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トップ>マネジメントの基本(マーケティング)>ドラッカー流マネジメントにみるソクラテス的な「問いかけ」の手法
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August 30, 2005
ドラッカー流マネジメントにみるソクラテス的な「問いかけ」の手法
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ドラッカーの著書を読んでいくと、とかく「問いかけ」が多いことに気付かされます。
(1964年に出版された、経営戦略に関する先駆的名著。当初は『事業戦略』というタイトルにしたかったのだが、「戦略」は軍事用語であり、企業経営に持ち込むのはよくないとの理由で、『創造する経営者』に変更されたという。)
この著書の中には、フィリップ・コトラーよりもはるか前に、マーケティングについて概観している部分があるのですが、私たちは次のような標準的な問いに答えなければならない、と書かれています。
「顧客はだれか、どこにいるか、いかに購入するか」
「顧客は何を価値とみなすか、顧客のいかなる目的を満足させるか。顧客の生活と仕事において、いかなる役割を果たすか。顧客にとってその役割はどの程度重要か。例えば、年齢や家族構成など、いかなる状況のもとで、その役割は最も重要か。逆に、顧客にとっていかなる状況のもとで最も重要でないか」
「直接あるいは間接の競争相手はだれか。彼らはいま何をしているか、明日何をしているか」
(同書p141より)
そしてさらに、本当に重要だが、稀にしか提起されない次の問いにも答えなければならないと続けています。
「顧客でない人たち、すなわち、市場にありながら、あるいは市場にあっておかしくないにもかかわらず、自社の製品を購入していない人たちはだれか。なぜ彼らは顧客になっていないのか」
「顧客は何を買うか。金と時間をどう使っているか」
「顧客、あるいは顧客でない者は、他社から何を購入しているか。それらの購入は、顧客にとっていかなる価値があるか。いかなる満足を与えているか」
「それらの満足は、わが社の製品やサービスから得られる満足と、現実的あるいは潜在的に競合するか。それとも、それらの満足は、わが社の製品やサービス、あるいはわが社の潜在的な製品やサービスが提供できるか、あるいは、わが社の方がよりよいものを提供できるか」
「わが社の製品やサービス、あるいはわが社が提供しうる製品やサービスのうち、本当に重要な満足を提供するものは何か」
「いかなる状況が、わが社の製品やサービスなしでもすむようになってしまうか、あるいは、わが社の製品やサービスなしにすまさざるをえなくしてしまうか」
「顧客の考え方や経済的な事情からして、意味ある商品群は何か。何が商品群を作るのか」
「競争相手になっていない者はだれか。そして、それはなぜか」
「わが社は、だれの競争相手にまだなっていないか。わが社の事業の一部と考えていないために、わが社には見えていず、試みてもいない機会はどこにあるか」
「完全に不合理に見える顧客の行動は何か。したがって、顧客の現実であって、わが社に見えないものは何か」
(同書p141〜p154より抜粋)
これらの問いの内容を理解するのはさほど難しいことではありません。マーケティングという概念そのものを知らなくても、上手く事業を行っている者であれば、日頃からこういうことは考えているはずです。しかし、改まってちゃんと答えようとすると、それが実に困難な作業であるかを痛感させられるものばかりです。
このように、様々な問いを随所で用いながら理論を展開していくというドラッカーのスタイルは、同書に限ったものではなく、経営を論じるときはもちろん、マネジメントについて論じる場合にも一貫しているものです。
何となく「知っている」と思っていることに対して、次々と突きつけられる問い。それは、まさにソクラテスが賢人の無知を暴くために用いた問答法(ディアレクティケー)に似たものを感じます。
また、ある意味では循環論法のようにも思えます。すでに知っていると思っていることに対して、わざわざ考えようとしているのは、堂々巡りの不毛な議論であると批判されるかもしれません。
しかし、循環論法を積極的に評価することもできるように、この問いかけの図式こそが、私たちが直面している現実を混沌から救い出し、鮮明な課題として提出するための強力な手法であるといえます。
ドラッカーが投げかける問いかけは確かに、時として私たちの無知をさらけ出しますが、私たちは無知で終わるわけにはいきません。実践のために意地でも何かしらの答えを導き出さなければなりません。
しかし、その答えは決して唯一絶対のものにはなりえません。問いは一回限りでは決して終わらないのです。答えを出しては検証、修正し、もう一度問いかけて再び答えを出す。そういう円環を描きながら前進するしかないのです。
