否定する。代わりに、「軍は迅速を尊びます。輜重(しちょう)を留め置き、軽装の兵により倍の速度で進軍して烏桓の不意をつくとよいでしょう」と提案したのである(※3)。袁氏攻撃の際は、奇策めいた作戦で戦機をうかがい、烏桓征伐の際は、一気に攻め立てる。郭嘉の鋭い戦略眼が伺えるところだ。

(3)代案の実現を自らが買って出る
 しかも、郭嘉はきちんと烏桓征伐の具体策を練っている。曹操はこれに従って烏桓を破り、袁尚と袁熙を遼東に追いやることができた。自分で具体的な代案を提示し、さらにその実現にまで責任を持って携わる態度こそが、曹操から絶大な信頼を得ることができた最大の理由であろう。

 一方の孔融は、代案すらまともに提示しないのだから、代案の実現のために自らの手を汚すことなどするはずもなかった。過激な批判屋となっていた孔融は、次第に曹操から煙たがられるようになり、最終的には曹操の手で処刑される。しかも、曹操が仕組んだ策略により、孔融は「儒教に対する反逆者」として殺害された。孔融は自らが拠りどころとしていた儒教を、逆に曹操に利用されてしまったのである。

(4)上司の誤りを正すことを目的とし、上司を正論で圧倒することを目的としない
 2人の対照的なエピソードを振り返ると、2人の目的が違うところにあったことが読み取れる。つまり、郭嘉は「曹操の誤りを正す」ことを目的としていたのに対し、孔融は「曹操を弁論で打ち負かす」ことを目的としていた。郭嘉が君主と臣下という上下関係を重んじていたが、孔融は君主と対等に渡り歩こうとしていたようにも思える。

 ところが、よく考えてみると、上に立つ者を敬まわなければならないというのは、そもそも「孝」や「忠」といった言葉に表される儒教の教えである。孔子の20世孫である孔融が儒教の教えに従わず、郭嘉の方がむしろ儒教に忠実だったというのは、何という皮肉だろうか。

(※1)渡邉義浩「『三国志』軍師学 第3回」(『歴史に学ぶ』2009年5月号、ダイヤモンド社)
(※2)渡邉義浩「『三国志』軍師学 第4回」(『歴史に学ぶ』2009年6月号、ダイヤモンド社)
(※3)渡邉義浩『「三国志」軍師34選』(PHP文庫、2008年)

渡邉 義浩
PHP研究所
2008-04-01
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