創造する経営者 (ドラッカー名著集 6) ピーター・F・ドラッカー 上田 惇生 ダイヤモンド社 2007-05-18 Amazonで詳しく見るby G-Tools |
(1964年に出版された、経営戦略に関する先駆的名著。当初は『事業戦略』というタイトルにしたかったのだが、「戦略」は軍事用語であり、企業経営に持ち込むのはよくないとの理由で、『創造する経営者』に変更されたという。)
この著書の中には、フィリップ・コトラーよりもはるか前に、マーケティングについて概観している部分があるのですが、私たちは次のような標準的な問いに答えなければならない、と書かれています。
「顧客はだれか、どこにいるか、いかに購入するか」
「顧客は何を価値とみなすか、顧客のいかなる目的を満足させるか。顧客の生活と仕事において、いかなる役割を果たすか。顧客にとってその役割はどの程度重要か。例えば、年齢や家族構成など、いかなる状況のもとで、その役割は最も重要か。逆に、顧客にとっていかなる状況のもとで最も重要でないか」
「直接あるいは間接の競争相手はだれか。彼らはいま何をしているか、明日何をしているか」
(同書p141より)
そしてさらに、本当に重要だが、稀にしか提起されない次の問いにも答えなければならないと続けています。
「顧客でない人たち、すなわち、市場にありながら、あるいは市場にあっておかしくないにもかかわらず、自社の製品を購入していない人たちはだれか。なぜ彼らは顧客になっていないのか」
「顧客は何を買うか。金と時間をどう使っているか」
「顧客、あるいは顧客でない者は、他社から何を購入しているか。それらの購入は、顧客にとっていかなる価値があるか。いかなる満足を与えているか」
「それらの満足は、わが社の製品やサービスから得られる満足と、現実的あるいは潜在的に競合するか。それとも、それらの満足は、わが社の製品やサービス、あるいはわが社の潜在的な製品やサービスが提供できるか、あるいは、わが社の方がよりよいものを提供できるか」
「わが社の製品やサービス、あるいはわが社が提供しうる製品やサービスのうち、本当に重要な満足を提供するものは何か」
「いかなる状況が、わが社の製品やサービスなしでもすむようになってしまうか、あるいは、わが社の製品やサービスなしにすまさざるをえなくしてしまうか」
「顧客の考え方や経済的な事情からして、意味ある商品群は何か。何が商品群を作るのか」
「競争相手になっていない者はだれか。そして、それはなぜか」
「わが社は、だれの競争相手にまだなっていないか。わが社の事業の一部と考えていないために、わが社には見えていず、試みてもいない機会はどこにあるか」
「完全に不合理に見える顧客の行動は何か。したがって、顧客の現実であって、わが社に見えないものは何か」
(同書p141〜p154より抜粋)
これらの問いの内容を理解するのはさほど難しいことではありません。マーケティングという概念そのものを知らなくても、上手く事業を行っている者であれば、日頃からこういうことは考えているはずです。しかし、改まってちゃんと答えようとすると、それが実に困難な作業であるかを痛感させられるものばかりです。
このように、様々な問いを随所で用いながら理論を展開していくというドラッカーのスタイルは、同書に限ったものではなく、経営を論じるときはもちろん、マネジメントについて論じる場合にも一貫しているものです。
何となく「知っている」と思っていることに対して、次々と突きつけられる問い。それは、まさにソクラテスが賢人の無知を暴くために用いた問答法(ディアレクティケー)に似たものを感じます。
また、ある意味では循環論法のようにも思えます。すでに知っていると思っていることに対して、わざわざ考えようとしているのは、堂々巡りの不毛な議論であると批判されるかもしれません。
しかし、循環論法を積極的に評価することもできるように、この問いかけの図式こそが、私たちが直面している現実を混沌から救い出し、鮮明な課題として提出するための強力な手法であるといえます。
ドラッカーが投げかける問いかけは確かに、時として私たちの無知をさらけ出しますが、私たちは無知で終わるわけにはいきません。実践のために意地でも何かしらの答えを導き出さなければなりません。
しかし、その答えは決して唯一絶対のものにはなりえません。問いは一回限りでは決して終わらないのです。答えを出しては検証、修正し、もう一度問いかけて再び答えを出す。そういう円環を描きながら前進するしかないのです。
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コメント
同じ問いかけでも月日がたてば違う答えになることはしばしばですね
Posted by: たかし | September 02, 2005 11:11